【偉人録】郷土の偉人

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秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見(朝日新聞・2019/03/28)

豊臣秀吉(1537〜98)が、武将加藤清正(1562〜1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。

朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチで軸装されている。
竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。

清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。
また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。

博物館によると、内容自体は福岡藩の黒田家に伝わる古文書に引用されている黒田長政ら3人の大名宛ての同日付の朱印状と同じで、同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出されたと推測されていた。だが、3月23日付の命令書の実物が見つかったのは初めてという。

秀吉の文書に詳しい名古屋市博物館分館蓬左(ほうさ)文庫の鳥居和之文庫長は「一次史料が発見されたことで黒田家文書の内容が事実だとわかる。また、清正の後、加藤家が断絶したため清正の資料は散逸しており貴重だ」と評価する。

書状は、江戸時代後期の刈谷藩士で俳人でもあった中島秋挙の子孫から寄贈された。
所有に至った経緯は不明だが、江戸中期に作られた中島家の古文書にはすでに記載がある。

博物館は4月2〜21日、期間限定で書状を公開する。
入場無料。     


〈文禄・慶長の役〉 
関白になった秀吉が主導し、中国・明の征服を企図して朝鮮に攻め込んだ侵略戦争。1592(文禄元)年に始まって翌年休戦した文禄の役、1597(慶長2)年に再開され、翌年に秀吉の死をもって撤退した慶長の役を合わせて呼ばれる。


朱印状の全文(刈谷市歴史博物館による現代語訳)
(三月)九日の(清正からの)書状が今日着いたので見たところである。以前出した書状でも記したが、宗義智・小西行長を高麗へ向かうように命じている。お前も高麗に出陣し陣を固めたら早々に知らせること。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断はしないように。九州や四国、中国地方の大名へは既に高麗へ出兵するよう伝えている。先に行った者たちが道中で詰まっているので、二十五日に(私が)出陣する。城の守りを固めて、皆で相談をしてつつがなく進めるように。
三月二十三日 秀吉朱印
加藤主計頭(清正)殿へ



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