できるだけ毎日更新と謳いながら、6日も更新を怠りました。船旅から帰って、公私ともに忙しかった、暑かったなどなど、言い訳をしようと思えばできますが、とにかく更新する気力が出なかった、ということです。外部的には、民主党の代表選とか沖縄の選挙とか、結果いかんでかなり情勢は変わってくる、その結果待ちの凪(なぎ)に入ったこともあると思います。 

けれど、きょうは更新します。わたくしごとで恐縮ですが、恩師の命日だからです。文筆家が亡くなると、すぐさま文芸誌の編集者は、誰かゆかりの同業者に追悼文を書かせようとします。けれど、縁が深ければ深いほど、当人は周章狼狽、発表に値する文章など書く状況にないこともしばしばです。そこを、なだめすかし、脅しで迫って原稿をむしり取るのが、文芸編集者の腕です。そんな辣腕編集者の言葉を思い出します。「こういう文章は今しか書けないものです。今は僕を恨むかも知れないけれど、僕はあなたが書いたことは、後々あなたにとってよかったと思います。もちろん、読者にとっても、僕にとっても」

依頼の電話に「今そんなもの、書けませんっ!」と即座に断ったものの、編集者の叱咤激励におろおろと書き綴った恩師の追悼文、「文學界」2004年11月号に載ったものを、ここに転載します。


     ************************


初めて読んだ種村季弘はポランスキー「水の中のナイフ」の映画評、わたしは高校生だった。
 
当時、生意気な高校生には、映画少女映画少年のやからがいて、つれだって授業を抜け出しては、新宿までヌーヴェルバーグの映画を観に行ったり、小難しげな映画評論を読んだりしていた。雑誌なら「映画芸術」や「南北」だった。そこに、種村季弘は書いていた。
 
「水の中のナイフ」論は、フロイトのエディプスの三角形で三人の男女の関係を読み解くもので、そんな評論は読んだことがなかった。ものごとがこうも鮮やかに、余すところなく解明できるのかと、しんそこ驚いた。「種村季弘はいい!」と叫ぶことが、わたしたちの仲間意識を強めた。受験勉強に明け暮れるクラスメイトを尻目に、自分たちはすごい世界を知っている、という高揚感で、授業をさぼることへのちりちりとした焦燥を忘れようとした。
 
進学先には東京都立大学を選んだが、二年生になる直前、種村季弘が都立大に赴任するといううわさを聞いて、びっくりした。種村季弘はてっきり映画評論家だと思い込んでいたからだ。「種村季弘って独文なんだって!」と友人に言いに行ったことを憶えている。
 
その春、都立大で独文学会が開かれ、新任の種村季弘もやってきた。当日はあいにくの大雨で、種村季弘は痩せた肩によれっとしたバーバリ風のステンカラーのコートをひっかけ、人びとからすこし離れて、異物のようにぽつんと立っていた。
 
あれだ、あれが種村季弘だ。
 
わたしは意を決して近づいた。あこがれの対象に近づく心境ではなかった。そんな心境になるにはあまりに生意気で、むしろ対決する意気込みで、でもみっともないほどおずおずと、まるで刺客のように壁を背にした、剣呑な目つきの種村季弘に歩み寄り、言った。

「わたし、ドイツ語できないんですけど、先生の授業とってもいいですか」
 
相手を品定めする一瞬の間があり、

「あー、ぼくもできまっせーん」
 
あの、しゃべる気のないときの喉にひっかかるような独特な声を、頭の中でぐるぐる回すような出し方で、拍子抜けする答えが返ってきた。相手のしゃっちょこばりを萎えさせ、あらぬ方へと吹き飛ばしてふわりと未知の快を味わわす観念の関節外しを、わたしは出会い頭にくらったのだ。
 
種村季弘三十四歳、わたしは十九歳だった。
 
わたしは学生のだれかれを、「ぜったい面白いからとろう」と種村季弘の演習に誘ったが、それに呼応したのはひとりだけだった。そこで読んだのは、カネッティの『眩暈』。その十数年後にノーベル文学賞をうけることになるカネッティをこのくにで、いや、世界でもっとも早く大学の授業にとりあげた例ではないだろうか。これを皮切りに、種村季弘の確かな目を思い知らされることが、ずっと続くことになる。
 
