『「新卒で就職に失敗したらそれっきりどこまでも派遣地獄だぞ」
「正社員になれなかった人間は一生涯底辺の暮らしが決定だよな」
「失職期間が半年を超えると、そこから先はホームレスだぞ」
「アルバイトの時給って、十代でも四〇代でも一生同じなわけだし」
「っていうか、プログラマとかって、デジタル労務者なわけだろ?」
「転職と離婚って数を重ねるごとに俗悪化するよね」
「自己都合で休むとかあり得ないでしょ。職にとどまりたいんなら」
「子供? 冗談じゃないよ。育ててほしいのはオレの方だぜ」』
(「小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句 バーベキューという名の格差」より 日経ビジネスONLINE9月24日配信号より。もとは
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小田嶋さんによると、若者が恐怖に縮こまって、チマチマしてしまっているそうです。小泉サン一派が格差を賛美する中で成功した経営者たちが、「貧困はモロな自己責任」と喧伝したために、若者たちは「『うかうかしてるとホームレスになっちまうぞ』という恐怖に駆られた形の、追い立てられる競争」に駆り立てられた結果、「チマチマさせられ、脱構築し、草食化し、サラダ化させられ、萎び菜っ葉化し、その実、とても苛立っている」というのです。

1999年、労働者派遣法が改正され、正規に就職しないで腰かけ的な仕事でつなぎながら自分のやりたいことを追いかけるという選択肢が、若い人びとの間にさらに広がりました。世の中は、そんな生き方をもてはやすような雰囲気でした。「自分探し」が流行語になり、私のところにもそんなテーマのエッセイ依頼がたくさん来ました。95年に訳出した『ソフィーの世界』という、ヨーロッパ哲学史をファンタジー形式で語るという本がベストセラーになり、哲学ブームがまだ続いていたからです。なにしろその出だしは、「あなたはだれ?」だったのです。それで、哲学的な思考とは何かを説くこの作品とはおよそ無関係だったにも拘わらず、当時の風潮に押されて、私などのところにまで「自分探し」エッセイの注文が殺到したのでした。

当時、私はいやな感じが拭いきれませんでした。ましてや、自分が訳した本がそのいやな感じを助長しているのかもしれないと思うと、いやな感じは耐え難いほどでした。バイトで自分探しという発想が、若者をおだてる裏でとても恐ろしい罠を仕組んでいるような気がしたのです。アルバイトでつなぎながら将来のために努力する若者は、いつの世にもいました。ミュージシャンをめざして、司法試験合格をめざして。けれど、2000年頃からは、そうした少数派の道に、多数の若者がおびき入れられたのではないでしょうか。まるで、笛の音に誘われて町から連れ出されたハーメルンの子どもたちのように。そして、気がついた時にはその状態が十年以上も続いて、さして特別のスキルを持たない、あいかわらず時間を切り売りするしかないおびただしい30代、40代を生み出して今に至っているのではないでしょうか。ほくそ笑んでいるのは、必要な時だけ調達できる安い労働力のぶ厚い層をあたえられた雇用側ではないでしょうか。

私は90年代後半に書いた「自分探し」エッセイに、必ずそうした懸念をしのばせ、さらには編集者の意図をひそかに裏切って、『ソフィーの世界』が本来伝えたかったことに注目していただこうとしました。その1篇は今、2種類の高校の現代国語の教科書に載っています。教科書に自分の文章が載るなんて、「作者の気持ちは?」などというテストの愚問にさんざん悩まされたひとりとして、おおいに迷いました。けれど、文章がずたずたにされ、私が思いも寄らなかった扱いをされてもいいから、「自分探し」を奨励する社会への警鐘が、ひとりでも多くの若者に届けばいいと考えて、採択を(今流行の言葉で言うと)了としたのでした。

エッセイには、おおよそこんなことを書きました。自分を捜しに不用意に社会に出ても、自分なんて見つからない、見つかるのは他者だ、他者が発見できれば御の字だ……。そして、今でも高校生に話をする時は、安易な進路を戒め、かといって正社員になるための椅子取り競争にしのぎを削るのではない、もうひとつの生き方があるのではないでしょうか、と問いかけることにしています。

小田嶋さんの言うように、若者が湯浅誠さんの言う「すべり台社会」への恐怖に身をすくませているなら、多くの企業が若者を正社員として抱え込めなくなることを見込んで、「バイトで自分探し」を奨励したこの社会の罪は深いと思います。この残酷な話に飛びついたのは、正社員の既得権に守られた年長世代です。「わが子を食うサトゥルヌス」(伝ゴヤ)の、暗黒の画像を思い出しました。

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