【偉人録】郷土の偉人

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高妻騰雲(こうづま・とううん)

日向国諸県郡本庄村六日町(宮崎県東諸県郡国富町本庄)生まれ。

文化12年(1815)11月17日‐明治33年(1900)8月16日 86歳

儒者。

医師・高妻秀傭(ひでつね)の長男に生れる。通称は行祐(ぎょうすけ)。

高妻五雲(こうづま・ごうん)・宮崎の偉人

日向国諸県郡本庄村六日町(宮崎県東諸県郡国富町本庄)生まれ。

文政3年(1820)1月‐明治24年(1891)5月12日 72歳

儒者。

医師・高妻秀傭(ひでつね)の次男に生れる。通称は寛平または圭一郎。

人づくり風土記 (45)

大淀川の支流にあって水運便利な地勢で経済の栄えた天領本庄は、教育もさかんでした。
高妻騰雲・五雲兄弟の私塾は、本庄文化の発信に大きな役割を果たし、恩恵を受けた子弟は千人近くもいました。日向国の天領の中で、庶民の教育の普及に情熱を注いだのです。
・・・
本庄村は地理的にも重要な位置にありました。本庄村から東諸県郡高岡町(昔は薩摩藩領)に通ずる往還(街道)の西側に位置して、本庄川をはさんで南側に隣接する嵐田村(国富町大字嵐田)は高鍋藩領に属し、往還の東側の田尻村(国富町大字田尻)は薩摩藩領高岡郷に属していました。本庄村は天領・高鍋藩。薩摩藩の三つの領地が直接境を接していました。とくに幕府が本庄を天領に編入した目的は、薩摩藩に対する監視的な役割があったと伝えられるほど軍事的には重要な地理的位置にありました。
・・・
また、日向の中部地域に所在して、肥後街道の起点ともなっていたため陸上交通路としても重要な位置にありました。近領からの物資の集散場所となって、米を含む諸物資の相場を決定するほどの交易の中心地になっていました。このため本庄村には、和泉屋・枡屋・玉利屋・戎屋・紙屋などという富裕になった商人がたくさんいました。これが本庄村のもつもう一つの顔でした。
本庄村の教育はこうした土壌の上に花開くことになりました。

