偽史の政治学:新日本政治思想史
丸山眞男の死後20年以上たっても、東京女子大の丸山眞男文庫では、彼の録音テープや手書き原稿を刊行する事業が続いている。本書の最終章は、それを利用して丸山の幻の主著『正統と異端』の一部を復元しているが、意外な指摘は、彼の「L正統」という奇妙な概念が、江藤淳の「押しつけ憲法」論への反論だったという話だ。

江藤はポツダム宣言の受諾は「無条件降伏ではなかった」として、アメリカの「属国」になった戦後の日本を批判した。丸山は「8月15日は日本国民が自由な主体になった革命だった」と主張し、それを宮沢俊義が「8月革命」説として憲法を正統化した。これはいまだにガラパゴス憲法学者が信じている荒唐無稽な説で、そんな論理を許したら独裁国家も正統になってしまう。

丸山はその無理を知りつつ、「Legalではないが日本国民が主権者として選択したLegitimateな正統」として憲法を擁護した。保守派が憲法を批判し、リベラルがそれを擁護する「ねじれ」はこのとき始まったが、どちらも事実誤認だった。

江藤も丸山も知らなかった(2001年に機密指定を解除された)吉田=ダレス会談の記録で明らかになったのは、新憲法は手続き的には押しつけだったが、実質的には日米の合意だったということである。それは占領の終了するとき改正するはずだったが、吉田茂がダレスの2度にわたる要請を拒否して、憲法を守ったのだ。
カメレオンだった宮沢俊義とその弟子

丸山は憲法問題研究会に宮沢を会長として迎え、我妻栄も入れたことで岸の憲法調査会は敗北したが、宮沢はほんらい憲法改正に反対する立場ではなかった。終戦直後に日本政府の起草した「松本案」は彼の書いたものだが、明治憲法の第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」を「天皇は至尊にして侵すべからず」と改めただけだった。

宮沢は戦前には美濃部達吉の天皇機関説(イェリネクの国家法人説)を批判し、ケルゼンの実定法主義で授業をしていたが、軍部がケルゼンを批判するとそれを撤回し、時局に迎合して「漫談のような意味不明の授業になった」(丸山)。終戦直後は明治憲法を守るつもりで「松本案」を書いたが、GHQが改正案を出すと「8月革命」を提唱した。

こんなカメレオンのような人物が東大法学部の憲法学講座を担当しているというだけで権威になってしまうのが憲法学の情けない実情だが、丸山はそれを認識していた。彼はまさか実現するとは思っていなかった国民主権がGHQの外圧で一挙に実現したことに驚き、それが巻き戻されないように「L正統」として絶対化しようとしたのだ。

しかし新憲法の第1条を「改正条項で改正が許されない部分」とする丸山の論理は、「今や始めて自由なる主体となった日本国民」がみずからの意思で国民主権を勝ち取ったという8月革命の自己否定である。宮沢と違って知的に誠実だった彼は、結局この矛盾を乗り超えられなかった。それが長谷部恭男氏や石川健治氏のようなカメレオンの弟子と違うところだ。