【偉人録】郷土の偉人

郷土の偉人の志を引き継ごう!偉人の故郷、ゆかりの地の紹介。生誕地、記念館、史蹟、墓所、関連HP、関連書籍、ニュースの紹介。【郷土の偉人研究会】 人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ
にほんブログ村

遠山正瑛(とおやま・せいえい)・鳥取/山梨の偉人

山梨県南都留郡瑞穂村(山梨県富士吉田市新倉・大正寺)生まれ。

明治39年(1906)12月14日‐平成16年(2004)2月27日 97歳

農学者・園芸学者。鳥取大学農学部教授。

退官後、中国の砂漠の緑地化にとりくみ、「沙漠緑化の父」と称される。

「私は“緑の平和構想”を掲げて砂の海に船出した。私はたとえ一人になろうとも、この計画を実行し続ける覚悟でいるが、志ある人びとは、どうか私に続いてほしい。私が命運尽きて倒れたら、私の屍を乗り越えて進んでほしい。“砂漠”の向こうに、輝かしい未来が開けるはずである―。」

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ

浄土真宗本願寺派・寶松山大正寺で6人兄弟の3番目に生まれた。

中学時代を過ごした勝沼で、ブドウ農家の手伝いをしたことが農学者へと進むきっかけとなる。
よみがえれ地球の緑―沙漠緑化の夢を追い続けて

在学当時、地元の同級生の家ではブドウ園を経営しているところが多く、収穫期には私も駆り出されて友だちの家に手伝いに行ったものだ。これが私とブドウとの出会いであった。
考えてみれば、今日中国の砂漠地帯でブドウ栽培の技術指導をするようになるまでの目には見えないレールが、その時すでに敷かれ始めていたのだ。
日川中学校(現山梨県立日川高等学校)、第二高等学校(現東北大学)を経て、京都帝国大学農学部を卒業。

卒業後、外務省文化事業部(当時)国費留学生として華北(中国北部)に2年間滞在し、砂漠について見聞を広げた。

昭和17年(1942)鳥取高等農林学校(現鳥取大学)教授となり、砂地農法を研究、鳥取砂丘の生産緑地化に尽力し、24万ヘクタールの砂丘の農地化を成功させた。
『鳥取市人物誌・きらめく120人』(鳥取市人物誌作成委員会)

鳥取高等農林学校(鳥取大学)に教授として着任した遠山正瑛は、京都大学農学部の恩師・菊池秋雄教授に言われた言葉をいつも念頭に置き、日曜や祭日はおろか正月さえも休もうとはしなかった。
畑を作るために遠くの井戸から水桶を担いで運び、砂地を黙々と耕す。農民でもない一教授の作業に「砂丘地で農業ができたら、太陽が西から昇る」と冷笑されたこともある。しかし、彼の信念は貫かれたのである。
砂丘長イモをはじめ、ラッキョウ、スイカ、チューリップなど、今も鳥取を代表する特産品が次々と生み出された。
昭和33年(1958)鳥取大砂丘利用研究施設(現乾燥地研究センター)を開設した。

鳥取大学退官後、中国の砂漠の緑地化にとりくみ、トングリ砂漠にブドウの近代化モデル園をつくる。
天命に生きる―人生のゴールデンルールをつかんだ人たち

・・・砂丘の開発に数々の実績を残し、アスパラガス、チューリップ、スイカ、メロン・・・などが砂丘特産物になった。その経験が遠山会長に、「砂漠の砂には生産力がある」と確信させ、自分の得た知識を今度は中国の砂漠緑化に役立てたいと思うようになった。
・・・「砂漠開発は実際の成果に結びつかなければ何にもならない」と言う遠山会長は、ここに「ブドウ近代化モデル園」をつくることを計画した。その計画を聞きつけ、立正佼成会の庭野日敬会長(当時)が資金を援助し、コマツブルドーザーや三菱パジェロ、農機具を贈ってくれた。
遠山会長はブルドーザーで土地を平坦にし、日本から取り寄せた巨峰の苗を植えた。そして三年の試行錯誤の末、見事なブドウ園ができあがり、初収穫となった。
平成3年(1991)日本沙漠緑化実践協会を設立、以降、クブチ砂漠(中国・内モンゴル自治区)で、ポプラの植樹など、ボランティアと共に緑化活動を行い、平成7年(1995)目標であったポプラの植林100万本を達成した。
政治の品格―石橋湛山と遠山正瑛に学ぶ