兄の高妻騰雲は、23歳のとき広瀬淡窓の咸宜園に入門して和漢の学問をめざし、のち父とともに大坂に出て、篠崎小竹の門に入った。

父が陽明学者・大塩平八郎と親交があり、その影響をうけたともいわれている。

大坂で和漢の学問のほか、書画・絵画・詩歌なども修め、大塩の乱の後、帰郷して私塾・会友園を開き、郷土の人々の教育に力を注いだ。

讃岐国の日柳燕石(くさなぎ・えんせき)らの志士たちとも往来し、国事を企画するところがあったという。

会友園には、その徳を慕い、他国から入門するものも少なくなかった。

弟の高妻五雲も、兄と同じ咸宜園に20歳で入門し、同門の高弟の地位を得たが、大志をもって、大坂の篠崎小竹、さらに江戸の石川藤蔭の門に入って苦学した。

国学者の平田篤胤や秋月橘門らとも交わり、書道や詩歌も修めた。

明治2年(1869)日田県少属となるが、明治4年(1871)官を辞し、帰郷して子弟の教育に専念した。

郷里の小学校の学長や戸長を歴任しながら、家塾・稽衆(けいしゅう)園を開き、約1000人の子弟たちの教育にあたった。

兄の会友園と弟の稽衆園は、お互いに連絡をとりながら運営され、会友園を出てさらに修学したいものは、稽衆園に入門していったという。

こうして当時の本庄近郷の庶民教育は、高妻兄弟の二つの私塾によって普及していったのである。

五雲はまた、公益にも力を尽くし、村人たちと苦難しながら本庄南用水路を完成させている。
伝えたいふるさとの百話(信念を貫き本庄南用水路をつくった人たち

高妻五雲とその弟子たち

本庄の中心地は干ばつにあいやすい台地上にあり、安政六年(一八五九年)に大干ばつがあったことで、水を得るための用水路の建設が叫ばれるようになりました。
本庄台地のあった日向国が宮崎県になった明治六年(一八七三年)、本庄村で村民大会が開かれました。当時本庄で塾「稽衆園」を開いていた学者の高妻五雲は、この大会で県の係官に対し用水路の必要性を説きました。五雲の熱意が通じ、着工寸前までこぎ着けることができましたが、三年後に宮崎県が鹿児島県と合併されたことにより、計画が宙に浮いてしまいました。
しかし、用水路を必要と考える有志は多く、明治十三年(一八八〇年)に井上亀太郎を中心とする巣山与三郎、岩切為助、宮永八百治、吉野庄三郎、巣山徳治、長友精次郎、岩切栄之助の発起人八名は、師の高妻五雲に嘆願書を書いてもらって、用水路の計画書、費用拝借願とともに遠く鹿児島県まで向かいました。
県のお達しは厳しく、資金を借りたいという彼らの願いはすげなく断られましたが、用水路建設のための材料として官木払下げにわずかな望みを抱いて帰郷します。
・・・
亀太郎たち八人は資金集めに東奔西走して、官木払下げを待っていましたが、その願いは聞き入れられることはなく、彼らは窮地に立たされることとなります。工事なかばにしてすでに資金は底をつき、借金も日増しに増えていきました。県からいくばくかの資金を借り入れることができたものの、亀太郎たちの私財はすでに質に取られ、大変厳しい生活を強いられていました。
用水路は明治十五年(一八八二年)九月に八割ほど完成していましたが、資金集めの策がつきてしまい、ついに十月十八日、為助の家に集まって話し合った末、一同死をもって県と資金の貸主に、おわびを入れることを決意。まさに自害におよぼうとしたとき、為助の父がこれに気づき、五雲先生にこの事態を告げます。駆けつけた五雲の懸命な説得のかいあって、事なきを得ました。
気持ちをふるい立たせ、何とか用水路を完成させるため、八人は中央政府への嘆願を決めます。
・・・
ようやく東京に到着し、願書の取次ぎを願いましたが、ここでも郷里へ帰るようすすめられました。
一方、八人を案じ後を追って上京した戸長の岩切直七は、やっとのことで彼らと合流し県御用係だった藁谷秀孝をたずねました。
藁谷は彼らの意志の強さを知って、しばらくの間、全面的に面倒を見ることにしました。住まいと職を提供してもらった八人は、故郷を遠く離れた地で心細い生活をおくる一方、中央政府への嘆願を続けましたが、得るものはなく、焦燥の日々を過ごします。
そのようななか、藁谷は八人を招いて自分が用水路工事請負の整理を命じられたことを伝え、帰郷するようにすすめました。こうして、八人は再び郷里の地を踏むことになりました。
志ならず帰郷した八人は、親戚などの蔵に身を隠し藁谷の処置を待ちます。その後、鹿児島県から資金を借りられたことと同時に、藁谷が各地で資金の貸主に、水路ができることで生じる増米を利子にあてるよう頼んだこともあり、資金については解決できました。
八人は工事の継続に専念しましたが、その間二度の洪水で被害をこうむり、明治二十二年(一八八九年)にようやく用水路が完成しました。
彼らの努力をしのび、たたえるために、有志たちは明治二十四年(一八九一年)に水路紀功の碑を建てました。また、政府からも明治二十五年(一八九二年)、八人全員に勅定の藍綬褒章、戸長・岩切直七氏に知事木杯一組が授けられました。
この灌漑用水路の恩恵で潤った耕地面積は約276ヘクタールとも800ヘクタールともいわれる。

五雲も300円という大金の資金援助を行って、八人を励まし続けた。

高妻五雲の筆塚(宮崎県東諸県郡国富町本庄)
人づくり風土記 (45)

本庄の仲町の一角に自然石でつくられた大きな塚が建てられています。そこには正面に大きく“筆塚”ち刻まれています。筆塚の右上には五雲先生、左下には再置宮崎県知事田辺輝実の名前が刻まれています。
この筆塚は、明治十七年(一八八四)五月に千人もの子弟の人々が、五雲存命中にこの石碑を旧邸内に建て、永くその徳を後世に伝えるために、“五雲先生筆塚”として建立したのです。裏側の銘に“博識多才”と記していることからも五雲の人柄がしのばれます。


本庄村開渠記念碑(宮崎県東諸県郡国富町本庄犬熊)



水土の礎・宮崎県綾川農業水利事業(高妻五雲と8人の意思を引き継いで・・・)



くにとみ歴史ロマン



高妻騰雲・高妻五雲墓所(義門寺・宮崎県東諸県郡国富町本庄4832)
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