「100,000万年後の安全」は、原発から出される高レベル放射性廃棄物を地中深くに埋設する、フィンランドの国家施設「オンカロ」を描いた映画です(監督マイケル・マドセン、2009年、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア合作)。そのパンフレットが届きました。私も一文を書かせていただいたからです。

ところが、ページを開けてびっくり。たいへんな執筆陣なのです。森直人(映画評論)、和合亮一(詩人)、小出裕章(京都大学原子炉研究所助教)、広河隆一(ジャーナリスト)、須永晃博(スウェーデン社会研究所所長)、舘野淳(元日本原子力研究所研究員)、飯田哲也(環境エネルギー制作研究所(ISEP)所長)、現下、考えられる最高の顔ぶれです。寄稿の依頼があったとき、これらのお名前を聞いていたら、お受けするかどうか、迷ったろうと思います。

でもまあ、あとの祭りです。こういうものは、知らずに書いてしまうのが一番ですね。私のページだけ、なんらの専門性もなく、ためになる知見も見あたらないのですが、こういう人もひとりぐらいいてもいいかな、と気を取り直しました。

この映画、1か月以上前にとっくに公開されています。ご覧になった方もおられるでしょう。311を受けて、パンフレットもできていないのに、急遽前倒しで、全国各地で封切りになったのです。今もあちこちで上映しています。ひとりでも多くの方に見ていただきたい、そして私たちがしでかしてしまった核汚染物質産出という事実の重さを、この映画から感じとっていただきたいと思います(公式サイトはこちら)。しかも、言うまでもなく、私たちは東電の原発事故により、核汚染物質を地球環境に拡散させ続け、それがいつ終熄させられるかわからないという、取り返しのつかない事態に陥っています……。

パンフレットには、シナリオも全文が採録されています。映像に語らせる寡黙な作品だからこそ可能な10万年後の安全わけですが、これは貴重です。映画のシーンから採った映像を背景にしたシナリオ採録ページを繰ると、今なお瞬時に作品世界が圧倒的な力で、でも静かに迫ってきます。一般書籍として、書店でも扱っているそうですので、すでに映画はご覧になった方も手に取ってみてください(こちら)。

以下に、配給会社のお許しを得て、私のエッセイを転載します。作品の片鱗なりと、味わっていただければ幸いです。そして、劇場に足を運ぶ気になってくだされば、もっとうれしい。

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オンカロ。謎めいたことばです。オンは隠を連想させ、秘密の印象を深めます。この映画を見た人には、忘れることを許されないことばになるでしょう。
 
映画のテーマは、原子力発電所から出る放射性廃棄物の最終処分。まことに地味です。しかしこの地味なテーマは思いもかけず、文明とは何かというとてつもなく大きな問いの前に私たちを引き据えます。もっとも汚いものに向き合うとシステムが見えてくる、その典型が、現存世界では核のゴミであり、作品はそこから私たちの文明を正面切って問おうとするのです。
 
核廃棄物が発する放射線には、10万年たたないと消えないものもあるので、核廃棄物はこの気の遠くなるような長い間、保管しなければなりません。その間には、地殻変動や氷河期も襲うでしょう。人間が引き起こす戦争もあるでしょう。それらすべてに耐える地層深くに危険きわまる物質を保管する、そのためのフィンランドの国家プロジェクトがオンカロです。
 
作品は、オンカロの技術的側面や、これが決定されるまでの政治的社会的プロセスには触れません。そうではなく、この巨大地下都市のような空間がつくられていくさまを、おそらくは撮影用の設定でしょう、ひとりの爆破技術者の孤独な姿を地下に追うことでたどり、巨大な蟻の巣のようなこの施設のとてつもなさに、見る者の思いを導きます。そして、数人の専門家たちへのインタビューによって、オンカロの持つ意味を私たちの心に静かに、けれどしたたかに刻みつけます。
 
オンカロの最大の難問は、ここが危険な場所であることを後世の人びとにどうやって伝え、知らせるか、ということです。専門家たちは、今の文明が10万年後まで途切れることなく存続するとは考えません。かれらは、それが現在の人類ではないかもしれない、という可能性すらほのめかします。確かに、時間をさかのぼれば、今から10万年前は、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出発して世界に広がり始めた時代です。
 
その時、どのような「人びと」が出現しているにせよ、目がふたつ、手と脚が2本ずつということに変わりはないでしょう。目は一対でなければ距離感をとらえることができませんし、一対の脚がなければ移動ができませんし、一対の手がなければ文明はつくれません。そして、目も手も脚も、一対以上持つことは、それらを維持するためのエネルギーがよけいに必要になるので、生命維持の経済合理性に反するからです。とは言えその「人びと」が、たとえば胎生ではなくて卵生かも知れない、という可能性は払拭しきれないのです。アメリカのNASAは、宇宙の知的生命体に信号を送り続けています。それと同じことを、人びとはオンカロにも配慮しなければならないと考えています。NASAの計画と違うのは、そこには夢などかけらもないということです。あるのは、深刻な憂慮です。
 
はるかな未来のインディー・ジョーンズが解読するために、国連の6つの公用語を刻んだモノリスを建てよう、というアイディアもあります。まるで未来のロゼッタストーンです。けれどそこには、高らかに王を讃える古代の晴朗さはありません。それは、重大な警告を不吉で沈鬱な文体で伝える呪いの石、呪詛のいしぶみです。私たちは、このような絶対負を遠い後世に残さないわけにはいかない文明を築いてしまったのです。
 
その文明は、はたして正しいと言えるでしょうか。文明に正しいも正しくないもない、という意見もあるでしょう。でも私は、遠い未来の「人びと」にたいし、地球の一部に使用禁止を宣告することなくして成立しえない文明は許されないのではないか、と思うのです。たかだか数十年、ほんのひとつまみの裕福な人びとが核エネルギーの恩恵に浴する代償が、おびただしい「人びと」への10万年にも及ぶ呪いとは。その文明は果たしてそのエネルギーに手を出すべきだったのか、ほかの道はなかったのか、と問い質されてもしかたないのではないでしょうか。
 
けれど現に私たちは、呪詛を残す文明を築いてしまっています。しかも、オンカロの呪詛を石に刻もうとする人びとは、現存する人類のなかでも未来にたいしてきわめて誠実な、責任感のある人びとなのです。これまでに原子力発電所から排出された核廃棄物はおよそ25万トンに達し、フィンランド以外に「オンカロ」を建設できた国はありません。そして、新興国に原子力発電所が続々とつくられることも相俟って、忌まわしい核のゴミは今後その数倍に膨れあがる見通しです。
 
とくに日本の私たちは今、数千世代どころか目の前の子ども、つまり次世代への責任感すら稀薄な人びとが、「オンカロ」を確保するあてもないままに原子の火をもてあそんできたことを思い知らされています。暗澹たる思いに駆られるのは、はたして私だけでしょうか。

 

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