新日本フィルハーモニー定期演奏会プログラムに連載した「抵抗のオペラ」も、今回が最後です。あまり知られていない作品ですが、メルヒェンや19世紀末に思いを致してきた者としては、ぞくぞくするほどの魅力に富んだ、残酷な物語です。それは人間の、人間くさい営みにたいする自虐的な残酷さとでも申しましょうか。ペレアスが呼びかけ歌う「メーリザーンドー」という、せっぱ詰まった思いのこもった暗いメロディを、ここに再現できないのが残念でなりません。きょうは七夕さまなのに、三角関係の物語で、どうもすみません。



ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」

 
手負いの獣を追って深い森をさまよう王子が泉のほとりに美しい乙女を見つけ、妻にするという設定は、いかにもメルヒェンらしい。このオペラは、幻想的な舞台を楽しみながら、フランス語の流麗な響きとドビュッシーの繊細華麗な音の流れに身をゆだねるに限る。歌詞の意味がわからなくても、物語の大筋はわかる。時は中世、老王に王子がふたり、兄の妻と弟が恋に落ち、恋人たちは嫉妬の刃に倒れる。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」にも通じる、三角関係の悲劇だ。
 
ところが、対訳本や字幕を見ると、この作品は謎が多い。老王は王子たちの父親ではなく、祖父だった。王子たちは父親を異にする。父親たちは兄弟で、そのひとりはすでに亡い。母后は兄と弟、ふたりの王子と結婚し、それぞれからひとりずつ王子をもうけたのだ。この異父兄弟がひとりの女性をめぐって恋敵になる。親の代の関係をなぞるかのようだが、ややこしい。メルヒェンは、こんなにこみ入った家族関係は想定しない。この物語は、メルヒェンの装いをとりながらメルヒェンであることを拒絶している。
 
幕開けのシーンで、謎の乙女メリザンドは冠を森の泉に沈め、拾ってあげようという夫である王子ゴローの申し出を断る。メリザンドはこののちも、ゴローから贈られた指輪を城の泉に落とす。なんとも不可解なふるまいだが、冠は高貴な出自の証であり、指輪は婚姻関係をあらわす。つまり、メリザンドは出自という縦の糸も結婚という横の糸も断ち切って、天涯の孤独を選び取ったことになる。結婚はしても、それどころか身ごもっても、この世にたったひとりであることを選んだのだ。
 
メリザンドという名前の響きからは、伝説の人魚メルジーヌの記憶がよみがえる。メルジーヌはポアトゥーレ伯レイモンドの花嫁となったが、キリスト教徒の手にかかって死んだ。古代の深層からやってきた異教の女神が、つかのま中世の秩序を切り裂き、抹殺される。メリザンドも、メルジーヌに劣らず孤立している。その死はだれにも看取られなかった。
 
メリザンドも、人魚さながら海からやってきた。そして、泉のほとりで見いだされ、泉のほとりで恋人の死を見届ける。塔の上から身の丈よりも長い髪の毛を垂らし、ペレアスがその髪と恍惚のうちにたわむれる、グリムのメルヒェン「ラプンツェル」から暗示をうけたと思われる名高いシーンでも、たぎり落ちる髪の毛は滝、水そのものだ。メリザンドと水をむすびつける証拠はまだある。メリザンドとの最後の逢瀬で相思相愛だったことを知ったペレアスが歓喜する、その歌詞はこうだ。


春の海を渡ってきたのか
初めて耳にするような その声
ぼくの心に 雨となって降りしきる
ああその声は どんな水よりさわやかに
唇を 手のひらを 清らかにうるおす

 
メリザンドは水の女なのだ。けれど、それがわかったからといって、謎の霧が晴れるわけではない。謎の中心メリザンドは、物語が進むにつれていよいよ濃い霧につつまれていく。たとえばなぜ、夫のゴローに指輪は海辺の洞窟でなくしたと嘘をついたのか。なぜ、ペレアスとともに死を受け入れようとせず、悲劇のヒロインらしくもなく逃げまどったのか。不可解な言動をあげていたらきりがない。謎はメリザンドのまわりに渦巻いて、他の謎を巻き込みながら銀河のように成長していく。
 
原作は、「青い鳥」で有名なベルギーの詩人、マーテルランクだ。1862年生まれだから、ドビュッシーとは同い年だ。マーテルランクは幻想的な作風で生と死、それに翻弄される人間の悲しみを描いた。時は19世紀末、近代化が加速し、人間をどこに連れて行こうとしているのか、見通しは不安に包まれていた。破滅しかないと考える人びとはデカダンスの意匠のもと、さまざまな芸術を生み出した。ファム・ファタル、宿命の女は、どうせならエロティックな要因で破滅したいという男性の願望が投影された、19世紀末ならではの女性像だ。ファム・ファタルは男性からは理解不能な、魅力的で残酷な存在として描かれる。つまりは謎の美女だ。マーテルランクはメルヒェンの幻想によって不条理な世界を描き出し、メリザンドというファム・ファタルをそこに置いたのだ。破滅が近づいていることは、城を取り巻く浮浪者や餓死者によって暗示した。
 
そんななかでも、人は運命に抗って生きようとする。ただ、よりよい生が逆説的に破滅というかたちをとるのが19世紀末だ。そしてこの時代、人といえば成年男性に限られるのが、暗黙の了解だった。女も子どももそこにはいない。メリザンド、そしてゴローの幼い息子も、理解不能な存在として不条理の側においやられ、ゴローとペレアスだけが、血の通った人間として描かれる。だから、年の離れた兄の若い妻の同年配の弟として姉弟のように寄り添ううちに禁断の恋に気づき、とりかえしのつかないことになる前に身を引こうとするペレアスも、猜疑に苦しんで妻に暴力をふるい、ついには弟を殺して深く悔悟するゴローも、ごく自然に理解できるのだ。
 
そのいっぽうには、運命に抵抗しないと宣言する人物がいる。老王だ。
 

なにも言うまい
したいようにさせるがよい
わしは運命に逆らったことはない


老王はほとんど目が見えない。メリザンドが指輪を落とし、そのほとりで兄弟殺しが演じられたあの泉は、かつては盲人の目を開いたのだが、老王が盲目同然となってからは近づくのがはばかられるようになったという。老王こそこの泉で目を癒すべきなのに、なぜかしあわせへと通じるメルヒェンの奇跡は人びと、とりわけ老王その人の意志によって封じられている。ラスト、老王はメリザンドの遺児である姫を抱き、「こんどはこの者が生きる番だ」という。没落していく男性にはついに理解できなかった女性が、男性がみずからあえて見えなくしている未来へと、高々と差し出されるのだ。

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