旅行

漁師 陳春生のこと

台湾からピースボートに乗り込んだ陳春生さんに会ったのは、歓迎のディナーの席でした。浅黒い、筋肉質の陳春生さんは、軽く猫背になってぎろりとこちらに視線を投げ、なにやらひとりごとをつぶやきました。

どこにいても、自前のスタイルを通す人のようでした。テーブルを囲んだ人びとが、陳春生さんのことを紹介してくれます。そのいちいちを、隣に座る通訳さんがかれにささやきます。そのいちいちに、少しふんぞり返り気味に腰かけた陳春生さんがうなづきます。

「陳さんはね、 組合員1万人以上をたばねる漁協の組合長なんですよ」
「小さいほうだ、もっと大きな漁協もある」と陳さん。
「石原が尖閣諸島を都有化するといったでしょ、あのあと陳さんは、漁船千隻出して、尖閣海域をデモしたんですよ」
 陳さんが、大きな目をぎろぎろさせながらうなづきます。 
 こちらは、「まあ、そうだったんですか」としか言いようがありません。解説者が続けます。
「政府のお役人は、『領土のためにがんばってください』と言ったそうです。でも陳さんは、『領土のためにデモするんじゃない。 生活権を守るためだ』とつっぱねたそうです」
 陳さんが、また目をぎろぎろさせながらうなづきます。
 わたしはうれしくなって、言いました。
「石垣の漁師さんも、同じことを言っていましたよ。日本も中国も、政府が領土だなんだって騒ぐと、あのあたりでおちおち魚も捕れない、って」
 陳さんが、やおら口を開きました。
「石垣の漁師とは、もう話がついている。会って話をしようとしたんだが、言葉が通じない。しょうがないので、ビールを飲ませた。ところが、石垣の漁師は飲んべえで、酒が強い。しかたないので、ジョッキの中に小さなグラスを入れて、そこに強い酒を注いでからビールを入れた。やっと酔っぱらった。で、話はついた。こんどはいっしょにやる」
 陳さんが愉快そうに大笑いしています。通訳も入れずに石垣の漁師さんと会って、いったいなにを話すつもりだったのでしょう。酔っぱらったから話はついたとは、次回の共同行動の話がまとまったとは、いったいどういうことでしょう。

わたしはおおいに戸惑いながらも、海人たちは悠久の歴史をこのようにして交流してきたのだろう、と想像をたくましくしました。そして、陳さんや石垣の漁師さんたちこそが、あの島をめぐる海で生きてきた、島のほんとうの持ち主たちなのだ、と思いました。

ソフトボーダーという考え方があります。国境線をびしっと引くのではなく、種々の条件をあいまいに取り決める、新しい領土紛争解決の方法です。東京や北京の政治家や官僚にはにわかには理解し難いでしょうが、現場の生活者、このばあいは尖閣海域で魚を追う日本や台湾や中国の漁師さんたちなら、きっと合意できる、自然で合理的な考え方です。

話がまとまった暁には、漁師さんたちはあの、強いお酒をしこんだおそろしいビールで乾杯するでしょう。


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詩人ソ・ヘソンのこと

「池田さんの話を聞いていると、自分が日本人になったような気がしてくる」

複雑な面持ちで複雑な感想をもらしたソ・ヘソンさんは韓国の詩人、おそらく50代だと思います。男性です。

去年の秋、わたしたちはピースボートの船上で出会いました。日中韓台が、沖縄をいわばハブとしていかに友情を深めていくか、といった趣旨の 船旅での、シンポジウムの一幕です。友情と言うのなら、そのずっと手前で、相互の近現代史理解には溝があることをまず認めあわねばなりません。不快な作業です。

中韓台の人たちが不快なことはわかりますが、日本のわたしだって不快です。クルーズのとちゅう、釜山で合流したわたしは、こんな発言をしました。

「韓国人に会うのはいやです。韓国に行くのもいやです。中でも釜山だけは来たくありませんでした。

なぜなら戦争中、祖父が日本油脂の釜山工場長だったからです。燃料油が足りない日本は、韓国の松林を濫伐して、その根から油を絞っていました。松根油です。工場は、韓国の人びとを昼夜交代の12時間労働でこき使っていました。祖父は晩年、機嫌のいいときには、子どものわたしを相手に、そういう話をしました。祖父の絶頂の時代だったのだろうと思います。工場は危険に満ち、過労でつい居眠りが出てけがややけどをした工員たちの「アイゴー!」という悲鳴が響いていたそうです。祖父の話には、よく憲兵が出てきました。しょっちゅう工場長室に憲兵がいるのです。祖父の話は、子どものわたしには恐怖で、悪夢にうなされました。

「アイゴー!」という声を想像するのも恐かったけれど、やさしい祖父がこんな恐ろしい話に興じることが恐怖だったのです。そんな祖父の足跡の残る韓国だから、来たくなかった」

それを受けてのソ・ヘソンさんの第一声は強烈でした。

「わたしの父は戦争中、中学生だったが、勤労奉仕で松の根っこを掘っていたそうです。あの根っこは、池田さんのお祖父さんの工場に行ってたんですね」

日本人韓国人半々の会場にはじける爆笑の中、だから韓国人とは会いたくないんだ、と思った瞬間でした。けれど、ソ・ヘソンさんは続けて言ったのです、「池田さんの話を聞いていると、自分が日本人になったような気がしてくる」と。

はっと息をのみました。自分が日本人だったら、やはりわたしのように、韓国人とは会いたくないと思い至るような、良心の呵責にさいなまれるだろう、という意味であることは、続いての発言でよくわかりました。目の前の相手の立場に自分を置いてみる。相手が開陳する心情をなぞってみる。それだけでもすでにすばらしく自由な寛容の精神のなせる技です。その上で、ソ・ヘソンさんは「わかった」と言ったのです。同じ時代を生きる者同士として、互いの父祖の代に起こった不幸な出来事を、なかったことにするのではなく、乗り越えて行く。それは可能だということを、ソ・ヘソンさんはみごとなパフォーマンスで表現し、日本人からも韓国人からも納得を得たのです。

シンポジウムのあと、訪れたあちらこちらの土地で、ソ・ヘソンさんとわたしは、タバコを吸いながらぼそぼそといろんな話をしました。

「もっとあなたのことが知りたい」

そんなことばを交わして別れるなんて、もう少し若かったら剣呑なことですが、この年ではことば以上でも以下でもありません。年をとるっていいことだな、としみじみ思ったことでした。


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すごいのができてきました 「911事件を検証する公開討論会Wiki」

これまでに書いたように(こちらこちら)、ただいま911をめぐる一連のイベントを準備中です。論点整理も進んでいます。それをまとめたWikiがかなりできてきました。まさに超弩級の内容とヴォリュームで、この10年に出されたほぼすべての論点や疑問を網羅しています。私は、お手伝いできるようなスキルはもちあわせないので、作業チームの周りでおろおろしているだけですが。

3月19日の公開討論会に向けて、Wikiはより充実させていきます。つきましてはお願いです。Wikiはご意見を募集しています。とくに、米公式見解を全面的に懐疑する側のご意見が不足しています。メインページにフォームを用意しました。お寄せいただいたご意見は、精査の上、匿名で掲載させていただきます(お名前明記をご希望のばあいは、そのようにいたします)。全面懐疑、全面懐疑への批判、どちらの側からもご意見をお待ちしています。

