【偉人録】郷土の偉人

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岡崎文吉(おかざき・ぶんきち)・北海道/岡山の偉人

岡山城下門田屋敷(岡山県岡山市中区門田屋敷)生まれ。

明治5年(1872)11月15日‐昭和20年(1945)2月4日 74歳

石狩川ほか治水工事の先駆者。
「港湾工学の父」広井勇の札幌農学校工学科の教え子で一番弟子。
北海道において自然の法則を尊重した治水を主張し、石狩川治水にその情熱と技術を捧げ、「北海道治水の父」と称される。

岡崎文吉

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岡山藩士族の子に生まれ、16歳で札幌農学校工学科の第一期生として入学、卒業後は給費研究生で学校に残り、22歳で助教授に就任した。

物理学の授業を担当するが、明治28年(1895)工学科が廃止されると、師の広井勇と同じく北海道庁の技師となった。
川は生きている―川の文化と科学 (ウェッジ選書)

札幌農学校第一期生として入学。・・・岡崎は生涯、漢詩に親しんだが、このころ詠んだ次の詩からは新天地に赴く青年の心の高まりを読みとることができる。

 十八の決心 海峡を超ゆ 北都の憧憬は壮図を潜む
 豊平河畔 新友を提う 札幌の風情故山に同じ

岡崎は二二歳で母校の助教授に抜擢され、二五歳で総理任命の北海道技師となる。石狩川、ひいては北海道開拓の命運を左右する調査委員会に任命されたのは二八歳の時である。
流水の科学者 岡崎文吉』には、「石狩川の河川調査が実施されたという事実そのことが北海道の自然科学史に記録される価値がある」と記されている。当時の北海道は、陸地の平面測量さえ、困難で不十分な時代であった。岡崎の調査は、北海道の大地に科学の光が照射される、さきがけのひとつでもあった。
石狩川治水に従事し、治水事務所長、工事事務所長を歴任、算定した石狩川洪水流量が以後60年間適切とされていたことは特筆に値する。
人物で知る日本の国土史

「イ・シカラ・ペツ」。アイヌ語で曲がりくねった川を意味する。石狩川の名前の由来である。明治以降、北海道の大動脈として開発されてきた石狩川は、大小約千六百の支流を集めて石狩平野を流れ、日本海に注ぐ。
その石狩川は、百メートルほど短くなった。その訳は、百年前と現在の様子を上空から眺めた写真で比べれば一目瞭然だ。くねくねと蛇行していた自然河川は、ショートカットという工法によって直線化され、その分だけ短くなった。人々の生活向上と安全のための治水事業によって、かつての湿地帯には市街地が広がり、農耕地も倍増した。
それが開拓民の生きぬく最短ルートであるとする当時の趨勢の中、過度の矯正や改造は自然ではないとして、自然の法則を尊重する治水を主張した男がいた。石狩川に青春の情熱と技術を捧げた北海道庁技師・岡崎文吉である。
・・・
明治の大改革は士族とて例外ではなく、岡崎家も禄を失った。・・・文吉の父は移民となって北海道へ渡った。しかし、家族への送金はできなかった。・・・そうした中で文吉の猛勉強は際だち、中学に入ると飛び級で進級。札幌農学校の給費生募集を知り・・・給費生には授業料免除、生活費も支給された。廣井勇に師事した。幼い頃から家族を背負ってきた俊英の視線の先に、父のいる北海道があったのかもしれない。
明治31年(1898)の石狩川大洪水は死者248人の大惨事となり、北海道治水調査会が設置され、広井や田辺朔郎らと共に委員の中心となり、以後12年かけて石狩川の調査、欧米での研究も踏まえ、「石狩川治水計画調査報文」を提出する。

この報文の中で岡崎は、「自然主義」を唱えた。大正4年(1915)に自身の理論と実践をまとめた著書『治水』のなかでも「自然主義」について言及している。
「近世の水理学は原始的河川を過度に矯正し、またはこれを全く改造しようとして、河川の平衡状態を破壊し、かえって失敗に終わって弊害となっている。このような愚策を避け、なるべく天然の現状を維持し、自然を模範とし、自然の機能を尊重すべきである。現状維持、すなわち自然主義は最も経済的であり、かつ最も合理的であると思われる」