中国では、政府の要人と面談し、次のような要望をした。
「貴国の土地の沙漠化か拡がっている。その結果、食料危機も遠い話ではない。わたしに人民軍10万人を貸してください。そうすれば沙漠化を食い止めて、緑に変えてあげましょう」
対応し中国の当局者は、先生の言うことをにわかに理解できなかったようである。
また、齢80歳を超えた小柄な先生を甘く見たのか。一人も貸してくれなかった。
先生は、目本に戻って九州から東北地方まで、20名、30名、50名、100名という小規模な講演を粘り強く行なう行脚をした。先生は講演で、集まった聴衆に向かって、
「皆さん、中国があぶないのです。沙漠化か拡がり農地が減少して、作物の生産がどんどん落ちつつあります。もし、中国が食糧危機に陥れば、多くの難民が日本に押し寄せてきます、今でさえ密入国は後を絶ちませんが、そんな程度ではすみません。そうした人々の日本上陸を防ぐことはできないでしょう。日本も危なくなるのです。まだ少し時間の余裕がありますので、わたしと一緒に中国に行って、沙漠に木を植えてくれませんか」と訴えた。
そうした先生の働きかけに応えて、日本各地から多くの青年男女が20人、30人、50人、100人と沙漠に向かった。
先生は、北京の西700キロメートルあたりにある内モンゴル(蒙古)自治区のクブチ沙漠に目をつけていた。先生はこの沙漠を緑化しなければ、首都の北京が危ないと考え、日本からきたボランティアや地元の多くの人々と協力して植林を開始した。
こうした努力が報われて、植林開始から5年後に、なんと100万本のポプラの森を出現させたのである。
平成15年(2003)8月、その功績から、アジアのノーベル賞とも呼ばれる「ラモン・マグサイサイ賞」を受賞した。

著書に『よみがえれ地球の緑』『沙漠緑化に命をかけて』などがある。
『鳥取市人物誌・きらめく120人』(鳥取市人物誌作成委員会)

「智恵のある人 智恵を出す 金のある人 金を出す 物のある人 物を出す 命出す人 命出す 四つが組んで 頑張れば 世界の沙漠は 緑化する」
「苦しんでもやらなきやいけないという目標がある。目標のない人生は闇だ。ただ生きているだけだ」
遠山語録にはプラス思考のメッセージが多く納められている。またタバコをくわえた独特のポーズは、一本のタバコの交換から始まる中国人との交流を友好的にするものであり、決して愛煙家ではなかった。
退官後、沙漠の緑化に命をかけた彼の生き様は「信念を貫くに不可能はない」ことを教えてくれた。

遠山正瑛生誕地(大正寺・山梨県富士吉田市新倉621) 



「夢通恩格貝」の顕彰碑(大正寺・山梨県富士吉田市新倉621)
遠山正瑛の功績を称え建立したもの。



遠山正瑛記念資料室(鳥取砂丘こどもの国・鳥取県鳥取市浜坂1157-1)



遠山正瑛銅像(中国・クブチ砂漠入口広場)
平成11年(1999)8月建立。中国で生きているうちに銅像が建てられたのは、毛沢東と遠山正瑛のみである。
政治の品格―石橋湛山と遠山正瑛に学ぶ

クブチ砂漠入り口の先生の銅像がある前の広場には、大きな御影石の墓石が建てられ、墓石には「長大院正瑛」との文字が大きく彫られている。墓石は、そのうえに大きなドームのような建物があって、建物全体が遠山正瑛記念館となっている。


日本砂漠緑化実践協会ウェブサイト



鳥取大学乾燥地研究センター(鳥取県鳥取市浜坂1390) 
よみがえれ地球の緑―沙漠緑化の夢を追い続けて

鳥取の砂丘研には、私の残した「風去来」と記した碑が建っている。考えてみれば、この地点が私にとってのサハラ、ゴビへの入り口であった。「風去来」はまさに私の一生である。富士山下ろしの風と共にこの世に生まれ、砂漠の砂と共に生き、砂漠の風と共に砂の中に消える運命である。


鳥取市名誉市民



遠山正瑛墓所(不明)



みどりのゆめ一すじの60年―世界のさばくと遠山正瑛 (ノンフィクション・シリーズ かがやく心)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット