ナチスドイツによるユダヤ人迫害の象徴というイメージのある「アンネの日記」をご存じの方は多いだろう。映画にもなり涙した方も少なからずいるはずだ。日記は世界で2500万部を越えるベストセラーにもなっている。
しかし、愛読者達の夢を壊して申し訳ないが「アンネの日記」は主人公のアンネ・フランクが書いたものではない。日記は別人による捏造、創作である。メイヤー・レビンというアシュケナジー・ユダヤ人が、アンネの父から依頼されて書いた小説なのだ。小説だから当然内容もフィクションで実際には無かったこと。
参考ウェブサイト:アンネ・フランクは「アンネの日記」を書かなかった
原文はとても13才の少女が書いたとは思えない、大人の文章であり、ある日本人ドイツ語学者によれば、その文章は大人びているだけでなく、古典的ドイツ語で書かれているという。アンネ・フランクはオランダで生まれたアシュケナジー・ユダヤ人で、13才で死亡。彼女は当然、オランダ語を話す。古典的ドイツ語は自在に操れるほど堪能ではないはず。また何より、日記が捏造である証拠として「アンネの日記」の筆跡と、アンネの筆跡が全く違う。さらに、日記に使用されている筆記具ボールペンは1951年以降実用化され一般化したが、アンネの生存中は一般には出回っておらず、とても高価なものだった。
「アンネの日記」真贋論争は白熱し1981年、日記を保管するオランダ国立戦時資料館は法務省所属のオランダ国立法科学研究所に鑑定を依頼する。
このとき、使用されている物質(インク、紙、糊など)と筆跡を調査した結果、内容的には『アンネの日記は1942年から1944年の間に書かれた』ということが異論の余地無く論証され追加改ざんされた様子は無い、と結果が出た。しかし事態を複雑にしたのは、日記の四巻目から使われているボールペンの筆跡は以前の一、二、三巻と同じ、と結果が出されたこと。このため1945年に死亡した人物が1951年に普及したボールペンで書ける訳も無く、結果として、
1、アンネは実は死んでおらず、戦後に全編を完成した。
又は、
2、作者はアンネの名を語った偽者で、戦後に全編を完成した。
という二つの可能性しかなく、結局2が正しいとされた。
アンネの日記ホンモノ説支持者は、ウィキペディアの記述を根拠に、
「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。鑑定レポートは、第三者の書き込みについても分析を行ない、これらをアンネが書いたものと区別して論述している。」
と言う。しかし、これは苦し紛れの、一般大衆を欺くための真っ赤なウソ。真実は、
「ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていない。第四章全部が、ボールペンで書かれていると鑑定している。『小さな紙切れ二枚の鑑定』はすり替えである」。 概要「そもそもウィキペディアの記述は出典が明らかでない。ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってこない。『81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた』というのも、出典不明である。つまり、便所の落書きと同じで根拠がない」。
「アンネの日記」の真の作者はユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビン。彼は「アンネの日記」が大ヒットするにつれ欲が出たのか、最初にもらった原稿料に飽き足らず、日記が生み出す利益の供与を主張するようになった。版権は本来なら父のオットーに有るのだが、メイヤーが版権を主張したため、両者は対立。醜い争いは裁判に発展し、メイヤーは自分が版権を持つことを主張するために自分がゴーストライターとしてアンネの日記を書いたことを暴露してしまった。
という経緯で、その判決により「アンネの日記」はアンネ・フランク直筆の作品では無く、ゴーストライターのメイヤー・レビンが書いたことがはっきりした。この結果「アンネの日記」がシオニストユダヤ人のプロパガンダとして世間に広く知られることとなった。
ニューヨーク最高裁判所の判決の書類番号は「2241ー1956」であり、ニューヨークの地方事務所になければならない。だが何故か、このファイルは現在紛失してしまっている。原因は不明。調査しようとすると、何者かの圧力がかかり調査は続行不能となる。
1988年に発見された、アンネがアメリカの友人に送った手紙を見れば、余程根性の曲がった人(或いは組織的確信犯)でない限り「アンネの日記」は別人によって書かれ、アンネは「アンネの日記」を書いていないと、一目瞭然で分かる。やはり、ウソはいつかはバレるものだ。
「アンネの父親オットー・フランクは1980年に亡くなるまで、自筆原稿の公開を拒否。テレビに登場 しても、自筆原稿にはフォーカスさせず。遺言でオランダ国立戦時資料研究所に寄贈された後も、実質未公開。」(紫霄閣)というのも頷ける。オットー・フランクの死後8年経って、彼が恐れていた真実暴露の悪夢が遂に現実に(アンネ直筆の手紙アメリカで発見!)。
以下、ブロック体に加え、筆記体でも並べて比較。
「アンネの日記」の筆跡(右に傾斜する右利きの特徴と大人びた筆致)
アンネがアメリカの友達に宛てた手紙(1988年発見)の筆跡。ブロック体は少女らしい丸っこい筆致、筆記体は左に傾斜する特徴。この手紙(頁トップ)の日付は1942年10月10日、アンネがゲシュタポに発見される日が1944年8月4日。最大で2年も経過しない内に、或いは数日乃至数ヶ月、もしかすると「瞬間」で、これほどまでに筆跡が変わるものだろうか?素人目で見ても、明らかに別人と考えた方が整合性があるのでは?それとも「アンネは多重人格障害(英: Multiple Personality Disorder ; MPD)を患っていたので、これくらい急激に筆跡変化が起きても不思議は無い」という新(珍)説を展開?
その他、この件に関する文献を紹介する。「エコノミック・カウンシル」誌 1959年4月15日
「『アンネの日記』は十代の子供が書いたとは思えない。この事についてニューヨーク最高裁判所の判決から裏付けを取る事が出来る。アメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビンが、アンネ・フランクの父オットーから、この日記作成に対する謝礼金として、5万ドルを受け取ったと認めている。フランクはこのレビンに五万ドルを払い、その後レビンの作品を、まるで自らの娘の作品のようにしてしまったのである。この最高裁の判決の書類2241-1956は、ニューヨークの地方事務所にあるはずなのだが、残念な事にこのファイルはいまやいずこかへ消えてしまっている。『アンネの日記』は1951年、出版後ただちにベストセラーになった。しかしなぜアンネの父を巻き込み、本の真実性を追ったこの裁判が、今日公に報告されることがないのだろうか。オットー・フランクがその娘の死、およびその悲劇から膨大なカネを儲けたというのに。」(見えざる帝国 宇野正美 著)
スウェーデンのジャーナリスト、ディトリィェブ・フェルデュラーは、この様に証言している。
①1959年、映画『アンネの日記』が作られた時、アンネが住んでいたというアムステルダムのオリジナルの建物を、日記に書いてあるように改装してもよいと言われたという。
②13歳の少女が冒頭でフランク家の歴史を語り、そのすぐ後にドイツの反ユダヤについて語っているのは何故か?
③彼女は本文中で『オランダ風の階段』と語っているが、彼女はオランダでしか育っていない。
1980年10月9日のニューヨーク・ポストには、エルンスト・ロエマーなる人物が「アンネの日記」は真実ではなく、フィクションである事を追及し続け、裁判に持ち込んだ記事が書かれている。そして、二度目の裁判で彼の主張は正当であると認められた。
アンネ・フランクは1945年3月上旬、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で発疹チフスを患って亡くなった。もし治療を受けていたら、もしかすると彼女は助かっていたかもしれない。しかしユダヤ教に入り込んだ悪魔の法典タルムードの「偶像礼拝者や異教徒からの医療的な助けは避けなければならない」(Pesachim 25a) という邪義がそれを許さなかった。タルムードを信ずるユダヤ人達に、非ユダヤ人の治療を受ける選択肢は無い。もし彼女が治療を受けて生き延びていたら、悲劇の主人公が描かれる「アンネの日記」をゴーストライター、メイヤー・レビンが書くことは無かった。
彼女も国際金融寡頭勢力によるシオニズム運動の犠牲者の一人である。シオニズム(ヘブライ語: ציונות, Zionism)とは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという運動で、ロスチャイルド財閥等の国際金融寡頭勢力を筆頭とするシオニストによって進められた。パレスチナの住民を追い出して、無理矢理イスラエルを1948年に建国。何のために?彼等の計画通り、ユダヤ教とイスラム教の戦争をきっかけに世界を第三次世界大戦に巻き込むためだ。そのためにはイスラエルという国の建国がどうしても必要だった。
世界に散らばったユダヤ人の殆どは、パレスチナに帰ろう、等とは考えず、むしろ現地に同化することを望んでいた。しかしそれではせっかくイスラエルを建国しても誰も住まないことになってしまう。そこでロスチャイルド財閥の血を引くヒットラーのナチスを育てて使ったということだ。同化してユダヤ人としてのアイデンティティーを失ってもらっては困るのである。それでその国で住めない状況を作り出し、イスラエルへ向かうように仕組んだのだ。ユダヤ人の血を引くヒットラーが何故同じユダヤ人を強制収容所送りしたのか、という疑問はこれで理解できるであろう。(ヒットラーが弾圧したのはアシュケナージユダヤ。つまりユダヤ人としての血統を引く人々で無く、かつてカスピ海付近にあったカザール帝国の末裔。ユダヤ教カザール人。)
アンネはごく普通の女の子だった。日記で言われるような「小説家志望」というのも疑わしい。恐らく嘘だろう。彼女がアメリカの友人に送った本物の、彼女の手紙の筆跡を見れば見るほどそう思えてしまう。そしてそこに本当の愛らしい13歳の少女の姿が浮かび上がってくる。
何故父親のオットー・フランク(写真中央の人物)は5万ドルという大金(現在の貨幣価値で約2億円)を払ってまで、ゴーストライターに娘の名前で小説を書かせたのか?必ず背後で糸を引く黒幕がいたはず。そう考えるのが自然だろう。
以上が『アンネの日記』の顛末。しかしここら辺はまだ序の口だ。「アンネの日記」をさらに追求していくと、600万人ユダヤ人殺戮のホロコーストは実際無かったとか、有名なガス室は使われた痕跡が見つからず、後で捏造された等々、新しい事実がボロボロと出てくる。こんなことを欧州で発言すれば逮捕され懲役を食らってしまう(実際2年懲役を受けた人もいる)。
皆様方と共に、日本人として生まれ自由にものの言える日本に育ったことを感謝したい。しかし、先日6月16日にその自由が無くなる法案が国会で成立した。俗に言う「コンピューター監視法案」。勝手に人のメールをのぞき見することが可能になり、怪しい者は即刻逮捕できるようになる。言論弾圧、国民の言論をすべて監視する現代の治安維持法だ。しかし、極少数の人々しかこの事実を知らない。この法案はTVや新聞でも全く取り上げず、秘密裏に成立したからだ。
真実を知れば何も怖いものは無い。しかし、真実を知る道が閉ざされようとしている。法案は成立してしまった。しかし、郵政民営化法案と似たケースと考えることもできる。この法案も成立したが、勇気ある政治家やネットユーザーが呼びかけて、現在のところウォール街に350兆円が盗られる最悪の事態はストップしている。
コンピューター監視法案を廃止に追い込んで、さらに彼等の嘘を暴いてゆこう。『アンネの日記』捏造は氷山の一角にしか過ぎない。日本人の全てが洗脳から目覚めるとき、その時世界は初めて良くなる。日本人が変われば世界が変わる。これは真実だ。