【偉人録】郷土の偉人

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角田柳作(つのだ・りゅうさく)・群馬の偉人

群馬県勢多郡津久田村(群馬県渋川市赤城町津久田)生まれ。

明治10年(1878)1月28日‐昭和39年(1964)11月29日 87歳
 
日本文化研究家。
「日本学の父」と称される。
街道をゆく 39 ニューヨーク散歩 (朝日文庫)

日本人にして“日本学の先覚”だったことを思うと、よほどの巨人のようにおもえるのだが、先生は講義に没頭しすぎ、著作があまりなかった。だから日本社会では無名にちかい。
私などは、キーンさんの諸著作を通してしか、この無名の巨人にふれる機会がない。

太平洋の架橋者 角田柳作

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生家は農業のほか、林業、養蚕業、商店も兼営していた。

群馬県尋常中学校 (群馬県立前橋高校) を経て、東京専門学校 (現早稲田大学) 文学科に入学、坪内逍遙、大西祝、アーサー・ロイドなどに師事した。
太平洋の架橋者 角田柳作

柳作5歳のとき、父庄作がコレラで急逝し、祖父金造と母ぎんによって育てられた。その後、8歳年長の兄保太郎が敷島郵便局長などを務めて家計を支え、柳作の面倒をみる。
「弟は一寸群を抜いている、幼少の頃から偉物で正に鶏群の一鶴の観があった」と、その資質と才能を認めた保太郎は柳作の教育に力を注いだ。学齢前に鳩杖小学校に入学させたほか、中学受験を前にして、北甘楽郡の友人角田伝に預け、英語や数学を学ばせた(北甘楽第一小学校に転校)。「一を聞いて十を知るという神童」で、「僅々三ヶ月位にて英語などは同級生中にても良く出来る方」になった柳作は、1890年4月、前橋市に移転したばかりの群馬県尋常中学校に入学する。
下宿を転々とし、ときには腸カタルなどの病気に見舞われながら、3年間の学生生活を過ごしたという。

明治29年 (1896) 東京専門学校を卒業後は、民友社などの出版社で編集の仕事をする傍ら、『井原西鶴』(1897)、『社会之進化』(1899) などを刊行した。

明治32年 (1899) 9月、真言宗京都高等中学林 (現種智院大学) 教授として京都に赴任。文中園 (現京都女子大学) でも教壇に立ち、論文執筆や勉学に打ち込んだ。

その後、福島中学校(現福島県立福島高等学校)、仙台第一中学校(宮城県立仙台第一高等学校)に赴任し、明治42年(1909)仏教布教のためハワイに渡り、本派本願寺ハワイ中学校長就任した。

大正7年(1918)アメリカ本土に移り、主にニューヨークで過ごした。

昭和3年(1928)には、日本文化の研究と教育のため、コロンビア大に日本文化研究所を設立した。

同研究所からドナルド・キーンらがでた。
街道をゆく 39 ニューヨーク散歩 (朝日文庫)

この日本人教授は明治10(1877)年うまれで、当時すでに64歳だった。この時期まで12年、コロンビア大学で日本思想史と日本歴史を教え、「まれにみる名講義」(『日本との出会い』)だったそうである。
その後のコロンビア大学でも、日本語で「センセイ」と発音すれば角田先生のことにきまっていた。
・・・
当時、先生の「日本思想史」を受講しているのは、キーン青年ひとりだったそうである
それでも先生は、毎回山のような参考文献を机の上に積みあげ、黒板を真白にして講義をされたという。あまりの気の毒さにキーンさんは、「受講させていただくのをよそうと思うのですが」と申し出た。角田先生は「いや心配はご無用、生徒は一人で十分です」といわれた。
講義ノートは用意されず、宙で語られた。その英語の発音は独自なものだったが、講義の熱っぽさもあって、詩的にきこえたという。
この講義の仕方を、その後、キーンさんは踏襲した。キーンさんは、私はいろんな先生に教わったが、角田先生に優るとおもった人はいない、と言いきっている。
・・・
角田柳作先生は、ハドソン川に架るジョージ・ワシントン橋のほとりにひとり住んでいた。太平洋戦争の開戦とともに抑留され、二、三ヵ月後に裁判をうけた。
「あなたは、あの橋を爆破するつもりだったのか、それともそうではなかったのか」というたぐいの愚問を、裁判官が発したそうである。日本人はなにをするかわからないとおもわれていたのである。
小柄な老明治人は、愚問に対し、永年住まわせてくれたアメリカへの義理を感じている旨のことを語った。またアメリカへの責任についても語った。
おそらくその英語は、キーン先生がひそかに“詩的”とおもっていた明治風の発音だったろう。裁判官は老人のふしぎなことばと誠意にうたれ、最後に「あなたは詩人か」と問うたという。
キーンさんが、角田柳作に関する多くの記憶から、この小さな挿話をとりだしたのは、その芸術的感覚による。先生と裁判官が、目にみえるようである。
戦後、キーンさんは大学にもどって、ふたたび角田先生の講義をきいた。
その後、角田先生は、八十二、三歳まで教壇に立った。
昭和39年(1964)11月29日ハワイで死去。
もう一つの母国、日本へ―Living in Two Countries (講談社バイリンガル・ブックス)

