6月11日の「脱原発100万人アクション」、岩上安身さんは全国ネットを構築し、朝から晩まで中継しました(アーカイブはこちら)。イベントは全国と海外で100カ所以上、中継現場は60数カ所にのぼったそうです。各地でボランティアの「中継市民」が、ノートパソコンどころかiPhonや携帯電話まで駆使して映像をネットにあげ、岩上チャンネルがそれらを束ね、拡散する場を提供したのです。市民による市民のためのメディアはここまで来たか、それにしても若い人びとがネットを駆使する技術や創意工夫のすばらしさ、そしてなにより、時間を惜しげなく投入し、お金など度外視して、今自分がすべきと思うことを淡々とこなす自然体のたくましさには、見ていて胸が熱くなりました。

私は、朝一で新宿に特設されたメインスタジオに行きました。このたびのテーマソングは、斉藤和義さんの「ずっとウソだった」。私の出演中も流れました。この映像、音は今ひとつですが、最初にアップされ、ご本人かどうかちょっとした騒ぎになったものです。「東電も北電も中電も九電も」と、イニシャルではなく実名で歌っていらっしゃるので、こちらをアップしました。





スタジオでは、もっといい音質のものが流れました。目尻ににじんだ涙を前田真里さんに見とがめられ、「ただの涙が悔し涙になった」と白状しました。それにはわけがあります。ちょっとこみいっているので放送中には言わなかったそのわけを、ここに書きます。

あのとき言ったように、アーティストが直感で書く歌詞はすごいと思います。斉藤さんの正直な気持ちがまっすぐに表現されている。それは私の気持ちでもあったので、思わず涙が浮かんでしまったのですが、斉藤さんは岩上さんのインタビューで、「なにも考えずにきてしまった自分にへこんだ」というようなことをおっしゃっていました。私にも、原発の危険性を知りながら、これといってなにもしてこなかった自分への腹立ちがあります。

けれど、それだけだろうか、私たちはずっとウソに騙されていただけなんだろうか、というわだかまりがありました。今もあります。もちろん、25年前のチェルノブイリ事故からずっと原発を不安な気持ちでながめてきた私と、あまり意識してこなかった斉藤さんたち若い世代の方がたでは、立場が違います。また、原発立地道県と、そうではない都府県、さらには自分が住む市町村に原発がある人とない人とでは、情報量も思いも異なるでしょう。つまり、ウソに騙されてきた、と言い切れる度合いが、人によって違うということです。

原発は、いったん事故が起きるとたいへん危険なものだから、絶対安全でなければならない、だから絶対安全に運転している──これが、私たちの多くがなんとなく納得してきた論法でした。それで、スリーマイルで冷却材喪失事故が起きようが、チェルノブイリで炉心爆発事故が起きようが、あるいはそのたびに世界が原発に慎重になろうが、このくには独立独歩、原発推進にいそしんできました。この奇観を許したのは、技術立国だという、また秘密国家ではない主権在民の民主主義国家だという自信があったからだと思います。

けれど、危険だから絶対安全とは、すこし冷静に考えれば論理矛盾もはなはだしいことに気づきます。しかもこのたびの震災原発事故で、このくには地震や津波に他国に数倍して、もしかしたら世界一脅かされていること、そうした天災に原発は技術的にも運営組織的にもまったく抗う術をもたなかったことを、私たちは思い知らされました。

「危険だから絶対安全」が言い過ぎなら、「危険だけど私たちのもとでは絶対安全」と言い換えてもいいでしょう。でも、まやかしであることに変わりはありません。私たちのもとではという自信には根拠がなかった、ただの思い上がりだったということがばれてしまいました。けれど、なぜこんな見え透いたまやかしがまかり通ってきたのでしょう。なぜ私たちは、こんなウソにずっと騙されてきたのでしょう。

メインスタジオにいた間、思い出していた文章があります。伊丹万作「戦争責任者の問題」です(こちらの「青空文庫」で読めます)。これは1946年、敗戦翌年のエッセイですが、戦後、戦争に協力した責任が各方面で問われました。伊丹が属する映画界も例外ではありません。むしろ、戦意高揚のために劇映画やアニメーションを作り、テレビのない時代の映像ニュースを一手に引き受けていた一大メディア産業です。いきおい、協力者追求もきびしくなります。でも、と伊丹は立ち止まります。みんなが、自分は騙されていた、と怒っている、けれど、子どもはともかくとしてすべてのおとなは騙されると同時に騙してもいたのではないか、これは正義の戦争だ、絶対に勝つ戦争だ、と。そして、それにすこしでも背くと見られる言動を、お互い同士が身近であればあるほどきびしく批判しあい、締めつけあってきたのではないか。

「いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。」

伊丹はきびしくたたみかけます。「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。」そして極めつきは、「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。

この暗澹とした伊丹の予言はあたったのです。絶対安全な原発というウソで塗り固められた、経済成長という名の一本道を、私たちはむしろ意気揚々と突き進み、世界のトップに躍り出るかと思われた時期もありました。けれど、人口減少や世界情勢といった状況に、有効な手も打たずにのみこまれ、1人あたりGDPは08年には17位、2位のシンガポール、4位の香港のはるか後塵を拝することになっています。幸せ度ランキングだと、順位はもっと下がります。

そこへきて、今回の大地震津波による原発事故です。私たちは半世紀かけて滅びの支度をしてきたのかもしれません。地震と津波の被災地への支援復興に投入したいエネルギーもお金も、原発事故のために大幅に削られ、それでもとうてい足りるはずのない後始末費用に、私たちは日々怯えています。それ以前に、すでに降り積もってしまった、これからも降り積もるかも知れない放射性物質や、それを含んだ食品に怯えています。豊かな暮らしどころか、次世代に命をつなぐことができるのだろうか、と。

「わがくにの原発に限って、重大な事故を起こすはずがない、なぜならわがくには世界に誇る技術立国なのだから、人材は優秀でアメリカのオペレーターのようなミスは起こさないし、管轄する官僚や原子力エリートも優秀で旧ソ連のようないいかげんなことはない」と、「わがくにに限って、戦争に負けるはずがない、なぜならわがくには神の国なのだから、きっと神風が吹くし、精神力では絶対に負けないのだから」。1945年を鏡としたような、そっくりの精神構造です。

だけど、もうやめませんか、騙されるのは。伊丹は書いています。「現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」この「現在」は、残念ながら2011年でもあることを認め、思い切りへこんだらそれをバネにして、これからはすこしでもましな選択を重ねていきませんか。なによりも、このていたらくにたいして責任の軽い、なのにより放射能に影響を受けやすい若い人びとや子どもたちのために。
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