ワーグナーの「ニーベルングの指輪」は、4部構成の壮大な楽劇です。これを好むというか、その上演に一度でも多く立ち会うことを人生の目的のようにしている人びとがいますが、私には気が知れません。とんでもないマゾヒストか悲観論者でもなければ、そんな情熱は持てないと思うのです。

とくに、第一夜に上演される「ラインの黄金」は、性愛や金銭や権力にたいする人間の欲望は、今も昔も、それらのために身を滅ぼすならまだしも、世界すら道連れにするほど強烈なのかと、暗澹としてきます。神話や伝承にことよせて、なんという暗い世界観を大がかりにうたいあげたものかと、あきれます。

ワーグナーが生きたのは初期資本主義ですが、そこから生みだされた作品が、21世紀の後期金融資本主義の現実をも射程に入れていたと見ることもでき、否定されるべきはこうした価値観なのだと、ため息とともに痛感します。


     ***************************


ワーグナー「ラインの黄金」

 
神々の長ヴォータンは、巨人族の兄弟に、宮殿を建てたら妻フリッカの妹フライアをやろうと約束した。この取引を人でなしとなじる妻には、その時になれば腹心の火の神ローゲが奸計でなんとかしてくれる、とうそぶく。
 
虚栄心が強く、人まかせで場当たり的なこの神に共感を寄せるのはむつかしい。なにしろ、主神ともあろうものが、せこいことに空手形で宮殿を手に入れようとしたために、世界は没落へと導かれるのだ。思い上がった権力者の虫のいい打算は、とり返しのつかない厄災をひきおこす。
 
この悲劇を始動させるもうひとつの出来事は、地底の小人ニーベルング族のアルベリヒが、ラインの川底から黄金を奪った事件だ。その黄金からは、愛を断念する者だけが世界制覇を可能にする指環をつくることができる。ラインの黄金を守る乙女たちに求愛して拒絶されたアルベリヒは、やけくそになって愛を呪い、この黄金を奪って指環をつくらせた。
 
しかし、指環の威力で同朋のニーベルング族を酷使して蓄えた財宝も魔法の仮面も指環も、火の神ローゲに騙されて巻き上げられる。愛に破れて権力に走ったものの、騙されて身ぐるみ剥がれたアルベリヒは、愚かではあるけれど、ヴォータンよりもまだ同情の余地がある。
 
巨人族の兄弟はさらに愚かだ。彼ら、ファーゾルトとファーフナーも愛を手に入れようとしていた。彼らが宮殿建設の労働の対価に求めたフライアは、愛と永遠の青春の女神なのだ。その気持ちは分かる。ヴォータンの言葉を信じて宮殿をつくった誠意も認めよう。
 
しかし、神々に言いくるめられ、フライアの代わりにアルベリヒの財宝を、仮面と指環ともども手に入れてからがまずすぎる。その独占を争って兄弟は仲間割れし、ファーフナーによるファーゾルト撲殺に至るのだ。これは見苦しい。彼らが宮殿建設に払った努力への評価を帳消しにしてしまう。
 
アルベリヒは、奪われた指環に呪いをかけた。
 

今より後 指環の魔力は
それを持つ者に死をもたらす

 
ラインの乙女に守られて川底で静かに眠っていた黄金は、虚無的なアルベリヒによって指環となり、強欲なヴォータンに奪取され、最後は巨人族のファーフナーの手に落ちた。終幕、ヴォータンはおのれの力を濫用したことの代償の大きさと底知れぬ不安にうちのめされながら、神々をともなって新しい宮殿に入っていく。かなわぬ愛ゆえのシニシズム、物欲、そして権勢欲。それらの情念がぶつかりあったために、世界の均衡は破られたのだ。


わかったか 闇の軍勢に気をつけろ
地の底からニーベルングの宝が
陽のあたるところへ向かってくるぞ

 
このアルベリヒの警告に、胸騒ぎがするのはなぜだろう。白日のもとに解き放たれ、人から人へと暴力をともなって急速に移動し始めたニーベルングの宝とは、いったい何を暗示するのだろう。アルベリヒはなおも歌う。


持つ者は不安にさいなまれ
持たぬ者はねたみに苦しむ

 
ワーグナーがこの作品を構想した19世紀後半は、野蛮な資本主義が荒れ狂っていた。当時の世界支配の中心はロンドンだった。霧の都とは名ばかりの、汚染されたスモッグのもと、過酷な労働にあえぐ貧しい人びとがあふれ、カール・マルクスが資本主義分析に没頭していた。そこを訪れたワーグナーは、「ここはアルベリヒの夢そのものだ」と漏らしたという。事実、アルベリヒらニーベルング族の棲息する地下世界、「ニーベルハイム」の「ニーベル」は「ネーベル」、「霧」に通じるのだ。
 
バイエルン王ルートヴィヒ二世の支援によって大がかりな祝祭劇として構想され、ドイツの英雄伝説や北欧神話、ギリシア悲劇を自在に参照しているとされる「指環」のうち、とくにこの「ラインの黄金」は、そうした外部の輝かしい事情とはうらはらに、資本主義近代の暗黒の側面を描いているという見方もなりたつのだ。ワーグナーには、48年の反ブルジョワ革命にのめりこんだという過去がある。
 
アルベリヒから指環や財宝を巻き上げるローゲとヴォータンの身勝手な理屈は、ルールは強者が決めるとする、植民地時代からグローバル金融資本主義の現代まで一貫している、この世界の不公正を思い起こさせる。
 
そして、大国の陽気で無邪気な人びとが架空の金で家を建てたことが、昨今、世界経済を奈落の底に突き落とすきっかけとなったのなら、「快適な高みで暮らし、幸福に酔う」神々が、払うつもりのない報酬で宮殿を建てさせたことから世界が没落へと向かうこの疑似神話は、21世紀の今と瓜二つだ。初期資本主義の隠喩として企まれた楽劇が、なぜ末期グローバル金融資本主義を映す鏡ともなっているのか。その秘密を解く鍵は見あたらない。そして、今を生きるわたしたちの祝祭劇の次なる演し物は何なのだろう。恐ろしい秘密はそのあたりにも息をひそめている。

このエントリーをはてなブックマークに追加