【偉人録】郷土の偉人

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井戸平左衛門(いど・へいざえもん)・島根/江戸の偉人

御徒役・野中八左衛門重貞の子として江戸に生まれる。

寛文12年(1672)‐享保18年(1733)5月26日 62歳

江戸時代中期の大森代官。
享保の飢饉で、年貢の減免や公金支出を行い、管内で1人の餓死者も出さなかった。
甘藷(サツマイモ)栽培をすすめ、「芋代官」「いも神様」と称された。

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名は正明(まさあきら)。

井戸正和の養子となり、元禄5年(1692)家督を継ぎ、長く勘定所に勤め、清廉実直な性格と誠実な勤務を認められ将軍吉宗から黄金2枚を賞賜された。

享保16年(1731)60歳の高齢で大森代官に登用された。大岡忠相の推挙によるものといわれる。

当時石見国はうち続く凶作で、<荒涼もっとも酸鼻を極める>状態であった。
平左衛門の石見着任の翌1732年は春から夏にかけての長雨と異常低温で西日本一帯は大凶作に襲われ、失われた稲400万石余、被災者265万人といわれる未曽有の大飢饉となった。
とりわけ石見国では連年の凶作のうえに、山間冷湿地が多いからその惨状は想像を越えるものがあった。
終焉 (中公文庫)

井戸新代官が大森の陣屋に着いたのは、享保十六年の九月十三日。そろそろ刈り入れもまぢかであった。それなのに、穂の垂れた稲田はめったになく、黄金色のそよぎもほとんど見られなかった。
・・・
口入れ業者、回船問屋、米穀商、網元、薪炭商、質商など、支配所内の物持ち相手に義捐の名目で金を徴収し、他国から雑穀を仕入れて、
「来年まで、これで何とか食いのばせ」と井戸代官が配ったとき、「夢ではなえか」百姓たちはこわごわ、ささやき合った。
・・・
彼らとは逆に、「見えすいた人気取りだ」
腹を立てたのは、言うまでもなくむしり取られた側の豪商どもである。
役所の内部からさえ、「銀山領の情勢にうとい新参者に、独断専行されては迷惑する」との批判が、暗にあがった。
・・・
「領内の情勢にうとい、うとくないの問題ではあるまい。百数十ヵ所の生命を、この秋の作柄ひとつに賭けるべきところへまで、銀山領ぜんぶたいが追いつめられてきている情況ではないか。稲の出来のわるさは、赤児の目にさえ明白なのだ。その、まっただ中に赴任して来た以上、まず第一に、目前の飢えから貧民どもを救うのは当然の措置だろう」
平左衛門は自ら老躯にムチうち、食糧の流通を図り窮民の救済に奔走し、また波根東村(現大田市)・鳥井村(同)・黒松村(現江津市)の年貢免状にみるように<当子虫付皆無引><此取米なし>と思いきった年貢の減免を断行した。

こうした適切な施政によって管内から1人の餓死者も出さなかったといわれる。
J―日本の義 (新修身教科書)

何故、平左衛門がこれほどの措置を臆する事無く打つことが出来たのか、今それを推量する材料はない。しかし被は自分の残り少ない命と眼前の人々をなんとか救済せねばならぬという使命感とに突き動かされ、これらの思い切った政策が次々と決断出来たものと考えられる。そして平左衛門は、これらの具体的救済措置以外にも、領民達に対し飢饉を乗り越えるための互助の精神を説いた。
平左衛門は各地に立て札を立てた。
「今年は害虫の被害により大変な凶作となった為、領民達に対し食物を供給した。しかしそれにもかかわらず領民達の暮らしは苦しいに違いない。次の麦が収穫出来るまでの間を待つことが出来ぬ者もあるかもしれない。その為には、苦しいながらも少しでも蓄えのある者は自分の隣人や苦しむ飢人と分かち合い、また、自分たちも飢え苦しむ者同様に食事を簡素にし、少しでも飢え苦しむ人々と一体となって、皆で何とか餓死者が出ないようにしようではないか。その為、一人買い占めするような行為は決して許さない。また、こうして助け合う者達の事を、名主や庄屋は必ず丁寧に記録に遺し、後日代官まで申し出ること」
平左衛門は幕府の指示を待つ事なく、これらの政策を己れの責任で実施した。
これについて世上伝えられることは<国法を破りし罪は固より我一身に受くべし>と、備中笠岡の陣屋で切腹したとされるが、切腹説を立証する資料はない。

平左衛門の石見への最大遺産は甘藷の移植である。
甘藷が救荒作物として石見の地に最適であることを知った平左衛門は、苦心の末薩摩国から種芋の移入に成功し、管内海岸砂地の村々に石高100石につき8個の割で配布し試作させた。

享保17年(1732)で青木昆陽の『蕃薯考』著作に先立つ3年前である。

この試作はすでに季節はずれであったことや栽培法に不案内であったことなどから多くは失敗に終わったが、わずかに釜野(現大田市)の老農・松浦屋与兵衛が成功し種芋を残すことができた。
これがやがて石見の地に定着し、たびたびの飢饉から石見の人びとの命を守る糧となった。
サツマイモと日本人 (PHP新書)

井戸は、そんな農民らの声に耳を傾け、富裕な商人から資金を募って、「これで来年まで食いつなげ」と農民に食糧を配る。私財も提供したといわれる。
そんな折、大森町(現大田市)の栄泉寺に、泰永と名乗る修行僧が九州からの行脚の途次、立ち寄る。
「私の出身地薩摩では、カライモを栽培しています。一年の半分はこのイモを食べて過ごします」「どんな痩せ地にも育ち、味も良く、日照りにも強い作物です」との泰永の話を聞き、井戸は「これだ!」と膝をうち、部下の伊達金三郎を薩摩に送り込み、百斤(六〇キログラム)の種イモを入手する。
なぜ入手できたかについては「幕府に頼んだ」とする説もあれば、「金三郎が泰永の案内で薩摩に入り、関所役人も中を確かめることのできない経典の箱の中に入れて持ち帰った」との説もあるが、はっきりとはしない。
その後の栽培も困難を極めた。
サツマイモの種イモは海岸の村々に、米の収穫高百石(二五俵)につき八個ずつを配ったが、植え付け時期を一ヵ月も過ぎていたため、ほとんどが失敗。わずかに温泉津町福光の釜野に住む農夫が栽培と越冬に成功しただけだった。
サツマイモはここを起点に、やがて藩全体に広がっていく。
以前は松浦屋与兵衛という名の名主がその人といわれていたが、いまでは「久七」という小作だったとみる説が有力だ。
救荒対策に心身ともに疲れ果てた老代官・井戸平左衛門は、享保18年(1733)5月26日、備中笠岡(岡山県笠岡市)の陣屋で62歳の厳しい生涯を閉じた。

石見の人びとは彼の遺徳をしのび村々で「泰雲院殿義岳良忠居士」「井戸明府」などの頌徳碑を建て、甘藷の収穫が済んだ11月26日を中心に「芋法事」「芋供養」を営み、「芋殿さん」「芋代官」に報謝した。
頌徳碑は銀山領・浜田領を中心に隠岐島や弓浜半島にまで及び、その数は500を超えるともいわれている。
現存のうち最古の碑は江津市松川町太田の江川河畔に建つ文化4年(1807)の井上文敬選文になるものである。
(『島根県大百科事典』・山陰中央新報社)
江戸時代 人づくり風土記〈32〉島根―ふるさとの人と知恵

石見(島根県)の村の小路や古い町並みを歩いていると、ふとした町角や村の辻、お寺の境内や鎮守の森陰などに「泰雲院殿義岳良忠居士(たいうんいんでんぎがくりょうちゅうこじ)」とか「井明府」かたは「井戸公碑」などと刻まれた石碑をよく見かけます。
芋殿さん・芋代官と石見の人々から慕われ尊敬された石見銀山御料(石見銀山領)の名代井戸平左衛門の頌徳とともに、豊作を祈願して村人たちが祀ったもので、芋塚・芋墓・芋地蔵さんなどとも呼ばれています。
・・・
平左衛門の遺した甘藷は、石見の海辺から山間の段々畑にまで蔓を延ばしました。
・・・
享保年間以後(一七一六〜三六)以後、たびたびの大凶作にも人々はこの甘で命をつなぐことができました。そのつど石見の人々は井戸平左衛門正明のおかげと感謝の念を捧げました。

大森代官所跡(島根県大田市大森町ハ51-1)


栄泉寺(島根県大田市大森町ハ161)
この寺でさつま芋のことを旅の僧・泰永から聞いたと伝わる。


井戸神社(島根県大田市大森町ハ48−1)


井戸平左衛門頌徳碑(島根県江津市松川町太田・江川河畔)
500超はあるといわれる平左衛門頌徳碑のうち、現存最古の碑。


井戸平左衛門頌徳碑(美郷町ウェブサイト)
美郷町内には、この小松地の碑を含め23基(邑智地域19基、大和地域4基)の碑が建てられている。


芋代官碑(境港市ウェブサイト)
境港市は鳥取県下で最初にサツマイモが移入されたゆかりのある土地である。
鳥取県下には、現在12基の芋代官碑が数えられるが、その中、境港市には7基ある。


芋代官分布図(江の川博物誌)


笠岡市ウェブサイト・まんが吉備の礎


井戸平左衛門墓所(威徳寺・岡山県笠岡市笠岡5418)
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