【偉人録】郷土の偉人を学ぶ

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福島県

【測量器製作の先駆者】市川方静(いちかわ・ほうせい)・福島の偉人

市川方静(いちかわ・ほうせい)・福島の偉人

陸奥国白河(福島県白河市)生まれ。

天保5年(1834)10月24日‐明治36年(1903)11月28日 70歳

白河藩士、和算家、測量家。
安政年間に測量器「調方儀」を製作、維新後も改良を重ね「方静儀」を製作するなど、わが国測量器製作の先駆者である。

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日本の『創造力』〈2〉殖産興業への挑戦

測量器―測量術の進歩に寄与した市川方静

市川方静の出身地白河は和算のさかんな土地で、方静も若い頃、最上流算学を学んだ。彼の興味は多方面に向けられたが、やはり数学的頭脳を生かして天文学と測量術の研究にとくに熱心だった。
安政五年(一八五八)にはじめて測量器を製作し、以後改良を重ねて市川儀として世に出した。
のち郷里で数学・測量学のほか易学も講じたが、実学のみならず広く人格教育を行ったので、その人徳をしたう門下生は三千五百人以上に及んだという。
白河藩士・市川多兵衛の第九子として生まれる。通称は運八郎、号は風柳軒・一夢斎・律襲斎。運八郎とは、大勢の兄弟がみな若くして亡くなり、たまたま運良く生き残ったことから名付けられたのだという。

幼少時より学問に励み、はじめ最上(さいじょう)流の算学をまなび、14歳で天文を志し、測量術・天文学をおさめた。天文学といっても当時は易学の域を脱していなかったが、毎夜、屋根にのぼり天体観測し、また甲子山にこもって天体研究に励んだともいわれる。

安政5年(1858)、24歳のとき、測量器「調方儀」を製作した。

早くから頭角を現した方静は、白河藩士としては、藩命により各地に派遣されている。
ある時、藩命によって江戸での仕事を終えて、国元への帰路に小山に着いた。時、あたかも天狗党の乱をおこした竹田耕雲斎の一隊が布陣していた。血気にはやる天狗党に市川の同僚は色を失してしまった。しかし、方静は敢然として、連中のふところに飛び込み、彼らの正当性を逆に説いた。天狗党は感激して、市川たちに道をあけてくれた。元治元年(1864)の時の市川の剛毅を語るエピソードである。
維新後は白河県や師範学校につとめたが、官に仕えることを望まず辞任した。

「国力を開発する計画はさまざまあるが、急を要するのは道路の整備による運輸の推進である。このためには測量術が必要である」と、測量技術の近代化を志し、明治13年(1880)従来の測量器を改良して、「市川儀」を、明治19年(1886)には「方静儀」を製作・完成させ、工部省にも高く評価されている。
日本の『創造力』〈2〉殖産興業への挑戦

市川が世に知られるようになったのは、測量器の製作によってである。
安政五年(一八五八)にはじめて測量器をつくり、これを調方儀と名づけている。さらに、明治六年(一八七三)には測器を製造し、改良をつづけて、明治十三年には市川儀をつくった。この市川儀が世に出ると、エ部省の役人もこれを閲覧にやってきた。そのうえ、地元だけではなく東京の新聞も大々的に彼の業績を評価し、その精巧さを喧伝した。
そして、明治二十年に製造した方静儀は、後述する明治二十年八月十九日の日食観測にも役立てられたのである。世人は彼の思考力の豊富なのに驚嘆したという。
明治20年(1887)8月19日、白河・小峰城址で皆既日食をとらえ、コロナをスケッチしたという。
アメリカ人ドット教授らの調査団に、その篤学を聞き及び在野の学者でありながら調査団入りを許可されてたのである。

のち郷里白河の自宅を不求庵と称して家塾をひらき、3500人にも及ぶ門下生を世に送り出して、師父として慕われた。

門下生のほとりに、後藤新平もいたともいわれる。真相は不明だが、後藤が須賀川医学校で学んでいたことから、方静との交渉があっても不思議はない。

数学や天文のほかにも軍学、易学、和歌、俳諧、茶道、謡曲などに造詣が深かったという。

明治20年以降の消息についてはよくわかっていないが、死にのぞんでつくった辞世の句が今に伝わる。
「ちりの世をはやくのがれてやすらけく たのしき国にいまやゆくなり」

市川方静墓所(妙徳寺・福島県白河市金屋町113)

片寄平蔵(かたよせ・へいぞう)・福島の偉人

片寄平蔵(かたよせ・へいぞう)・福島の偉人

笠間藩領・磐城郡大森村(福島県いわき市四倉町大森)生まれ。

文化10年(1813)2月15日―万延元年(1860)8月3日 48歳

常磐炭田を発見し、横浜で石炭貿易商を営む。
石炭業開発の祖、「石炭の父」とも称される。

材木商を営む叔父片寄利兵衛の婿養子となる。

若い頃から商才に長け、材木商として笠間藩の用達をつとめる。

江戸の商人で尾張・紀州徳川家の御用商人でもある明石屋にも平蔵は目をかけられていた。
商用で江戸の明石屋を訪れているときに、ペリー来航に遭遇、平蔵は海に浮かぶ黒船の煙突から黒い煙が出ているのを見た。

この黒煙が、石炭を燃やした煙であることを明石屋から教えられた。
さらに、「石炭の火力はまきの比ではない。もし石炭を産出できる所をみつけたら国の富源となり、計り知れない利益を生む」と聞き、平蔵は石炭に興味を抱いた。

それ以来、郷里の山々、付近の川を歩きまわって、石炭を探しまわった。
そしてついに安政2年(1855)陸奥国湯長谷(ゆながや)藩領白水村弥勒沢(みろくざわ)(福島県いわき市内郷白水町)で石炭の露頭を発見した。