911Wikiは
こちらです。ぜひ、ブックマークに加えて、じっくりとお読みください。以下は、連続イベントのご案内です。くわしくはサイト(こちら)をご覧ください。

     ****************************

■□■市民社会フォーラム「911事件を考える連続イベント」のご案内■□■  

2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ」から10年。 あの航空機を使った前代未聞のテロ事件は、世界に衝撃を与えました。 これを機に、アメリカはアフガニスタン報復戦争、イラク戦争と突き進み、 日本はこれを支持、自衛隊を派遣しました。 「911」をめぐっては、米政府の調査結果が出たいまもなお、 さまざまな疑惑が言われています。 「911」の真相はどこまで明らかになったのか。 科学的で多角的な認識を深めるために、 ・米政府の公式見解に疑問を投げかけるドキュメンタリーの鑑賞交流会 ・世界貿易センターツインタワーの航空機衝突と崩壊を最新科学の立場から検証する講演会 ・「911」について見解を異にする論者の公開討論会 の3連続企画を開催します。  

□■市民社会フォーラム第25回映画鑑賞会■□  
「ZERO:911の虚構」を観る   
【日時】 2月6日(日)
【鑑賞劇場】 テアトル梅田
※終了後、懇親会を兼ねて感想交流会(会場は最寄の飲食店) 交流会に出席の方は事前にお申し込みください。
【お申し込み・お問い合わせ先】 市民社会フォーラム
civilesocietyforum@gmail.com
※上映時間は未定ですので、判明しだい再度ご案内します。
※入場券は映画館でご購入ください。
  
□■市民社会フォーラム第58回例会■□
「911事件を科学的に観る 世界貿易センタービルの崩壊に関する数値解析的検証」   
【日時】 3月13日(日)14:00〜16:00(13:30開場)
【会場】 関西学院大学・梅田キャンパス1405(14階)
    http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html
【講師】 磯部大吾郎さん (筑波大学大学院システム情報工学研究科 構造エネルギー工学専攻准教授)
【参加費】 1,000円(資料代込)
【主催】 磯部大吾郎先生講演会実行委員会/市民社会フォーラム
※お申し込みなしでもご参加いただけますが、人数把握のためにできれば事前にお申し込みください。
【お申し込み・お問い合わせ先】市民社会フォーラム
civilesocietyforum@gmail.com 
 
□■市民社会フォーラム第59回例会■□
911を検証する公開討論会
  ―WTC3つのビル崩壊とペンタゴン攻撃を中心に―
【日時】 3月19日(土)13:30〜16:30(13:00開場)
【会場】 阿倍野市民学習センター講堂
http://www.osakademanabu.com/abeno/
【出演者】 きくちゆみ(ジャーナリスト、翻訳家、「ハーモニクスライフ」主宰者)、西牟田祐二(京都大学、経営史・経済史専攻、「911の真実を求める日本の科学者の会」共同設立者)、菊池誠(大阪大学、学際計算統計物理学専攻、「ニセ科学フォーラム」実行委員)
【コーディネーター】 西谷文和(ジャーナリスト)、池田香代子(翻訳家)
【参加費】 1,000円(資料代込)
※お申し込みなしでもご参加いただけますが、人数把握のためにできれば事前にお申し込みください。
【お申し込み・お問い合わせ先】市民社会フォーラム
civilesocietyforum@gmail.com

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「a 富士山」のゆううつ

以前、静岡県庁のえらい人とお話をしたことがあります。そのなかで、こんなことを尋ねられました。

「静岡県民って、どんなふうに見えますか?」

思い切って切り出してみた、という感じでした。そう訊くことになぜか落ち着かなさを感じてしまう、といった戸惑いがかすかに伝わってきて、県庁のえらい人は得も言われぬいい味をかもし出していました。

「ふたつあります。富士山を見ても『あ! 富士山』と言わないこと。老若男女、お茶を淹れるのがじょうすなこと」

県庁のえらい人は、県民性について尋ねたわけで、こんな表層的な現象では答になっていないのですが、そう答えました。県民性なんてよくわからないし、私は笑いに逃げたのです。えらい人の全身から、解けた緊張がほわっと蒸発したような気がしました。にっこりして、言いました。

「そうですなあ、富士山のことは挨拶代わりのように毎日話題になりますが、あ、とは言いませんなあ。きょうの富士山はこうだねとか、もう須走まで雪が降ってるんかなあとか、そういうことは言いますがなあ」

この会話を思い出したのは、きのう新幹線の中から、真っ白い富士山が晴れた空に屹立しているのを堪能した時です。私は心の中で「あ! 富士山」と言っていました。東京では、日常、あまり富士山が見えません。それで、ビルや家並みのあいだから遠くにごくちいさな三角の頂上を見つけただけで、わけもなくうれしくなって、「あ!」と冠詞をつけてしまうのです。

きのうは、おおきな富士山が迫ってきたので、正確に言えば「わ!」でした。これは驚きの比較級で、たとえば読んでいた本から目を挙げたら車窓の外、すぐそこに富士山がいた、などというばあいにつかう最高級は、「うわ!」となります。静岡県民と山梨県民以外がもちいる富士山冠詞aは形容詞のように変化し、a、wa、uwaとなるのである。

新幹線の車中でこんなくだらないことを考えたのは、富士の裾野に広がる演習場で、かつては米軍が砲弾を撃ちまくっていた、今はそれをカムフラージュするために、自衛隊の演習場とし、米軍は共同使用というかたちで相変わらず同じことをやっている、とついこのあいだのNHKの安保特集で言っていたのが思い合わされたからです。富士の裾野はアメリカの軍隊のものだから、aなんて英語の冠詞がつくのである、と連想がどんどんばかばかしいほうへ脱線していったのでした。富士の裾野で戦争の練習なんて、地元の人たちの大迷惑はもちろんのこと、街宣車のウヨクさんたちにとって、富士山はひとしお聖なる山でしょう。それを外国の軍隊に蹂躙(じゅうりん)されて、白燐弾など降り注がれて、ウヨクさん、よくおとなしくしているものです。

過去最大の日米合同軍事演習はきのうで終わりましたが、ブログ「地元紙で識るオキナワ」さんが刻々伝えてくださる演習下の沖縄の緊張や、あちこちで頓挫する日常生活のありさまに、ゆううつな日々でした(
こちら)。なにしろ、天下の公道を深夜、ミサイルを積んだ軍用車が車列を組んで走るわ、日中ふいにヘリが降りてくるわ。宅配便の配達もままならないのです。

このところ東京の拙宅の上空でも、軍用ヘリがやけにひんぱんに行き来していました。あれも軍事演習の一環だったのでしょう。なんてことだ、でも沖縄の空はこんなものではないだろう、このくにの私たちはいつまで軍隊のために、しかも外国の軍隊のためにがまんをしなければならないのだろう……ゆううつです。どうしようもなくゆううつになると、ばかばかしいことを考えるのが、私の癖です。あなたはそんなことありませんか? ない。 そうですか、失礼しました。

