【偉人録】郷土の偉人を学ぶ

郷土の偉人の志を引き継ごう! 偉人の故郷、ゆかりの地の紹介。 生誕地、記念館、史蹟、墓所、関連HP、関連書籍の紹介。 【郷土の偉人研究会】

福島県

吉田富三記念館(福島県石川郡浅川町)

吉田富三記念館(福島県石川郡浅川町大字袖山字森下287)

開館時間 9:00〜16:30

休館日 月曜日(年末年始の休日)

入館料 一般400円

展示内容
・吉田富三博士の生涯
写真パネルや当時の資料を振り返り、人間吉田富三を発見します。
・ビデオシアター
博士の偉大な功績や健康の大切さ、博士が愛した浅川町の風土を情報豊かに紹介します。
・吉田肉腫とは
吉田肉腫の多くの資料でその価値を解説し博士の情熱を伝えます。
・研究室の再現
がん研究に没頭していた博士の日常を、いきいきと再現します。
・博士の功績とプライベートライフ
士の功績を明らかにする受賞品や愛用品にプライベートを垣間見ます。
・がん研究の継承と健康
吉田富三賞受賞者の紹介、現在のがん研究の実態を解説。また、「健康の大切さ」を提言します。

日本の科学者 吉田富三―生誕100年記念
日本の科学者 吉田富三―生誕100年記念


吉田富三(よしだ とみぞう)・福島の偉人

福島県石川郡浅川村(浅川町)生まれ。

明治36年(1903)2月10日−昭和48年(1973)4月27日 70歳

病理学者。癌研究の先駆者。

昭和2年(1927)、東京帝国大学医学部を卒業。
移植可能ながん細胞である 肉腫を発見するなど 世界のがん研究を飛躍的に発展させました。
のちに「吉田肉腫」と名付けられた その肉腫を使って 日本で最初の制がん剤を開発するなど その功績は計り知れないものがあります。
また、博士はがん研究制度の充実にも尽力し、 意欲的に後進の指導に 取り組まれました。


癌細胞はこう語った―私伝・吉田富三 (文春文庫)

現代に求められる教養を問う―新渡戸稲造、南原繁、矢内原忠雄、吉田富三に学ぶ
現代に求められる教養を問う―新渡戸稲造、南原繁、矢内原忠雄、吉田富三に学ぶ

大山捨松(おおやま すてまつ)・福島の偉人

会津若松生まれ。

安政7年(1860)2月24日−大正8年(1919)2月18日 60歳

社会奉仕家。大山巌の妻。旧姓山川(咲子)、兄に山川健次郎。
「日本初の女子留学五少女」のうちの一人。


日本初女子留学生
(左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松)


会津藩家老・山川尚江の末娘として生まれる。家族と共に会津鶴ヶ城に籠城し、幼いながら官軍と戦い、場内で傷病兵の看護にあたった。

女たちの会津戦争 (平凡社新書)
女たちの会津戦争 (平凡社新書)



明治3年(1870)には、斗南へと移住し貧困のなかで生活した。
黒田清隆が女子留学生を募集したとき公募し、明治4年(1871)、日本初の女子留学生として津田梅子らとアメリカに渡る。その際、母親が「捨てたつもりで待つ」の親心で改名させたという。

明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女 (平凡社新書)
明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女 (平凡社新書)



明治11年(1978)、名門バッサー大学入学、常に成績優秀で、1982年の卒業の際、演説を行った。こうして、アメリカの大学を卒業した初の日本人女性となった。

卒業後に看護婦免状を取得し、明治15年(1982)年に津田梅子と共に帰国。11年間のアメリカ滞在であった。英語、フランス語、ドイツ語を自由に話せるようになっていたが、日本語は少々おぼつかなくなっていた。

翌年、18歳年上・三人の子持ちの大山巌と結婚、外国人接待に活躍し「鹿鳴館の貴婦人」といわれた。

鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生 (中公文庫)
鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生 (中公文庫)



赤十字篤志看護婦婦人会、愛国婦人会、日本赤十字社理事など多くの慈善・奉仕活動を行い、女子英学塾(津田塾大学)の創設や運営に尽力した。





大山捨松生誕地(福島県会津若松市城前)

大山捨松墓所・大山夫妻が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されている(栃木県那須塩原市下永田1)。







明治文明開化の花々―日本留学生列伝〈3〉
明治文明開化の花々―日本留学生列伝〈3〉






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野口英世記念館(福島県耶麻郡猪苗代町)

野口英世(のぐち ひでよ)・福島の偉人

福島県猪苗代町生まれ。

1876(明治9)年11月9日−1928(昭和3)年5月21日 51歳

国際的細菌学者。

野口英世
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)


野口英世記念館
 
福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字前田81

TEL 0242(65)2319  

開館日:年中無休(ただし12月29日〜1月3日などを除く)
  
開館時間:
 4月〜10月 午前8時30分〜午後5時(入場は午後4時45分まで)
 11月〜3月 午前9時〜午後4時15分(入場は午後4時まで)