平蔵は明石屋の資金提供を受け、発掘を開始し、安政4年(1857)には石炭から油(コールタール)をつくることにも成功した。
新しい産業をおこす (きょう土につくした人びと ふるさと歴史新聞)
初めは地面に出ている石炭を掘っていたが、堀り進むうちに地中にもぐりこむようになった。
掘った石炭は、俵につめ、馬の背の両側にふりわけて、二俵ずつ運び、小名浜などいわきの漁港から船に積んで横浜に運んだ。
1858年、平蔵は江戸幕府から、石炭3000俵をおさめるようにと命令された。この年、幕府は江戸の品川に軍艦操練所をつくって、砲術や航海術などの訓練をはじめたからだった。
幕府に大量の石炭をおさめることになって、石炭掘りはますます盛んになり、炭鉱はどんどん広がっていった。
これが明治の世になって、常磐炭田という大炭田に発展するきっかけとなったのだ。
石炭商として力をつけた平蔵は、外国との通商条約の締結によって横浜が開港されると、横浜へも進出して海外との貿易を志した。

貿易商としても成功した平蔵は、新しい貿易港・横浜のまちづくりにも尽力したという。
福島県の歴史 (県史 7)
平蔵は、石炭取引の店が必要と考え、明石屋と共同で横浜に石炭貿易商を開業した。
出店した場所は積み出しに便利な船着場の運上所の真前で、面積は一万坪ほどもあったという。
軍艦塗料用のコールタール・磐城遠野に産する遠野和紙・シイタケなども交易したいと外国奉行宛願書を提出しているから、よほど手広く貿易事業を行うつもりであったのであろう。
平蔵は郷里磐城(福島県いわき地方)の発展にのみならず、横浜の発展にも寄与、のちに横浜の商人たちは、平蔵を神として祭った。
福島県の歴史 (県史 7)
しかし、平蔵の外国へむけての事業拡張をこころよく思わないものたちがいた。
万延元年、横浜から磐城へ帰ろうとした平蔵は、勿来(なこそ)の近くで攘夷派の浪士数人の刃に倒れた。

みろく沢炭鉱資料館(福島県いわき市内郷白水町広畑223)

いわき市石炭・化石館(福島県いわき市常磐湯本町向田3-1)
平蔵の胸像もある。

石炭業開発の祖片寄平蔵(福島県ウェブサイト)

片寄平蔵頌徳碑(福島県いわき市内郷白水町)
常磐炭田発見の地・弥勒沢の入り口に立つ。

常磐炭田ネットワーク

片寄平蔵墓所(光明寺・福島県いわき市平泉崎字三谷32)

石炭の父片寄平蔵実伝 (1979年)

桑港(サンフランシスコ)にて
常磐炭鉱を開いた片寄平蔵の行き方を活写する「燃えたぎる石」を収録している。
磐城の材木商であった平蔵が、新しい燃料、石炭に目をつけ大成功を収めるが、開国派に力を貸す平蔵を憎む尊皇攘夷派の浪士の刃に倒れるまでの生き様が描かれている。

広沢安任(ひろさわ・やすとう)・福島/青森の偉人

広沢安任(ひろさわ・やすとう)・福島/青森の偉人

岩代国会津若松(福島県会津若松市)生まれ。

文政13年(1830)2月2日―明治24年(1891)2月5日 62歳

会津藩士。
洋式牧場の創始者で「日本近代畜産の父」「牛馬王」と称される。
青森県誕生にも大きくかかわった「青森県生みの親」。

日本の『創造力』〈2〉殖産興業への挑戦

谷地頭牧場―原野開拓に一身を挺した廣澤安任

戊辰戦争に破れ、陸奥の地に追いやられた旧会津藩士の救済に力を尽くしたのが廣澤安任である。
彼は斗南(となみ)の原野に洋式牧場を開いて牧畜に一身を捧げた。
付近の人々の反発や雇ったイギリス人との角逐など、数々の困難に直面してもあきらめることなく牧場経営に邁進し、明治十年(一八七七)には内国勧業博覧会に出品した馬と牛に竜紋賞を受賞するまでに牧場を発展させた。
晩年は著述活動に専念し、欧米文化の摂取に心血を注いだ。

藩校日新館に学んだ後、江戸に上り、28歳で昌平黌に入学した。

文久2年(1862)2月、ロシアとの国境交渉団の随員として箱館に赴き、交渉終了後も8ヶ月ほど蝦夷地の各地を視察した。

同年、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、広沢は藩公用人として京に上った。

禁門の変(1864年)の時には、容保の特命で江戸に赴き、将軍義茂に上京を促すなど、歴史に残る大きな出来事にもかかわっている。

鳥羽・伏見の戦いの後、会津に戻った容保の立場を護るべく、江戸に残り西郷隆盛らに会い会津征討中止の努力を重ねるも、慶応4年(1868)新政府軍に捕らえられる。

明治2年(1869)釈放されたが、会津藩は本州最北の地に減封移封された。
この新藩は、中国の詩文「北斗以南皆帝州」から斗南藩(現青森県)と名づけられた。

斗南藩の藩政は、権大参事山川浩(山川健次郎、大山捨松の実兄でのち陸軍少将、貴族院議員)、少参事永岡久茂(のち思案橋事件の首謀者)、少参事広沢安任の三人によって動かされることになる。

