確実性の終焉―時間と量子論、二つのパラドクスの解決
安倍政権は去年「未来への投資を実現する経済対策」を閣議決定したが、「過去への投資」はあるのだろうか。首相官邸のスタッフと、サンクコストを再稼動の費用に計上する反原発派の脳内には、あるのかもしれない。原発の建設工事を完全に逆転できるならすべて可変費用になり、東芝の経営危機は簡単に解決できる。

それは冗談だが、物理学では時間は逆転できる。たとえば落体の法則は、落下距離をv、重力の加速度をg、時間をtとすると、v=½gt2だが、この式はtをマイナスにしても成り立つ。ボールが落ちるビデオを逆転しても、そのボールは古典力学の法則に従っているのだ。それは量子力学でも同じで、シュレーディンガー方程式は時間について対称である。
時間の矢は錯覚である

ではなぜ日常生活では、時間は未来から過去へ流れないのだろうか。わからない、というのが物理学の標準的な答である。これは直観に反するので「時間の矢」が本質的だと考えたのが、プリゴジンの非平衡系の熱力学だが、それも古典力学の特殊な場合だった。よくある反論が「熱力学の第2法則では時間は不可逆だ」という話だが、それは間違いだ。

教科書に出てくる10℃の水と100℃の熱湯の例を考えてみよう。これを混ぜるとエントロピーが増大してぬるま湯になるが、これは厳密には不可逆ではない。ぬるま湯の分子を1個ずつ見ると運動エネルギーが違うので、それを分子レベルで分別できる悪魔がいれば、もとに戻せるはずだ。これがマクスウェルの悪魔と呼ばれるパラドックスで、エントロピーが増大する物理学的な必然性はない。

プリゴジンの非平衡系の熱力学は、熱のつねに流入する開放系では混沌から秩序が生まれることを示したもので、銀河系も地球も生物もこうしたローカルな非平衡系と考えることができる。彼はそこから宇宙全体に通じる法則を見出そうとしたが、結果的にはその逆を証明した。

秩序が自己組織化するのはきわめてまれな現象で、普遍性はないのだ。開放系でも定常的にエネルギーが流入しないと秩序はできないので、われわれのような高等生物が宇宙で生まれる確率はゼロに等しい。これが人間原理である。

時間の矢も、人間に固有の錯覚と考えられる。空間はどっち向きにも移動できるのに、時間だけが非対称なのは、脳の記憶は一方向なので「終わったことは元に戻らない」という感覚ができたのだろう。時間の非対称性を信じなかったアインシュタインは、死ぬのは「この奇妙な宇宙の中で錯覚していた時間が終わるだけだ」と語った。それは物理学的には正しいのだ。