【偉人録】郷土の偉人

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遠藤董(えんどう・ただす)・鳥取の偉人

因幡国鳥取材木町(鳥取県鳥取市材木町)生まれ。

嘉永6年(1853)1月22日‐昭和20年(1945)1月22日 93歳

教育者。郷土西洋画の先駆者。
高等小学校教育を推進、図書館開設、女子教育の振興、盲聾唖学校を創設するなど、鳥取県教育の源流として「鳥取県(郷土)教育の父」と称される。

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遠藤重嘉の長男。鳥取市材木町、御作事割場屋敷に生まれる。幼名東造、後に藤蔵さらに董と改める。二柳、藍園、また藤園、袁董と号した。

8歳で藩校尚徳館に入学し、儒学を中心に培った仁愛の理想が彼の人格の根底を形成した。

明治8年(1875)広島師範(現広島大教育学部)の第1期生として卒業。

明治9年(1876)に上京して油絵を高橋由一に学び、地方洋画壇の創始者となる。
『鳥取市人物誌・きらめく120人』(鳥取市人物誌作成委員会)

維新後、新設の広島師範学校に一期生として入学、新教育の方法と共に開化的民権思想にも触れ、帰鳥して新教育の指導者として活動を開始する。しかし、明治9年(1876)鳥取県の廃止と島根県への合併が決定し、遠藤は岡崎平内らと気脈を通じ、再置実現を誓った。
彼はまた年少の頃より優れた画才を示し、狩野派の絵師根本雪峨に学んでいたが、広島師範で西洋画に接してその現実描写に強く感銘し、明治10年(1877)上京して、日本洋画草創の巨人、高橋由一の「天絵社」に入り油絵を学んで翌年帰郷、本県洋画の先駆として「鳥取城」などの作品を遺し、終生絵筆を離さなかった。
明治11年(1878)に帰郷し、明治41年(1908)鳥取高等小学校校長を辞任するまで23年間初等教育に従事した。

明治35年(1902)には私立鳥取文庫を設立、大正7年(1918)基金を含めて建物・蔵書すべてを鳥取市に寄贈、鳥取市立図書館が誕生、県立に移管されるまでその発展に多大な貢献をした。

一方、明治41年(1908)には私立鳥取女学校(後の静修高女)を創立、昭和8年(1933)鳥取市に移管するまで校長として女子中等教育の拡充をはかり、女子教育に尽くした。
『教育人物事典』(ぎょうせい)

維新後、「学制」発布とともに、鳥取市内の愛日小学校の教師に登用されたが、官立広島師範学校に派遣され、同校を明治8年(1875)に卒業して鳥取の小学教員伝習所の教師になった。これは、鳥取師範学校の前身であるから、遠藤は鳥取県の教師養成の源流の一人ということができる。その後、郡書記となって学事行政にあたることになったが、明治18年(1885)鳥取高等小学校の校長に就任し、同41年まで在任した。
その間、遠藤は私有の図書などをまとめて高等小学校内に「久松文庫」を設置し、これを公開して図書館事業の端緒を開いた。これを鳥取市立図書館に育て、さらに鳥取県立図書館に発展させていった。鳥取県の図書館活動は、遠藤の努力なくしては考えることができない。
遠藤の第二の業績は、私立女学校の経営である。彼が高等小学校の校長を退任した明治41年(1908)、廃校されようとしていた女学校の校長に就任し、その発展に力を尽くした。そのころ、鳥取市内には県立高等女学校があったが、それだけでは女子教育が十分とは考えられなかった。この女学校は、後に鳥取市に移管されて市立女学校として発展し、女子教育の大きな領域を担当したが、その基礎は遠藤の多年にわたる苦心の経営によって築かれたのである。
遠藤の第三の業績は、明治43年(1910)に私立の盲唖学校を開校し、それを育て上げたことである。彼は、早くから盲唖児教育に着手しようと考えていたが、そのために「積善会」と称する組織をつくって資金募集を始めていた。それに寄金する篤志家もあって開校に至ったのである。
明治43年(1910)には私立鳥取盲唖学校を創立してその校長となり、昭和15年(1940)県立鳥取盲聾唖学校初代校長を88歳で辞めるまでの30年間、県特殊教育確立のために尽力した。
鳥取県百傑伝―近代百年