旧会津藩時代の家禄を廃止し、一律に土地を与え開墾させるが、痩地で十分な食料が生産できなかった。
会津藩 斗南へ―誇り高き魂の軌跡

山の斜面に土饅頭があった。
「これです」とその人が指さした。
「掘ってみたら親子三人の墓でした。川の字になって三人は埋められていたのです」
その人はそういうや「なにがあったか、可哀相で可哀相で」身を震わせて号泣した。
こうした土饅頭の墓は、これまでにいくつか見つかっていた。
可能性としては餓死したか、疫病でやられたか、あるいは豪雪で家がつぶれ圧死したか、いずれかだった。
たしかにそれは悲劇だった。
・・・
「会津藩がここにきたのは失敗だった」という声も聞いた。しかし選択の余地のない状況での移住であり、どうすることも出来なかった。
この移住は、明治藩閥政治が行った見せしめであり、犯罪行為に近いものだった。
会津人がかたくなに長州人との和解を拒む理由のひとつは、この斗南藩だった。
しかし斗南藩はすべて失敗かといえば、そうではなかった。
我が国初の洋式牧場をこの地で開いたのは、京都時代、会津藩公用人を務めた広沢安任であり、ある時期、この界隈の小学校の教員は、多くが会津人だった。
・・・
大勢の人が激しい気迫ではい上がり、地域の発展に貢献した。
青森県下北、上北、三八地方に「会津衆」という言葉が残っている。そこには尊敬の念が込められていた。
「我々はむざむざ敗れ去ったわけではない」青森の会津人は、そういって胸を張った。
斗南藩は見事に歴史的使命を果たしたのである。

廃藩置県で斗南県となったが、困窮にあえぐ救済策として安任は八戸県と結び、旧敵・弘前県との統合を画策し、5県合併による弘前県(後の青森県で現在に至る)が成立した。

旧敵との統合に強い反発があったが、安任は経済基盤のしっかりした弘前県との統合を決断したのだった。

弘前県の統合を最後に政治の政界から退いた、安任は、貧困に苦しむ旧藩士のため、明治5年(1872)谷地頭(やちがしら・現青森県三沢市)に英式大農法による洋式牧場「開牧社」を開設した。

イギリス人ルセー、マキーンらを雇い、在来種の牛馬に洋種を交配させ品種改良し、イギリス人から機械を輸入して機械化を進め、本格的洋式牧場をめざした。

当初は地元民の反発も強く、資金繰りも苦しかったが、徐々に経営は軌道にのり、明治10年(1877)には内国勧業博覧会に出品した馬と牛に竜紋賞を受賞するまでに牧場を発展させた。

その後、バター・チーズ・ソーセージの製造も手掛け、東京に出張所を開き販路を広げた。
犢を逐いて青山に入る―会津藩士・広沢安任

わたしがかれの人生を書いてみようとおもったのは、文久三年(一八六三)の公武合体派クーデターの作成者の一人で、元治元年(一八六四)に象山とともに遷都を企てたからではない。
その会津藩士が明治以後、「犢(こうし)を逐(お)う」生活へと入っていった、そのくっきりとした足どりに心ひかれたからだった。「刀を売」って子牛を買うと、明快に、それもユーモアをもって言いきり「青山(せいざん)」へと入っていった精神に、わたしは心晴れるものをおぼえたのだった。
それに、かれはわたしが昭和三十九年(一九六四)に上京して、超高層ビルが建ちはじめるまえの淀橋浄水場跡の武蔵野原にも牧場をひらいた、というではないか。
そんな人物が百年後の新宿西口の変貌をみて、どんなふうにおもうだろうか。その変貌も、民族にとっての「瞬く間の人生」ではないか、とにこやかにうなずくのではないか。

明治12年(1879)安任は最初の5年間の体験を著した『開牧五年紀事』を出版する。

他人の著書の序文を書かないという自らの信念を曲げてまで福沢諭吉が序文を寄せた。

明治9年(1876)の明治天皇青森行幸のとき、随行していた内務卿大久保利通が牧場まで広任を訪れ、政府要職を準備して官途に就くように説得するが、「野にあって国家に尽くす」としてこれを固辞、全国に先駆けてこの地域の新たな産業として畜産業を興してその近代化につとめ、畜産・酪農に生涯をささげた。

道の駅みさわ・斗南藩記念観光村(青森県三沢市谷地頭4-298-652)

三沢市先人記念館(青森県三沢市谷地頭4-298-652)

開祖堂(先人記念館脇)
安任を祀ったお堂。

六十九種草堂(斗南藩記念観光村内)
安任の住居兼書斎を復元した建物で、「六十九種草堂」という名前は、内国勧業博覧会に牛馬が食べる野草69種類の研究成果を出品したことを記念して命名。
展示されている屏風や書物などは、廣澤家に伝わっている本物。

広沢安任墓所(青森県三沢市高野沢2)

広沢家先祖の墓(弥勒寺・福島県会津若松市大町1-5-1)

下北の大地 会津藩士広沢安任の生涯 (会津藩燃ゆ)

会津維新銘々伝---歴史の敗者が立ち上がる時




平野長蔵(ひらの・ちょうぞう)・福島の偉人

平野長蔵(ひらの・ちょうぞう)・福島の偉人

福島県南会津郡檜枝岐村生まれ。

明治3年(1870)8月10日―昭和5年(1930)8月20日 60歳

尾瀬の開拓者。
「長蔵小屋」初代主人。
尾瀬の自然環境の保護を世に訴え続けた。

10歳のとき父を失い、16歳のときに独立した。

明治22年(1889)19歳の時、燧ヶ岳(ひうちがたけ)の頂上に石のほこらをつくった。
この年を燧ヶ岳開山として、平成元年(1989)に地元では「開山百年」を盛大に祝った。

