沖縄の「今」は、この一瞬の延長線上にあり、この一瞬からさかのぼれば、沖縄戦があり、琉球処分があり、薩摩侵攻がある、そんな一瞬をとらえた報道写真家・嬉野京子さんの講演の書き起こしを、筆者の芳沢章子さんのご厚意で転載します。改行などを変更しました。
沖縄では、米軍関係者による事件・事故が年におよそ1000件、日に3件近く起こっていることは、保坂展人さんのブログ情報で広く知れ渡ることになりました(こちら)。COCCOさんの言葉(こちら)、「基地とやっていくためには、受け入れて諦めなければならないことがいっぱいありました……諦めることに慣れていって……『しょうがないさ』が口ぐせっていうのもほんとはほんとです」にある受け入れなければならないこと、諦めなければならないこと、しょうがないことが、この1枚の写真に凝縮されていると思います。政治家、官僚、学者、市民……立場に拘わらず、ここに問題の原点があることを知ったうえで、沖縄の人びとに「米軍基地を受け入れ」ろと言ってほしいと思います。
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昨年12月13日、京都呉竹文化センターで、「未来につなぐ愛・平和・命」と題し、米軍占領下の沖縄で、左の写真(DAYS JAPAN 2006年9月号で再版)を撮った報道写真家・嬉野京子さんの講演がありました。「ピース12・13実行委員会」「憲法を守る婦人の会」主催です。第一部を飾ったケイ・シュガーさんの歌も磨きのかかった芸術性の高いものでした。
以下は講演の要旨です。(文責 芳)
1965年に私が沖縄に行ったのは、沖縄で米軍がやっていることを知らせるためでした。 25歳の時です。米軍占領下の沖縄のことは、本土では全くわかりませんでした。米軍が統制していたからです。
沖縄が日本でないことをまず思い知らされたのは、飛行機の中でした。沖縄本島が眼下に見えはじめると、スチュワーデスが「カメラをしまって下さい」。撮影が禁止されました。一人でも写真を撮るものがいると、フライト自体が許されないのです。
4月中旬、私は祖国復帰行進団といっしょに、本島最北端の辺戸岬に向かって歩いていました。中部の嘉手納基地にさしかかった時、行進団の人に、「持っているだけで逮捕されるし、行進団にも弾圧がかかるから」と、カメラを預けるように言われました。
4月20日、宜野座村に入りました。小学校で休憩に入ったとたん、「子どもがひき殺された!」。なんと行進団の目の前で、小さな女の子が米軍のトラックにひき殺されたのです。手に通園用のバッグを持ったまま。死んだ女の子の側に突っ立っているだけのアメリカ兵。しかし驚いたのは、駆けつけた日本の警察でした。米兵を逮捕するでもなく、軍用車がスムーズに走れるように交通整理をはじめたのです。
これを目の前にして何もしないわけにはいきません。「撮らせてほしい」と懇願しました。「生きて帰れないよ」と言われましたが、引きさがれませんでした。「わかった、見つからないようにぼくの肩越しに撮ってくれ」、一人の男性が肩を貸してくれ、たった一度押したシャッターがこの写真です。
フィルムは行進団の手に渡り、数日後には地下ルートで東京に届き、「赤旗」に掲載されました。その新聞を見た時は怖かったですねえ、自分に何かおこりそうで。でもすごい衝撃でした、これが沖縄なんだと。
1967年、再度渡航しました。人民党(復帰前、瀬長亀次郎を党首とする沖縄で最も先進的な政党)の機関紙編集部に、協力をお願いしました。
アメリカは1953年に土地収用令を出し、沖縄全土で農民の土地を次々取りあげました。伊江島の人たちは戦後2年間、島を離れて本島や他の島に収容されていました。帰島した時、肥沃な農地はすべて米軍基地となっていました。やっと耕作を始めると今度は、朝鮮戦争に伴う新たな土地収用が進められ、米軍はブルドーザーで家を押しつぶし、作物を焼き払いました。島の63%が米軍基地になりました。
土地を奪われた農民たちは、阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんを中心として、抵抗の砦「団結道場」を建てました。その起工式の準備を撮影に出かけたところ、嘉手納基地から来た米軍の憲兵が、私の目の前で島の人たちを逮捕していくのです。4人の憲兵が1人の農民に掴みかかり、まるで荷物のようにトラックに放り投げて。
夢中でシャッターを押していると、パッとカメラを取り上げられ、フィルムを抜かれました。3台カメラを持っていましたが、2台は取り上げられ、最後の1台をかばって私はしゃがみこみました。私の突然の行動に驚いた憲兵たちは、私を囲んで突っ立っていました。
その時、憲兵の足の間から、一人のおじいさんがひょこひょこ、こちらに向かって来るのが見えました。島の人たちが「何事か」と集まってきたのです。私は抱えていたカメラをそっとおじいさんに手渡しました。一瞬でした。おじいさんは、さっとカメラを隠して遠ざかってくれました。
