土方巽。すでに伝説と化した舞踏家です。60年代、70年代を駆け抜け、暗黒舞踏を確立した土方巽、アングラと呼ばれた前衛の世界のまん中に君臨していた……なにか説明をくわえようとしても、気持ちが萎えます。陳腐な言葉しか出てこないことを恥じます。そんな土方巽にかかわった人びとをインタビューし、その足跡をたどったのが、稲田奈緒美さんの『土方巽 絶後の身体』です。じつはそこに数ページ、私の証言も納められています。学生時代に、ほんの短期間、土方巽のアトリエにいました。大学は封鎖状態で、デモにも集会にも参加せず、ぼんやりとしていた私を種村季弘先生が、「お前なんか、ドイツ語勉強するより土方んとこ行け。よっぽど勉強になるぞ」と送り込んだのです。

インタビューに応じているのは、帯に書かれただけでも、「赤瀬川原平、厚木凡人、粟津潔、石井輝男、加藤郁乎、唐十郎、田中一光、谷川晃一、堂本正樹、中西夏之、中村宏、野中ユリ、浜畑賢吉、細江英公、松岡正剛、松山俊太郎、麿赤児、元藤燿子、矢川澄子、横尾忠則、吉江庄造、四谷シモン、ヨネヤマ・ママコ ほか多数」。私の証言など、いちばん面白くない部類です。その部分を再録した下記に出てくるオープニングパーティには、このほぼすべてが参加しておられました。もちろん、種村季弘先生も。当時のアンダーグラウンドのオールスターです。

わたしが土方さんのところにいたのは、1970年8月に西武百貨店池袋店ファウンテンホールで催された土方巽回顧展「はん(火偏に「番」)犠大踏艦」前後のことです。裏には堤清二氏つまり作家辻井喬がいたわけです。

きのう、1月20日は、25年前に土方巽が亡くなった日でした。きょうとあした、2度に分けて稲田さんの大著から引用させていただきます。ぜひ現物を手にとってくださることを願って。「あの時代」の最良の上澄みないし沈殿物が、そこには充満しています。


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初日には、オープニングパーティが西武百貨店の上階にあるレストランを貸し切って行われた。このパーティで隅の方にいたのが、現在翻訳家・評論家として活躍している池田香代子である。池田は、1968年に東京都立大学に入学し、69年に都立大へ着任した種村季弘の下でドイツ語を学んでいたが、間もなく大学紛争によって大学がロックされ、種村宅で手伝いをしたり、種村に連れられて様々なところへ出かけるようになった。当時は「真面目な、四角四面の19歳の女の子」であり、土方についても関心がなかった。ところが種村から、大学よりも土方のところへ行く方が勉強になると言われ、アスベスト館で舞踏手たちの賄いや手伝い、土方の娘がらとべらの子守などをするようになった。「本当に才能も何もない、紛れ込んだ女学生という感じ」と謙遜しつつ、刺激的で魅力的なアスベスト館での経験を思い出している。

「オープニングパーティは、参加している人たちがすごかったですね。三島由紀夫が途中から入ってきて、挨拶をしてスーッと帰りました。私は隅っこで興奮していましたが、後から考えたら、最後のお別れを言いに来ていたのでしょうね。三島は死ぬ前に、いろんなところへお別れをしに行っているんですが、あれがアングラの世界へのお別れだったんですね。それから、寺山修二さんがいて、土方さんたちの輪に入りたいけれど、皆に馬鹿にされて、意地悪されて、仕方ないから隅っこのテーブルにいた私のところへ来て、話しかけてきたんです。『天井桟敷に入りませんか?』と言われましたが、『ヘンな人!』と思っていました。私は天井桟敷よりも、唐十郎の方が上だと思っていましたから、シラッとしていました。そこにいた皆さんも、唐さんの方が上だと思っていたんですよね。四谷シモンさんなども、寺山さんに対する態度は、残酷と言えるほどでした。シモンさんは美しくて、喧嘩も強い。『何よ、あんたなんか、ただの女じゃないの!』って言われて、『私はただの女だなあ』と思っていました。そう言う人たちを隅っこから見ていて、面白かったですね」
 