野口英世




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松江豊寿(まつえ とよひさ)・福島の偉人

松江豊寿(まつえ とよひさ)・福島の偉人

1872(明治5年6月6日)−1956(昭和31)年5月21日 85歳

陸軍軍人(陸軍少将)、政治家。
第9代若松市長。

第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。
この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。
映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。

鳴門市ドイツ館(徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55-2)


松江豊寿と会津武士道―板東俘虜収容所物語 (ベスト新書)
松江豊寿と会津武士道―板東俘虜収容所物語 (ベスト新書)

河井継之助記念館(福島県南会津郡只見町)

河井継之助(かわい つぐのすけ<つぎのすけ>)・新潟の偉人

長岡藩・長岡城下(長岡市長町)生まれ。

1827(文政10年1月1日)−1868( 慶応4年<明治元年>8月16日)42歳

越後長岡藩の家老上席、軍事総督。号は蒼龍窟。
近代国家を見据えた改革者・『長岡の蒼龍』。



河井継之助記念館(福島県南会津郡只見町)・終焉の地

開館期間:4月下旬から11月まで(冬季閉館 11月中旬 〜 4月下旬まで)

休館日:木曜日

開館時間:午前10時から午後4時まで

入館料金:300円




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南湖神社宝物館(福島県白河市)

南湖神社宝物館(福島県白河市菅生舘2)

松平定信を祀った南湖神社の境内にあり、定信ゆかりの品々を展示している。
また、南湖神社創建の功労者・渋沢栄一が奉納した書や絵画なども展示されている。

TEL 0248-23-3015

開館時間 9:00〜16:00

休館日 年末年始

料金 大人350円

松平定信(まつだいら さだのぶ)・白河藩主

1878〜1841

徳川吉宗の孫、白河藩松平家の養子となる。
将軍家斉の時の老中首座。

徳川十一代家斉の真実―史上最強の征夷大将軍
徳川十一代家斉の真実―史上最強の征夷大将軍

白河藩治政の実績により幕政を担当し、寛政の改革を行う。

引退後は白河楽翁(しらかわらくおう)と号し、学問・文芸にも通じた。
自叙伝『宇下人言(うげのひとごと)』など138部以上の著作を残した。

宇下人言,修行録 (岩波文庫 黄 221-2)


花月草紙 岩波文庫 黄 221-1

文政元年(1818)年成立。
定信は、老中首座として寛政の改革を指導し、歌人・国学者としても活躍した。「花のこと」「月のこと」を発端に、文芸から自然・社会・日常生活に至るまで、多彩な見聞や感想を雅文体で記す。
為政者として、教訓的な内容も記しているが、近世随筆の代表作とされる。







田沼意次と松平定信
田沼意次と松平定信





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会津の記念館(福島県会津若松市)

白虎隊記念館(福島県会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33)

年号が明治に改まる二週間前、会津若松城下を見下ろす飯盛山で19人の少年たちが自刃しました。当記念館は、日本の近代化の過程で死んでいった少年たちの悲劇を中心に、会津藩士の最後、日本の武士の時代の終焉を様々な資料を通して、目で見、心で感じ後世に伝えていくことができる資料館です。そのほか会津藩、新撰組、西軍が使用した鉄砲、四斤大砲など戦争に関係する資料が数多くそろっています。



白虎隊 [DVD]
白虎隊 [DVD]



白虎隊伝承史学館(会津若松市一箕町飯盛山下2)

明治維新の貴い犠牲となった会津藩の歴史を後世に伝える資料館です。
松平容保公以下白虎隊にいたるまでの貴重な資料5000点を常時展示し、館長がわかりやすく説明をいたします。当館の近くには市営の無料駐車場もあり、館の見学と飯盛山の白虎隊士墓の参拝が安心してできます。



会津武家屋敷(会津若松市東山町石山院内1)

会津武家屋敷は江戸時代の会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心に、福島県重要文化財である旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などの歴史的建造物が軒を連ねる屋外博物館です。江戸中期の和洋建築の枠を集めて造られた38部屋ある家老屋敷では各部屋をどの様に使用していたかをろう人形を使ってリアルに再現している。館内には会津歴史資料館、会津の代表的な仏画を中心に展示した美術館・青龍の他、会津・福島の名品を揃えた総合売店・郷工房古今や会津の伝統的な郷土料理を召し仕上がって頂けるレストラン・九曜亭などが併設されています。会津歴史資料館では、平成11年度企画展として秩父宮妃殿下勢津子様の記念展を開催、貴重な資料の数々をご覧いただけます。



会津藩校日新館(会津若松市河東町南高野字高塚山)

江戸時代、全国有数の藩校とうたわれ、儒教を中心に医学や天文学まで教えた総合的な学舎で、白虎隊の学び舎としても知られ、数多くのすぐれた人物を世に送り出しました。
当時は鶴ヶ城の近くにありましたが、市内河東町に当時そのままに復元され、教育、茶道、弓道、坐禅、弓道、絵付け教室、史跡めぐりなど各種体験も可能です。(一部要予約)観光スポットのみならず、藩政時代の日本の教育の姿を知る貴重な施設となっています。

(会津若松市HPより)


