「アメリカ帝国」を意味する「アメ帝」という言葉は、サヨクさんの、一部、口の悪い方がたがつかってきました。でも、今や「アメリカの帝国主義」は、けっこう目にします。いろんな方が、「アメリカの単独覇権主義(ユニラテラリズム)」と違わない意味でつかっています。先おとといの2月26日にご紹介した『天皇とアメリカ』の吉見俊哉さんとテッサ・モーリス・スズキさんも、特別サヨクな学者さんではありませんが、ふつうに連発しています(サヨクウヨクなんていうのも時代錯誤の気がしますが、行きがかり上、言ってしまいました)。

第二次世界大戦後、アメリカは西側の盟主として、国際機関をつくったり国際的ルールを定める際に主導権を握り、ドルの世界の基軸通貨としての地位を確固たるものにし、またいろんな国で親米政権のたちあげに陰に陽に助力したりして、体制固めをしてきました。「世界の警察官」を名乗って、世界中の親米国に基地を展開し、さまざまな戦争を引き起こしてもきました。20世紀も残すところあと10年ほどになった時、冷戦が終わり、唯一の超大国となったアメリカは、グローバリゼーション(その実態はウェイ・オブ・アメリカ、アメリカ方式なのですが)を掲げて、全世界を単一の市場へと組み込んでいこうとしました。アメリカの単独覇権は圧倒的な現実で、ゆるぎないかに見えました。

けれど、しろうとの私には分かりませんでしたが、このアメリカの「世界支配」体制は、完成した時にすでに崩壊が始まっていたのでしょう。2001年の911事件このかた、戦争や金融危機がひきもきらず、異常気象のための不作が恒常化しています。当のアメリカを筆頭に、先進国はどこも財政難のため通貨をじゃぶじゃぶ供給し、行き場を失ったマネーは投機に流れ、金融グローバリゼーションでよりいっそう自由に動けるようになったこの投機マネーが農産品市場に流れ込み、食料の高騰を招いています。独裁によって政治的安定を確保してきた中東の国ぐには、食料をはじめとする生活物資を安く供給することで、人びとが政治的な行動に出ないようにしてきましたが、このところの食料高騰でそれができなくなった。すると、いっぺんに人びとの政府批判、ひいては攻撃が始まりました。石油を支配したいアメリカによってコントロールされてきた親米政権もつぎつぎと倒れ、あるいは危機に瀕しています。

アメリカは、民主主義を標榜しながら、世界のあちこちで親米独裁政権を支持してきました。中東の国ぐにでは、王による独裁的な統治に好意を示してきました。サウジアラビアは「サウド王家のアラビア」という意味です。王をアメリカの傀儡にしてきたのです。なぜこういうことをおさらいするかと言うと、進行中の中東革命から、日本の過去、そしてありえるかもしれない未来を思うからです。

アメリカ帝国主義と言いますが、そもそも帝国は植民地をもつものです。けれどアメリカは、フィリピンを手放したあとは、いちおう植民地をもっていないことになっています。第二次世界大戦後の世界秩序で、帝国主義と植民地支配が否定されたからですが、アメリカには北マリアナ諸島やグアム島、プエルト・リコなどの「自治的・未編入領域」があるので、「いちおう」と言いました。ともあれ、これらはかつてイギリスがインドを植民地にしたような意味での植民地はありません。

では、植民地なき帝国として、アメリカはどのようなふるまいをしてきたか。独立国に親米傀儡政権をつくる、そして政治的経済的軍事的、さらには文化的に従属させ、米軍基地を置く、ということだったと思います。軍隊を駐留させることができ、政府が言いなりなら、植民地経営の負担から逃れながら実質的には植民地をもっていることになります。これは、きわめて効率的な、新しいタイプの植民地支配です。

アメリカは、もちろん戦後の日本にも傀儡政権をつくることを画策しました。それも戦争中から。1942年の「ライシャワー・メモランダム」には、「ヒロヒト天皇はアメリカの政策実現のための最良の傀儡(best possible puppet)となりうる」と書かれてありました。ライシャワーとは、言うまでもありませんが、のちにもっとも有名な駐日アメリカ大使になるエドウィン・ライシャワーです。任期中にとどまらず退任後もたいへんな人気を博しましたが、その裏で冷徹なまでにアメリカの国益を追求し、先おととい書いたように、在沖米軍をグアムに退くにあたって法外な費用をふっかけたりして、日本政府を手玉に取ったしたたかな政治家です。

ライシャワーの進言にも拘わらず、このくににサウジアラビアやヨルダンのような、王が政治的な実権をにぎった「天皇による傀儡政権」ができなかったのは、天皇の戦争責任を問う国際世論にあらがってまで「天皇国ニッポン」をつくるのは得策ではない、とアメリカが判断したためでしょう。けれど、アメリカの帝国のまなざしは、日本を傀儡をいただくニュータイプの植民地と見て、その経営にいそしんできたのだと思います。しかも、その「ベスト・ポッシブル」な例として見ていた、いまも見ているのだろうと思います。

私たちはこのたびの政権交代で、何党が政権をとろうが、アメリカの意向に背けば鳩山政権のように潰される、潰されたくなければ、菅政権のようにぶざまなほどアメリカの便宜をおもんぱからなければならないということを、したたかに思い知らされました。でも、いや、だからこそ、中東革命がアメリカの傀儡政権をゆるがせているように、このくにでも、アメリカの傀儡となるしか政権を維持できないニュータイプ植民地であることを峻拒する、そうした動きが、この社会にふさわしいかたちで出てこないものでしょうか。

その昔、すべての道はローマに通ず、と言われました。ローマ街道は、ローマ帝国が属州を武力で支配するための軍事施設です。その維持費用が、属州をもつことによる経済的利益をうわまわるほどになったことが、ローマ帝国滅亡につながりました。いまアメリカでは、海外基地の縮小が議論されています。その維持が、破綻に瀕した国家財政をおおきく圧迫しているからです。ローマの落日と重なります。

そんないまだからこそ、全国の、とりわけなんと言っても沖縄の米軍基地について、私たちこのくにの主権者が真剣な議論をする時にきていると、私は思います。在日米軍基地は、傀儡政権のうしろにひかえる、帝国の意をうけた人形遣いである官僚組織(先おととい書いた「影の国家」)の、もしかしたら唯一かもしれない権力の源泉としては合理的なのですが、それ以外の、私たちいかなる他者の利益の道具にもされたくない市民、わけても基地の被害をこうむっている市民にとっては、とことん非合理なものでしかありません。

中東革命をアルジャジーラ・イングリッシュで見ながら、そんなことを考えました。

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