明治23年(1890)8月1日には、尾瀬沼沼尻に行人小屋を設置し、この年が「尾瀬開山の年」といわれる。

神道を学び神主の資格をとり、尾瀬参籠所や檜枝岐燧嶽神社を建立して、神道の普及と村の発展を願い、布教に力をそそいだ。

また、村総代として道路や産業の開発にもあたった。

明治42年(1909)には、尾瀬沼に十和田湖からにじますを移入して養殖するほか、いわなの養殖も行った。

尾瀬沼と尾瀬ヶ原の美しさにひかれた長蔵は、明治43年(1910)尾瀬沼湖畔のすぐそばに丸太小屋をたてて住みつき、これが「長蔵小屋」のはじまりである。

大正11年(1922)関東水電が尾瀬の水利権を獲得、尾瀬ヶ原をダムにして発電所を作る計画を発表。
長蔵はすぐ上京して、たった一人で内務大臣宛てに請願を提出するが、訴状はにぎりつぶされる。
しかし、長蔵の訴えにより、尾瀬の自然保護がはじめて政治問題としてとりあげられ、社会に広く知られるきっかけとなった。

長蔵は、足尾銅山鉱毒事件を追及した田中正造を尊敬していたという。
不正を憎み、権威を恐れず、自分の信念を貫くという気概を持ち続けた長蔵は、雄大な原始のおもかげをのこす尾瀬の自然環境の保護を世に訴え続けた。

「長く尾瀬が人間の心のふるさとであるように」―尾瀬に生きた長蔵が残した言葉である。

尾瀬をまもる人びと―長蔵小屋の三代 (ノンフィクション・ワールド)

美しい自然が太古のままに残されて、世界の自然環境の宝庫といわれる「尾瀬」。
その尾瀬に住み、尾瀬を拓き、尾瀬を環境破壊や無用な開発から守った長蔵小屋の三大の男。
平野長蔵・長英・長靖の父子孫三人のそれぞれの行き方は、環境問題のバイブルといわれる「尾瀬」を考えるとき、尾瀬の将来だけでなく、自然に人間がどう接するべきなのかを教えてくれます。
平野長靖と沼田高校同級生だった著者が、悲劇的な遭難死をとげた級友に、痛切な哀悼をこめて贈る書。

尾瀬沼畔「長蔵小屋」(福島県南会津郡檜枝岐村尾瀬沼畔1)

尾瀬の歴史(財団法人尾瀬保護財団)

平野長蔵(平野家)墓所
長蔵小屋近くの大江湿原「ヤナギラン(柳蘭)の丘」に葬られている。

平野家三代のドラマ「尾瀬に生き、尾瀬に死す」(1986年5月・NHKにて放送された)

尾瀬―山小屋三代の記 (岩波新書 黄版 263)

尾瀬に生き尾瀬に死す―平野長英、尾瀬の70年

ミズバショウの花 いつまでも―尾瀬の自然を守った平野長英 (ノンフィクション・シリーズ かがやく心)

尾瀬に死す (現代教養文庫―ベスト・ノンフィクション (1530))

朝河貫一(あさかわ・かんいち)・福島の偉人

朝河貫一(あさかわ・かんいち)・福島の偉人

福島県安達郡二本松町下ノ町新長屋(福島県二本松市根崎1)生まれ。

明治6年(1873)12月20日―昭和23年(1948)8月10日 74歳

平和の提唱者として内外で評価の高い、世界的な歴史学者。

朝河貫一 比較封建制論集

福島尋常中学校(現福島県立安積高等学校)を卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)に編入し、明治28年(1895)首席で卒業。

翌年アメリカのダートマス大学に編入学、ついでエール大学大学院で史学を学び「645年改革(大化の改心)の研究」で学位を得た。

ダートマス大学講師を経て、エール大学に迎えられ、日本人として初めての外国一流大学の正教授として36年間教壇に立った。

歴史研究においては、各国の封建制度の比較研究で大きな功績をあげ、アメリカの国会図書館に日本コレクションをつくるなど日本の紹介にも力を入れた。

また、世界平和を願い、日露戦争以来の日本の対外侵略的な政策を批判し続けた。

太平洋戦争を回避するため、アメリカ大統領から昭和天皇への親書の草稿を心血を注ぎ書き上げた。

74歳で亡くなると、その訃報は「現代日本の最も高名な世界的学者が逝去した。」と世界の隅々まで打電された。

二本松市ウェブサイト

明治6年(1873)12月20日(戸籍上は22日)旧二本松藩士朝河正澄・ウタの長男として、二本松町下ノ町新長屋(現二本松市根崎)に出生。
翌年8月父の伊達郡立子山小学校校長赴任に伴い、立子山の天正寺に移住し、立子山小学校から川俣尋常小学校と進み、明治20年(1887)福島尋常中学校(のち安積中学校に改称)に入学した。
在校中の成績は全学年を通じて常に一位を占め、4年生からは特待生に選ばれている。
中でも英語は抜群で、卒業式で首席としての答辞を流暢な英語で演説し、参列者を驚かせた。

彼の英語の勉強については毎日、英和辞典を2ページずつ暗記しては食べるか破り捨て、残ったカバーを校庭の隅の若桜の根元に埋めたというエピソードを残し、後にこれを“朝河ざくら”と呼ぶようになった。

明治25年(1892)東京専門学校(現早稲田大学)に入学し、同28年首席で卒業。
中学校時代に決意していた“将来アメリカに留学して世界の広い知識を学び、日本文化の発展に貢献する”という志しを抱き、大西祝(はじめ)・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟らの渡航費援助により、12月7日横浜港を出航した。

翌年1月ダートマス大学に編入学、卒業後はダートマス大学長タッカーの援助とイェール大学の奨学金を得てイェール大学大学院歴史学科に入学、優秀な成績をあげ、明治35年(1902)論文『日本における初期の制度的生活、645年改革の研究』で哲学博士の学位を授与され、のちダートマス大学講師に迎えられ、東西交渉史の講義を担当した。

