ある新聞の記者さんから電話がありました。

「大阪府の教育基本条例案についてお話を伺いたいのですが」

わたしはこうお答えしました。

「ばかばかしすぎて、ちゃんと報道を追ってないのです。ですから、まとまった意見らしいことは申し上げられそうにありません、ごめんなさい」

けれど、電話を切った瞬間、自分の声が澱(おり)のようなものとなって沈んでいき、心のどこかにひっかかりました。それから何日かたったある日、別の新聞社から同じ取材依頼の電話がきました。
こんどは受ける気になりました。あの断った取材が気になっていたからです。そして初めて大阪府教育基本条例案を読み、澱の正体がわかった気がしました。

条例案の7割は、いかに「問題教師」を排除するかに文言を割いていました。教育委員会への、敵愾心の表明としか言いようのない文言も目につきます。あとは、上意下達と相互監視を義務づける組織論で、「上司」「部下」という言葉が頻出します。そこからは、子どもの育ちと学びをいかに支えるか、といった教育の理念は読み取れません。

一般に前文とは、その法律の理念を高らかにうたうものでしょう。ところが、この条例案の前文は、まるでまざまざと敵を見据えているようなマイナスの情念がその論理を支えています。いわく、教育は民意を受けた議会と首長の主導のもとで行われるべきものなのに、政治が教育の場から遠ざけられてきた結果、好ましくない状況を生んでいる、だから民意を反映させるために、政治が教育に乗り出すのだ…これを最もよく表しているのは、学校の目標は知事が定める、とする第6条でしょう。

この論法に思い出すものがありました。去年の初め、高校授業料無償化から朝鮮学校を除外すべしという声が上がったとき、いちばん声高だった1人が橋下徹大阪府知事でした。その危険性を、わたしはブログのなかで「ハシズム」と呼んでみました(「さむい政治家、世論を煽る 高校無償化と朝鮮学校」)。今、大阪で「反ハシズム」という言葉が躍っていますが、わたしもけっこう早い時期に思いついていたわけです。その言わんとするところは、まず敵を作り、攻撃して喝采を集める、その喝采を「民意」であるとして、「民意に従うのは政治家としてのわたしの務めだ」と大見得を切る、これは独裁者のふるまいだ、ということでした。教基条例案前文は、まさにこの1年半前の論法をそっくりなぞっています。きっと橋下さんご自身が気合いを入れて書いたのでしょう。

わたしはドイツに関わり、ナチス時代の作家、ケストナーの子ども向け作品なども訳しています。当時最も民主的といわれたワイマール憲法のもとでなぜナチスが政権をとったのか、知っているつもりでした。そこでは多くの人びとが、「あんなばかばかしい主張をする連中が政権などとるはずがない」と高をくくったことが、ナチスの政権奪取を助けたのでした。

なのに、それとそっくり同じ反応を、わたしはしていました。
大阪府教基条例? ばかばかしい…この軽視、この訳知り顔の無関心が、独裁への道の敷石となるのです。わたしは今、一番目の取材をお断りしたことを恥じ、反省しています。メモを取らなかったので、記者さんのお名前がわからず、困っています。記事の参考にしていただくにはもう遅いでしょうが、せめてお詫びがしたいのです。

 
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