【偉人録】郷土の偉人

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五稜郭築城の大給恒 世の中変えた「知の人」 「勲章の父」「赤十字の母」 /長野(毎日新聞・2017/11/26)


江戸幕府が築城した函館五稜郭(北海道函館市)と共に、日本に二つしかない星形の洋式城郭で知られる佐久市田口の国史跡「龍岡城五稜郭」。

今年は1867(慶応3)年の築城から150周年で、18日に記念行事があった。

築城したのは幕末に老中格や陸軍奉行を務めた田野口藩(後の龍岡藩)主、大給恒(おぎゅうゆずる)(当時は松平乗謨(のりかた)、1839〜1910年)。

大給はどのような人物だったのか。なぜ「もう一つの五稜郭」を造ったのか。


大給は徳川宗家から分家した大給松平氏の家系に属し、三河奥殿藩(現愛知県岡崎市)主だった。

三河で4000石、佐久で1万2000石の領地を治めたが、激動する幕末情勢に対応するため、24歳だった1863年、本領を広い佐久・田野口に移した。

幼時から才知あふれる人物だったと伝えられ、蘭学(オランダ語・学問)やフランス語を学び、17歳で和洋の学問に通じていたとされる。
特に火砲・築城技術を熱心に学び、早くから洋式城郭に憧れていたという。その夢を佐久に来て実現させたとみられる。

星形城郭は五角の先端に据えた砲台から死角なしに敵を攻撃でき、守りやすく攻めにくい構造とされていた。

龍岡城も、それより3年早く完成した函館五稜郭も、ヨーロッパの星形城郭(城塞(じょうさい))がモデルといわれる。

龍岡築城は函館と関係があったのか。
県立歴史館の中野亮一・文献史料課長は「幕府の要職を務めた大給は函館築城を知る立場にあったが、直接関わってはいない」と話し、龍岡築城は自身の考えで進めたとする。
幕末の不穏な情勢に備えようとしたのだろうか。

だが、せっかく築いた城は明治維新の廃藩置県に伴い72年、廃城となる。

使われたのはわずか5年ほど。幕末から維新の急な展開は大給にも予想できなかったのだろう。

その後、松平から姓名を改めた大給は新政府にも重用され、元老院議官や賞勲局総裁を歴任。

佐賀藩出身の佐野常民と共に日本赤十字社の前身・博愛社を創設した。日本の勲章の多くを自ら考案したことで「勲章の父」、博愛社創設で「赤十字の母」と呼ばれた。

18日に記念講演をした中野課長は「明治維新では西郷隆盛など『武』の人が有名だ。でも、それだけでは維新はできない。他にも世の中を変えようという『知』の人がいたから変わった」と述べ、高杉晋作と生年が同じ大給を「時代の変化に敏感だった。先見性があった」と評価した。

龍岡城近くにある歴代藩主の菩提(ぼだい)寺・蕃松院の増田友厚住職も「フランス語がペラペラだった小藩主が日本を動かした」と語る。

来年は明治維新から150年。激動の時代を生きた大給が自らの理想を形にした城は今、星形の石垣と堀などが残り、昔の面影をとどめている。

城跡に現在ある田口小学校は臼田地区の小学校統合に伴い、廃校となる予定だ。地元の龍岡城五稜郭保存会理事、西沢敬泰さん(74)は「その後をどうするのか。城跡公園にして元の建物も復元できれば」と期待する。





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