明治37年(1904)『日露衝突』を刊行し、日露戦争における日本の正義を英米国民に説き、翌年日本側のオブザーバとしてポーツマスにおける日露講和会議に出席し妥結を主張した。
この年、ニューヘイヴン市の女性でイェール大学時代に知りあったミリアム・J・キャメロン・ディングウォールと結婚をしている(8年後死去、以来独身)。

翌年帰国し、イェール大学図書館および米国議会図書館への日本関係図書の収集を行った。
同40年イェール大学に迎えられ、日本外交史と日本文明史を担当、のち大学院の日本文化史助教授、さらに歴史学助教授に昇進した。

この間、『日本の禍機(かき)』『入來文書(いりきもんじょ)』など諸論文を発表するとともに、日本をはじめ中国、欧州諸国への調査旅行を精力的に行っている。

滞米54年間のうち、36年間はイェール大学に奉職し、昭和12年(1937)日本人として初めて同大学の正教授となり、同17年定年退職して名誉教授になるまで西洋中世法制史を担当し東西封建制の比較研究で前人未到の境地を開拓した世界的な歴史学者である。

一方、国際関係論にも優れ、世界的視野と日本国民の幸福という観点に立ってなされた祖国日本への警鐘は数多く、特に日米開戦の危機の前に立ちはだかって天皇に送るべき米国ローズヴェルト大統親書の草案に熱意を込めたことは、偉大な愛国者であったことを物語っている。

開戦後、米国は博士の学績と思想に敬意を払い、その自由を保証している。
昭和23年(1948)8月11日早朝、避暑研究先のバーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘で心臓麻痺のため74歳の生涯を終えた。

その訃報はAP電・UPI電を通じて「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」とその死を悼み世界の隅々まで打電され、さらにイェール大学は告別式を挙行、博士はニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地に葬られ、永遠の眠りについた。
また、市内金色墓地にも博士夫妻の墓が建立されている。

最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)

エール大学名誉教授朝河貫一博士は、一九四八(昭和二十三)年八月に満七十四歳の生涯を閉じられた。実に滞米五十余年におよぶものであった。

博士は今世紀最大の比較法制史学者であるとともに、国際政治学の分野でも比類ない造詣と洞察力を備えた人物であった。それだけに彼の頭脳から流れ出た各国の政治と各国国民の国民性にたいする批判は格別にすぐれ、また明治四十年代以後における日本の独善的な外交と無謀な侵略戦争にたいする愛国的な非難も、まことにきびしく且つ的確なものであった。この意味で、日本も欧米も、この碩学の手のひらの上におかれていたといえるかもしれない。

しかし、朝河博士の同胞への大いなる遺産は、これだけにとどまるものではなかった。
彼は太平洋戦争のさなかにあって、民主主義国家の国民に最も要請されるべき倫理上の条件を強調したばかりでなく、侵略戦争にたやすく順応したわが国民性の弱点をえぐり出すとともに、アメリカの世界政策の欠陥をも提示したのであるが、まさにこれらは、今日の日本が忘失もしくは無自覚の境にある最重要な問題ではなかろうか。 


一九四八年(昭和二十三)年八月十一の早暁、一人の大いなる日本人朝河貫一がその生涯を閉じた。七十四歳であった。

遥かにふりかえれば、その五十年にわたるアメリカ生活のなかで、彼の双眸の光は、常に世界の怒濤をつらぬくとともに、驕れる祖国の狂奔にも注がれてきた。そして彼の高い学識と鋭い英知が、この長い歳月の風霜に刻んだものは、次の数行の言葉であった。それは彼の国家にたいする信条をちりばめたものであった。

「国家はその国民が人間性をもっているかぎりにおいてのみ、自由な独立国である。しかし、その政治体制が民主主義の組織をそなえているというそれだけでは、自由な独立国とはいえない。自由主義にあっては、その国民が世界における人間の立場を、すべてにわたって意識するまでに進歩しているかどうか、それこそが重要である。」

朝河貫一生誕の地標柱(福島県二本松市根崎1)

二本松市役所(福島県二本松市金色403-1)
ロビー内にダートマス大学・エール大学との交流を示す資料が展示。
正面玄関外に「朝河桜」が植樹されている。

安達ヶ原ふるさと村「先人館」・朝河貫一コーナー(福島県二本松市安達ヶ原4-100)
貫一の像、書簡・愛用品などを展示。

安積歴史博物館(旧福島県尋常中学校本館・福島県郡山市開成5-25-63 )
貫一ゆかりの資料を収めた特別展示室がある。

天正寺(福島県福島市立子山寺窪2)
貫一が4歳まで過ごした寺。4歳のとき書いた落書「走馬」の絵が本堂に残る。
継母と祖母の墓もある。

福島県立図書館(福島県福島市森合字西養山1)
貫一の書簡類、資料、写真等2,795点を収蔵。

朝河貫一博士顕彰協会ウェブサイト

朝河家墓所(二本松市金色墓地・福島県二本松市金色400-3)
博士夫妻、父母などが眠る。

朝河家墓所(アメリカ・ニューヨーク市グローブストリート墓地)

日本の禍機 (講談社学術文庫)

朝河貫一の世界―不滅の歴史家 偉大なるパイオニア

「驕る日本」と闘った男―日露講話条約の舞台裏と朝河貫一

朝河貫一とその時代

日露戦争 もう一つの戦い―アメリカ世論を動かした五人の英語名人 (祥伝社新書)

ポーツマスから消された男―朝河貫一の日露戦争論 (横浜市立大学叢書)

