いまだに2014年の閣議決定が「クーデター」だと言い張る石川健治氏は、東大法学部の学問政治の代表である。法学部の講座は、師匠に忠実な(師匠ほど頭のよくない)弟子が継承し、学説も継承する。そういう「通説」と違うことをいうと司法試験にも公務員試験にも受からないので、彼らが学界の「本流」になり、真理を独占する。

これは珍しいことではなく、真理はすべて政治的に決定されるのだ。実証主義も、学問政治の一種である。あなたが中世の天文学者だとすると、学会で地動説を唱えても他の全員が天動説を支持すると、天動説が「通説」なので、あなたはどこの大学にも職を得られない。それによって真理が決まると、それに反する説を唱える人はいなくなり、すべての人が天動説を信じる。

経済学部の学問政治の歴史

このように真理は学問政治(パラダイム)で決まるので、素朴なポパー理論のように事実で反証できない。経済学でも、マル経は東大経済学部の大学院入試で宇野理論と少しでも違う答案を書くと落ちたので、宇野派だけが教授になって真理を独占した。この学問政治のループを壊したのは「反証」ではなかった。たとえば戦後の日本で大きな問題だったのは、毎年5%近いインフレだったが、これを説明する理論はマル経にも近経にもなかった。

戦後の日本のエリートはアメリカ留学組で、近経が入ってきたのもフルブライト留学生からだったが、アメリカの大学の経済学部に留学すると100%近経なので、小宮龍太郎や内田忠夫の世代は「近代経済学」という講座を担当する特殊な要員として採用された。

近経(というか非マル経)は戦時中には時局迎合した「御用学者」として軽蔑されていたが、その枠を増やしたのは、学問的には何の業績もない大石泰彦の学問政治だった。彼は「おれのバックには財界がついている」と公言し、アメリカで論文を発表していた宇沢弘文や根岸隆などを帰国させた。この世代が、実質的な「近経第一世代」である。

私の学生時代にはマル経と近経はほぼ拮抗し、教養課程でも「経済理論A」(マル経)と「経済理論B」(近経)の両方が必修科目だったが、出席する学生の数は1対10ぐらいだった。ゼミの数もほぼ同じだったが、近経の競争率が高かったのに対してマル経は定員割れで、学生ゼロで休止するゼミもあった。

こうしてマル経は近経に置き換えられたのだが、経済学の説明力が増したわけではない。当時の主流だったサミュエルソンの教科書の主要部分は、不況のとき財政出動せよというケインズ理論だったが、日本では不況で税収が減ると増税し、景気がよくなると公共事業や社会保障にばらまいた。

実証主義を支えるのは「実証」ではない

つまり日本の経済学を変えたのは、実証でも反証でもなく、「アメリカに留学したエリートが持ち帰った最新の学説」というファッションと、それによってできた人脈だったのだ。このため近経に置き換わるスピードは、マル経が弱く都留重人が留学生を帰国させた一橋大(東京商科大)がもっとも早く、阪大や慶応など「商学」の強い大学がそれに次いだ。

東大などの旧帝大はマル経が強く、東日本は労農派(宇野派)、西日本は講座派(共産党)だった。京大は90年代までマル経で、青木昌彦などの留学組は経済研究所の教官になって授業は持てなかった。こういう地域別の人脈ができるのは、医学部に似ている。

自然科学の真理も基本的には学問政治で決まるが、実験や観察という共通の方法論があり、それを応用して実際に動くかどうかという明確な基準がある。いくら物理学の理論が美しくても、それを使って撃った大砲が目的に命中しないと棄却される。ただ最先端の宇宙理論になると、「人間原理」は実験や観察で実証できないので「科学理論を選択するのは科学者集団の合意だ」という意見も有力だ。

つまり近代の実証主義を支えたのは実証性ではなく、それが役に立つかどうかという実用性だから、技術的に応用できない経済学や天文学では「実証」に意味がないのだ。憲法学は最初から実用性を期待されていないので、石川氏のような学問政治には役に立つが、現実の国際政治に使うのは間違いである。