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祝島小学校のみなさんへ

祝島小学校のみなさん、

お見送りありがとう。みんなはちょうど室津から帰ってきたところだったんですね。また会えて、運がよかった。

前の日にいっしょに食べたカレー、これまでに食べた中で2番めにおいしかったです。じつは、民宿はまやのお母さんが、「きょうの給食はカレーだけど」とおっしゃったときには、なんのことかわかりませんでした。祝島小学校のみんなは去年まで、お昼ご飯はおうちに帰って食べていたんですね。それを、やっぱり給食を味わわせたいと、おとなのみなさんが知恵を絞って、はまやさんがひと肌脱いで、今年からみんなのお昼ご飯を作ってくださることになった。祝島小学校の「ランチサービス」の始まりです。はまやのお母さんは私に、いっしょに給食を食べなさい、と言ってくださったのです。

みんなは、午前中の勉強がおわると、坂の上の学校から港のはまやさんまでやってきて、お当番の2人はちゃんと白いかっぽう着を着て、頭には三角巾をかぶって、てきぱきとお皿を並べていましたね。お当番以外の人はあと2人、そして先生。校長先生ともうひとりの先生は、お昼の船でご用に行くとかで、私たちより一足先にカレーをかき込んでいましたね。外で出発の汽笛が鳴ると、「いってらっしゃーい」と食べながら言ってた子もいたっけ。

座卓の隅っこでは、郵便配達さんがお弁当を開いていました。はまやさんにお茶をいれてもらって。みんなはほんとうに楽しそうに、おいしそうにカレーを食べていました。おぎょうぎだって、たいしたものです。2人の男の子、たくさんおかわりしていましたね、びっくりしました。だって、3杯も食べるのですもの!

みんなの暮らしぶりは、私の目にはとても新鮮に映りました。おとなの人たちが、みんなのことをよく知っていて、みんなもおとなの人たちのことをよく知っていて、全員がお友だちなのですね。私が祝島に向かう船に乗っていたら、「鎌仲さんのお友だち?」と声をかけてくれたおばさんがいました。私が祝島に行くことを、もう知っている人がいたのです。こういうこと、東京に住んでいるとまずありません。そして船が着くと、波止場にみんなのうち何人かが迎えに出ていて、「みっちゃーん、みっちゃーん!」と叫んでいました。あら、船に子どものお客はいたかしら、と思ったら、みんなが飛びついていったのは、私に声をかけてくれたおばさんなのでした。おとなと子どもがこんなに仲のいい友だちだなんて、もう一度言いますが、東京ではあまり考えられないことです。

みんなは当たり前と思っているかも知れないけれど、みんなの島にはすごいことがたくさんあると、私は思います。まずはあのたくさんの小さな舟。一本釣りの舟です。魚をとりすぎず、しかも食べておいしい魚をとるには、一本釣りが最高です。島の漁師さんたちは、それを守り通している。かっこいいなあ、と思います。そして、対岸に原子力発電所ができて魚やひじきがだめになることに反対して、29年間もがんばっている。原発に賛成して漁をやめれば、ものすごいお金がもらえるそうです。でも、そんなお金はいらない、びわ茶をみんなで作って全国に売って、島の暮らしを守るのだと、島のおばさんたちは覚悟を決めています。すごくかっこいい。みんなはかっこいいおとなたちに囲まれて、たいせつにされて、いいよね!

約束の本を送ります。『世界がもし100人の村だったら』は、5年生になって百分率をならったら、読んでください。その4冊めの「子ども篇」という本に、こういうことが書いてあります。ある人が言った、貧しい人が幸せになる5つの条件なのですが、私は、そうじゃない、すべての人が幸せになる条件だ、と思います。私も、これだけあれば、幸せです。

「1つめは、きれいな空気と土と水
2つめは、戦争や災害のためにふるさとをはなれなくてすむこと
3つめは、予防をふくむ基礎的な医療をうけられること
4つめは、基礎的な教育をうけられること、
そして5つめは、伝統文化に誇りをもち、それらを楽しむことができること」

みんなはこの5つをしっかりもっています。最後の伝統文化ですが、祝島は神舞(かんまい)という勇ましくて美しいお祭りで有名ですよね。鎌仲ひとみ監督の『ミツバチの羽音と地球の回転』でますます有名になりました。そうだ、みんなの島を紹介するあの映画、私はこの夏、インド洋の船の上で上映したんですよ。今、全国でたくさんの人びとが見て、それで祝島にやってくる人もいるみたいだけど、海外での上映はあれが最初だと、私はちょっと鎌仲監督にいばっています。

本はあと、ケストナーという人が書いて私が訳した『エーミールと探偵たち』や『ふたりのロッテ』や『飛ぶ教室』や『動物会議』や、『アルプスの少女ハイジ』とか、いろいろ入れましたから、6年生のみさきさんは、上関の中学に行っても、祝島小学校から借りて読んでください。

こんど祝島に行ったら、学校にうかがいます。校長先生にお許しをいただきました。そのときまた、いろんな楽しいお話を聞かせてください。

お昼ご飯がおわったあと、みんなが急にいなくなったのでびっくりしたら、民宿のお風呂場の鏡の前で、先生もいっしょに歯をみがいていましたね。私に気がついて、いっせいにあぶくだらけの口でこちらを向いてくれたとき、私はおかしくて笑いそうになりました。(先生がいちばんかわいい顔をしていました。)

では、さようなら。また会う日まで。

そうそう、「子ども篇」のさっきの続きはこうです。

「この5つがあるところでは、そのまん中に
子どもたちの笑い声があふれているはずです。もちろん、おとなたちの笑顔も」

まるでみんなの祝島のようです!


さっそく山本先生が写真を送ってくださいました。ありがとうございました。左端が民宿はまやのお母さんです。(11:00)

祝島:波止場にて(11/3)



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「そんなに私の隣がいいですか?」

気ままに動いていた頃は、JRの長距離チケットは、たいていその日に自由席を買いました。席がなければ立つか、指定席に移ればいい。急ぎでなければ、次の便にすればいい。けれど昨今は、早々と指定席を用意します。確実に、ストレス少なくスケジュールをこなすには、そうするしかありません。

指定席は、乗ってから隣が空いている席を選ぶ、ということができないのが不都合です。乗った時、自分の隣がふさがっていて、ほかに空いていれば、そしてたぶんこの先あまり混まないだろうと思われる時は、空いている席に座ります。お客さんが乗ってきたら移動する、というめんどうを見込んでも、そうします。

飛行機なら、途中乗車はありません。隣の空いた席を見つけるため、最終搭乗案内を聞いてから、ゲートに向かいます。すると、「あちらにゆったりしたお席があります」なんて、誘導してくれる客室乗務員さんもいます。

けれど、そうしたことを気にしない方のほうが圧倒的多数なのだと、いつも思い知らされます。車輌には10人も乗っていないのに、そこが自分の指定席だからと、私の隣にお座りになる。私のほうが先に乗っているばあい、席を移動するのはちょっとはばかられます。まるで、あなたの隣はいやなんです、と言っているようで。そうではなくて、本や書類を広げるなり、お弁当を広げるなり、あるいは目を閉じるなり、人目を気にせずにやりたいだけです。

ヒトという動物にもテリトリーというものがあって、それを脅かされると不安になるものです。テリトリー空間は、時と場合によって伸び縮みします。近郊電車の7人掛けの座席に7人の1人となって座ることに、私はなんの痛痒もありません。でも、若い人は、5人ぐらいでゆったりと座らないと不安のようです。だから、詰めてもらえば座れるのに、立っている若い人も多く見かけます。詰めてもらうほうが苦痛なのでしょう。そんなふうですから、目の前に人が立っても、若い人に席を詰める気配はありません。マナーの問題でもあるでしょうが、動物行動学の問題でもある、ゆったりと育った若い人は、年配者より広いテリトリーを必要とするのだ、それで、もしも年配者が席を詰めない若者に不満を感じているのなら、年配者と若い人の動物行動学的条件が異なっているため、ものごとの捉え方に行き違いが生じているのだ、と私は思います。私は、声をかけて詰めてもらいますけど。

話が飛びました。

1時間以上乗る長距離のばあいでも、満席なら苦痛はありません。が、ほかにたくさん座席が空いているのに隣がふさがっていると、俄然、居心地が悪くなるのです。面白いことに、ほかがいくらでも空いているのに隣に座ってくる人に、年齢の違いはありません。

なにごとも、誰もが自分と同じには感じない、考えない──がら空きなのに、あらかじめ決められたことに律儀な方が隣に乗りこんだ車中の時間は、そうしたあたりまえの事実を復習する、修行の時間になります。「そんなに私の隣がいいですか? そういうわけではありませんよね」と、心の中でお隣さんに語りかけながら。

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「村の鍛冶屋さん」

20091210f大阪から中国自動車道を高速バスで2時間あまり、宍粟(しそう)市の山崎で、鍛冶屋さんを発見しました。

そのバスでさらに2時間走った終点、津山で、かつて高齢のご夫婦がいとなむ鍛冶屋さんを訪ねたことを思い出しました。

おばあさんが炉の火加減を見、おじいさんが鎚をふるう。

「ふいごさまはどちらまで?」わたしがそんな質問をすると、おじいさんは喜んで、「ばあさんや、お茶淹れてくれ、まんじゅうがあっただろう」。まるで落語みたいな展開でした。「ふいごさま」とは、鍛冶屋さんが信仰する神さまのことで、お参りするふいごさまは鍛冶屋さんごとに決まっているのです。あのときは、小振りの出刃包丁を購いました。

こんどもまたそんな会話ができるかと、中をのぞくと……。


20091210e人の気配がなく、炉も長らく冷え切っているようでした。














20091210d仕事場は静まりかえっていました。















20091210cガラス戸の向こうには、かつてつくっていた鍬。昔、鍛冶屋さんは、使う人の体格や、その人独特の作業のしかたを踏まえてつくったものだそうです。よく知った仲だからこそ、そうしたこともできたのでしょう。

晩秋の陽射しの中、鍬は美しい光を放って、ここに鍛冶屋あり、と誇らしげに休らっていました。







20091210bいまは、研ぎでしのいでおられるのでしょうか。











20091210a道を隔てて全貌をおさめました。カメラを構えるわたしのうしろはコンビニです。その隣は、この町でいちばん大きなホテル、ホテルの向かいは市庁舎。鍛冶屋さんのまわりは、いつのまにか町の中心部になっていたのです。鍛冶屋さんだけを昔の村の時間のなかに残して。

 

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校舎になった兵舎 友部にて

11月15日に、12月になったら茨城の友部に行く予定だ、と書きました。

きのう、その友部に行ってきました。目的は、県立友部病院を訪れることです。そこは戦中、筑波海軍航空隊基地だったのです。さまざまな資料もいただいてきました。これについては後日書くことにして、きょうはひとつだけ。

戦争末期、ここは特攻隊の訓練基地でした。その訓練生たちの兵舎は「神風(じんぷう)寮」と呼ばれていましたが、戦後は友部中学の校舎として使われたそうです。
おととい、校舎と兵舎は同じ建築基準によってつくられた、と書きましたが、そうだったからこそ、この転用は容易に行われたのだろうと推測します。

やっぱり、校舎は兵舎だったのです。ひところ流行った「学校の怪談」では、校舎が元は軍の病院などだったりします。真偽のほどはともかくとして、これは、子どもたちの無意識の直感が校舎に兵舎を、つまり国家意志に従順な、ときには命をさしだすほどに従順な国民を育成する施設を見抜いていたために生まれた意匠だったのか、と思い至りました。数年前に友部で話をしたなかで、学校・軍隊・税制は近代国家の三大装置だ、と語ったときには、学校と軍隊がその設備においてこれほど重なった例が、講演会場の目と鼻の先にあるなどとは、夢にも思いませんでした。
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明治の学校建築 国家意志と地域の思いの相克

南側に部屋が一列に並び、その北側に廊下が走る。この建物の南側には広場、その北端、建物の中心あたりに指導者が立つ台、そのそばには旗を掲揚するポール ── 一般的な学校建築です。最近は独創をこらした個性的な学校もつくられるようになりましたが、やはり多くの学校は、上に書いたようなスタイルか、そのバリエーションです。これは、明治末期に打ち出された、校舎建築にかんする国の基準に沿ったものです。それがなんと100年たった今もなおうけつがれているわけです。

この建築基準が出された直後の1907年(明治40年)に建てられた小学校を見てきました。

旧遷喬(せんきょう)尋常小学校。岡学校山県真庭市にあります。当時の村の予算3年分をかけた、それはそれはすばらしい建物でした。まずはその大きさに驚かされます。薄い灰青色の木部と白い壁、スレート葺きの優雅な屋根。中央はひときわ高くそびえ立ち(写真)、そこから鳥が翼を広げたように2階建ての教室部分が流れます。近在のヒノキをふんだんに使った内部といい、当時の人びとの、次世代にたいする思いの強さがつたわってきます。

けれど、この建築基準は、校舎だけに適応されたのではありませんでした。兵舎もまったく同じスタイルでつくられました。校庭は、兵舎にあっては軍事訓練の場だったのです。見方を変えれば、校庭も子どもたちに軍事教練をさせる場所と想定されていました。ここに整然と並び、「朝礼台」の上から発せられる号令にあわせて、前へならえ、休め、右向け右、前へ進め……わたしたちもやらされたこうしたことどもは、将来の兵士の訓練なのでした。

瓜二つの校舎と兵舎は、このくにの近代化のために、人びとの身体をつくりなおす装置でした。校(兵)舎建築基準が日露戦争直後に定められたことにも、ある種の符合が感じられます。欧州列強のひとつに勝った、あるいは勝ったと思い込んだこのくにが、図に乗ってますます軍事国家化していこうとして、その施設の整備に乗り出した、と考えられるからです。

それまでの学校建築は多様で、それをつくったそれぞれの地域の人びとのそれぞれの思いをかたちにしていました。それらを否定し、明治国家の意思を津々浦々に貫徹させようとの意図で、校舎建築基準が定められたわけです。そのすぐあとにつくられた遷喬尋常小学校はしかし、その優美で気品ある意匠に、日本建築の粋をこらした格天井の講堂に、幅広の豪華な無垢材に、軍国主義とは無縁の、子どもたちへの思いがこめられています。国家の意思と地域の思いのせめぎ合いを見たように思いました。