日本の発見―朝河貫一と歴史学

大化改新

朝河貫一論―その学問形成と実践 (早稲田大学学術叢書)

朝河貫一 人・学問・思想―朝河貫一博士生誕120周年記念シンポジウム (叢書パイデイア)

河野広中(こうの・ひろなか)福島の偉人

河野広中(こうの・ひろなか)福島の偉人

陸奥国三春藩(福島県田村郡三春町)生まれ。

嘉永2年(1849)7月7日−大正12年(1923)12月29日 75歳

自由民権運動家、政治家。
第11代衆議院議長。
第2次大隈内閣の農商務大臣。

河野広中
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)



父は三春藩郷士。
23歳のときから三春町で戸長・区長をつとめる。

自由民権運動に共鳴し、明治8年(1875)政治結社・石陽社を結成。

国会期成同盟の運動で片岡健吉とともに国会開設請願書を提出。

明治14年(1881)には福島自由党を設立し、反政府運動を繰り広げた。
同年、福島事件に連座し下獄、六年あまりを獄中で過ごす。

憲法発布の大赦で出獄し、明治23年(1890)の第1回総選挙で衆議院議員に当選して以来連続14回当選。

憲政本党結成に参画するとともに、普選運動と対外硬運動に奔走。

明治36年(1903)衆議院議長。

明治38年(1905)ポーツマス条約に反対し、日比谷焼討事件に連座。

のち立憲同志会結成に加わり、第2次大隈内閣の農商務大臣に就任した。


歴史民俗資料館入館料(自由民権記念館・福島県田村郡三春町字桜谷5)

河野広中銅像(歴史民族資料館)

河野広中銅像(福島県庁・福島県福島市杉妻町2-16) 

石陽社記念碑(福島県石川郡石川町石尊山地内)

「自由民権之地弾正原」「弾正ヶ原事件百年祭記念碑」(福島県喜多方市)

「自由民権発祥之地」碑(出雲神社・福島県喜多方市字寺南2589)

磐州河野先生○髪塚(紫雲寺・福島県田村郡三春町字大町184)

河野広中 (人物叢書)

福島人物の歴史〈第12巻〉河野広中

福島人物の歴史〈第11巻〉河野広中

河野広中小伝

写真図説福島自由民権史

山本覚馬(やまもと・かくま)・福島/京都の偉人

山本覚馬(やまもと・かくま)・福島/京都の偉人

会津藩鶴ヶ城内土居の内屋敷(福島県会津若松市米代2)生まれ。

文政11年(1828)1月11日−明治25年(1892)12月28日 64歳

会津藩士、砲術家。
維新後は京都府政を指導し「近代京都の父」と称される。
新島襄らの同志社創立にも協力した。妹は、のちの新島襄夫人・八重子。

会津藩士山本権八の長男。
日新館に学び文武兵学を修得、後江戸へ出て佐久間象山、勝海舟を訪ね、蘭学、様式砲術を研究。会津藩蘭学所を設置し、会津軍近代化に功があった。
禁門の変では砲兵隊の指揮を取ったが、鳥羽・伏見の戦いで捕らえられ薩摩屋敷に幽閉された。
失明と脊髄を損傷しながらも、口述筆記の「管見」と題する経世論を認められ明治2年釈放される。
やがて京都府顧問や京都商工会議所会頭として活躍。
またキリスト教に共感、新島襄らの同志社創立にも協力した。

新島八重子・弘化2年(1845)−昭和7年(1932)
会津藩士山本権八の娘で山本覚馬の妹。
戊辰戦争の際、男装して会津の大砲隊式に参加。
開城の折り「明日よりはいづこの誰かながむらん なれし大城に残す月影」の有名な歌を城壁に残す。
後に京都に出て覚馬の指導のもと、英語や洋風生活を身に付ける。
新島襄と知り合い結婚、キリスト教の洗礼も受ける。
新島襄の東北伝道には彼女の影響があった。
(会津若松市ウェブサイト)


明治維新により新政府は、江戸を東京と改称し、首都と定めるが、それまで千二百年間、天皇を中心とする日本の政治・文化の中心地であった京都は、衰退の危機に陥った。

急激に押し寄せてきた近代化の流れの中で、京都の産業の復興を進め、教育・福祉の充実に力を尽くしたのが旧会津藩士の山本覚馬だった。

全国にさきがけて、京都の産業、教育、医療施設は実現した。
日本で最初に小学校ができたのも京都なら、中学校の誕生も京都がいちばん早かった。
それはみな薩摩藩邸に幽閉中に覚馬が書いた『管見』のプランにもとづいている。
人材育成こそ近代国家のかなめであるとの先見から、いち早く教育事業に取り組んだ。
闇はわれを阻まず―山本覚馬伝

京都府顧問となり古都の復興のために新しい施策をつぎつぎと実施するとともに、最初の京都府議会の議長を務め、近代都市京都へと導いた山本覚馬は「近代京都の父」と称されている。


日本の『創造力』〈2〉殖産興業への挑戦

京都の近代化―開化勧業を推進した山本覚馬

江戸で兵学・蘭学を修めたのち会津藩の兵制改革に従事していた山本覚馬は、藩主とともに京都へ出、守護職の軍兵強化の任についたが、鳥羽・伏見の戦いで拘禁される。
解放されて京都府顧問に抜擢され、府行政に参画して、遷都後衰微しかけていた京都の開化勧業に尽力し、近代都市への変革を果たした。
上京の頃から目を患いやがて失明したが、心の目は閉ざされることなく、移りゆく時代の姿を正しく把握したたまものだった。

周囲から反対されたとはいえ、久栄(覚馬次女)にたいしてあまりにも残酷な仕打ちをした。
その痛恨のおもいが結婚後も尾を引いて彼を苦しめた。四十六歳の(徳冨)蘆花が、身内への配慮から闇に閉ざしてきたおもいを白日のもとにさらしたのが告白的自伝小説『黒い眼と茶色の目』である。
「黒い眼」は新島襄で、「茶色の目」は山本久栄をさしている。
闇はわれを阻まず―山本覚馬伝

山本覚馬・新島八重生誕の地碑(福島県会津若松市米代2)

山本覚馬と家族の墓地・新島襄と八重子の墓地(同志社墓地・京都市左京区鹿ケ谷若王子山町)

心眼の人山本覚馬

闇はわれを阻まず―山本覚馬伝
闇はわれを阻まず―山本覚馬伝

黒い眼と茶色の目 (岩波文庫)

中村善右衛門(なかむら・ぜんうえもん)・福島の偉人

中村善右衛門(なかむら・ぜんうえもん)・福島の偉人

岩代国伊達郡梁川村(福島県伊達市梁川町)生まれ。

文化7年(1810)−明治13年(1880)8月13日 

幕末維新期の養蚕改良家。
養蚕用温度計の創始者。

養蚕農家だった二代目・善右衛門の長男として生まれた。

当時の伊達地方では農家のほとんどが養蚕を行っていた。
江戸時代の養蚕は清涼育(せいりょういく)とよばれる方法が一般的で、低温の時は時間も人手もかかるうえに繭の質も悪くなる。

一方、蚕室を暖める温暖育が飼育期間を短くさせ、繭質を安定させることが経験上知られ、火力を用い気温を上げて蚕を飼育する方法が普及しつつあった。

しかし、人の勘だけが頼りだったので、温度管理は難しかった。

そこで、善右衛門は飼育時の適正温度を調べ、正確な温度調節を行いながら飼育できるよう、医者の体温計にヒントを得て、苦心の末、養蚕用の温度計を製作した。

「蚕が当たる計器」すなわち「蚕当計(さんとうけい)」と名付け、蚕当計の手引書『蚕当計秘訣』を発行して温暖育の普及を図った。


御一新の光と影 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)

蚕当計―養蚕用温度計の創始者・中村善右衛門

養種製造業の中村善右衛門は、蘭方医稲沢宗庵(いなざわ・そうあん)から熱病を治してもらった時に体温計を知り、それを蚕の温暖飼育に利用しようと考える。
宗庵の協力も得て、天保14年(1873)に温度計の自作に成功、養蚕に必要な目盛を加え養当計と名づけて全国への普及を図った。
やがて開国によって外国から生糸・養種の需要が急増し、養蚕業は飛躍的に発展する。
それは蚕当計による飼育技術の向上と経営の合理化に負うところが大きい。


蚕当計功徳碑(福島県伊達市梁川町)

中村善右衛門墓所(安養寺・福島県伊達市梁川町字清水町19)

福島 (全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記―ふるさとの人と知恵)






週刊ダイヤモンド別冊 歴学 ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち 2010年 10/17号 [雑誌]

『週刊ダイヤモンド別冊・歴学・ ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち』(2010年9月17日発売)に記事掲載しました。



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山川健次郎(やまかわ・けんじろう)・福島の偉人

山川健次郎(やまかわ・けんじろう)・福島の偉人

会津若松城下本二之丁(福島県会津若松市東栄町)

嘉永7年(1854)閏7月17日−昭和6年(1931)6月26日 78歳

日本初の理学博士。
東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長。

明治を生きた会津人 山川健次郎の生涯―白虎隊士から帝大総長へ (ちくま文庫)



会津藩家老職の家に生まれ、父が安政7年に亡くなり、母と祖父に育てられる。
日本最初の女子留学生でのちに大山巖夫人となる捨松は実妹。

会津藩校・日新館で学び、戊辰戦争のときには一旦、白虎隊に入るが、若年だったため除隊した。

明治新政府の開拓使が留学生を送るにあたり、会津藩から選抜され、渡米し、エール大学で物理学を学ぶ。

帰国後、東京開成学校教授補となり、東京大学に改組されると、理学部教授補となり物理学を教える。

明治12年(1879)理学部教授(日本人初の物理学教授)となり、物理学を中心に光学、熱力学、音響学、など幅広い講義で、日本の物理学を開拓した。

講義時間を厳守し、聴講した学生が、「打つ鐘の あとよりはいる山の川 声ぞ積もりて 熱となりぬる」と詠んだほど時間に正確であり、講義も迫力があった。
指導の傍らよく会津戦争の話をし、人生を語り、学者を目指すものには「日本独自の文化を築き、世界に示さなければならない。単に、欧米を模倣するだけでは意味がない。」と叱咤激励した。

最初の教え子には田中館愛橘がいた。

明治21年(1888)5月7日、制定された学位令により、伊藤圭助・長井長義・矢田部良吉・菊池大麓とともに、日本初の理学博士第一号となる。
なお、同年6月7日にも、寺尾寿・小藤文次郎・松井直吉・箕作佳吉・桜井錠二に理学博士が与えられた。

明治26年(1893)に東京帝国大学理科大学長になり、以降は、教育行政の分野で活躍。
明治34年(1901)第6代東京帝国大学総長、明治37年(1904)貴族院勅撰議員、明治44年(1911)九州帝国大学総長、大正2年(1913)再び第9代東京帝国大学総長、大正3年(1914)京都帝国大学総長を兼任した。


山川健次郎生誕地(福島県会津若松市東栄町)

山川健次郎墓所(青山霊園・東京都港区南青山)


山川家の兄弟―浩と健次郎 (人物文庫)

