100人村は現実にはありえない、というご意見があります。おなかをすかせている人が何人、という記述があるが、そんな人がいたら周囲がほっておかないだろう、だから村におなかをすかせている人はいなくなるはずだ、というのです。そのとおりです。身近に困っている人がいたら、ほっておけないのがわたしたちです。それが知人なら、友人なら、ましてや家族ならなおさらです。ここでは近接性がものを言います。身びいき、と言ってもいいかもしれません。

これが社会となるとどうでしょう。すべての人の境遇に家族なみの関心を寄せることはありえなくても、またみずから手を差し伸べなくても、困っている人がいればやっぱり気になります。せめて「行政はなにをしている」とか、「なんとかならないのか」とか言って、自分だって気にしてるんだ、ということを確かめることはします。一歩踏み込んでNGOやNPOを立ち上げ、問題に立ち向かう人びともいますし、そういう人を見て、なかなかやるもんだ、と感心したり、寄付したりする人びともいます。また、より広く格差や失業といった社会問題や、目下なら地震津波原発事故に見舞われた東北地方に、わたしたちはわがことのように心痛めます。

わたしたちのそうした気遣いが及ぶのは、多くはメディアによって網羅されている範囲です。情報が発せられ、受け止められる範囲です。情報は日本語で伝えられます。つまり配慮が届くのは日本語の使われている限りの空間、すなわち日本です。急いで付け加えておくと、海外のことがらに心砕く人びと、それどころかボランティアとして出かけていってそこの人びとのために尽くす人もいます。このたび、地震に見舞われたトルコに救援に入り、大きな余震で命を落とされた方のように。でも、そうした人びとは、もともと国内の問題に人一倍敏感です。インタビューすると決まって聞くのは、たまたま海外あるいは特定の国と関わることになった、というような表現です。他者への共感性の強い人が、偶然国内ではなく国外に導かれたということで、偶然はもしかしたら国内へと彼女や彼を導いたかもしれません。

話を戻します。国語とは国民的出版言語の略だ、とする説があります。近代メディアの嚆矢はなんと言っても新聞、活字でした。広げた新聞に投げかけられたまなざしが国民を作る、という言い方がありますが、津々浦々の出来事を知り、見ず知らずの人びとの動向に心を動かされるというのは、近代国家以前には想像だにできないことでした。江戸時代にも遠い地方の風物を紹介する書物はありましたが、あくまでもエキゾティシズムをもたらすものでしかありませんでした。

象徴的な例があります。1792年、パリの革命市民が危ないと新聞で知り、南仏のマルセイユから眦(まなじり)決して進軍してきた義勇兵たちがうたった歌、「ラ・マルセイエーズ」がなぜフランス国歌なのか、ということです。会ったこともないパリ市民に、マルセイユ市民が命をかけて加勢する、これはきわめて近代的な出来事です。封建時代にはありえない。この連帯を知る者が近代フランス国家の国民だ、というわけで、フランス国歌はいまなお「マルセイユ市民」という名前なのです。

この同胞感が、よくも悪くもナショナリズムの感情面の第一の特徴だろうと思います。悪くも、と言ったのは、「ラ・マルセイエーズ」の歌詞にあるように、ともすると同胞感の裏側にある敵への攻撃性を、ナショナリズムはその生まれたときから宿命のように背負っているからです。それは国連憲章によって、すべての国家は交戦権を持つ、とされて今に至っています。近代フランスは、内(王)とも外(外国軍)とも戦わなければ、つまり交戦権がなければ、生まれることすらできませんでした。近代国民国家は、剣を手にして生まれたギリシア神話のアテーナーのようです(ですから、交戦権を放棄したり常備軍を廃止したりした日本などの国々は、すでに近代国民国家の次の段階を先取りしているのかもしれません)。よくも、と言ったのは、この一体感が市場の統一と活性化をもたらし、近代を下支えする産業資本主義の驚異的な発展をもたらしたからです。

日本では、明治維新で、言葉も通じない、たとえば薩摩のくにびとと越後のくにびとが、ある日突然、大日本帝国と名付けられたひとつの国家のメンバーだということになりました。こういうこと、つまりたどっていけば必ず近親者や近在の者との直接の関係に行き当たるふるさとの人間関係を超えた、より大きな共同体の一員であることは、頭で理解して事足れりとはいきません。なんらかの情緒にうったえる仕掛けが必要です。それで、伝統が持ち出され、学校と軍隊で若い人びとをその存在ごとそっくり国民に仕立て上げる努力がなされたことは、ご存じの通りです。

そして今や、だれもが何国人かであることを、当然のように思っています。多くの日本人は日本国民であることに毫も疑いをはさみません。国家とも国民とも訳されるnationはnatio、ラテン語の「生まれ」に由来し、natureとも語源を共にしていますが、それに見合って、近代国家では、だれもが生まれながらの国民であることを、空気のように意識もしないほど自然なことだと思っています。だれもが意識するしないに拘らずナショナリストだということです。これはしかし、たかだか200年あまり前に出現した近代国民国家の特異な現象なのです。

ナショナリズムをすこし醒めた目で見直したい、あたかもわたしたちの血肉と化しているようではあるけれど、同時にそれほど根拠のあるものでもないということを、さらに、根拠はあやしいかもしれないけれどそれ抜きには物事が動かなかったりするということを、すこしずつ観察していきたいと思います。かったるいかもしれませんが、おつきあいいただければ幸いです。



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