「春は菜の花、秋には桔梗、そしてあたしはいつも夜咲く薊」

中島みゆきは歌うけれど(「アザミ嬢のララバイ」)、冠をいただいた丸っこい頭のような薊の花は、日暮れとともに閉じる。薊は、歌のなかでのみ夜に咲く。

「薊の花も一盛(ひとさか)り」と諺にあるように、薊の花はやさしげでもはなやかでもない。とげとげしい葉が茂りに茂ったなかから傲然と伸びあがる、むしろかわいげのない花だ。色ばかりは紅から濃紫と、あいにく花らしいので、かえって戸惑う。

さらに薊のイメージを悪くしているのが、歌舞伎の「十六夜清心(いざよいせいしん)」だろう。なにしろ、心中くずれの僧、清心が名乗るのが、鬼薊清吉なのだから。彼は悪事の限りをつくして、無惨な死を選ぶ。

ドイツの俗信でも、薊はろくなことを言われていない。殺人現場や自殺者の墓に咲く。墓に生えると、そこに眠る死者が呪われている証だ。しかし、嫌われ者はもっと強力な嫌われ者にも嫌われる、との発想が、薊に魔女退散や呪い除けの役を振ることになる。

その最たるものが、十世紀半ばのスコットランドの故事だ。攻め込んだデーン人の斥候が薊を踏みつけた。彼はギャッと叫び、奇襲は失敗。ということは、かつて兵士は裸足同然だったのだ。このことがあってから、スコットランド王家は薊を紋章にかかげた。嫌われ者を救国の花とした、スコットランドという国のきびしい歴史がしのばれる。

この国の悲劇の女王、メアリ・スチュワートはイングランドのエリザベス女王と対立し、たたきのめされた。思いなしか、薊の花は、冠をいただいた美しい首のように見える。重たげにうつむく薊は、過酷な運命を粛々とうけいれて、うなじに何度も打ち落とされる斧によって殺されたメアリの悲しみを、いまに語り伝えるかのようだ。
P07薊

(伏見文夫・絵)
このエントリーをはてなブックマークに追加