「火垂るの墓」や「ALLWAYS 三丁目の夕陽」などのロケに使われたという遷喬尋常小学校は、いま校舎としての役割を終えて、泰然と翼を広げたまま、休らっています。1990年に完成した新校舎は、中央部がひときわ高いシンメトリーの外観は旧校舎からうけつぎつつ、内部は先進的なオープンスクールだそうです。

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草の生える煉瓦

留学中の夏目漱石は、イギリス人の悪口ばかり言っていました。

あるとき、招かれた館の庭をそのあるじと散策していて、石垣に地衣類が生えているのを見て、「時代づいていますね」と言うと、相手のイギリス紳士は答えたそうです。「あしたにも剥がしてしまおうと思っています」 自分は褒めたつもりなのに、イギリス人ってやつは風情というものをまるで解さない、と漱石は軽蔑もあらわに書いています。

でも、人工物が自然によって浸食されるさまをよしとする感性は、なにもこのくにだけのものではありません。近代、当のイギリスにも廃墟を愛で、わざわざ廃墟を新築するような趣味も生まれました。けれど、それもまた、人工物が滅びていく一瞬を固定するために手入れを怠らないという体(てい)のもので、滅びるがままにまかせるわけではありません。廃墟趣味はわざとらしくて、わたしはどうもついていけません。

091202煉瓦山に囲まれた町で、苔や草が生える煉瓦を見ました。高速道路の法面(のりめん)をがっちりと保護し、しかもいつしか雑草に覆われるようにするために開発されたのだそうです。材料は、ヒノキの間伐材や製材で出るおがくず。林業の盛んな地元にふんだんにあるものを利用したわけです。持つと、拍子抜けするほど軽い。

「これだけ軽いと、ルーフガーデニングなんかにもいいですね。でも強さは?」
「向こうの駐車場に敷いてますが、5年たってもなんともありません」と、同行の元観光課にいた市の女性職員さんが説明してくれます。

実際に敷かれたその煉瓦は、しっとりと水気を含んでいます。これなら、雨水を地下に浸透させ、また水分を蒸散させることで、ヒートアイランド防止にも効果があるでしょう。歩くと、衝撃を吸収して足にやさしい。物陰の煉瓦には苔が生えていました。ゆっくりと自然に浸食され、実用的な堅牢性をそなえながらも、自然の一部に変身してゆく人工物。美しいと思いました。漱石がののしったイギリス紳士なら、汚らしいと感じるだろうかと思い、やっきになってデッキブラシでこする姿を想像して、おかしくなりました。

「住宅の壁材につかえないかと思ってるんですよ。外断熱が火事で延焼したという話を聞きましたが、これならだいじょうぶだ。課題は、どれだけ断熱性を確保できるものを開発できるかですね。通気性はいい」

草の生える煉瓦は、この会社のちいさなエピソード的製品です。大きなコンクリ構造物が、この会社の主力製品です。コンクリの枠に土を詰めて草が繁茂するプレハブの護岸は、イタチが水辺に降りていけるよう、デザインされていました。魚やオオサンショウウオが暮らし、子孫を残せる川底や、鮎が上れる川底もありました。木が生える擁壁も。

091202煉瓦会社「コンクリの会社なのに、コンクリをなるべく使わないものばかりつくってます。コンクリが少なければ、軽くて運びやすいし、土を詰めるほうが安い」とは社長の弁。

しょせんまがいものの自然だ、と片付ける気にはなれません。人間が暮らすには、どうしても自然に手を加えなければならないことがある。そのとき、できるだけ自然との異和感を減らし、もともとそこに生きているちいさないのちを尊重するこれらの工夫は、自然を尊ぶ人間の謙虚さに発している、と思いました。

けれど、なみたいていの工夫ではありません。試行錯誤を重ね、動植物に学び、東京の巨大な実験施設に試作品を持ち込んでデータをとることを繰り返して、製品はようやくものになる。こんなものをつくろう、という提案は、このやる気満々の社長が出すのだそうです。

「開発にあたる社員のみなさんはたいへんでしょうね」
「悲鳴をあげてますよ。今もアイディアがふたつあるんだが、あまりショックを与えないよう、いつどう伝えようかと思ってる」

おかしそうに笑う頼もしい社長は、きっと社員のみなさんのなにくそ魂に支えられているのでしょう。そんな会社がこの山あいの町で気を吐いている。ダムによらない治水ということが言われていますが、そういう趨勢が強まったら、ここの製品は、これまでに増してあちこちの河川に迎えられるのではないでしょうか。ダムなどつくらなくてすむ技術は、もうとっくに洗練されているのだと知って、うれしくなりました。

岡山・真庭落合の株式会社ランデスさん、社長の大月隆行さん、かっこいいと思いました。突然、飛び込んだ旅人の相手をしてくださって、ありがとうございました。たくさんの元気をいただきました。
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”やねだん”に行ってきました

いろいろなところに行きますが、これだけはちょっと言い触らしたい誘惑に抗しきれません。

やねだんに行ってきました。漢字で書くと柳谷。鹿児島からフェリーで小一時間かけて大隅半島に渡り、そこから路線バスでまた小一時間で鹿屋へ。そこからはタクシーで30分。鹿児島からだと、ぼけっとフェリーやバスを待つ時間を入れて、3時間はみないとたどり着けません。

そこは、収穫の終わったやねだん5芋畑や、きらきら光る牧草畑や、11月末だというのに青青とした飼料用トウモロコシ畑の向こう、柳谷川にかかる橋をわたったところから始まる集落です。なにがあるわけでもありません。ご多分にもれず、過疎と高齢化に悩む、住民300人、110世帯ほどのちいさな集落です。

でも、すごいんです。ここに住む人には、ボーナスが出るんです。休耕田に集落ぐるみでサツマイモを作り、それで「やねだん」という銘柄の焼酎をつくって、そのもうけが、年およそ500万円。ボーナスはそこから出されます。
やねだん4
















空き家を「迎賓館」と称して、若い写真家や画家、陶芸家に住んでもらっています。5軒ほどもあったでしょうか。わたしがおじゃました日には、若い男性の画家さんが、集会所の隣の、一段高い地所の大きな土留めのコンクリ壁に、巨大な鳥の壁画を描いていました。

川っぷちには広場があって、大声をはりあげて遊ぶ子どもたちが、「こんにちは」と声をかけてきます。広場には、どこかとぼけた味わいの、手作り感いっぱいのいろんなものが点在していました。地下水があふれるパイプからは小川が流れ、「めだか池」に流れこんでいます。無人のやねだん2休憩所に入ってみると、むっとするしょうゆの臭い。この古いプレハブ小屋では、かつて実際にしょうしょうゆをつくっていたのかもしれません。

片隅には「かけそば」などのメニューが貼ってありますが、ほんとに食堂なのか、寄せ集め感いっぱいの古ぼけたテーブルなどからは、ちょっと想像できません。メニューより、壁一面の新聞の切り抜きのほうが目を引きます。いろんなメディアがここを取り上げているのです。