演習は苦痛だった。病的なほどに本の好きな男の子が、本のたくさんあるところに閉じこめられる、という冒頭部分に、えんえん手こずったからだ。なにしろ、毎回半分の訳読を分担するわたしは初級文法を終えたばかり、定冠詞まで辞書でひくありさまで、からきし読めない。沈黙がちいさな演習室を満たし、その原因を一手にひきうけているわたしはいたたまれなかった。種村季弘は、怒るでも親切に指導するでもなく、ときおり「……だろ」とぽつりとつぶやいて助け舟を出すだけだった。
 
六月に入ると、種村季弘はふたりの学生に言い渡した。

「うちに来い。授業はそこでやる」
 
茅ヶ崎の団地の一室で、洪水のような話と酒の饗応は丸二日続き、帰りには出たばかりの初エッセイ集『怪物のユートピア』とグスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』というおみやげまでいただいた。このときから、種村季弘の、転々と場所とスタイルを変えるさまざまな自宅に入り浸る年月が始まった。種村季弘は、ものになるやらならないやらわからない学生たちのために、たくさんの時間とお金と気持ちをつかった。学生だけではない。さまざまな芸術家志望の若者が、種村季弘の家に出入りしていた。あれはいったいなんだったのか。わたしたちが将来を嘱望されていたわけがない。種村季弘は後年、「幻滅は男の最高の快楽だ」というようなことを書いた。幻滅するには期待が先行しているはずだ。もしかしたら種村季弘は、幻滅の可能性に賭けて、学生たちにみずからの人生の原資を先行投資していたのかもしれない。
 
種村家のキッチンでぐちゃぐちゃに酔っぱらっていたひとりは、いまは滋賀県立中央図書館館長として、図書館地下の広大な収蔵庫に子ども対象の出版物をすべて収集するという野心を遂げつつある。もうひとりは、いまや国会図書館でこのくにの図書館行政を決定する立場にある。図書館界の大物がふたり、若いころ種村季弘の周辺にいたのは、もちろんただの偶然だ。それでも、これは書いておきたくなるほどに暗示的な、わたしにとっての種村季弘のいる風景なのだ。書物にたいする際限のない蒐集の情熱を誘発するようななにかが、種村季弘にはある。もっとも、種村季弘自身には、書物を集めることへの純粋な情熱はなかった。書物は道具であり、消費財だった。自由な閲覧を許された蔵書には、エンピツでいろんな印が書いてあった。
 
後期、カネッティの演習がどうなったか、記憶にない。わたしは、小説の冒頭に出現した膨大な書物の闇に閉じこめられたまま、三十六年がたった。
 
大学では、すぐに紛争が始まった。世の中全体が沸騰していた。種村季弘は、「極右と極左が面白いんだ」と言っていた。三島由紀夫と唐十郎のことだ。唐十郎を初めて活字で紹介したのは種村季弘。週刊誌の記者時代のことだ。唐の赤テントの団員が寺山修司の天井桟敷の団員と乱闘騒ぎを起こしたときは、種村季弘が新宿署に唐を身請けに行った。三島とは「週刊読書人」で対談をした。三島が、種村季弘という若い書き手に興味をそそられての企画だった。三島が市ヶ谷で割腹自殺した日、わたしは当時晴海の高層団地に住んでいた種村のもとに駆けつけた。電話をしたら、らしくもない腑抜けた声で、「ああ、死んじゃったなあ」と繰り返すので、心配になったのだ。その日の種村季弘は、がっくりと肩を落としてあぐらをかき、こちらがなにを言っても上の空で、「死んじゃったなあ」とつぶやくばかりだった。
 
大学は、なにがどうなっていたのか、わたしには当時も今もよくわからないのだが、とにかくキャンパスはあちこちで備品がひっぱり出され、ひっくりかえされ、立て看が乱立し、紙が舞い、雑然としていた。高揚していた人びともいたが、わたしは息苦しかった。
 
講義の代わりに大小の集会が開かれるなか、独文教室でも教師と学生の集会が開かれた。都立大では、共産党系の民主青年同盟(民青)が強く、いわゆる三派はほんのひとつまみだった。その双方の勢力が、大学内に泊まり込んでいた。その状況を話し合ったのだろうと思う。深刻には違いなかったが、むしろどちらかというと当惑の澱んだ空気が薄暗い研究室を満たしていた。「三派」に共感する、詩人でもあった菅谷規矩夫が、なにごとか勇ましいことを言った。それに、ハイネ研究家であった井上正蔵が激怒した。
 
