丸山眞男と田中角栄 「戦後民主主義」の逆襲 (集英社新書)
今週の木曜に放送された文化放送の「田原総一朗オフレコ」で佐高信氏と話したのだが、意外だったのは、彼が「慶応の学生だったが、授業がつまらないので、東大の丸山眞男の授業にもぐりこんで、かぶりつきで1年間聴講した」と話したことだ。

ちょうど彼は早野透氏との共著で本書を出したばかりで、東大法学部で丸山の学生だった早野氏は「戦後民主主義の上半身が丸山だったとすると、下半身が田中角栄だった」というが、丸山の上半身は田中のような下半身のエネルギーをもちえなかった。
丸山も書斎に閉じこもっていたわけではなく、60年安保のときは三木武夫と新党結成の相談をし、安東仁兵衛を介して後藤田正晴らとの交友もあったので、社会党右派と自民党左派が集まって丸山のような頭脳をもてば、建設的な二大政党が生まれていたかもしれない。

特に安東は『現代の理論』の編集長として、党派を超えてハト派を結集した。労働組合の中でも同盟系は民社党になり、社会党でも江田三郎などの構造改革派は「ユーロコミュニズム」に近い路線だったので、こうした勢力が自民党のハト派と結集すれば、政権交代可能な二大政党ができた可能性もある。

しかし社会党は社会主義協会派のマルクス=レーニン主義に極左化し、江田などの構改派は追放され、自民党との距離は大きく広がってしまった。70年代以降は「革新自治体」や共産党の躍進などの中で左右が両極化し、55年体制の前の改進党や社会党右派にあたる中間派がなくなってしまった。

1980年代の小沢一郎氏は、自民党からこうした左派を追放して「保守二党」にしようとしたが失敗し、彼が党を出る結果になった。それは一時的には細川政権として実現したが、本来の彼の構想とは逆の左派政権だった。彼は渡辺美智雄氏を首相にして自民党を分裂させようとしたが失敗し、その後は混乱が続いてきた。

他方、古典的ハト派も佐高氏や早野氏のような世代しかいなくなり、民主党もかつての社民党に回帰して、80年代に戻っている。今の野党が全滅し、自民党が極大化して分裂するしか、日本の政治が再生する道はないのかもしれないが、それにはあと10年はかかるだろう。