【偉人録】郷土の偉人

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岩切章太郎(いわきり・しょうたろう)・宮崎の偉人

宮崎県宮崎市中村町生まれ。

明治26年(1893)5月8日‐昭和60年(1985)7月16日 92歳

実業家。宮崎交通グループ創業者。
宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と称される。
こどもの国、サボテン公園の造園など日南海岸の観光開発につとめ、新婚旅行のメッカに育てた。

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岩切与平の長男として宮崎市中村町に生まれた。9人兄弟。
『宮崎の偉人 上』(鉱脈社)

岩切章太郎は、・・・宮崎市中村町にて、岩切與平・ヒサの九人兄弟の長男として生まれました。
・・・
小学校を卒業する時、優秀な友だちはみんな中学校へ進学しました。章太郎も中学に進むだけの能力は充分ありましたが、與平はしばらく体を鍛えてからでも遅くないと考え、尋常高等小学校に入学させました。ところが一年たっても、二年たっても章太郎の病弱は治らず、とうとう高等小学校四年課程の全部を修了してしまいました。
ある日、旧制の県立宮崎中学校に通っている友だちが、学校帰りに章太郎の家に寄って、「今日、大学者の新渡戸稲造先生からすばらしい話を聞いたよ。」と、目を輝かせながら、博士の朗読した英語の詩を、節をつけて口真似してみせました。
章太郎はこの時、中学校に進学しなかったことを悔しく、羨ましく思いました。幸い友だちが「明日も農学校で博士の講演があるよ。」と教えてくれたので、矢も盾もたまらなくなり、翌日は学校を体んで宮崎農学校に駆けつけました。
「よその学校の生徒に聞かせるわけにはいかない。」と農学校の先生から言われましたが、章太郎は校長先生に直接お願いするために校長室に行きました。あまりにも熱心な章太郎を見て校長は、「そんなに聴きたいのか。一番後ろの席でおとなしく聴くなら聴いてもいいぞ。」と言ってくれました。
新渡戸博士の一言一句は本当に格調高い大講演で、章太郎の心をゆさぶりました。中でも、章太郎が感激したのは豆腐屋の話でした。
「これからの日本は、一日も早く欧米の一流国家に追いつかなくてはならないが、そのためにはまず日本人の体格を立派な大きなものにつくり変えなければなりません。体格が立派になれば、脳細胞も発達します。欧米人が体格が良いのは、肉を常食としているからです。従ってこれからの日本人も肉を食べなくてはなりませんが、日本人には肉食の習慣がありません。しかし、幸いにも日本には豆腐という最高のタンパク源があります。日本人は、もっともっと豆腐を食べて、立派な体格をつくろうではありませんか。」
さらに新渡戸博士は「私は、大学者になろうか、それとも美味しい豆腐を作る日本一の豆腐屋になろうかと、夜も寝らずに真剣に考えたことかあります。」と、熱を込めて話しました。
「そうか、そうなんだ。大学者になるということも、豆腐屋になるということも、国の為、、人の為に尽くすことでは目的は同じなんだ。」こう考えると、章太郎は目からウロコが落ちたような気がして、未来に明るい希望が湧いてきたのであります。
生来病弱であったが、宮崎中学に入るころから健康になり柔道部選手、学生相撲の大関をつとめるほどになって、一高、東大に学んだ。
私の履歴書 経済人 8

一高時代の思い出でぜひ書いておきたいことは、愛鷹丸の事件である。一年の冬休みの時、三年の平島敏夫さんと二人で伊豆一周の徒歩旅行をした。伊東、下田、松崎と一回りして土肥の旅館に泊まって、いよいよ今夕、船で沼津へ出発という時のことである。散歩の途中宮崎屋という菓子屋を見つけ、これはなつかしいと枇杷ようかんを買って、田の畦に腰をおろして二人で食べた。そのため帰りの時間がおくれて夕食の最中に船が来たとの知らせが来た。すぐ立ち上がろうとしたら、お手伝いさんが食事を半分にして出発するものではないと泣くようにとめる。それで出発を延期した。
ところが、その時乗るはずだった汽船愛鷹丸が、土肥を出てしばらくしたところで、沈没して全乗り組み員中助かったものは三名だけという大事故が起こったのである。土肥の浜辺ではすでに渚を出た艀を呼び戻して乗った人もあったそうだし、私どもを泣いて止めたお手伝いさんの父親もその船に乗っていて死んだ。私どもも乗っていたら、もちろん死んでしまっていただろうと思う。正月三日で、正月になって初めての航海だったので、乗客が多く、積み過ぎが大事故の原因だったらしい。宮崎でも父などは事故の新聞記事を見て、もうすっかりあきらめていたくらいだったそうである。
人生とは妙なものである。もし散歩の途中宮崎屋で枇杷ようかんを買わなかったら、もしお手伝いさんが泣くように引きとめてくれなかったら、もちろん私どもは船に乗っていただろうし、当然今の私もないはずである。全く感無量である。
大学2年の冬、26歳の12月タメ夫人と結婚、翌年長男省一郎(宮崎交通2代社長)が生まれた。

宮崎に帰るという方針は変わらなかったが、3年間は中央の実社会に触れることにして住友銀行総本店に籍を置いた。
『宮崎の偉人 上』(鉱脈社)

