【偉人録】郷土の偉人

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【戦国武将のリストラ逆転物語】頑固さゆえに浪人を繰り返す渡辺勘兵衛 主君もあきれるワンマンぶり(夕刊フジ・2015/6/19)

近江国の土豪・渡辺右京の子として生まれた渡辺了(さとる)は、一般的には渡辺勘兵衛(かんべえ)の通称で知られているので、本稿でも勘兵衛に統一する。とはいえ、彼の名を知っている人は相当な歴史通だ。無名ともいえるが、非常にユニークな経歴を持っている人物なので、ぜひ紹介しておきたい。

勘兵衛が最初に仕えたのは、浅井家家臣の阿閉貞征(あつじ・さだゆき)だった。やりの名手として知られ、織田信長から称賛されるほど腕が立った。だが、なぜか阿閉家を辞して自ら浪人となり、羽柴秀吉に仕える。秀吉の養子・秀勝の配下となって賤ヶ岳の戦いなどで活躍したものの、秀勝が病死したために再び浪人となる。

だが、彼ほどの腕となれば、リストラの身でも再就職には困らなかったと見え、すぐに豊臣秀次の家臣だった中村一氏(かずうじ)に雇われた。小田原征伐では大活躍を見せ、秀吉から激賞されたものの、一氏からの恩賞に不満だったのか、またしても浪人となっている。相当プライドの高い武将だったのだろう。

その後は増田長盛にスカウトされ、関ヶ原の戦いでは西軍についた長盛に代わって居城の大和郡山城を守った。だが、西軍が敗れたために、東軍方の藤堂高虎らが城の接収に現れた。通常ならおとなしく開城するところ、勘兵衛は「私は長盛様の命で城を守っている。他人の命令で開城はできぬ」と、がんとして譲らなかった。困った高虎は、徳川家康を通じて蟄居(ちっきょ)させていた長盛に書状を書かせ、それを見せてようやく開城させることができた。

その頑固なまでの忠義ぶりが世間に広まり、勘兵衛のもとには仕官の誘いが相次いだ。結局、2万石の破格待遇で彼を雇い入れたのは、他ならぬ高虎だった。その後は期待に応えて活躍したが、大坂の陣では戦法をめぐって高虎と衝突。夏の陣で長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)軍相手に約300人を討ち取ったものの、撤退命令を無視するなど独断的なワンマンぶりで主君をあきれさせた。

結果、高虎にも疎まれてまたしても浪人となったのである。ここまでくるとあっぱれな気もするが、その後は当時のルールである奉公構(ほうこうがまえ)に阻まれ、藤堂家が認めない限り、他家が勘兵衛を雇うことができなくなり、後年は仕官ができずに苦しんだ。

藤堂家から出された条件を飲めば、奉公構を解除させることもできたのだが、一方的な条件だったためにこれを受け入れず、交渉は決裂。最後まで自分を貫いた頑固な武将は、1640(寛永17)年に京で没した。享年78。バカがつくほど頑固一徹な武将だったが、魅力的だと思うのは筆者だけだろうか。

地侍の魂
柏 文彦
草思社
2009-04-22

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