農民の逮捕に抗議する集会が基地のゲート前であり、私も駆けつけました。カメラは、島の人が農具を入れる麻袋に入れて運んでくれました。しかし、集まった農民をかき分け、11人の憲兵隊が、まっすぐ私に向かってきました。基地に連行されました。
憲兵大佐の質問は、「あなたは伊江島の人ではないですね」。次に「あなたは沖縄の人ではないですね」。そして「あなたは嬉野京子さんですね」。
これはだめだ。生きて帰れない。もう怖くて、怖くて。どうしよう。生き延びるために必死で考えました。頭が痛くなるほど考え「尋問に答える義務はない」と言ったのです。そのとたん、憲兵大佐の態度がガラッと変わり、「沖縄にいる限り、生殺与奪の権利は我々が持ってるんだ」と、スチール製の机の引き出しをバーンを蹴とばし、私は釈放されました。
人民党からは島を離れるようにとの指示が出ました。これ以上島にいると危険だし、党首の瀬長さんにも迷惑がかかるかも知れない。指示に従うことにしました。しかしフェリーは米軍に押さえられ、憲兵は港に張り付いています。何とか漁船をチャータ−してもらい、船底に隠れ、本島に逃げ帰りました。
電話は盗聴されるので使えず、人民党からの指示を待つだけ。たまたま届いた夕刊を見たところ、なんと私が指名手配された、という米軍発表がでかでかと。理由は、米兵に暴力を働いた、というのです。伊江島では山狩りが始まりました。辺鄙な場所の、ドヤ街のような地域の家に隠れました。とにかく沖縄から出なければ。弁護士を依頼し、各政党、団体を回り、「助けて」と訴えました。
何とか取ってもらった他人名義のチケットを持って、空港に向かった私の後ろには、各政党の三役クラス、全軍労や民主団体のそうそうたる面々がつきました。出国の係官はその人たちを見て、黙って私を通してくれました。もし私を逃がしたことがばれても、その人たちが守ってくれる、との信頼があったのです。
沖縄は本土に復帰しました。しかし米軍基地はそのままです。いえ、それ以上です。そして米軍基地を75%も抱えさせられた沖縄の人々は、一度も憲法9条の恩恵にあずかっていません。そして米軍の魔の手はじわじわと本土をも侵食しています。
みなさんは沖縄に行って、自分の目で、ぜひそれを確認してほしいのです。そして憲法を守るということは、本当はどういうことなのか、それを考えてほしいのです。
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沖縄では、米軍関係者による事件・事故が年におよそ1000件、日に3件近く起こっていることは、保坂展人さんのブログ情報で広く知れ渡ることになりました(こちら)。COCCOさんの言葉(こちら)、「基地とやっていくためには、受け入れて諦めなければならないことがいっぱいありました……諦めることに慣れていって……『しょうがないさ』が口ぐせっていうのもほんとはほんとです」にある受け入れなければならないこと、諦めなければならないこと、しょうがないことが、この1枚の写真に凝縮されていると思います。政治家、官僚、学者、市民……立場に拘わらず、ここに問題の原点があることを知ったうえで、沖縄の人びとに「米軍基地を受け入れ」ろと言ってほしいと思います。
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昨年12月13日、京都呉竹文化センターで、「未来につなぐ愛・平和・命」と題し、米軍占領下の沖縄で、左の写真(DAYS JAPAN 2006年9月号で再版)を撮った報道写真家・嬉野京子さんの講演がありました。「ピース12・13実行委員会」「憲法を守る婦人の会」主催です。第一部を飾ったケイ・シュガーさんの歌も磨きのかかった芸術性の高いものでした。
以下は講演の要旨です。(文責 芳)
1965年に私が沖縄に行ったのは、沖縄で米軍がやっていることを知らせるためでした。 25歳の時です。米軍占領下の沖縄のことは、本土では全くわかりませんでした。米軍が統制していたからです。
沖縄が日本でないことをまず思い知らされたのは、飛行機の中でした。沖縄本島が眼下に見えはじめると、スチュワーデスが「カメラをしまって下さい」。撮影が禁止されました。一人でも写真を撮るものがいると、フライト自体が許されないのです。
4月中旬、私は祖国復帰行進団といっしょに、本島最北端の辺戸岬に向かって歩いていました。中部の嘉手納基地にさしかかった時、行進団の人に、「持っているだけで逮捕されるし、行進団にも弾圧がかかるから」と、カメラを預けるように言われました。
