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手紙を渡す議員の右手、それを受け取る天皇の両手、その左肘に添えられた皇后の右手。

この日、腕を組んで招待客のあいだをまわっておられたとしても、皇后という方は、 天皇の手の動きに差し支えるようなことはなさらないのではないでしょうか。いえ、皇后でなくても誰しも、腕を組んでいる人が何かを受け取ろうとしたら、くつろいだ場面ならいざ知らず、あらたまった場面では手は離すのではないでしょうか。とっさの、しかも異例のことで、テニスの腕前は天皇より上といわれる皇后にして反射神経がまにあわなかった、ということもありうるでしょう。手紙が侍従に渡ったときも、手はそのままでした。

それでも皇后の右手は、「お受け取りになられて、よろしいのでしょうか?」と声にならない声で戸惑いの問いを発しているように見えるのです。差し出されたものを両手で受け止めた天皇の自然な礼節とともに、後世そのように歴史にとどめられるのではないかと思うのです。それは、憲法のもとでの天皇皇后であろうとして、公衆の面前での一挙手一投足に神経を張りつめてこられたお2人のこれまでに照らして、あながち的外れな評価ではないと思うのです。

天皇、そして皇后は、存在それ自体が政治的です。非政治性をまとうことを求められる、高度に政治的な存在。たとえば、皇后の誕生日ステートメントの、五日市憲法の人権条項に触れたくだりは、すばらしいものでした。けれど、もしも春の園遊会で、だれかが憲法の危機をうったえる手紙を差し出したとしたら、あの言及が可能だったでしょうか。ある政治的文脈が生じてしまい、微妙だったかもしれないと、わたしは思います。

たとえ話を続けます。その手紙がいかに現憲法を思う心から書かれていたとしても、言い訳になりません。みずからが支持し遵守する義務を負った現憲法が、第3章で高らかに謳っている人権について、それが現憲法の生まれるはるか以前から学校の教師や農民が研究していたものであること、現憲法を超えた人類史的普遍性をもつものであることについて、みずからの思いを述べる自由を皇后から奪ったかもしれないのです。

それが、天皇と皇后が帯びる政治性です。憲法の内にあって、それを遵守する義務こそ負え、憲法がどうあるべきかには私見を一切表に出してはならないのが、天皇皇后という存在です。

ともあれ天皇になにがしかの実効力があるかのように主権者がふるまうのは、倒錯というものです。ましてや、選挙によって一時権力を主権者から委託された国会議員がそうするのは、二重の錯誤です。言うまでもないことですが、現実を動かすのは、天皇ではなく議員の仕事なのですから。 

今回、若い議員の幼い不見識を、政界や社会はとんでもない(ろくでもないと言いたいところです)騒ぎにしてしまいましたが、脅迫めいた手紙を送りつけられた若い議員を天皇が気遣う、というかたちでおさまっていきそうです。主権在民の民主憲法下にあるはずの天皇制が不穏な動きを見せたのを、天皇みずからが憲法の中に収拾した、ということでしょうか。将棋の米長氏のときと同じです。

やれやれ、です。この社会はいつまで今の天皇皇后の見識に依存して、憲法下の象徴天皇制を維持するつもりでしょう。社会が天皇制を欲するならなおのこと、すでに陵についての相談を進めていることを公表した、この高齢の、責任感の強い、強すぎるご夫婦から、早く「自立」しないと。そういえば、騒ぎの起きたとき、わたしはツイッターに、天皇に引退はないのか、と書きました。今回の騒動で、天皇皇后であり続けるのは苛酷なものだと、あらためて思いました。




 
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