遠藤董先生は、明治42年10月、・・・盲唖教育の機関を設けんと積善会なるものを組織して、広く同志を募った。しかして、まず自己の出資と篤志家の寄付をもってその事業基金の造成に一歩を踏み出した。
ところが明治43年1月八頭郡若桜町円井邦次郎か積善会の趣旨に賛成して金五百円を寄せたことに力を得て同3月先生は盲唖学校設立発起人代表となり、県の認可を受け、その7月栗谷町興禅寺庫裏の一部借りて私立鳥取盲唖学校を開校しその校長となった。職員は聾担当の戸田信貞(当時修立学校長聾教育研究家)と盲人上田ツナ(京都盲学校出身)の2名で、生徒は盲1人、聾4名であった。さらに同校は翌44年2月寺町150番地の市有建物を借りてこれに移った。
盲唖学校の経営は容易でなかった。先生は折りにふれ、「白髪功無きを愧ず」といい、「偏に禽城下を愛するも婆心或は逸中」と嘆じて自己に鞭うち、校長自ら自筆を執って百画会を興し、しばしば展覧会を催して資金造成のために作品を頒った。一方民間の有志中にも先生の苦心に応えんと、資金カンパのため日本邦楽会の巨蜂といわれた中山都山を招いて鳥取・倉吉・米子で邦楽大会を開いた田中新次郎、吉村撫骨、野坂寛治等かあった。
大正8年9月同校は私立の二字をとって鳥取盲唖学校と改称し、翌9年4月財団法人として先生はその専務理事と校長を兼ねた。また大正10年10月同校の盲部を内務省の認可を得て按摩鍼灸師養成指定校とし、同13年7月盲及び聾唖学校令により、改めて鳥取盲及聾唖学校として認可されたが、昭和6年4月同校は向う5ヵ年間鳥取県立代用盲及聾唖学校の指定を受けた。しかしてこれを機として校舎の新築を計画し有志の援助並びに寄付を県の内外に募った。先生は80歳の高齢であったが、『平生ノ鋭気未ダ全滅セズ』の詩を賦して各方面に奔走し昭和7年から11年の間に湯所町に1774坪余の校地を求め、11年12月木造二階建、延300坪の明るいスマートな校舎を建てて翌12年1月盲聾唖学校をこれに移した。しかして同年3月末をもって財団法人鳥取県立代用盲及聾唖学校を解き、これを県に移管した。時に先生は85歳であった。
ついで翌4月鳥取県立鳥取盲ろう唖学校が新しく発足するに当たり、先生は同校初代校長に任ぜられた。また5月同校は校舎の竣工式を兼ねて開校式を挙行した。その日先生の式辞は人々の好意に感謝の言葉をねんごろに述べただけで、終始自己の労苦には一言もふれなかったといわれる。しかも殆んどすべての参列者が、多年郷土を愛し、人間を尊重し、この日あるを信じてひとり身を挺し、困難に耐えてきた老先生を仰いで、ひとしく目に涙を浮かべたといわれる。
「鳥取県(郷土)教育の父」「山陰のペスタロッチ」、として鳥取県民に敬愛されている。
『鳥取市人物誌・きらめく120人』(鳥取市人物誌作成委員会)

その30年に及ぶ学校経営は辛苦を極め、遠藤は画会を開いて絵を売り、ふき夫人も養蚕で資金を捻出した。
晩年、彼は自らの教育理念を「試聴只以真心」と書いた。障害児はもとより、全ての人に、真心をもって接した遠藤は、昭和20年(1945)誕生日と同じ1月22日満92歳で没するまで、生涯この精神を貫いた。
昭和22年からこの日は「遠藤記念日」とされ、現在まで遺徳が語り継がれている。

遠藤董銅像(鳥取県立図書館・鳥取県鳥取市尚徳町101) 



初代校長遠藤董先生顕彰碑(鳥取県立鳥取聾学校・鳥取県鳥取市国府町宮下1261)



塩田健夫『遠藤董と盲・ろう教育』(今井書店鳥取出版企画室)



遠藤董墓所(常忍寺・鳥取県鳥取市行徳3)
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