小屋の表には、いつどんな賞をもらったかの看板。あまりに多くて、その重みで、看板を打ちつけた壁がいまにもこちらへ向けて倒れてくるのではないかと、恐ろしいほどです。「日本計画行政学会計画賞最優秀賞地域づくり日本一」「政府農村モデル選定」「半島地域活性化優良事例賞(国土交通省)」「MBC賞(南日本放送)」「南日本文化賞地域文化部門」「県民表彰社会活動部門」「あしたのまち・くらしづくり活動賞内閣総理大臣賞」「地方自治法施行60周年記念総務大臣表彰」……看板は毎年のように増えています。

やねだんは、行政に頼らない地域づくりのお手本なのです。張り出された記事に「内閣総理大臣小泉純一郎」という名前がなんども出てくるところから、小さな政府論を思いやねだん1合わせて、そんな文脈で優等生になってどうする、と冷笑的になりたくなるかもしれません。でも、とわたしは思います。市民力、地域力ってこういうことではないでしょうか。自分たちは地域をどんなふうにしたいのか、あれがないこれがないと嘆く暇があったら、自分たちで考え、行動してしまう。

やねだんは、もちろんもうけ仕事だけでなく、地域のさまざまなニーズをみずからとりあげ、みずからの力で解決しています。意気軒昂なのです。たとえばこの集落は、生ゴミを一切出さないそうです。自然の循環のなかにある落ち着いた美しさ、心豊かなつつましさ。そして静けさ。

集会所には、そんな話しあいの日だったのでしょうか、おそろいの黄色いブルゾンを着た人びとが50人ほど、びっしりと詰めかけていました。真剣な雰囲気に、声をかけるのもはばかられて踵(きびす)を返し、ひとりでだらだらと下る坂道を歩いてみました。両側から木々が迫る、狭いメインストリートです。

ゆったりと並ぶ家々の垣根が美しい。よく手入れされた庭木もみごとです。この季節、このあたりではまださまざまな花が咲き乱れています。ときおり、家のなかから尋常な話し声が聞こえてきます。それほど静かなのです。漏れ聞こえるテレビの音もありません。人も車も通りません。家はすべて平屋で、黒い瓦屋根が統一感をかもし出しています。

あるお宅では、はしごの上で庭木を剪定していた若者がこちらを振り向きました。ときには、視察団に混ざって物好きな観光客も来るのでしょう、奇異なものを見るまなざしではありませんでした。軽く会釈をして通り過ぎます。おばあさんがバイクでゆっくりと追い抜きざま、にこにこしながら「こんにちは」。

牛の鳴き声に混ざって、ときおり鶏の声がします。養鶏場のそれではなく、庭で地飼いされている数羽の声です。ほんのり家畜の臭いも漂います。でも、異臭ではありません。やねだんは土着菌をつくり、それをつかって悪臭をおさえているので、ごく自然ないきものの臭いです。土着菌は、さつまいもなどの栽培にもつかいます。それで、化学肥料などが必要なく、味がいいのだそうです。やねだん特産の土着菌は、しょうゆ臭い小屋の前でビニール袋1袋300円で売っていました。

集落の尽きるあたりから左に折れ、とちゅう腰を下ろして青空をながめたり、鳥の鳴き声を聞いたり、赤い木イチゴの実を食べたり、のんびりともう一本並行している道を戻っても、30分かかりませんでした。最後に、「やねだんギャラリー」という、迎賓館の住人たちの作品を売っている、集落唯一の店で、ちいさな焼き物の杯を買って、やねだんをあとにしました。集会所の寄り合いは、まだ続いていました。

やねだん3





ピンぼけ写真、さいしょの2枚は柳谷川の橋。竹でつくったろうそく立てが並んでいます。欄干は焼酎「やねだん」を象(かたど)っています。

次の2枚は広場の「水源」と、てっぺんに焼酎瓶型のオブジェを戴(いただ)いた用途不明の小屋。

5枚目の、焦点がちょっとましな1枚は、散歩のとちゅうで見つけた柴の束。割いた青竹でくくってありました。
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目から水 第五福竜丸

おととい9月25日、すこし蒸すけれど気持ちのいい青空のもと、東海道本線の各駅停車に乗っていました。

次は焼津という車内放送を聞いたときです。飛び降りてタクシーに乗り、花屋に寄って、あるお寺の墓地の小高いところにたたずむあのお墓に詣でたい、そしてあることを報告したい、そんな願いが、特異な形の白いお墓や、お寺までの狭い道のフラッシュバックとともに、一瞬頭を過(よぎ)りました。

だめだめ、時間が足りない、駅にとんぼ返りしてすぐ電車が来たとしても、次の予定に遅刻してしまう。わたしの数十秒の迷いを断ち切るように、焼津駅はしずしずと後方に遠ざかっていきました。

車中の迷いは、その日の朝のテレビニュースに端を発します。ニューヨークの国連本部、安保理首脳会合で、あの巨大なドーナツ型のテーブルに向かった鳩山総理が演説していました。英語の中からふいに「ダイゴフクリュマル……ハイドロボム…
…ビキニ」という音が聞こえました。

アメリカが提案した「核のない世界」決議について、各国首脳が演説した、その中での発言でした。こうした場で、このくにの総理なら、ヒロシマナガサキのことは言うでしょう。けれど、CTBT(包括的核実験禁止条約)に関連して第五福竜丸にも触れるとは。わたしは不意をつかれたあまり、目から水が出てしまいました。

決議はなんら国際条約的な拘束力をもつものではありません。けれど、これをほかでもないアメリカが提案した。核保有国の首脳たちはごちゃごちゃ言ってもいたようだけれど、とにもかくにも全会一致で採択した。たまたまアメリカに議長国の番が回ってきている時で、それを初めて時の大統領が買って出た。たまたま日本が非常任理事国だった。たまたま政権交代の直後で、新しい総理がこの場のスピーチをすることになっていた。

まさに時は熟し、このくにも世界も大きく変わろうとしている、だからこそ、こうした「喜ばしいたまたま」がいくつも重なり、がっちりと組み合わさって、新しい大きな流れを、もはや打ち消しようもなく生じさせているのだ、と思いました。世界の空気が入れ替わったような気がしました。いまこのくにの上空に、さわやかな秋の空気が日ごとぐんぐんと勢いを増しているように。

次の目的地の藤枝で、中学の英語の先生が1枚のプリントをくださいました。それに目を落とし、またしても驚きで涙が出そうになりました。その2日前の9月23日は、第五福竜丸で被爆し、ついさっきわたしが焼津でお墓参りをしたいと思った久保山愛吉さんのお命日だったのです。プリントは、第五福竜丸のこと、そして先生も参列したおとといの墓前祭のことを、生徒さんに伝えるものでした。

2009年9月25日第五福竜丸について

各駅停車の電車と1枚のプリントのかたちで、わたしのようなちっぽけな存在にも、世界を席捲している「喜ばしいたまたま」は訪れました。こうした偶然の巡り合わせは、思いのあるところにやってくる、と考えないわけにはいきません。だって、思いがなければ、せっかくの訪れも気づかず見過ごしてしまうかもしれないでしょう?

あまり有頂天になっては、夢みる夢子さんになってしまいます。世界にもこのくににも、不公正や悲痛事が絶えません。自戒しつつも、今のところ掛け声だけだろうがなんだろうが、世界が、このくにが、戦争とは逆の方向を向いた、そしてこうした動きを推し進めていける唯一の力はわたしたちの意思なのだということを、しっかりと噛みしめようと思います。

鳩山総理の安保理演説
ですが、「唯一の被爆国」ではない、「核兵器による攻撃を受けた唯一の国家」という言い方は、正確で好ましいと思います。「唯一の被爆国」という言い方もしていますが、上述の正確な表現の後に出てくるので、その短縮形とみなしうるでしょう。

これは、核保有の能力がありながらそうしないという選択をしてきたのは、「唯一の被爆国として我が国が果たすべき道義的な責任」だからだ、と続きます。これはもちろん、オバマ米大統領の「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任があります」という、チェコ演説に呼応することを意識しているでしょう。

「非核兵器地帯の創設」に言及したことも高く評価できます。北東アジアと中東という、具体的な地域名を挙げていれば、もっとすばらしかったと思います。

また、核の先制不使用という、このくにをふくむ北東アジアの最大の関心事についても、ひとこと言ってほしかったなあと思います。ついこのあいだまで、「アメリカが核の先制使用政策をやめてくれては困る」と言って回っていた在米外務官僚の行動を、今後きっぱりと封じることにもなりますし(これにかんする記事はこちら)。

そして、広島長崎に触れるだけでなく、世界の衆人環視のなかで直接、核保有国の首脳たちを被爆地に招いたことは、すばらしいパフォーマンスだったと思います。外務省のみなさん、この招待が実現するよう、フォローお願いしましたよ!
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タルアテアレア ゴーギャンの方(かた)へ(2)

(この項を最初から読む方はここをクリック)

それで思い出したのが、ゴーギャンの最高傑作と言われる
「われわれはどこから来たのか 何者か どこへ行くのか」です。これは、ほかならぬタヒチで描かれました。

この世での人間の生の内面的な営みをゆるやかに暗示するかのように、横長の画面の向かって右端には赤ん坊、左端には黒い老婆が描かれています。

この老婆、作者によると、「すべてを受け入れて」死を待っているのだそうです。が、生気のない肌の色といい、すべての命の営みに背を向けて耳をふさぎ、かたくなに縮こまった姿勢といい、わたしにはとうてい「すべてを受け入れて」いるようには見えません。なにより、群像を見返るともなく見返るそのまなざしが、なんとも恨めしいのです。

作品のタイトルをすなおに受け止めれば、これは人間の生の絵巻、ということになるでしょう。けれど、タイトルにもう一度注目していただきたいのです。そこには3つの疑問文が連ねられていました。そこに隠された意味は、たぶんこうなるのではないでしょうか。

われわれはどこから来たのかわからない。どこへ行くのかわからない。だから、何者かわからない。

西欧近代を激しく否定したゴーギャンでしたが、かれにとって人間は生まれてから死ぬまでの存在でしかなかった、死の直前、対立していた教会から聖職者を呼んで臨終の秘蹟(サクラメント)を受けますが、終生、キリスト教とは絶縁した生き方をしました。そうしたみずからの近代人としての限界を、ゴーギャンはこの絵にひそかに含意させ、そうすることによって、ヨーロッパ近代人であるみずからと和解した、なんだかそんな気がします。

それは、ガビさんの聖なる名前が念頭にあるからです。こうした名前を、ゴーギャンが知らなかったはずはない、と思うからです。

この島の人びとは、自分がどこから来てどこへと帰っていくのかを、日々目にする山や海として具体的に知っている。だから、自分が何者かも知っている、それにひきかえ、ヨーロッパ近代人は……それが、未生も死後も描かれず、たんなる生物としての生から死のみが描かれた「われわれはどこから来たのか 何者か どこへ行くのか」ではないでしょうか。

そこに描かれているのは、タヒチの人びとです。けれど、かれらをながめるまなざしは近代人ゴーギャンのそれであり、したがって、生と死の彼岸は見えない。あるいは、ない。絵はそこでぷつりと断ち切られている。

ポリネシアの月の神ヒナが、作者によれば「彼岸をさししめすかのよう」にポーズしてはいるものの、他の部分とくらべて筆致が荒く、不気味、つまりえたいの知れないなにかとして、見る者を拒絶しています。ヒナはゴーギャンには彼岸を教えてはくれない、よそよそしい存在でしかなく、あくまでも画面に描かれたタヒチの人びとにのみ属する聖性なのです。

だめだなあ、近代人は、かなわないなあ、タヒチの人たちには。絵からはそんなつぶやきが聞こえてきそうです。

ガビさんの名前を日本語に訳したものを、いっしょにタヒチを訪れた鎌田實さんがすてきな書にしたため、プレゼントしました。ガビさんは、涙を浮かべて、名前の歌をうたい、踊りました。

ゴーギャン展が開かれている東京・竹橋の国立近代(!)美術館の一室で、件(くだん)の大作の前に佇んでいると、あのときのガビさんの赤い服が、網膜に一瞬ひるがえったような気がしました。

ガビさんは、フランスがふるさとの美しい海を核実験場とし、とりかえしのつかない放射能汚染を残したことに、生涯をかけてたたかってきました。いまはかれを慕う若者を集めて、オーガニックの農場と伝統農業後継者を育てる寄宿学校を経営しています。

写真は、左から、鎌田實さん、ガビさん、わたしです。

タルアテアレア


(この項終わり)

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タルアテアレア ゴーギャンの方(かた)へ(1)

Tetufera Moti Ai la Teruatearea Te Mouatonia
Farauo Motiai la Aputeai te Marae
Mavaepau Te Tenua To Vara
Mapeti Te Otue To Tai

これは、今年の春にピースボートに乗ったときにお会いした、タヒチ島の方の名前です。もちろん、落語の寿限無でもあるまいし、ふだんは「ガビさん」とお呼びしていました。

このように長い名前は、村の主立った人だけがもつ、名誉の名前だそうです。ガビさんは、学校の成績が優秀だったために、選ばれて宗主国フランスのパリ大学に留学することになりました。出発を待つある日、村の長老6人(男女半々)に村の聖なる場所、マラエに呼び出され、その場で執り行われた聖なる儀式で、この名前を授けられたのだそうです。

その意味をガビさんから聞き出し、日本語に移したのが、これです。

汝(な)が山 タルアテアレア そばへのテトゥフェラ 
汝が祖先(とおつおや)の築きし祭壇 アプテアイなるマラエ そばへのファラウオ 
汝が祖先の耕せし大地 麓(ふもと)のマヴァエパウ 
汝が祖先の釣りせし珊瑚礁 入り江のマペティ
汝(なんじ)ここから来たりてここへと還る者なり

「そばへ」は「近く」「隣」というほどの意味です。ふるさとにそびえる山から始まり、山を下って海へといたる先祖代々の生活の場が、そこに生まれ育った人の名とされているのです。

こうした表象は、ポリネシアに特徴的なのかもしれません。マオリの恋の歌「ハエレ・ラ〜別れ」は、こう歌います。

わたしの声が あなたに届く
高い山に こだまして
なだらかに 平地へと降り
大海原を ただよって
(コンピレーションCD「世界がもし100人の村だったら」より ユニバーサルレコード 拙訳)

