今年もまた8月6日と8月9日、ヒロシマ・ナガサキの日が巡ってくる。

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原爆投下の一般的な解釈は「日本本土決戦で多大な犠牲者を予想した米軍が、やむを得ず原子爆弾投下という苦渋の決断を下して日本の降伏を促し、多くの兵士の命を救った」ということになっている。果たして真実はどうなのか?

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真実は、

「海軍大臣米内光政は原爆投下を聞いてこともあろうに『天佑(てんゆう)だ!』と叫んだ。原爆投下地、広島と長崎を決めたのは日本人自身である。日米両国間で事前に打ち合わせをし、時と場所を決め、例えば広島では出来るだけ多くの兵士(3万人)や児童・学生(1万5千人)等の被験者を意図的に集めて行われた、米国のスティムソン陸軍長官主導で日本のトップが協力した一大イベント、人体核実験だった。世界のウラン鉱山のほぼ全てを独占するロスチャイルド財閥と配下の軍需産業関連会社(死の商人)は、第二次大戦後予定されていた米ソ二大国間の(八百長)冷戦による核軍拡競争と原子力産業によって上がる莫大な利益のため、どうしても核の脅威を世界に示す必要があった」

ということになる。

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米国の命令により、来るべき米軍九州上陸作戦のため動員された将校と数万人の兵士も、その期日と時刻に広島に招集されて殺されたのである。

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未来ある児童や若者達も、核兵器の人体への影響を見るため、わざわざ教師達の大反対を押し切って軍の命令でその日、その時刻、その場所に集められ殺されたのである。

原爆投下当日、広島でも長崎でも、空襲警報は発令されなかった。市民にとっては、空襲警報が解除され「もう大丈夫」というリラックスした状態、最悪のタイミングで原子爆弾が炸裂した。

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広島に落とされたウラン型原子爆弾はリトル・ボーイと呼ばれ、実は第二次世界大戦中、ドイツのペーネミュンデで完成しアメリカに運ばれたもの。連合軍とドイツ軍が捕虜交換をした際、密かに連合軍が受け取った。核実験は今のチェコの森で行われ成功している。この辺の経緯はNHKでも放送されたスペインの多重スパイ、ベラスコが語っている。

「ドイツで完成したのなら何故ヒットラーは原爆を連合軍に対して使用しなかったのだ?矛盾しているではないか!?」という疑問を持つ方もいらっしゃるだろう。その方はijn9266のブログ「ヒットラーは生きていた」をご覧頂きたい。そこを読めば理解できると思う。そもそも第二次世界大戦は壮大な八百長だったのだから。

http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/3475119.html 

またこのペーネミュンデという地は曰わく付きの場所である。そこには秘密兵器開発のための地下基地があり、原爆の他に今で言うUFO、つまり一切翼を持たない垂直離着陸機の開発にも成功している。第二次大戦中、空に突然現れフーファイターと連合軍パイロット達から怖れられた。戦後アメリカに渡ってサタンロケットを開発したフォン・ブラウンもここでV1号、2号ロケットを開発した。

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話を原爆に戻す。長崎に落とされた原爆はプルトニウム型で、アメリカのニューメキシコ州ロスアラモス研究所で1945年7月16日に完成し、ロスアラモスから南に約300km離れた砂漠の地アラモゴードで核実験に成功。

ちなみにリトルボーイとファットマンそれぞれの英語の意味だが、スラングでリトルボーイは「男性器」、ファットマンは「豚野郎」という意味。つまり両方併せると「日本人の豚野郎共をレイプしてやれ」ということになる。日本人も何とも馬鹿にされたものだ。

原爆の開発には日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も多大な貢献をしている。彼は日本人の間で英雄として扱われているが、実は国を売った男でもある。彼は原爆開発への貢献の褒美として、国際金融寡頭勢力から名誉と地位をもらった。余り知られていないことだが、そもそもノーベル賞は国際金融寡頭勢力が設立したもの。彼等が世界の叡智を吸い上げ、盗むために存在するのである。その辺のところが分かっていないと世界の歴史も現在の情勢も到底理解ができない。