白虎隊と会津武士道 (平凡社新書)
白虎隊と会津武士道 (平凡社新書)






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若松賤子(わかまつ しずこ)・福島の偉人

陸奥国若松市阿弥陀町(福島県会津若松市宮町)生まれ。

元治元年(1864)3月1日−明治29年(1896)2月10日 32歳

日本の作家、翻訳家。
本名は巌本甲子(いわもと かし)、後に嘉志子(かしこ)。
旧姓、松川。『小公子』の翻訳で知られる。

人妻魂
人妻魂

父は会津藩士の松川勝次郎正義。
戊辰戦争による一家離散のため、横浜の商人・大川甚兵衛に引き取られた。
フェリス女学校(現フェリス女学院大学)の創始者メアリー・E・キダーに厚遇され、給費生同様の待遇で高等科で学ぶこととなり、卒業後は母校の英語講師になった。

明治22年(1889)に『女学雑誌』主宰者の巌本善治と結婚し、3人の子どもを育てながら執筆活動に勤しんだ。『小公子』を翻訳、口語体の美しい文章は樋口一葉に影響を与えた。

賤子の死を悼んだ一葉は、追悼歌を送った。
「とはばやと思ひしことは空しくて今日のなげきに逢はんとやみし」


賤子は一男二女(清子・荘民・民子)をもうけたがそれぞれ文学界、教育界で活躍をした。
孫の巖本真理は名バイオリニストとして著名。


若松賤子文学碑(福島県会津若松市宮町・古川家の庭)

若松賤子墓所(染井霊園・東京都豊島区駒込5-5-1)
善治・賤子の墓があり、墓碑に「如霊(善治のペンネーム)・賤子」の文字が刻まれている。



とくと我を見たまえ―若松賤子の生涯 (1980年)
とくと我を見たまえ―若松賤子の生涯 (1980年)





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山鹿素行(やまが そこう)・福島の偉人

山鹿素行(やまが そこう)・福島の偉人

陸奥国会津(福島県会津若松市)生まれ。

1622(元和8年8月16日)−1685(貞享2年9月26日)

江戸時代前期の儒学者・兵学者。
古学の開祖・山鹿流軍学の始祖。

1628(寛永5)年、6歳で父と江戸に出る。
1630(寛永7)年、9歳で林羅山の門人となり朱子学を学ぶ。
15歳からは、兵学を小幡景憲・北条氏長の下で学んだ。

1665(寛文 5)年、『聖教要録(せいきょうようろく)』を著す。『聖教要録』は、聖人とは何かを説き、武士日用の道徳を主張し、儒教古典の朱子学的解釈を批判したため、播磨国赤穂藩に流罪となった。
赤穂では赤穂藩士の教育を行う、吉良邸に討ち入りをした赤穂事件の大石良雄も門弟のひとり。

1669(寛文 9)年、『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』を著す。これは、中国崇拝を廃して日本主義を主張、中国の「中華」に対して日本を「中朝」とよんだ。

他の著書は『武教要録』・『武教全書』『山鹿語類』・『武家事紀』など。

儒学の立場から武士道の確立につとめた偉人である


山鹿素行生誕地(会津若松市山鹿町1-25)

山鹿素行墓所・宗参寺(東京都新宿区弁天町1)

武士道の倫理―山鹿素行の場合
武士道の倫理―山鹿素行の場合

山鹿素行
山鹿素行

山鹿素行の思想
山鹿素行の思想

山崎闇斎(やまざき・あんさい)・京都/福島の偉人

山崎闇斎(やまざき・あんさい)・京都/福島の偉人

京都に浪人の子として生れる。

元和4年(1619)12月9日−天和2年(1682)9月16日

儒者・朱子学者・神道家・思想家。
熊沢蕃山、木下順庵とともに「三大藩儒」のひとり。
野中兼山、小倉三省とともに「谷時中門三傑」のひとり。

15歳の時に妙心寺に入り、のち土佐の谷時中(たに・じちゅう)に学ぶ。
のち還俗して京都に戻り塾を開き、熱狂的指導で知られた。

1665年会津藩主・保科正之に招かれ、信任を受けた。

このころ保科正之の神道の師・吉川惟足(よしかわ・これたり)から神道を学び、垂加神道を開く。

多くの門人を育て、闇斎の学問の系統を「崎門学派」という。

闇斎の門人で、とくに傑出した、浅見絅斎(あさみ・けいさい)、佐藤直方(さとう・なおかた)、三宅尚斎(みやけ・しょうさい)の三人は「崎門三傑」または「山崎闇斎門下の三傑」といわれる。

山崎闇斎墓所(金戒光明寺・京都府京都市左京区黒谷)
livedoor プロフィール
メディア実績
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ダイヤモンド・オンライン
ハーバード・ビジネス・レビュー
に連載されました!


週刊ダイヤモンド別冊 歴学 ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち 2010年 10/17号 [雑誌]
雑誌『歴学』に記事掲載!
2010年9月17日


週刊ダイヤモンド別冊 歴学(レキガク) 2010年 1/11号 [雑誌]
雑誌『歴学』に記事掲載!
2009年12月11日

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