山川健次郎と乃木希典―「信」を第一とした会津と長州の武士道


大学の創立
 欧米を見習った近代国家をつくるため、明治政府の国家的な課題が、それを担う人材の育成でした。旧幕府の学問所や研究所は、改組統合しながら明治10年に東京大学となり、明治19年の帝国大学令で、東京帝国大学などの国立大学の設置が進みました。
 山川健次郎は東京帝国大学総長を始めとして、創設間もない、近代日本の教育制度の維持と発展に力を尽くしました。

謹慎から脱出
 健次郎は、安政元年(1854)若松城下本二之丁(現東栄町)に、会津藩士山川尚江(なおえ)の三男として生まれました。9歳から藩校日新館に学び、15歳のとき、藩の軍制改革により白虎隊に編入されますが、若年のため一旦除隊しています。その後、藩命でフランス語を学びますが、城下に戦火が及ぶと籠城戦に加わりました。開城後、猪苗代に謹慎中に脱出し、会津藩士秋月胤永(かずひさ)の手配で、長州藩士奥平謙輔(けんすけ)を頼り新潟へ逃れた後、東京へ出て苦学しました。

最初の理学博士
 藩が斗南(となみ)で再興され、健次郎は18歳で政府のアメリカ留学生に選ばれました。エール大学で物理を学び、22歳で学位を取得。帰国後は、東京開成高校で教べんを取りました。東京大学に改組されると、26歳で最初の物理学教授となります。
 健次郎は、実験器具の整備や学生の指導など物理学教育の基礎を築きました。

東京帝国大学総長
 48歳で総長となり、4年後の明治38年には、政府を非難した教授が処分を受け、教授たちが大学の自治を求め決起する事件(戸水事件)が起こりました。健次郎は、自ら辞任することで混乱を治めました。その後、明治専門学校(現九州工業大学)の総長となり、さらに九州、東京、京都の各帝国大学の総長を務め、揺れ動く大学教育の維持に努力しました。

「京都守護職始末」
 健次郎は、育英のため会津学校会の設立や、上京して就学する会津の学生のための寮(至善寮)の建設など、人材の育成に力を尽くしました。さらに、兄浩が残した「京都守護職始末」を完成させ、幕末における会津藩の立場を明らかにしています。
 昭和6年(1931)78歳で亡くなりました。
(会津人物伝・会津若松市ウェブサイト)


文明開化の数学と物理 (岩波科学ライブラリー)
文明開化の数学と物理 (岩波科学ライブラリー)

安積艮斎記念館(福島県郡山市)

安積艮斎記念館(安積国造神社内・福島県郡山市郡山市清水台1-6-23)

見学時間 9:30〜16:00

寛政3年(1791)、安積国造神社の神官の子として生まれた安積艮斉(あさかごんさい)は、二本松藩儒官を経て、幕府昌平黌の儒官となった。
門人には、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作など2,282名。
ペリー及びプーチャン持参の国書を翻訳し、通商条約に貢献した。
艮斉の生涯や功績を分りやすく紹介している。

佐藤一斎・安積艮斎 (叢書・日本の思想家)
佐藤一斎・安積艮斎 (叢書・日本の思想家)

安積艮斎(あさか ごんさい)・福島の偉人

陸奥国郡山(福島県郡山市郡山市清水台・安積国造神社内)

寛政3年(1791)3月2日−万延元年(1861)11月21日 71歳

17歳で江戸に出て、日蓮宗・妙源寺の日明和尚のもとで生活し、和尚の紹介で、佐藤一斎に学び、20歳からは将軍家相談役の林述斎にも学んだ。

文化11年(1814年)、江戸の神田駿河台に私塾「見山楼(けんざんろう)」を開き、幕末から明治の間に活躍した2,282人もの門人に教えた。
見山楼は旗本小栗家の屋敷内にあり、小栗上野介もここに学んだ。

二本松藩校敬学館の教授、昌平黌の教授となり、アメリカのペリーや、ロシアのプーチンが来航したときには、各国の国書を翻訳した。

幕府へ外交意見として『盪蛮彙議』を提出した。


主な門人(安積国造神社HPより)

小栗忠順(おぐり ただまさ)
木村芥舟(きむら かいしゅう)
栗本鋤雲(くりもと じょうん)
吉田松陰(よしだ しょういん)
高杉晋作(たかすぎ しんさく)
斎藤竹堂(さいとう ちくどう)
中村正直(なかむら まさなお)
重野安繹(しげの やすつぐ)
三島中洲(みしま ちゅうしゅう)
岡鹿門(おか ろくもん)
松本奎堂(まつもと けいどう)
松林飯山(まつばやし はんざん)
大須賀筠軒(おおすが いんけん)
秋月悌次郎(あきづき ていじろう)
南摩綱紀(なんま つなのり)
間崎哲馬(まざき てつま)
清河八郎(きよかわ はちろう)
菊池三渓(きくち さんけい)
岡本黄石(おかもと こうせき)
鷲津毅堂(わしづ きどう)
阪谷朗盧(さかたに ろうろ)
神田孝平(かんだ たかひら)
岩崎弥太郎(いわさき やたろう)
福地源一郎(ふくち げんいちろう)
谷干城(たに たてき)
宍戸璣(ししど たまき)
宇田川興斎(うだがわ こうさい)
箕作麟祥(みつくり りんしょう)

安積艮斎生誕地(福島県郡山市郡山市清水台・安積国造神社内)

安積艮斎墓所(妙源寺・東京都葛飾区堀切3-25-16)
 



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週刊ダイヤモンド別冊 歴学 ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち 2010年 10/17号 [雑誌]
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2010年9月17日


週刊ダイヤモンド別冊 歴学(レキガク) 2010年 1/11号 [雑誌]
雑誌『歴学』に記事掲載!
2009年12月11日

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