だれも反論しない。気まずさに一座が押しつぶされそうになったとき、それまでいるかいないかわからなかった種村季弘が沈黙を破った。

「三派が泊まり込むのは悪くて、民青はいいというのは、おかしくはありませんか」
 
このとぼけたひとことが井上の怒りの炎に油を注いだ。井上は、「三派」は秩序紊乱者であり、「民青」はかれらから大学を守るために泊まり込んでいるのだ、と口角泡を飛ばしてまくしたてた。けれどわたしは、笑いをこらえるのに懸命だった。だれもが声高に正しさを競い、争っていた当時の特異な雰囲気のなかでは異質ともいえる形式論に意表を衝かれたのだ。まっとうはしらける。そしておかしい。おかしみは無頼とも言うべき捨て身のなにかに裏打ちされていると知ったのはこのときだった。
 
種村季弘は新左翼シンパと見なされ、日大全共闘のラブコールに応えて封鎖中の日大で特別講義をしたが、「君たちがよく言うナンセンスについて話します」と前置きして、モルゲンシュテルンなどの、満場の学生たちの誰も知らないドイツのナンセンス詩人について語った。種村季弘らしい、相手の期待をはぐらかす、人を食った話だ。
 
種村季弘はどんな時流にも流されない。なぜならば、種村季弘は時流を作る人だからだ。なにものにもおもねらないまっとうさを、さりげなく、とことんかわい気なく差し出しては、なに食わぬ顔で現場を立ち去る。それが種村季弘の流儀だった。
 
種村季弘はほどなく都立大を辞した。在任期間はたったの四年だったろうか。表向きの辞任の弁は、「教師の器ではない」だった。わたしには、「大学ってとこは、女の腐ったのしかいられねえとこだろ」と言った。女のわたしにたいしてそれはないだろう、と内心反発を覚えた。
 
種村季弘の死が明らかにされてすぐ、大きな台風が矢継ぎ早に列島を襲った。そんなある日、わたしは飛行機に乗っていた。真っ白い雲海の上の空は、輝くばかりの青だった。機体は猛烈な強風にきしむほど揺れ、客室乗務員の額に脂汗が光っていた。
 
人間のからだの七割は水分だというけれど、種村先生、あなたはこの風に乗ってどこかへトンズラなさるおつもりですか。水へと還った先生、この見渡すかぎりの白い雲の、いったいどこにおいでですか。烈風を呼んで、一刻も早く世界に拡散してしまおうとなさるおつもりですか。なんとせっかちな、種村先生。
 
三十六年もお出入りさせていただいたのに、わたしは種村先生、生身のあなたに触ったことがありません。べつに、変な意味ではありません。三十六年もおつきあいいただいたなら、なにかの拍子に指の関節が手の甲に当たるとか、そんな事故があってもいいはずでしょう。なのに、それがなかったのです、種村先生。先生は、女性にかぎらず男性にたいしても、なれなれしいつきあいはお嫌いでしたよね。だからわたしは、奥さまとはいつだって抱き合ってふざけていたのに、先生にはいつもぴんと背筋を伸ばして接していました。その積み重ねが、先生に一度も触ったことがないままに、すでに先生のおからだのないいまこのときを迎えることにつながりました。
 
でも、ようやくお許しを得て新宿の病院にお見舞いにあがったときに、これだけは、と思い定めて申し上げたように、先生がたった一度わたしにお見せになった涙の責任は、とってくださらないと困ります。東京大空襲で浮浪児になり、命を落とした小学校の友人たちのために流されたあの涙は、いまのわたしを衝き動かしています。先生は、まるでひとつまみの毛を吹いてたくさんの分身をつくりだす孫悟空のように、数多くの分身をさまざまな分野に送り出されました。ですから、才能もない、いまはデスクワークより外での活動の多いわたしのような者も、先生のちいさな分身のひとつと思っていいいですよね。あの先生の一筋の涙から、いまのわたしは生まれたのです。

このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote