【偉人録】郷土の偉人

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長沢理玄(ながさわ・りげん)・山形/群馬の偉人

山形藩山形城下横町口(山形県山形市七日町付近)生まれ。

文化12年(1815)‐文久3年(1863) 49歳

山形と群馬で種痘の普及に尽くした蘭方医。

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山形藩主秋元家の侍医・長沢周玄の長男として、山形城下横町口に生まれる。

父の周玄は、温厚篤実な性格で、多くの門弟を育て、山形一の名医といわれ、漢方医術のほか蘭方の外科術にも通じていた。

弘化2年(1845)藩主の秋元家が上州館林(群馬県館林市)へ移封されたため、長沢家も館林へ移っている。

嘉永2年(1849)理玄は、医術修行のため江戸へ出て、桑田立斎(りゅうさい)の門に入り種痘術を学んだ。
痘苗を入手して、これを館林で接種しようとしたが、館林の人々はこれを危険視して応じる者がいなかった。
山形 (全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記―ふるさとの人と知恵)

藩医杉本随円のような人は、「牛の疱瘡を人間に移すことはけしからん」と強く反対し、家老の岡本も同じ意見でした。一般の人も「人間にも角がはえる」といって異端視していました。
重臣たちのなかでただ一人、岡谷瑳磨介だけは理玄を支持し、自分の子供に種痘を植えさせました。
そのかいがあり、数年後に流行した天然痘にもかからずにすみました。種痘に反対を唱えていた杉本と岡村の子供は発病し、醜い痘痕を残してしまいました。理玄はこの成功に自身をいだき、種痘を熱心に説き回りましたが、なかなか理解してもらえませんでした。
理玄は熱心さのあまり、道で遊んでいる子供をつかまえて、むりやり種痘を実施したりしたので、非難を受け、自宅に石を投げられたり、襲撃されるなどの迫害を受けるようになりました。
このような事態がつづいたので、理玄は館林における種痘の普及を断念せざるをえなくなってしまいました。
そこで、秋元氏旧領の山形には、父の周玄の門弟たちも多く、知人も多かったので、種痘の実践とその普及をはかるために、単身で山形にいくことを決意するにいたりました。
理玄は、父の生家である上山(山形県上山市)の梅津家に滞在し、父の門弟である原田元Α細谷良Α松岡元泰や館林分領の漆山詰藩医・萩原赤城、上山の梅津清明、山辺の遠山元長、などに熱心に種痘の効用を説き、その方法を伝授して普及に奔走した。

とくに遠山元長は、自ら『種痘小志』『引痘弁疑』などの解説書をつくり、これを持ち歩いて種痘の効用を説き歩いたという。

理玄はその後、館林と山形を数回往復し、種痘の普及に尽くし、館林藩でも種痘の必要性をようやく認識しはじめ、藩主の名において藩内すべての幼児に種痘をするように指示を出した。
疱瘡長屋の名医―種痘に賭けた長沢理玄の生涯

理玄が帰国してからは、周囲の人の気持ちが変わった。人というのは何と気まぐれでわがままな生き物なのだろうと長澤一家が思うほど、それは極端だった。それは牛痘接種に関する領民の反応だった。
羽州山形地方へ赴き、種痘普及に努めた理玄の功績と成果は、館林藩分領漆山陣屋を通して館林藩に伝えられた。その評判は無視できないほど大きなものであったからに他ならない。そのため、館林藩でも、重い腰を上げて種痘の普及に努めざるを得ない状態に置かれたのであった。
早速、藩主名をもって、領民すべての者が種痘を受けるようにという「触れ書き」を回した。施し料は無論藩費で賄うという布告が出されたのである。
・・・
安政四年(一八五七)六月、館林藩は旧来の「求道館」を拡充するかたちで、文武両道の道場として「造士書院」を開館させた。
場所は今の城町の東端辺りといわれる。理玄はそこの医学頭取の師範約として推挙される。理玄はこのとき働き盛りの四十三歳という年齢であった。
万延元年(1860)には館林城下金山に「種痘館」が建てられ、藩の援助によって、領民は義務的に接種を行い、文久3年(1863)に理玄が亡くなるまでに、理玄が直接に種痘を施した者は8,941名に及んだといわれている。
万延元年(一八六〇)理玄は藩主秋元志朝からその活躍に対する褒美として館林字金山(現大手町二番)に七反(約二千百坪)の土地を譲渡された。
譲渡されるにあたってば、長期の療養者を泊めておく施設を造りたいという理玄の理想を伝え聞いた岡谷瑳磨介が、藩主志朝に口添えをしてくれたことが発端だった。
その土地は、東に浮島弁天といわれる竹生島神社と、館林城の外濠である城沼を控え、南は青田を隔てて一面の桃林が連なり、その彼方には富士の霊峰が望めるというすこぶる眺めの良い高台にあった。
その土地に、理玄は藩主に献策した上で、念願だった長期療養者のための建物を建てたのである。建造費は当然自費で賄った。
建造した建物は東西に長く、一棟に四、五戸と間取りにより異なり、全部で十二棟という長屋形式の大規模なものであった。そのなかには診察や診療のできる部屋はもちろん、薬剤調合室や人体の切開などのできる設備を備えた部屋も造成した。
長澤一家の居宅も当然、含まれている。そして領民は、その建物を「種痘館」とか「長澤廓」、あるいは「疱瘡長屋」、「長澤長屋」などと呼んだ。

