【偉人録】郷土の偉人

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◆人気の背景にアンチ中央(追跡 大塩平八郎:4)(朝日新聞・2017/11/24)


「大塩平八郎の乱」は大火を引き起こし、天満や船場を中心に当時の大坂の町は5分の1が焼失した。180年たったいまも、町のあちこちに乱の痕跡が残っている。

大坂東町奉行所の与力だった大塩の自宅は、現在の大阪市北区天満にあった。

一帯には広さ約500坪(約1650平方メートル)の与力屋敷が軒を連ねた。いまは「桜の通り抜け」で知られる造幣局だ。

職員宿舎の一角に「洗心洞(せんしんどう)跡」と刻まれた石碑が立つ。洗心洞は陽明学者でもあった大塩が自宅に開いた私塾だ。

造幣局の正門前を走る国道1号の歩道には、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑と高さ約6メートルの槐の木が立っている。

蜂起した大塩らは大塩の自宅に火を放ち、向かいの与力屋敷に火器を撃ち込んだ。屋敷には裂けた槐の木が残った。いまの槐は植樹を重ねた3代目だという。

ここから西へ歩くと、日本一長いという「天神橋筋商店街」に着く。そこにある「國重刃物店」の店頭に、「大塩平八郎の愛刀」の写真が飾られていた。

刀の所有者は別の人。店は江戸時代の1772(安永元)年ごろ創業の刀鍛冶(かじ)だったという。「銘には2代目が60歳のときに作った刀とあります」と7代目の水田雄一朗さん(71)。「祖父は『うちは大塩はんのお世話になった』と話していました」と続けると、8代目の裕隆さん(37)も「大塩さんは得意先でした」と親しげだ。

大塩の乱が招いた大火は、「時ならぬ浪花の花火」「大塩焼け」と呼ばれた。

罹災(りさい)した家の数3389軒、竈(かまど)の数(世帯数)1万2578軒とする史料もある。2月の寒空の下、焼け出された人たちの中には病気にかかり、餓死した人もいたという。

蜂起の「檄文(げきぶん)」で、大塩が「遊民」「金持ち共」と批判した豪商は船場に多かった。
大塩らは鴻池や天王寺屋など豪商の屋敷に火を放ち、金銀や米を庶民に配ったという。

船場の薬の町・道修(どしょう)町にある少彦名(すくなひこな)神社には、大阪市有形文化財「道修町文書」が残っている。

「薬種中買(なかがい)仲間人数帳」など江戸時代の約3千点、明治以降の約3万点。

町の歴史を伝える資料を保管する境内の「くすりの道修町資料館」で、深澤恒夫館長が語った。「大塩焼けで神社は半焼しました。大変だと薬屋さんたちが駆けつけ、文書を運び出してくれたのです」

深澤さんは来館者に道修町の歴史を話すとき、「大塩焼け」の地図も見せる。そして「大塩さんは幕府の役人の癒着を暴いた正義の味方」「大阪の人は大塩が好きや」と伝えるという。

町に火を放って大火を引き起こした張本人なのに、大塩は「義人」としていまも大阪では人気がある。大阪以外の人にはわかりにくい感情かもしれない。

大坂で城代や町奉行を務めた幕府の役人が、江戸でポストに就く。いまだと中央官僚だ。彼らが大坂在任中に政治腐敗に手を染め、天保の飢饉(ききん)の対策も十分でないとして大塩は蜂起した。

反権力・アンチ中央を気風とする大阪人には確かに好まれる話だ。大塩人気の背景だと思う。




杖下に死す (文春文庫)
北方 謙三
文藝春秋
2006-09-01

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