先生が本を出すことをどうしてあれほど渋られたの私にはわからない。あえて推察するならば、先生はたぶん、達成不可能なほど高い水準を設定されたからではないだろうか。その後約五十年間、先生はいつも新しい本を出すことを考えておられた。ところが、実際に上梓なさったのは、友人や弟子たちがしつこく出版をお勧めしたものだけだったのである。1958年に刊行された「日本思想の源泉」は、先生の講義を拝聴する機会に恵まれなかった人々によっても、末永く記憶されることだろう。日本思想史に関してこれまでに出された数々の出版物のなかで、不朽の名著というべき同書は、古代より戦後に至る日本思想の変遷を説いた論文集で、各時代の代表的著作物の英訳も盛り込まれている。
先生は、本を書くことよりも、ご自分の研究と講義に全精力を傾注された。教師として最高の人材だった。角田先生によって生徒たちが最も強く感化された点は、たぶん、書物およびその著者を愛することではないかと思う。日本の思想史に登場する人々のなかで先生が尊敬されたのは、オーソドックスな学風に飽き足らず、あえて型にはまらない考え方を追究した学者たちだった。これはおそらく、先生ご自身の立場と共通点があったからだろう。私が本多利明の著書に触れることができたのは、まさしく先生の影響の賜物である。
・・・
角田先生の持論は、当時の日本の思想家たちは独自の思想体系を持っていて、中国に源を発する哲学を無条件に受け入れてはいなかった、というものだったのである。
もう一つ、先生が堅く信じておられたことがある。つまり、日本人は古くから民主思想に共鳴していた、というのだ。その根拠として、先生はよく、仏教では人間は死ねば生前の身分に関係なく救われる可能性があると説いている点や、仏門において僧侶は修行さえ積めば家柄に無関係に出世できるという点を指摘しておられた。また、先生は俳句を「民主主義の詩」と呼んでおられた。俳人たちは、富や家柄でなく、才能によって尊敬されたからである。芭蕉の弟子のなかには乞食や罪人もいたのですからね、と先生は常々強調されるのだった。

太平洋の架橋者 角田柳作

「日本研究」でめざしたもの

角田が教壇に立って、あるいは「日本文庫」の閲覧の指導をとおしてめざしたものは何であったろうか。これを明確に語ったものはないが、一般的には、すでに「日本文化学会」創設そのもののなかに示されていたように、「文化的負債」の償却による日本への理解の促進、「東西古今文化集大成」、そして「外国人は却て日本人よりも、日本の文化を精到に諒解することが出来る」にという観点からする日本の文化への理解の深化が、実践されたといってよいだろう。
そして、実際に学生と接し、とくに研究を志すものの指導をとおして、次第に第三の方向を志向し、期待していったように思われる。
・・・
1958年、"A History of the Faculty of Philosophy"に「中国・日本学部」部門を執筆した中国研究者のK・グッドリッジは、コロンビア大学の日本研究の発端は、E・グリーン教授のリーダー・シップと角田の「日本文庫」にあったとしている。さらに、日本研究の立役者として、ヒュー・ボートン、ジョージ・サンソムについで角田の名を第三番目にあげている。そこで第一に名前をあげられているヒュー・ボートンは、角田によるコロンビア大学における「日本研究の基礎作りの功績がいかに甚大なものであるか」(『戦後日本の設計者』)と論じる。そこでいう「日本研究の基礎作り」とは、「日本文庫」の創設と拡充にとどまらず、さまざまな講義を通じての学生・研究者への研究指導という教育面の役割を指している。T・ドバリーも『朱子学と自由の伝統』の「日本語版への序文」の結びで、角田を「第一に学恩に謝すべき人物」とし、「何年も昔のことになるが、私に日本の中国研究の重要性に注目することを教え、内藤虎次郎や武内善雄の著作を初めて紹介してくれたのがこの人であった」と記している。
・・・
角田はコロンビア大学の「日本研究」の個性的な学風の形成にも大きな影響をおよぼした。D・キーンは「コロンビア大学の『日本学』は完全に先生の影響を受けたもので、文献尊重というヨーロッパ風の学問と違って想像力をも重視する人文学である。そして日本学を中国学の付属物として扱っている大学と違って、日本の独特の文化の重要性を十分認める学問である」(「ニューヨークの一人の日本人」)と指摘する。

津久田小学校図書室・角田柳作先生コーナー(群馬県渋川市赤城町津久田1905)  



角田柳作WEB展(早稲田大学)



角田柳作を知る(早稲田大学)



角田柳作墓所(不明)
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