池田は、お手伝いといえども種村から預かった大切な学生のため、そのようなパーティに参加させてもらえたが、その他の若者は、パーティには参加させてもらえなかった。当時のアスベスト館には、新宿でヒッピーをしていて拾われた者、大学紛争でドロップアウトしてきた学生、演劇や美術から転向してきた若者などがゴロゴロしていた。男性が多かったが女性もおり、常時30人くらいが出入りを繰り返していた。土方はそういう若者たちを、作品やキャバレーの金粉ショーなどにダンサーとして出演させていたのである。
 
ただし、命令を下すのは土方だが、実際に何かをやらせたり、若者を説得したり、引き止めたり、逃亡を食い止めたりするのは玉野黄一で、兄貴役のように皆を束ねていた。例えば、西武百貨店で演じた作品の中で、白塗りの男たちがケチャのように、ベジャールの<ボレロ>のようにテーブルの上に立って輪を作り、胸を叩くというシーンがあった。音楽にサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」がかかり、着物を脱いでからだに縛り、天を仰いだ男たちが、延々と胸を叩き続ける。見ていた池田は「すごく悲しくて、すごくよかった」と言うが、それをやっていた一人の青年が、「自分はこんなことしたくない!」と言ってはゴネ、「俺は帰る!」と夜になると泣いていた。それを、土方が引き止めて、期間中繰り返しやらせたのだ。独裁者のようでもあり、ときにひどい仕打ちもする土方だが、池田によれば、反面で「可愛こぶりっ子な面と、義理堅さ」があり、それが魅力になっていた。それぞれに理由を抱えて浮遊する若者たちが、何かに牽かれて集まり、疑問や不満を感じながらもそこに留まり、からだを動かすことで何かを掴むことができる、そんな不可思議な磁力があったのだ。
 
アスベスト館での生活の様子は、土方自身が「暗黒舞踏の登場感覚」という文章に記している。

 <芦川羊子の部屋は建物の東側に当たる階右端の畳間、小林嵯峨は同階左側の畳間、仁村桃子は嵯峨の部屋とベニヤ壁一枚で仕切られた手前突出しの畳間、二階真中の三畳間が今泉良子の部屋である。嵯峨の部屋の真下にある四畳半に土方が寝起きしている。建物の西側に当たる二階の個室三畳には弾充が寝ており、その窓の下に吠えない犬シバの小屋がある。(中略)
 
五十畳のフロアは酢酸でふく、便所の床は硫酸で焼きブラシをかける。踊り手の肌の手入れには、ライポンと石鹸を半々に使う。この建物から去っていった男たちの遺留品、枕や下着は石油をかけて焼却する。(中略)
 
時折、あどけない純フーテン達が感性の解放区を求めてこのアスベスト館に立寄る。彼らの一人が踊り子の所持品を包みのまま持ち出したことがある。包みの中に短刀があった。(中略)
 
朝が来る。寝床から立上がる死体は、自給経済的肉体のホコリをまとって、マトンをくらい、可視的な金銭を得るために劇場に運ばれる。ギバサ(海草の名。踊りの題名に使用)、売ラブ(踊りの題名)。その看板を、たくさんの探偵はむらがって嗅ぐ。そして寝床のまま水平に運ばれた死体の舞踏を前にして立つのである>
(「fashon's Eye 6」1970年10月)
 
このようにアスベスト館の日常は、玉野(弾充)、芦川、小林ら内弟子が寝起きし、ショーやストリップで金銭を稼ぎながら舞踏の稽古をする一方で、前衛、アングラなどのイメージに惹かれてやってくるフーテンのような若者たちが、住み着いては去っていく混沌とした場だったのである。(続く)
 
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