人体実験だった原爆投下(関係者証言)

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広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。ひとつには戦後世界での米国の覇権確立である。そしてもうひとつは、原爆の効果を知るための無数の人間への「人体実験」である。

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だからこそ、占領後に米国軍が行ったことは、第一に、原爆の惨状についての報道を禁止し、「人体実験」についての情報を独占することだった。

第二に、史上前例のない火傷(やけど)、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに、治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や、臓器や、生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第三に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、「実験動物」を治療するのでは「実験」にならない。そこで米国軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第四に、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する「ABCC」(「原爆障害調査委員会」と訳された米軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が、被爆者への人権蹂躙ではなかったか。

毎日新聞(1994年9月6日付)芝田 進午(広島大学名誉教授)

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私は広島の生き残りのひとりです。(中略)ここで、ひとつ触れたいことは「ABCC」についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきた米国はすぐに、死の街・広島を一望のもとに見下ろす丘の上に「原爆障害調査委員会」(ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。

そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。

その際、私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療はまったく受けませんでした。

そればかりでなく、米国はそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。

こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、なんの援護も受けず放置され、放射能被曝の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。しかもそれは戦争が終わったあとで行われた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。

あれから50年、「ABCC」は現在、日米共同の「放射線影響研究所」となっていますが、私たちは今も追跡調査をされています。

『少女・十四歳の原爆体験記』(高文研)橋爪 文(ぶん):14歳の女学生のとき広島で被爆。詩人。現在も原爆後遺症で苦しむ。

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この残酷な現実を全ての日本国民、世界の人々は何としても知るべきだ。そして毎年広島と長崎で行われる記念式典では、原爆の真実を暴露、訴えなければならない。根源の悪を断たない限り、本当の平和は永遠にやって来ない。2011年3月11日、福島第一原発では、またしても同じ過ちが繰り返されたのだ。

原爆の問題は大変大きな事なので、紙面の関係から今回は鬼塚英昭氏著「原爆の秘密」(成甲書房2008年8月5日第一刷出版)の一部を引用させて頂くことにする。この本を読めば、広島、長崎の原爆投下も、911事件同様、国際金融寡頭勢力の命令によって行われたことが分かる。訪問者諸氏には是非この機会に手にして精読されることをお勧めする。

『原爆の秘密』(鬼塚英昭著)国内編 

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第1章 原爆投下計画と第二総軍の設立 第二総軍設立の真の理由に迫る 

もう1度、ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』から引用する。第二総軍司令官・畑俊六元帥の経歴が書かれている。

・・・畑元帥は、日本で最もすぐれた経歴をもち、最も尊敬されている有名な司令官であった。元帥は今日の地位に就くだけの経験と資格を十分に備えていた。今日でもなお天皇の側近の地位にある陸軍司令官の数は少なかったが、畑元帥はその1人であった。1939年には彼は3か月間、天皇の侍従武官長を勤めた。彼の戦歴は抜群であった。日露戦争の時、25歳の青年将校として負傷したのを振り出しに、ドイツ駐在陸軍武官やパリ平和会議代表の地位を経て、1939年陸軍大臣に任ぜられるまでの間、畑元帥はいつも栄誉ある道を歩いてきた。・・・

畑俊六元帥が稀に見る天皇のお気に入りの将軍であったことを理解しえたであろうか。1941年に50万の兵士を率いて支那派遣軍総司令官を勤める。1944年、日本に帰国すると元帥に昇進する。1945年4月7日、鈴木貫太郎大将が首相に選ばれた2日後に第二総軍司令官に任命される。4月9日、広島の新司令部に赴任した。
 次に読売新聞社編『昭和史の天皇』(角川文庫版、1988年)から引用する。