4月20日、宜野座村に入りました。小学校で休憩に入ったとたん、「子どもがひき殺された!」。なんと行進団の目の前で、小さな女の子が米軍のトラックにひき殺されたのです。手に通園用のバッグを持ったまま。死んだ女の子の側に突っ立っているだけのアメリカ兵。しかし驚いたのは、駆けつけた日本の警察でした。米兵を逮捕するでもなく、軍用車がスムーズに走れるように交通整理をはじめたのです。
これを目の前にして何もしないわけにはいきません。「撮らせてほしい」と懇願しました。「生きて帰れないよ」と言われましたが、引きさがれませんでした。「わかった、見つからないようにぼくの肩越しに撮ってくれ」、一人の男性が肩を貸してくれ、たった一度押したシャッターがこの写真です。
フィルムは行進団の手に渡り、数日後には地下ルートで東京に届き、「赤旗」に掲載されました。その新聞を見た時は怖かったですねえ、自分に何かおこりそうで。でもすごい衝撃でした、これが沖縄なんだと。
1967年、再度渡航しました。人民党(復帰前、瀬長亀次郎を党首とする沖縄で最も先進的な政党)の機関紙編集部に、協力をお願いしました。
アメリカは1953年に土地収用令を出し、沖縄全土で農民の土地を次々取りあげました。伊江島の人たちは戦後2年間、島を離れて本島や他の島に収容されていました。帰島した時、肥沃な農地はすべて米軍基地となっていました。やっと耕作を始めると今度は、朝鮮戦争に伴う新たな土地収用が進められ、米軍はブルドーザーで家を押しつぶし、作物を焼き払いました。島の63%が米軍基地になりました。
土地を奪われた農民たちは、阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんを中心として、抵抗の砦「団結道場」を建てました。その起工式の準備を撮影に出かけたところ、嘉手納基地から来た米軍の憲兵が、私の目の前で島の人たちを逮捕していくのです。4人の憲兵が1人の農民に掴みかかり、まるで荷物のようにトラックに放り投げて。
夢中でシャッターを押していると、パッとカメラを取り上げられ、フィルムを抜かれました。3台カメラを持っていましたが、2台は取り上げられ、最後の1台をかばって私はしゃがみこみました。私の突然の行動に驚いた憲兵たちは、私を囲んで突っ立っていました。
その時、憲兵の足の間から、一人のおじいさんがひょこひょこ、こちらに向かって来るのが見えました。島の人たちが「何事か」と集まってきたのです。私は抱えていたカメラをそっとおじいさんに手渡しました。一瞬でした。おじいさんは、さっとカメラを隠して遠ざかってくれました。
農民の逮捕に抗議する集会が基地のゲート前であり、私も駆けつけました。カメラは、島の人が農具を入れる麻袋に入れて運んでくれました。しかし、集まった農民をかき分け、11人の憲兵隊が、まっすぐ私に向かってきました。基地に連行されました。
憲兵大佐の質問は、「あなたは伊江島の人ではないですね」。次に「あなたは沖縄の人ではないですね」。そして「あなたは嬉野京子さんですね」。
これはだめだ。生きて帰れない。もう怖くて、怖くて。どうしよう。生き延びるために必死で考えました。頭が痛くなるほど考え「尋問に答える義務はない」と言ったのです。そのとたん、憲兵大佐の態度がガラッと変わり、「沖縄にいる限り、生殺与奪の権利は我々が持ってるんだ」と、スチール製の机の引き出しをバーンを蹴とばし、私は釈放されました。
人民党からは島を離れるようにとの指示が出ました。これ以上島にいると危険だし、党首の瀬長さんにも迷惑がかかるかも知れない。指示に従うことにしました。しかしフェリーは米軍に押さえられ、憲兵は港に張り付いています。何とか漁船をチャータ−してもらい、船底に隠れ、本島に逃げ帰りました。
電話は盗聴されるので使えず、人民党からの指示を待つだけ。たまたま届いた夕刊を見たところ、なんと私が指名手配された、という米軍発表がでかでかと。理由は、米兵に暴力を働いた、というのです。伊江島では山狩りが始まりました。辺鄙な場所の、ドヤ街のような地域の家に隠れました。とにかく沖縄から出なければ。弁護士を依頼し、各政党、団体を回り、「助けて」と訴えました。
何とか取ってもらった他人名義のチケットを持って、空港に向かった私の後ろには、各政党の三役クラス、全軍労や民主団体のそうそうたる面々がつきました。出国の係官はその人たちを見て、黙って私を通してくれました。もし私を逃がしたことがばれても、その人たちが守ってくれる、との信頼があったのです。
沖縄は本土に復帰しました。しかし米軍基地はそのままです。いえ、それ以上です。そして米軍基地を75%も抱えさせられた沖縄の人々は、一度も憲法9条の恩恵にあずかっていません。そして米軍の魔の手はじわじわと本土をも侵食しています。
みなさんは沖縄に行って、自分の目で、ぜひそれを確認してほしいのです。そして憲法を守るということは、本当はどういうことなのか、それを考えてほしいのです。
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