ふるさとに文化のともしびを (きょう土につくした人びと ふるさと歴史新聞)

好奇心のかたまりだった長沢理玄

理玄は、医学のほかに、絵をかくこともうまく、かいた絵をよく人にあたえたという。
また、おどろくべきことに、理玄は飛行機をつくっている。
スズメが空を飛ぶのを見て、飛ぶ乗り物がつくれないかと思ったのがはじまりらしい。
まず、スズメをかいぼうして、骨や肉の働き方をしらべ、つばさとの関係を調べて、くわしく計算した。
つぎに、スズメの重さと自分の重さの割合を考え、羽根の形や大きさをきめて、竹と紙で自分で飛ぶ羽根をつくった。
その羽根を自分の体につけると、ニメートルほどの高さのへいの上に立ち、そこから飛ぼうとした。
結果は、みごとにしっぱい。だが、人のやらないことにあえて挑戦するところに、理玄の個性があったのだ。

長沢理玄種痘碑(薬師公園〔千歳公園〕・山形県山形市薬師町2-8-88)
薬師公園は聖武天皇勅願所国分寺薬師堂を中心とした市内最大の公園で、桜の名所としても知られる。
山形在住の理玄門人達が師徳を慕うとともに、種痘普及のため安政3年(1856)山形市片町・本久寺境内に「種痘碑」を建てたが、初代令三島通庸の街区整理事業の際取払われた。
大正9年(1920)に門弟遠山元長の嗣子・椿吉が、家蔵の拓本をもとに現在の薬師公園〔千歳公園〕に再建した。
碑文は当時では珍しい和文で書かれており、秋元藩の国学者石川直幹の撰文である。
石碑の標題には「すべてのいとしい子には必ず牛痘を接種せよ」という意味が記されている。
碑文の意

それ痘瘡は子供にとって大厄難で父母が丹精をこめて育てたいとしい子も顔に痕が残り、顔色も急に変わったり、あるいは盲人となり、重い場合には死亡する者も昔から多い。
去る嘉永2年(1849)にオランダの牛痘法がわが国にも伝わり、万民の助けとなった。
秋元氏の藩医長沢理玄先生がこの医法を習得して、この地に来訪し、種痘の施しを受けた者は千余人にも及ぶ。
先生が話されることは、種痘を施せば厄難を免れることができ、子供の成長を願うならば、早く疑問を去り、種痘を施した方がよい。天然痘にかかり、難儀をし、後悔するよりも、牛痘を接種し、安心した方がよい、ということである。

子をおもふ親のまよいのあやしきは すくはるるをもいとふなりけり

子のためをまことにおもふ親ならば 牛のもかさをうえさらめやは
当時難解な漢字の羅列を競う石碑の多い中で、およそ変わった碑文である。
和歌を入れたのも、わかりやすく庶民の啓蒙をねらったものであろう。
草深い東北の地に、ようやくオランダ伝来の種痘術が伝えられたのにもかかわらず、これを忌避してためらう人々に対し「子を思ふ親の迷い」であるとして、その心情を察しつつなお普及説得につとめた先覚者、長沢理玄の勇猛心がしのばれる。
医界風土記 (北海道・東北篇)


長沢理玄墓所(円教寺・群馬県館林市朝日町10−59)
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