・・・そのころは、軍は決号作戦 ― つまり本土決戦に狂奔し、本土を2分して東部を第一総軍(杉山元元帥)、西部を第二総軍(畑俊六元帥)の担当とし、予想されるアメリカ軍の九州上陸オリンピック作戦に備えていた。そして最初に本土上陸の敵を迎える第二総軍は広島に本拠を置いて、準備を進めていたのである。
 その本拠は山陽本線広島駅から北へ歩いて5分、元騎兵第5連隊の兵舎の中にあった。ここは広島の中央を流れる太田川が6本に分かれる2番目の分岐点のあたりで、爆心地から直線で約千3百メートル。参謀部のすぐ北方、高さ125メートルの二葉山には、司令部の防空壕が掘られていた。・・・

この『昭和史の天皇』に書かれた文章を読んだだけでは、第二総軍の意味が何かは理解できない。爆心地から直線距離にして約千3百メートル、そして、二葉山に司令部の防空壕がつくられたということは、大きな意味を持つのである。どうしてか。司令部の防空壕の中にいた将校たちは多少の傷を負うが(爆風やガラスの破片で)、全員無事だったのである。参謀部の人々もほぼ死者はなし。しかし、通勤途中とか、在宅者に多少の死者が出て、発表では、4百数十人のうち百人程度が死んだことになっている。

防空壕の中にあった参謀部もほとんど死者はないと思われる。この場所の設定には、最初からからくりがあったと思われる。

私は、第二総軍の司令部は、原爆投下を予定して、原爆投下地を広島の中心地とみなし、約千3百メートル、しかも山の中腹に建てて、原爆が落ちても被害なし、の想定で建設されたものと思っている。東京ローズの放送についてはすでに書いた。東京の陸軍参謀本部と第二総軍は情報を流しあっていた。もう一度、『エノラ・ゲイ』から引用する。

・・・1945年7月9日  広島
各地の放送局に波長を合わせたラジオが10台以上も置かれていたが、その部屋の中は天井に取り付けてある扇風機の低くうなる音の他は、ほとんど音がしなかった。それぞれのラジオは、その前に坐っている人のイヤフォンにしか音が伝わらないようにしてあった。そこにいる人がやっていることは、日本の他の人間がしたら死刑になるかもしれないことだった。彼らはアメリカの放送を聞いていたのである。

彼らはラジオのモニターであった。24時間ぶっ続けに、太平洋およびそれよりまだ向こうの地域の放送を聞く仕事の、午前の班であった。これは畑元帥の第二総軍司令部の通信部の1部であった。・・・

私は東京にも同じような通信部があり、謀略放送の種を探していたと思っている。広島と東京の参謀本部は情報交換をしていた。『エノラ・ゲイ』を続けよう。

・・・この部は畑元帥の司令部の神経中枢であって、西練兵場の近く、二葉山の麗にある元国民学校校舎の2階建ての長い建物の中にあった。この通信部は特設の通信線で東京の大本営言詮軍部と結ばれており、また福岡、佐世保、長崎、鹿児島などの九州の軍事要点との間にも他の通信線が通じていた。地元では、呉軍港、宇品船舶司令部、および広島城内の中国軍管区司令部とも結ばれていた。

この傍受室はこの通信部の1番重要な施設で、東京郊外にある特種情報部だけがこれに匹敵することができた。この数週間、傍受室はいままでになく忙しくなったが、それは有末中将の部下ですご腕のアメリカ事情専門家、大屋角造中佐が畑元帥の諜報主任将校として広島に赴任してきてからのことであった。・・・

私は第二総軍は最初から、すなわち鈴木内閣ができたときから、終戦工作の一環としてつくられたものと思っている。終戦工作とは何か。簡単明瞭に書くならば、天皇が畑を呼びよせつくったものである、と書いておく。

どうしてか。これから書いていくことを読者が読めば納得すると思っている。でもヒントを与えておくことにしよう。

1、原爆投下情報を完全に知りながら、それを全部封印した。
2、8月3日から6日にかけて、原爆投下予定地を中心に、大勢の人々を集めた。
3、武器弾薬も食糧もないのに、たくさんの兵を召集し、その兵たちを九州に送り込んだ。・・・

もう少し、『エノラ・ゲイ』を読み続けてみよう。妙なことが書かれている。著者2人が、ここにきて、真実を隠そうとしているのだ。

・・・畑元帥と大屋中佐とは、もしアメリカ軍の九州上陸が実際に行われることになれば、傍受室はその最初の兆候をつかむことができるのを知っていた。上陸に先立って、アメリカ軍はまず数週間をかけて上陸地域に海と空から砲爆撃を加えるに決まっている。しかし畑元帥は、上陸作戦接近の確かな予報を手に入れて、九州にいる神風特攻隊や決死のモータボート部隊に敵艦隊攻撃の用意をさせたいと願っていた。この計画が成功するかしないかは、傍受室勤務員の人たちにかかっていた。彼らには老年その他の理由で戦闘に向かない者ばかりであったが、みな英語は達者であった。・・・

『エノラ・ゲイ』のこの記述は誤りである。畑俊六は、第二総軍ができると指令を出し、およそ兵に向かない者まで召集し、九州に送り込んでいた。武器弾薬も食糧もない彼らは何をしていたのか。九州に送り込まれた兵士たちの手記を読むと、彼らはひたすら穴を掘っていた。何も他にすることがなかったのである。

傍受室勤務員は何をしていたのか。彼らは第509航空群の動きを追っていたのである。エノラ・ゲイがはたして何日、何時何分に原爆を広島に投下するのかを懸命に追っていたのである。それがどうして大事なのかは、彼らは知る由もない。しかし、天皇から拝命を受けた畑は、その日時を確実に知る必要があった。

どうしてか。スティムソンと天皇のために、ごく自然に多くの人々を原爆投下の予定地周辺に集めなければならなかった。予定日は変化し続けた。天候の関係であった。

リチャード・ローズの『原爆から水爆へ』(2001年)の中に気象に関する記述がある。ルメイとはカーチス・ルメイ少将のことで、太平洋戦線での爆撃の指揮官である。

・・・1次の対日爆撃ミッションを支援するのに、爆弾倉に燃料タンクをとりつけて、6回ハンプを越えていたのだ。日本の気象は中国北部から推移する。当時、中国北部は毛沢東の軍隊が支配していた。そこで、ルメイはこの共産ゲリラの指導者と交渉し、医薬品を与える代わりに、乗員の救出と、気象情報の提供を受ける約束をとりつけた。・・・

毛沢東ルートで入った気象情報を基本にして原爆投下の日時が決定された。同じリチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』を見ることにしよう。

・・・すっかり準備がととのったので、ファレルはグローヴズにテレックスを打ち、特務飛行は8月1日にできると報告した。彼は、グローヴズが反対しないかぎり、7月25日のスパーツ令達がこの提案を認可するものと予想した。マンハッタン計画の部隊長は副官の理解どおりにさせた。もしもその日、邪魔な台風が日本に接近していなかったら、リトルボーイは8月1日に落とされていたであろう。・・・

この文章を読んで読者は次のように理解しなければならない。広島の畑も東京の有末も、もちろん天皇も、7月25日のスパーツ令(この令達は姉妹書「国外篇」第七章の「黙殺」の頂で書いた)が出たときから準備に入ろうとしたはずである。しかし、台風の接近を知り動員の中止を決定した。

ローズは続けて書いている。

・・・それで特務飛行は天候回復を待つことになった。8月2日木曜日、ファットマンの組立て部品1式を積んだB29が3機、ニューメキシコから到達した。ロスアラモスの科学者と軍の兵器技師からなる組立てチームは、ただちに作業を始め、落下試験用のファットマン1発と、実戦用の、より高品質のHE(高性能爆薬)鋳造物を2発目として作り上げた。・・・

プルトニウム爆弾は2発用意されていたことになる。私たち日本人は天皇に感謝しよう。広島と長崎に落とされた2発で、終戦にしてくれたことを。ちょっと遅れたら、もう1発を落とされていたはずだ。3発目は8月中旬までに用意されていたのだから。

畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。『昭和史の天皇』から引用する。被爆の瞬間、軍の中枢である第二総軍司令部参謀1課にいた井本熊男高級参謀の談話である。もちろん井本は負傷していない。

・・・このとき、あけてあったドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、そのまま無意識のうちに廊下の窓にかけてあったナワばしごで建物の外に出て防空壕に向がったが、参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返してきたのだった。その橋本氏の話にかえる。

「二人で歩きながら、直撃弾をうけたにしても爆痕がない。これはいったい何だろう、とわたしがいったら、大屋君が、そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたが、それかもしれんという。この海外放送は実は大本営にはないしょで、情報の大屋君が主として女性の2世を20人ほど集め、鯉城に近い浅野侯の別邸に傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ。当時、わたしたちが気にしていたのは、政府首脳が軍の本土決戦のカゲで、どうやら終戦工作をやっているらしいということだ」・・・

大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の2世を20名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠官崇仁(たかひと)中佐に伝えていたのである。

テニアンから刻々と入る情報で、「8月6日8時15分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを8月6日午前8時(これは9時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場・偕行社に集まれとの司令官命令を出すのである。戦争終結に導くためのスペクタル・ショーの演出をやってみせるのである。

『エノラ・ゲイ』の続きを見ようではないか。秘密が、第二総軍が隠し続けてきた秘密が見えてくるのである。

・・・1日のうちで最も忙しいのは正午から夜の零時までの間であった。その間、この部屋のラジオの半数が、沖縄、硫黄島、マリアナ諸島から発せられる通信の傍受に向けられた。モニターたちは、遠くはグアム島から発せられるアメリカ軍の命令の放送を聞こうと耳を澄ました。その命令は多くは暗号だったが、そうでない生まのものもかなりあって、すぐに役立つような情報が手に入ることがあった。この傍受には軍のラジオ通信ばかりでなく、B29の通信兵が離陸直前に行なう簡単なラジオの言葉も入った。

日本とマリアナ諸島との間には1時間の時差があるから-広島のほうがテニアン島より1時間遅かった-そのラジオのテストが広島の時間で午後3時か4時頃行なわれるとすれば、モニターはその夜空襲のあることを知りえた。モニターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。

爆撃機が日本の上空に接近すると、モニターは乗員同士の断片的な会話の交信をキャッチし、上司はそれによって爆撃機が日本のどの地域を攻撃するつもりかの見当をつけることができた。そういう情報は海上の艦船同士のラジオ通言の傍受記録と一緒にタイプされ、あとで分析された。畑元帥と大屋中佐はそれをもとにして、敵の兵力と意図とを驚くばかり正確に察知することができた。

大屋中佐は広島に来てからは、この仕事を自分がいかに重視しているかをモニターたちに見せるために、定期的にこの傍受室に顔を出した。・・・

畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知りえる立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。

しかし、1つの謎が残る。畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城の近くに、わざわざ2世の女性を20人ばかり使った秘密の傍受室、そして、応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。2世の女性たちは、あるときから不自由な生活を強いられていたのではないのか。どうしてか。それは鯉城の近くに原爆が落ちたから推測できるのである。彼女たちは死んだはずである。生き残った女性たちは沈黙を守るようにきびしく言われたであろう。鯉城の近くにいた人々で生存者はほとんどいない。原爆投下を知って、第二総軍の傍で傍受されなかったのは、深い意味があったからだ。証拠隠しである。第二総軍から情報が流されていたと書かれているが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の2人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか?劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。天変地異に比すべき出来事が演出されなければならなかったのだ。

スティムソンは天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。

原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。あの東京ローズの放送も、畑と大屋の情報が有末のもとへと伝わり、甘く美しい声に乗って、テニアンの原爆機の担当者たちの胸を強く打ったのである。 

原爆投下予告を確かに聴いた人々 

2007年の春であった。広島で原爆にあった1老人(匿名希望)が私に1冊の本を送ってくれた。その本が黒木勇司『原爆投下は予告されていた!』(1992年)であった。開いてみると新聞記事が挟まれていた。2000年12月24日付の産経新聞の切り抜きであった。「予告されていた原爆投下」というタイトルがつけられていた。この記事(社会部・野崎貴宮)を紹介する。

・・・岡山市在住の黒木勇治さん(77)=元安治川鉄工建設和歌山工場長=は、中国南部にあった第五航空情報連隊の本部情報室に勤務していた。連隊では敵機の行動を監視するとともに、中国・重慶放送と、インド・ニューデリー放送を傍受。ニューデリー放送は、ロンドンのBBCを中継した内容で、原爆開発、投下の情報も伝えていた、という。

黒木さんは著書『原爆投下は予告されていた!』(光人社)でも当時を回想しているが、ニューデリー放送の中で最初に原爆という言葉が登場したのは、昭和20年6月2日だった。スティムソン委員会が日本に原爆投下を勧告したことを伝えていた。・・・

ここで黒木雄司の『原爆投下は予告されていた!』の「まえがき」の部分を紹介する。この本が原爆に関する本の中でも異彩を放つ本であることはこの「まえがき」証明している。

・・・毎年8月6日、広島原爆忌が来るたびに、午前8時に下番してすぐ寝ついた私を、午前8時32分に田中候補生が起こしに来て、「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたとニューディリー(ママ)放送が放送しました。8時15分に投下されたそうです」といったのを、いつも思い出す。

このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験成功のこと。さらに8月3日、原子爆弾第1号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日続けて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた。

この一連のニューディリー放送にもとづいて第五航空情報連隊情報室長・芦田大尉は第五航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ。・・・略・・・

この記録は私が現在の中華人民共和国南部の広東において、昭和20年3月⑪日付で野戦高射砲第五十五大隊第二中隊より転属し、第五航空情報連隊情報室に勤務、情報室解散の昭和20年8月21日までの約5ヵ月間の日々を記録したものである。したがって人物名、場所名などはすべて実名実在のものである。・・・中略・・・

私もようやく今年は数え年でいうと古稀となり、老の仲間に入ってゆくので、惚けないうちにと書くこととした。書いているうちに先ほども書いたように、原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか。なぜもっと早く終戦に持ってゆけなかったかということをいろいろと考えさせられる。とにかく人の殺し合いという戦争は人類の史上にはもうあってはならない。・・・

この「まえがき」の中の「どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ」「原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか」という文章に接し、私も黒木雄司氏同様に腹が立ってならない。
広東の第五航空情報連隊情報室が得た情報は、第二総軍の情報室に間違いなく届いていた。この情報は有末精三の陸軍参謀本部第2部から、有末中将か三笠宮中佐のルートで大本営に伝わり、そこで握りつぶされたのはまちがいのない事実である。どうしてか? 答はいたって簡単至極この上もない。第二総軍傍受室は24時間交代勤務でアメリカ、マリアナ諸島、東南アジアにいたる放送を傍受していた。しかし、この貴重な情報を広島の軍司令部に全く伝えていないからである。それゆえに数十万人の軍人や市民が、第二総軍によって殺されたのである。その第二総軍は天皇がいる「御文庫」(皇居内地下に大本営が置かれていた)の命令を忠実に厳守していたというわけである。

少年兵(満12歳)として黒木雄司は広東に連れて行かれ、珠海というところにある監視所でニューデリー放送を聞きノートに書き移す仕事をし続けたのである。

それでは、6月2日の黒木雄司の1945(昭和20)年の「日記」を見ることにしよう(6月1日付の暫定委員会については姉妹書「国外篇」第五章で詳述した)。

・・・6月2日(月)晴後曇 午後7時

こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、アメリカのスチムソン委員会は、全会一致で日本への原子爆弾投下を大統領に、ワシントン時間の6月1日午前9時、勧告書を提出しました。また別の情報によれば、米艦載機約60機が南九州地区の航空基地を主体して空襲し、総爆撃を致しました。繰り返し申し上げます。

6月4日 (水)曇 午後3時
こちらはニューディリー、ニューディリー でございます,信ずべき情報によりますと、先般、スチムソン委員会においては、原爆投下勧告を米大統領に進言しましたが、軍内部において軍独自に実験してみる必要が急遽発生したため、本日、実験準備命令が出されました。実験部隊、実験場所は公表されておりません。繰り返し申し上げます。・・・