私は大学紛争の世代です。でも当時は、デモにも集会にも参加したことがありませんでした。それは、冷戦時代だったために、ミギとヒダリが主張をパッケージにして、截然(せつぜん)と対立していたからです。たとえば、ベトナム戦争や安保条約に反対しようとすると、アメリカを「米帝」と罵(ののし)り、資本主義を極悪非道のシステムと断定し、ソ連や文化大革命進行中の中国に好意を寄せ、社会主義を理想とする心情の人びとの中に入っていかなければなりませんでした。さらには、そういう人びとは大学を批判し、教師を権力の手先と非難していました。でも、私の先生たちは、どう見ても権力の手先には見えませんでした。そう言うと、「学習が足りない」「意識が低い」と叱られました。

もっとまじめに探し歩けば、たとえばベ平連はベトナム反戦だけを掲げていることが理解できたかも知れませんが、学生のレベルからは、ベ平連もまたヒダリのパッケージに飲みこまれているように見えました。それで、大学には居場所がないと思い定め、先生たちとお酒を飲んだり、映画や芝居を観たりして、ぶらぶらしていました。

それから30年、私が911以降に政治的発言をするようになったには、冷戦後という時代のコンテクストも与(あずか)っています。ミギ対ヒダリ、資本主義対社会主義というパッケージにとらわれず、是々非々でものを言ってもいいんだ、という開放感があったのです。

明確な陣営の対立がなくなって、自由にものが言えてうれしいいっぽうで、「二大政党」の中身がごちゃごちゃということと相俟って、選挙が悩ましいものになっています。尾籠な話で恐縮ですが、よく言う究極の二択です。「○○コ味のカレーとカレー味の○○コ、どちらになさいます?」という、あれです。

(先ほど、冷戦時代の対立項をミギ・ヒダリと表記しましたが、冷戦後の対立項の中身はびみょうに変質しているので、以下、現在の対立項をウハッ・サハッと呼ぶことにします。)

民主党も自民党もどちらもけったくそ悪い、と言ってしまえれば気楽なのですが、そうもいきません。たとえば、仙谷官房長官(民主党ウハッ?)が、「日韓の戦後処理、条約で個人請求権は消えたと法律論で片付けるわけにはいかない」と、在韓被爆者、朝鮮半島出身者の遺骨返還、サハリンに取り残された韓国人などを挙げて、政治が乗り出す意欲を示しました(記事は
こちら)。こんな発言は、自民党支配下、「戦後処理」に恥ずかしい思いをしていた者としては、まさに干天の慈雨です。これが動きだせば、従軍慰安婦問題もまっとうに取り上げられるでしょう。小沢一郎さん(民主党サハッ?)の沖縄米軍基地についての考え方(こちら)には、「そのとおり!」と思いますが、湾岸戦争時、小沢さんが自衛隊を国連軍として出そうとしたことは、忘れるわけにはいきません。またたとえば、外交安保政策はまったく賛同できなくても、河野太郎さん(自民党サハッ?)の原発政策批判(You Tubeでのよくわかる「講義」はこちら)・電力自由化論は心強い。政治家個々人でもこうなのです。ましてや政党をや。

パッケージのミギとヒダリが政党と一致し、どっちがいいかと盛り上がれた時代は、むじゃきで気楽だったと思わざるを得ません。むじゃきでなくなった分、この社会は成熟したのです。成熟とは、到達点のない過程です。私たちは肝を据えて、より好ましい選択肢を一つひとつたどっていかなければなりません。短気を起こして、「どっちのカレーもいや!」とは言えないのです。そのあたりのもやもやを、森永卓郎さんが「マガジン9」でもやもやと整理してくださいました(
こちら)。もやもやしたものは、もやもやと整理することがすぱっと整理することなので、これも成熟のひとつの態度だと、私は思います。

森永さんによると、民主にも自民にもウハッとサハッがいて、その比率は民主で4:6、自民で6:4、ウハッは「日米同盟重視・法人税減税・消費税UP」、サハッは「基地移転反対・経済的安定と平等・財政出動」に色分けされるそうです。

鳩山・小沢時代の民主党は、多数派のサハッが順当に党を引っぱっていたのが、菅・枝野になって少数派であるはずのウハッが実権を握ったからややこしい。「民主党政府は、財源が厳しくて、施策を打てないのではない。左派から右派へと、政策を根本から切り替えてしまったのだ」(森永さん)。

そして選挙です。「左派の政策を支持する人たち……の選択肢は二つしかない。一つは、左派の政策を掲げ続ける少数政党の候補者を選ぶことだ……もう一つの選択肢は、民主党であれ、自民党であれ、候補者自身がどのような政治理念を持っているのかということをきちんと調べて、左派の理念を持つ候補者に投票することだ。ただし、その場合は仮にその候補者が当選しても、少なくとも当面は、その理念を実現できない可能性が高い」(森永さん)。

どのみちサハッ的な理念が開花結実することは当分見込めないのなら、サハッ的な考えの人は、自分にとって優先順位上位にある政策について民主・自民の中のサハッ的候補者を見極めたり、サハッ小党を応援することで、混ざりものカレーのカレー本来の味を取り戻すためのトッピングをせっせとふりかけるしかない、というわけです。それが、争点がないなどと性急に擲(なげう)ってしまうのではない、成熟社会にふさわしい気長さというものだと、私も思います。が、たとえば国会議員定数削減をうちだしている民主のウハッが権力の座にある以上、こちらが民主党サハッに肩入れしたつもりでも、当座はかれら民主党ウハッに力をあたえてしまい、結果、議員数が減らされ、ますますカレーのメニューが固定化される虞(おそれ)も大です。悩ましい……。

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