その上で岡崎は、「コンクリート単床ブロック護岸工法」を開発した。しかし、石狩川治水事業では、当時の主流であった、蛇行部をショートカットする「捷水路方式」に変更され、岡崎も内務省に転勤となる。

ただし、岡崎の工法は、その後、国内で普及したばかりでなく、アメリカのミシシッピー河では現在も使われている。
国土を創った土木技術者たち

自然主義に基づいて河川の現状を維持するには、河道湾曲部の崩落を防止し、決壊する河岸を保護する必要が生じる。このため、岡崎文吉は「コンクリート単床ブロック」による護岸工法を開発し実用化している。
・・・
岡崎式護岸工の主な利点は、次のように集約される。“羈單廉価である。強度と耐久性に富んでいる。2潰であるため河床の変形に対しても適応力が高い。じ配が急な所でも安定性がよい。ド縮未なめらかなため流水抵抗が小さく、河道断面積を阻害しない。α販が簡単で、敷設しやすい。
また、明治30年(1897)北海道で最初の鋼橋である豊平橋の設計、函館港の調査など幅広く北海道の開発に貢献している。その後、上海遼河工程司に入り、技師長として活躍、12年間遼河治水に尽力した。
『石狩川治水の曙光‐岡崎文吉の足跡‐』(北海道開発局)

大正4年12月、岡崎文吉は「治水」を丸善から出版した。・・・全体は598頁にのぼり、文字どおり岡崎の治水思想の集大成といえる。
・・・
「治水」の冒頭の緒言の中で、岡崎は『治水の実行に際しては通常、山林や河川の保護取締等において、これらの専門技術以外に行政に関することも少なくないばかりでなく、河川は軍事上重大であり、また往々にして極めて大きな国際上の問題を生じることもあるため、治水に関する研究は単に技術者のみでなく、為政者及び軍人も共に従うべきである・・・』と述べている。
さらに、緒言の中で「自然主義」について言及しており、『近世の水理学は原始的河川を過度に矯正し、またはこれを全く改造しようとして、河川の平衡状態を破壊し、かえって失敗に終わって弊害となっている。このような愚策を避け、なるべく天然の現状を維持し、自然を模範とし、自然の機能を尊重すべきである。現状維持、すなわち自然主義は最も経済的であり、かつ最も合理的であると思われる』としている。ここで、注目すべきは、自然主義と経済性、合理性を結びつけていることである。彼の経験した当時の厳しい国家財政や、まだ盛んであった舟運のための航路維持を考えた時、自然主義が最も経済的でかつ合理的と判断されたのであろう。
晩年は、南満州鉄道経済調査会顧問となり、鴨緑江の電源地点調査に専念した。

環境問題が問われる今日、「北海道治水の父」と称された岡崎の「自然主義」は、再びクローズアップされている。
人物で知る日本の国土史

最近、多自然型川づくりという言葉をよく耳にする。北海道でも釧路川や標津川では「蛇行する河川へ復元」する取り組みが見られる。時を経ていま、岡崎文吉が示した自然の法則から導く治水・利水・親水の考え方、すなわち自然主義が見直されている。土木技術者にとって根源的なテーマ、人と自然はどうあるべきかを考える際の倫理と論理が問われているということだろう。

川の博物館(北海道石狩市新港南1-28-24)
石狩川治水の祖・岡崎文吉コーナーがある。



石狩川護岸工事起点碑(北海道石狩市)
大正5年(1916)に建てられた元の碑も保存されている。近くの茨戸川河岸で岡崎式単床ブロックを見ることができる。



運河跡石碑(北海道石狩市)
「花畔・銭函間運河」と運河設計者で石狩川治水事務所初代所長でもあった岡崎文吉の碑。



川の科学館・岡崎文吉先生顕彰碑(北海道滝川市西滝川1)



岡崎文吉碑・墓所(神奈川県茅ヶ崎市)
『石狩川治水の祖・岡崎文吉』(北海道開発局 石狩川開発研究部)

昭和10年(1935)2月茅ヶ崎市上石神下に土地を購入。6月‐同地に二棟からなる居宅を新築、松堂白堊宮と愛称す。
・・・
昭和19年(1944)3月19日、居宅前に記念碑「石狩川遼河改修及松堂文庫開基」を自費で建立。墓を兼ねた石碑として披露。
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