訳したときは、なんと神話的な、スケールの大きな恋歌だろう、と思いました。山の頂から平地へ、そして海へ、という順序が、ガビさんの聖なる名前と同じです。おそらく、ポリネシアの人びとの心象風景そのものなのでしょう。大海原から突き出て珊瑚礁を裳裾のようにひろげるポリネシアの島の山は、たしかに胸が震えるほど神々しい。

ガビさんの聖なる名前で重要なのは、最後の、「汝ここから来たりてここへと還る者なり」だと思います。もっとも、これは言葉で言われているわけではありません。なぜ地名が個人の名前になるのか、としつこくガビさんに訊いたところ、その人がやってきたところ、いつか帰っていくところだからだ、ということでした。それで、この含意も「訳す」ときに表に出しました。

(この項続く
 

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戦場の馬

戦争とは、
人間が、けっして体験してはならないこと、
人間しか、しないこと、
だから 人間にしか、なくせないこと。

ほんとうを言うと、体験してはならないのを人間に限るのは、気が引けます。たとえば、かつてこのくにでは犬も供出させられました。その毛皮は、特攻隊員の飛行服の衿になりました。

馬もそうです。

上級将校たちは乗馬をあたえられ、また荷役のための馬もたくさん戦場に駆り出されました。また、帝国陸軍には騎馬隊がありました。1945年3月27日、最後に残った騎兵旅団、騎兵第4旅団は、老河口飛行場を攻撃しました。世界の歴史で、馬が戦場に駆り出された最後の戦でした。

これら軍馬が大陸に赴いた港のひとつが、門司港でした。戦前戦中、門司港は、北の小樽港とならんで、植民地経営の拠点でした。たくさんの人や物資がこの港と朝鮮半島や中国大陸を行き来しました。軍隊も、ここから侵略の途につきました。

波止場に、馬の水飲み場があります。ここでおびただしい馬たちが、最後に「内地」の水を飲みました。老河口のスマートな軍馬たちも、ずんぐりした農耕馬たちも、この水を飲みました。

ついこのあいだまで田んぼの代掻(しろか)きをしたり、大八車(だいはちぐるま)を牽いたりしていた馬たちは、過大な荷を背負わされ、連日の強行軍で疲れ果て、中国やベトナム内陸部の峻厳な山道からつぎつぎと転がり落ちました。斃れて食料にされた馬もいました。

門司港から海を渡った何十万頭もの馬たちは、帰ってきませんでした。ただの1頭も、なつかしい厩(うまや)や牧場に帰ってきませんでした。

わたしの祖父は輜重兵(しちょうへい)として従軍し、軍馬たちの世話をしました。戦後は馬専門の獣医となり、草競馬の馬を飼っていたほど馬が好きだった祖父、みずから設計したアブどころかハエ1匹入らない檜づくりの厩に、競馬馬だけでなく荷馬(にうま)も入れるほど馬をたいせつにした祖父の目に、大陸での馬たちの過酷な運命はどのように映ったことか。馬を見るたび、わたしは祖父のまなざしになります。

輜重兵:軍需品の輸送・補給にあたる兵。旧陸軍の兵科の一。(広辞苑)
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隅田川の花火

各地で、花火大会の開催がピークを迎えています。25日には、東京の隅田川でも開かれました。

去年の花火大会の夜、空路、東京に向かっていました。その便は、花火が打ち上げられている時間帯に着陸する予定でした。羽田に降りる飛行機は、千葉側から反時計回りで3時のあたりから7時のあたりまで東京湾をなぞるように旋回し、再度海上に出たところでぐっと機首を北西に向け、滑走路の先端に接近します。その過程で、隅田川の河口付近を通ります。

花火を真上から見ることができる。しかも飛行機は着陸に向けてかなり高度を落としています。花火は機体のすぐ下ではじけるでしょう。

こんな機会はまたとない。わたしはわくわくしていました。客室乗務員さんに声をかけて、花火はどちら側に見えるか、機長に確かめてほしい、と頼みました。かなり空席があったので、シートベルト着用サインが出るまえに、よく見える側に移動しようというこんたんです。乗務員さんも、にこにこして応対してくれました。

「機長は右側だと申しております」

わたしはさっそく右側の窓際に移り、眼下に目をこらしました。ジャンボ機がかすかに右に傾き(もしかしたら、機長の好意だったのかもしれません)、光の海を横切る黒い川筋の上に……見えました。かそけき光の点が描く円がひとつ、やや間隔をおいてまたひとつ。親指の爪ぐらいの大きさに感じました。

隅田川の大会で打ち上げられる花火をたしかに上空から見届けたという満足感と、見えたものへの拍子抜け。飛行機というものは、いかに高度を落としても、ずいぶん高いところにいるものだ、打ち上げ花火は、夜空高く舞い上がるように見えるけれど、地面のすぐそばで花開くのだ、ということを知りました。納得したような、気落ちしたような複雑な心境で、花火大会の帰りなのでしょう、浴衣姿の若者が興奮さめやらぬ風情でさんざめく電車で帰途につきました。


おととい書いた、日蝕中継をしたアナウンサーは、神田愛花さんという方で、たしかに「ああ、うわああ」とうなっていたそうです。教えてくださった方、ありがとうございました。
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0,0064516%の確率

ブログを始めることにしました。

政治、戦争、経済、環境、社会。
日々さまざまなことが起き、時代は大きな渦となって、すべてをもみくちゃにしているような気がします。
なにが渦の底にひきこまれて沈み、なにが渦を脱して次の時代に浮きあがるのか。
せいいっぱい目をこらし、こまめに発信することで、ささやかでもなにかのお役にたつブログに育てていこうと思います。

でも、「それで?」といわれてしまいそうな、どうでもいい記事も書いてしまう予感もします。
ともあれ、あたたかく見守ってくださいますよう、よろしくお願いします。


のっけから「それで?」のカテゴリーで恐縮ですが、先日ある催しの帰り、飛行機に乗りました。
空港で、催しをごいっしょしたお2人とばったり。
それどころか、3人の座席が7列目のDEFと、横一列に並んでいることが判明。
3人はべつべつにチケットを買い、べつべつに座席を指定したにもかかわらず、です。
そのとき乗ったボーイング737は126席なので、ある人の隣の席を選ぶ確率は125分の1、3人目がその隣を選ぶ確率はそのさらに124分の1(だと思います)。
ということは、(125×124)分の1、パーセンテージで表すと、なんと0,0064516…%の確率です(あってますか?)。
これには客室乗務員さんもびっくり。
にこやかに「宝くじをお買いになったらいかがですか?」といいながら、機内で配るアメを8個ほど詰めたちいさな袋に添えて、こんなメッセージを書いた絵はがきをくださいました。

飛行機


宝くじは買いませんでした。
それにしても、3席のまん中を選ぶ心理は謎です。
ほかが満席でもないかぎり、そこは避けるでしょうに。
申し添えれば、そのフライトはけっこう空席がありました。

うー、謎です。
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ikedakayoko

おしらせ
「引き返す道はもうないのだから」表紙180


「引き返す道は

 もうないのだから」
(かもがわ出版)

・このブログから抜粋して、信濃毎日新聞に連載したものなども少し加え、一冊の本にまとめました。(経緯はこちらに書きました。)
・かもがわ出版のHPから購入していただけましたら、送料無料でお届けします。
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