ここ7年ほど、6月30日には秋田県大館市にいます。1945年のその日に起きた花岡蜂起の慰霊式に参列するためです。慰霊式は、大館市の主催で行われますが、市町村合併以前にも50年代から花岡町、花矢町と、自治体が主体となってこの慰霊式を続けてきたことには、心からの敬意を表したいと思います。

戦争中、中国からおびただしい人びとが強制連行され、130カ所以上の事業所で働かされました。そのうちの花岡に強制連行された中国の人びとが、鉱山関連の土木工事などの強制労働に耐えかね、どうせ死ぬならと45年6月30日、一斉蜂起し、中国人100人以上、日本人4人の死者を出しました。花岡での中国人の死者は、この人びとを含めて418人、当地に強制連行されたのが986人ですから、死亡率はおよそ42%と、全国でも最悪の現場となりました。その総称が、いわゆる花岡事件です(こちら参照)。

花岡事件の生存者・遺族が元の会社にたいして起こした裁判は、他の強制連行裁判にさきがけて、2000年末に和解にこぎつけました。これは、各地の同様の裁判に好ましい影響を与えており、すでに同じような和解が成ったところもあります。

この春には、市民の募金で記念館も完成しました。当初、負の遺産とでも言うべき事件を館という目に見えるかたちにすることに、地元の方がたの抵抗感があったことは、じゅうぶんに理解できます。ところが、館がオープンすると、地元の方がたがやってきて、こんなことがあった、あんなことがあったと、当時のことを話していかれるそうです。館ができたことで、地元の方がたの、積年の胸のつかえがとれているのです。この話を聞いた時には、目頭が熱くなりました。

花岡とのかかわりを書くようにと、「社会主義」誌から依頼がありました。それで、7月号に以下のような一文を寄せました。花岡のことは、講演などでお話はしてきましたが、書いたのはこれが初めてではないかと思います。

私は毎年、大館の地元の中学高校にお話に伺います。地元の若い人びとにこそ、この歴史を知っていただきたいからです。あと2校で一巡するのだそうで、そうしたらまた最初に伺った学校におじゃまできればと考えています。


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2003年10月23日、秋田県の大館で『世界がもし100人の村だったら』にまつわるお話をしました。この絵本は、アメリカによる「報復攻撃」の照準を定められたアフガニスタンのために、長年その地で医療・井戸掘り・農業用灌漑用水建設にあたってこられた中村哲医師の緊急募金の呼びかけに応じて、緊急出版されました。印税を医師に寄付しようと考えたのです。それが思わぬ反響を呼び、世界情勢とは無縁だった翻訳者が、書斎からおずおずと出ていくことになりました。
 
ところが、そうして出会った秋田の人がた(秋田では「人びと」を「人がた」と言うので、それに倣います)は、自分からはきはきと提案や要求をしないようなのす。講演後、きりたんぽ鍋を囲みながら、私が「せっかく大館に来たのだから、花岡事件の事跡を見たい、どなたか案内してくださる方をご存じですか」と切り出すと、なんのことはない、そこにいた30人ほどのほぼ全員が、長年花岡事件にかかわってきた人がたなのでした。事前に、池田に花岡事件の跡を見せよう、という提案があったのに、押しつけはよくないという声が優勢で、言わないことにしたのだ、という話にはあきれ返りました。
 
翌日、中国の人がたが厳冬の川に浸かって工事した花岡川や、収容されていた寮が沈む人工湖、中国大陸を向いているという、山頂の碑(いしぶみ)、捕らえられ、炎天のもと3日間跪かされていた広場などを、とつとつとした説明を伺いながら見て回りました。前世紀末ぎりぎりに、中国の人がたと当時の会社との和解が成立したこと、そこに至るには、戦後すぐ在日朝鮮人の人がたが始め、全国の労働組合の協力で進められた遺骨の収集・供養・返還運動や、弁護士そして地元や全国の市民の裁判への尽力、地元自治体が続けてきた慰霊式などなど、多くの人がたの思いと営為があったことを知りました。それは、一人ひとりが人生のなにがしかを費やした、人生そのものを変容させずにはおかないほどの、なみたいていではない歳月だったはずです。なのに、あまりに淡々とした解説の口調と、その背後にあるはずの困難な現実の落差に、私は終始秘かに動揺していました。大館の人がたによって私の心の奥底に錘鉛が降ろされていく経験のはじまりでした。
 
当時私は、アウシュヴィッツを生き延びたフランクルの手記、『夜と霧』を上梓したばかりでした。アウシュヴィッツと花岡は、あまりにも似ています。ナチスの強制収容所も、軍需工場に労働力を売り、しかし被収容者には劣悪な衣食住医しかあたえず、死ねばそれもよしとする過酷なものでした。花岡が、全国に点在する百カ所以上の同様の事業所と比べて死亡率が格段に高いことから、「日本のアウシュヴィッツ」と呼ばれていることも知りました。
 
けれど、花岡とアウシュヴィッツは決定的に違う。そのことを知ったのは、翌年6月
30日の慰霊に初参加した時です。行事には、毎年、中国から高齢の幸存者や遺族のみなさんが参加します。青森空港からのバスの車窓に花岡の山並みが見えてくると、かつての日々を思い出して泣いたり叫んだり、中には卒倒したりするお年寄りもいたそうです。それが、慰霊式、市民との交流と日程をこなすうちに、「花岡は第二のふるさと、また来たい」とおっしゃるのだそうです。実際、何度も花岡慰霊の旅に参加される方もいます。けれど、アウシュヴィッツを第二のふるさとと呼ぶ元被収容者を、少なくとも私は知りません。ですから、花岡は日本のアウシュヴィッツではありません。
 
それは戦後、花岡の心が中国の人がたに確かに受けとめられたがゆえに生じた違いです。そこまで心を尽くした花岡の人がただけでなく、それを受けとめる中国の人がたの気高さに、私の心の錘鉛はいっそう深く降りていきました。
 
とはいえ地元にとって、BC級戦犯裁判に問われた花岡事件が棘であることは、容易に想像できます。山狩りには、すべての家に動員がかけられたことでしょう。花岡には、そうした人がたの縁者が現に住んでおられるのです。けれど私は、その人がたも過去の不幸な出来事を乗り越え、心の整理をつける必要があると思います。そして、そこに私のようなよそ者にもお手伝いできることがあるのではないか、と。広島長崎は被害の地から平和を訴えていますが、花岡は加害の地から平和を訴えようとしている、そんな花岡を、私たちすべての市民は誇りに思っている、花岡はこのくにの誇りだ、とお伝えできるのではないかと思うのです。
 
今年は、初めて花岡地区で拙い話を聞いていただくことができました。一人も来なくてもいいから、とにかく花岡で話をすることに意味があると思うから、とお願いしてのことでした。参加してくださったのは、中国からの人がたや支援者のみなさんばかりだと思っていたのですが、花岡地区の人がたも見えていたと、あとから教えられました。
 
私はこれからも花岡に通います。そしてそのたびにこれまで同様、地元の中学校や高校の生徒さんたちに話をする機会を設けていただこうと思います。このくにの宝、花岡のことを末永く伝えていっていただくために。


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写真は、今年伺った県立桂高校体育館での質問タイムです。女子校の、さわやかな夏の制服が印象的でした。踏み込んだ熱意溢れる質問がどんどん出ました。

質疑桂

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