章太郎は住友総本店でそれなりに仕事の成果を上げていましたので、東京で働くことに未練がないわけではありませんでしたが、「民間知事」になる夢を実現するために、住友総本店を三年半で辞め、大正13年(1924)4月、31歳の時、ちょうど宮崎市が誕生した年に宮崎に帰りました。
さて、宮崎に帰ってみたものの何をするかなど目的は何一つありません。そこで仕事の方は後回しにして、まずこれから宮崎で仕事をするのに、どのような考え方で進むべきか、その指針というか基本方針をしっかり固めておこうと三つの方針を心に決めました。
第一は、世の中には中央で働く者と、地方で働く者がいるが、自分はあくまで地方で働くことに徹しよう。
第二は、上に立って旗を振る人と、下にいて旗の動きを見て仕事をする人がいるが、自分は旗を振る人ではなく、旗を見て仕事をする側の方の仕事をしよう。  
第三は、人のやること、やる人の多い仕事はしない。新しい仕事か、行き詰まって人のやらない仕事を引き受けてやってみよう。
以上の三つの方針を心に固く誓いながら、その実現のためには、地位とか、名誉とか、財産とかの欲望はすべて断ち切ろうと考えました。そして何でもいい、どんな小さなことでもいい。自分がやる仕事は、日本一とはいかないまでも、何か日本の新しいモデルになるようなものをつくり上げていこう。それを自分の生きがいにしよう、と考えたのであります。
後に章太郎は、宮崎でいろいろな仕事を成功させ、名声が県民に知られるようになってから、幾度か国会議員とか、知事、市長に出馬したらと薦める人が数多くいましたが、国会議員になることは、中央で働くことになるので第一の方針に反することになる。知事や市長になることは上に立って旗を振る側の人になり、第二の方針に反することになる。として断固として断り続けました。
宮崎に帰ってからは、宮崎回漕内海港代理店の代表社員に、続いて宮崎農工銀行監査役に就任。

大正15年(1926)宮崎市街自動車蠅鮴瀘し取締役社長に就任。

昭和8年(1933)日向中央銀行頭取、昭和14年(1939)宮崎商工会議所副会頭、同年日米商会代表社員、宮崎木材工芸蠎卍后⇒1940年祖国日向建国博覧会会長をつとめた。

宮崎市街自動車は昭和17年(1942)宮崎交通蠅伐称、終戦直後に労働争議に直面し、宮崎交通らしい労使関係をつくりたいと理想を掲げたが、5ヵ月の大争議となった。争議のあと私鉄総連のある幹部は岩切を評してソシアルユートピアンと呼んだ。

宮崎交通の経営では、創立の当初から今日まで、市民の足になるという一貫した理念に燃えて、幹部をはじめ全従業員の末端に至るまで微に入り細にわたって、飽きることなく繰り返して信じるところを説いた。例えば、観光ガイドの訓練においてさえ、孫にあたるぐらいの娘たちと共にバスに乗り、説明のしかた、ポーズやしぐさまで手をとって丁寧に指導した。

膨大な観光案内文も自ら調査をして起草したものである。
心を揺さぶる名経営者の言葉 (PHP文庫)

「自分のしている事が世の中に必要かどうか、自分が組織に必要な人間かどうかを常に反省しなければならない」

自らの言葉通り地方で働くことに終始した岩切だったが、波は「井の中の蛙」ではなかった。政財界と太いパイプを持っており、佐藤栄作からは「全日空の社長に就任してほしい」と依頼されたほどだった。
さまざまな理由で大都会へ出ることができず、地方で生活し続ける人は多い。「こんな田舎にいては成功など望めない」と考えることもあるだろうが、住む土地と成功とは何の関係もない。大切なのは、世の中に求められる人間になれるかどうかだ。求められていれば、どこにいても、必ず脚光を浴びることになる。
実業家の小林一三は「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ、そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ」という名言を残した。大切なのは場所や職種ではなく、求められる人間になることだ。
各種の公職のうち特筆されるものは、総理府の観光政策審議委員就任であろう。1960〜1973年まで13年間在任、会長代理をつとめたこともある。岩切在任中に観光基本法の制定をみた。

このほか多くの公職に在ったが、1980〜1981年にほとんどの公職を退き、昭和56年(1981)の株主総会において取締役を辞任、55年にわたる役員の席から退いた。

その後は相談役の肩書だけが残り、宮崎の大地に絵をかくという終生の念願に没頭した。
『宮崎の偉人 上』(鉱脈社)

ある日、宮崎に移ってきた一人の画家と章太郎が親しくなり、歌や詩を作っては章太郎を訪ねて意見や感想を聞いていました。ある時、画家が「今日は私の絵を是非見てください。」と言うので、章太郎が彼の画室を訪ねてみますと、芭蕉と女の絵や青の洞門の絵など大きな絵が掲げてありました。そこで章太郎も「今度は私の絵を見て下さい。」と言うと、彼は驚いて「あなたも絵を描くのですか。」と尋ねました。
章太郎は早速、彼を車に乗せて、こどものくにや堀切峠、サボテン公園などの日南海岸の宮崎交通が経営している施設を案内して回りまじた。そして、「あなたの絵はキャンパスに描いてありましたが、私の絵は大地に描いてるのです。」と言いました。
章太郎の一生を見ても金儲けが上手な方ではありません。儲かるかどうかよりも必要かどうかを考え、必要ならばソロバンを度外視して実行に移しました。世の中に必要なものなら世の中は大事にしてくれるであろうし、きっと拾い上げてくれるであろうと考えていたのであります。
こうして章太郎は、「宮崎県観光の父」と言われるようになり、最近では小学校の教科書にも紹介されています。
宮崎県の観光開発史は岩切章太郎史であるとまで言われる。(『宮崎県大百科事典』)

岩切章太郎銅像(橘橋北詰・宮崎県宮崎市橘通東1)



こどものくに(宮崎県宮崎市加江田)



みやざきの101人



みやざきひむか学ネット



岩切章太郎墓所(不明)



無尽灯



心配するな工夫せよ―岩切章太郎翁半生を語る
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