ことば

名を名乗れ!

家にいると、いろんな電話がかかってきます。中には、どこで番号をつきとめたのか、ちょっと気味の悪い電話も。それで、固定電話がかかると、身構えます。

なのに、いつからこうなったのでしょう。かけてきた方はほぼ全員、「池田さんですか?」と切り出します。気味の悪い電話ではなくても、これは堪えます。固い声で、「どちらさまですか?」と聞き返すことになります。

かつてはかけた側が、「○○ですが、○○さんのお宅ですか?」というように、自分から名乗ったものだと記憶します。自分のつごうで相手がなにをしていようがそれを中断させ、いやおうなく電話口に出させるのですから、かける側がまず名乗るのが礼節というものだ、という感覚が、今より共有されていたように感じます。間違っていたらたいへん、という思いから、まず先方を確かめる、という気遣いはわかりますが、私のような古い人間は、こちらにまず名乗らせるなんて、と思ってしまいます。路上で突然、顔を隠した人から、「おいっ、池田!」と呼び止められたような気がして、どっと疲れてしまいます。

私は、こちらから電話をかける時は、「池田と申しますが、○○さんのお宅ですか?」と訊ね、「そうですが」というお答えをいただいてから、「いつどこでお目にかかった○○の池田です」と、やや詳しく自己紹介することにしています。のっけから自己紹介を長々とやるのも、相手をじらせてしまう、と思うからです。

外国の映画などでは、かかってきた電話にいきなり「○○です」と自分から名乗っています。このくにでも、事業所なら、かかってきた電話に「○○社です」と応えます。もしかしたら、今はそれが個人にも広がっているのでしょうか。かかってきた電話になんの抵抗もなくみずから名乗る人が主流を占めるなら、私の感覚がずれているのでしょうか。古い、あるいは狭量なのでしょうか。

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高すぎませんか このくにの女性の声

15年ほど前、女性の声と社会的立場の高さは反比例する、とエッセイに書いたことがあります。女性の社会的な地位が低いとその声は高くなり、男性の庇護が必要な弱い存在だということをアピールするものになる、というのがその趣旨でした。

けれど最近、あれは間違いだったのではないか、と考え始めています。この社会、女性の声がやたらと高いのです。その社会的地位は高いのに、と言いたいわけではありません。女性の声は高く、その社会的地位はあいかわらず低い。けれどそれだけではなく、女性の声の高さにはまた別の理由もからんでいるのではないか、と思うようになったのです。

その理由、まだ探り当てていませんが、キーワードは現代日本文化だろうと、ぼんやりと考えています。クール・ジャパンとか言いたい向きのある、この、今を生きる私たちの社会の文化です。アニメが重きをなすこの文化は、幼さを意匠として押し出しています。そして、その幼さは弱さや愚かさの現れではなかったりもするのです。

分析は措くとして、この女性の高い声に、私は困っています。歳をとるにつれて、高音が聞こえにくくなっているのです。これ、私だけではないようで、同年配やそれ以上の人びとからよく聞く話です。若者にしか聞こえない高周波のモスキート音というものもあるそうで、高音域は若い耳には聞こえるけれど、歳のいった者にはきびしい。

でもたとえば、女店員さんの言葉がきちんと聞き取れなくても、だいたい何を言っているのかは察しがつくので、不便はありません。そう、お店では私は聞こえたフリをして返事をしていることがあるのです。けれども、飛行機から降りてすぐ、まだ耳がおかしくなっているときなど、女店員さんの言葉がいつもに増して聞き取れず、がくっと疲れを覚えたりします。飛行機の客室乗務員さんが低めの声なのは、内耳の気圧調整がうまくいかない乗客への心遣いなのかも知れません。

とくに医療介護関係の若い女性が高い作り声を出すのは、問題ではないでしょうか。彼女たちと接する多くは、高齢者です。高齢者は、聞き取ろうと緊張して耳を傾けているのかも知れません。ついでに言うと、彼女たちの話し方、べたーっとして随所にたどたどしさの味つけがしてあり、どこか保育士さん風なのも気になります。

先日、ある大病院に行きました。そこの受付と会計では、女性事務員さんたちがスピーカーではなく生声を張り上げて患者さんを呼んでいましたが、その声にうれしくなりました。若い事務員さんも多いのですが、おしなべて低めなのです。声の高さは個人の生来のものと言うより、文化の要素がかなり左右するものだということを、改めて確認しました。この病院の文化では、声は低めと言うか、強いて高めにはしないのでした。意図してそうしているのかどうか、わかりませんが、私にはやさしい心遣いと感じられました。もちろん、園児扱いされている気になるような、保育士さん風の話し方でもありませんでした。

超高齢化社会が言われていますが、接客が欠かせない業種では、女性の声の高さについて、耳の聞こえの悪い高年齢層への対応を考える時期に来ているのではないでしょうか。

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若い女性の発音流儀とグリムの法則

ついでなので、きょうも発音の話題です。

銀行がテレビコマーシャルをしていいことになった直後ですから、20年以上も前になるでしょうか。ある銀行のコマーシャルに、女優の浅野温子さんが出ていました。場所は空港ロビーで、浅野さんは海外旅行に出るところのようです。ところが、銀行口座の残高が少なくて、自動引き落としに足りない、ということに気づきます。絶体絶命。そのとき、ナレーションが流れます。「ご安心ください、浅野さんのご口座は○○になっています」。「○○」は忘れましたが、残高が足りなくても引き落としはされ、足りない分は自動的に借金したことになるというものでした。その次、浅野さんの顔がアップになり、せりふが入ります。

「たすかった!」

語頭の「た」を発音する時、浅野さんの歯の間からはっきりと舌の先が見えました。私は驚きました。「た」音は舌の先を上の歯の裏の生え際につけて発音する破裂音なのに、あれでは閉鎖が不完全だからです。それから注意していると、ごく若い女性たちの中に、そうした発音をする人がけっこういることに気づきました。若い男性も、数は女性より少ないとは言え、いました。

驚いたのにはわけがあります。私はドイツのグリム兄弟の、おもにメルヒェンにかかわっていますが、兄のヤーコプは言語史の研究家でもあり、「グリムの法則」という発音の歴史的変遷を解き明かした業績を残しています。それによると、b音は時代が下るとp音になり、さらにこれにhがついてph音、つまりf音になる、というのです。同様に、d→t→th、g→k→khと変化する、とヤーコプ・グリムは考えました。

「グリムの法則」は、訂正が加えられ、より精密になって、現代の言語学でも通用しています。けれど、グリムはインドヨーロッパ語族の歴史を研究したのであって、「法則」もこの語族から引き出したものです。でも、日本語にもあてはまるのではないか。わたしは、言語学者に会うと尋ねることにしているのですが、日本語だけでなく、すべての人間の言語にあてはまるだろう、というのがおおかたの意見でした。

なぜ日本語にも適応可能と考えられるかというと、現代のh音は平安時代はf音で、その前はおそらくp音だったらしいからです。母、「はは」は「ふぁふぁ」、さらには「ぱぱ(パパ)」、もっと遡れば「ばば(婆)」だったはずというのは、よくできた冗談のようですが、事実です。

だったら、ほかの音列にも言えるでしょう。現に「た」音を発音するのに、浅野温子さんはじめとする若い女性たちは、20年以上前から、英語のth音のように舌の先を歯の間にはさんでいます。聞こえるのは、ちょっと軽いけれどれっきとしたt音で、今のところ舌の先は無意味に外に出ていますが、これがあと何十年、何百年かしたら英語のような擦音にならないとも限りません。

グリムの法則にのっとって日本語の発音が変化する、その瞬間を、もしかしたらあのCMは映像に記録したのかも知れません。このこと、発音の研究をしているNHKの放送研究所の方にお伝えしました。あの銀行CMは保存すべきです、日本語の発音の歴史の貴重な史料、それどころか、グリムの法則を裏付ける世界初の映像証拠になるかも知れませんよ、と。NHK放送研究所があのCMを入手保存したかどうかは、聞いていません。

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女子アナの発音流儀

きのう、声優さんについて書いたら、こちらも書きたくなりました。女子アナ、と括ってはいけないのでしょうが、ニュース番組に出ている女性一般の発音にも気になることがあります。

それは、語尾をだみ声、とまでは言わないでしょうが、声帯周りの筋肉に力を入れて、喉を絞めて発音する人がいることです。男性にはいません。女性特有の発音です。NHKの夜7時のニュースの最後に出てくるお天気キャスターの女性が典型です。彼女の場合、「です」だけでなく、かなり前の音からすでに喉が絞まっています。少し前まで民放のニュース番組に出ていた滝川クリステルさんも、語尾で喉がつぶれていました。ケーブルテレビ局の朝日ニュースターには「デモクラシー・ナウ」というアメリカの独立系テレビ局の番組がありますが、その司会役のエイミー・グッドマンさんは、ほぼすべて喉を絞めた状態で発音します。その日本版の司会役、ヒューマンライツ・ウォッチ・ジャパンの土井香苗さんも語尾喉絞め派で、個人的に存じ上げていますが、ふだんもそうした発音です。

日常会話でこうした発音をする人に、私は土井さん以外、会ったことがありません。滝川クリステルさんも、現場でのインタビューなどでは、喉を開放した発音をしていました。なのになぜ、テレビには語尾で喉を抑圧する女子アナが多いのでしょうか。そして、こうした発音をする動機はなんなのでしょう。強調したいとき、無意識に喉が力んで声がつぶれるのでしょうか。

これは電波に乗った時、お名前を挙げた方がたには申し訳ないことながら、あまり耳に心地よい発声ではないと私は思うのですが、そんな受け止め方をする人間はいないのですね。だから、しゃべる仕事にこの発音をする人がたくさんいるのでしょう。でも、私に限っては、NHKの7時のニュースが天気予報になると、テレビを消すのが習いです。

と、ここまで書いたら、つけっぱなしのテレビから、滝川クリステルさんの出ているコマーシャルが流れました。あれ、語尾で喉を絞めていません。CMの監督から、そうした発音はしないようにとの指示があったとしか考えられません。いいですねえ。だみ声になどしないほうが、滝川クリステルさんのきれいな声が引き立ちます。

どうでもいい話ですみません。でも私は昔話、つまり声の文学の勉強をしているので、発音は気になるのです。女性の発音については、まだ気になることがあるので、また書きます。

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声優の流儀

テレビは、おもにドキュメンタリーを見ます。NHKBSには、海外ものを含めて見応えのある作品が多く、録画してもなかなか見る時間がとれないほどです。海外ものは一部が吹き替えになっていて、字幕部分と併用のことが多いのですが、その吹き替えが気になってしかたありません。

理由はいくつかありますが、まずは有声音と無声音の問題です。日本語は「ん」を除いてすべて有声音、つまり母音をともなっていると考えられています。けれど、実際に私たちがしゃべる時、語尾は無声音になります。たとえば「ます」は「masu」ではなく「mas」に近いのが一般的です(もちろん、地域によっては例外があって、たとえば名古屋では語尾をしっかり有声音で発音します)。ところが、吹き替えの声優さんたちの多くは、「masu」と発音します。語尾だけでなく、無声音に近づく音はけっこう多いのですが、声優さんはべたに有声音で発音します。聞いていて不自然に感じるのですが、声優さんの業界では、そういう流儀があるのでしょうか。

語尾についてもうひとつ。語尾だけでなく、文節の最後もなのですが、おもに男性の声優さんが、言い終わったあと、勢いよく息を吐くのが気になります。「……そうなんだha!」「……知ってたよho!」「……ないからねhe!」などなどです。声優さんだけでなく男優さん、たとえば江口洋介さんや玉木宏さんもこうしたせりふ回しをします。

でも、こんな話し方は日常生活ではまずお目にかかりません。舞台には舞台の、映画には映画の、テレビドラマにはテレビドラマの発声法があるわけで、それを否定はしません。ドラマで男優さんがそうした発話をすることは気になりません。が、ドキュメンタリー映像は現実のシーンを記録したものです。その声を担当する吹き替えの声優さんが、ドラマの二枚目然と「ha!」「ho!」を連発するのは、はっきり言って気味の悪い光景です。

また、ドキュメンタリーでは原語が副音声として小さめの音量で流れています。その音程が、若い女性の場合は声優よりも低く、男性の場合は高いことがままあります。これは、若い女性はねちゃねちゃした高い声、男性、とくに責任ある地位にあるような中年男性はドスのきいた低い声という通念で機械的にキャスティングしているからではないか、そう疑ってしまいます。

そして、野性的な男性、あるいは自信に満ちた女性のせりふ回しには独特のものがあって、思い入れたっぷりに溜(ため)を多用したり、ところどころ音を長めにひきずったりします。高齢の方の吹き替えの声がなんとも哀れっぽいこともままあって、それは長い人生を生きてきた方がたの尊厳を無視した、安易な演技ではないでしょうか。

まだありますが、こういうこと、なんとかならないのでしょうか。声優は人気のある職業で、この仕事につくには専門の学校に通い、狭き門のオーディションを通らなければならないそうです。だとしたら、もっと洗練されてもいいはずです。それとも、声優コースの講師陣が因習的な発声や演技しか認めないので、異様な吹き替え流儀がはびこっているのでしょうか。

吹き替えの演出は異文化の解釈であり、日本語版制作者の異文化理解を示すものであるはずです。それが等閑視され、通念や慣習に頼った無自覚な処理をほどこされているのは残念です。私はいつもそんなことを考えながら、居心地の悪さをなんとか押し殺しつつ、海外ドキュメンタリーを見ています。あなたは気になりませんか? これを読んだために気になるようになったとしたら、謝ります。ごめんなさい。

ついでに。

そんなわけで、地上波で放映される映画は吹き替えなので、ほぼ見ることはありません。が、一度だけ、吹き替えのあまりの見事さに、思わず最初から最後まで見てしまった作品があります。それは「フロント・ページ」、主演のジャック・レモンの吹き替えは愛川欽也さんでした。みごとな滑舌とテンポのいいせりふ回しは、ジャック・レモン演じるエネルギッシュで人情味ある新聞記者にぴったりでした。この配役を考えた人に感謝し、この作品は吹き替えで見るに限る、とまで思ったものです。

字幕も含めて翻訳にも言いたいことがありますが、それはまたこんど気が向いたら書きます。

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「責任のへらへら」坊ちゃん 説明責任のばか

小説家にして詩人、町田康は、パンクロック歌手時代から大、大、大好きです。「メシ喰うな!」は、隠し撮りしたライブのビデオも持っています。

その志はどこまでも低く、意志は限りなく弱く、性状はとことん情けなく、毒舌だか寝言だか繰り言だか、どこまでも地を這う言葉の連なりをたどるうちに、でもこれは正論だ、これしかない、とすっかり町田教に染まって、深々と思想の深呼吸をしている、それが町田文学の魅力です。

数年前、出版業界のある地味な授賞式のパーティで、町田さん担当の編集者が、「町田さんが池田さんにぜひごあいさつをしたいっておっしゃってます」。

目の前に現れたのは、全身黒づくめのきゃしゃな青年でした。美しいこと、言うまでもありません。もちろん、町田康が池田香代子に会いたいなんて、思うはずがありません。気を利かせたつもりの編集者さんの差し金に決まっています。わかってはいるものの、ひるんだような表情でさしのべられたその手を、わたしは思わず両手で握りしめてしまいました。

「あらあ、どうしましょう! ご本、全部持ってます。ファンです。ご本、持ってくればよかった。お会いできるとわかっていたら、サインしていただくんだったわ。どうしましょう!」

なかなか手を離そうとしない中年女に、町田康であるその青年は、内心、舌打ちしていたに違いありません。そのエッセイから、それはもう決定的だとわかってはいるものの、頭に血が上ってしまったわたしは、そのあとどんな話をしたのか、まるで憶えていません。

その町田康さんの、北海道新聞(09年7月7日付夕刊)に掲載されたコラムを、
ブログ「釧路を知ろう『むしろ釧路』さんが「原文のまんま書き写し」てくださっています。あまりにもすばらしいので、ご紹介します。

説明責任という居丈高な言葉が幅をきかせ、いやな感じがこの社会に蔓延しています。せめて説得責任と言うべきです。相手から、「いいや、そんな説明では納得できない」と言われたらおしまいなのですから……とまあ、わたしが言うと身も蓋もないことが、町田康にかかるとこんなにすてきなエッセイになります(今日のタイトルは、町田康のエッセイ集『へらへら坊っちゃん』にかけています)。


「責任のへらへら」

いまの年齢になるまで物事に対する責任というものをちゃんと果たさないで適当にへらへら生きてきた。なぜかというと、その方が楽だったからだが、しかしこれからはそういうふざけた態度で生きていられなくなるかもしれない。なぜかというと、ここ数年で責任ということを追求する人が急激に増えたからである。

最近は説明責任を果たせと言って怒る人が増えた。この場合、何が恐ろしいかと言うと、説明をしていない、といって怒られるのではなく説明する責任を果たしていない、といって怒られるのが恐ろしい。

それのどこが恐ろしいかと言うと、例えば「午飯にすうどんを食べた」ということについて説明するのであれば「すうどんを食べたかったから」と嘘偽りない正直な気持ち、そしてまた事実を述べれば済む。しかし、説明責任となるとこれでは済まず、世間が納得するまで、ということは世間の興味・関心に沿い、そのうえで世間が納得し、気に入って満足する説明が出てくるまでずっと責任を取り続けなければならないというところが恐ろしい。

さっきのすうどんの例で言うと「すうどんを食べたかったから」と説明しただけでは説明責任は果たしたとみなされず、さらなる説明責任を問われる。

「なぜ、わざわざ味気ないすうどんが食べたかったのですか。おかしいじゃないですか。なぜ天ぷらうどんにしなかったんですか」

「実はお金がなかったのです。お金がなかったのですうどんで我慢したんです」

「なぜ、お金がなかったのですか」

「そんなことまで言うんですか?」

「当然です。説明責任というものがあります」

「昨日、お金を遣い過ぎたからです」

「何に遣ったんですか」

「それも説明責任ですか」

「そうです。説明責任です」

「・・・・・・ソープランドというところで遣いました」

「それはなにをするところですか」

「女性の方の接待を受ける場所です」

「なぜ、そんなところに行ったのですか」

「・・・・・・申し訳ありません・・・・・・」

「それはあなたが人間として最低最悪の脳味噌スポンジ鼻下6メートル級エロバカオヤジだからじゃないのですか」

「はあ?聞こえないんですけど」

「そうです」

「わかりました。ではあなたの口から説明責任を果たしてください」

「はい。私が午飯にすうどんを食べたのは私が人間として最低最悪の脳味噌スポンジ鼻下6メートル級エロバカオヤジだからです。申し訳ありませんでした」というところ、すなわち世間の興味・関心に沿い、そのうえで世間が納得、気に入って満足する説明が出てくるまで説明しないと説明責任を果たしたとは言えないのである。恐ろしいことである。

そのちょっと前は自己責任ということをいう人が多かった。似た言葉で自業自得という言葉が昔からあるが、自業自得が、あくまで自分単独で行なった行為による責任を指すのに比して、自己責任というと、それがたとえ法律の不備や偶然の不幸や運・不運みたいなところにまで拡大して、自分の身に起きたことはすべて自分が決定したことゆえ、自分ひとりで責任をとらなければならない、というニュアンスを帯びて恐ろしい。

そんなことで自分以外の他人にいろんな責任を負わせて怒る、という傾向はこれからますます強くなっていくに違いなく、油断をしていると思いもよらない、眼鏡責任、すし飯責任、ヘゲタレ責任、牛丼責任、散髪責任といった各種の責任を取ることを強く求められ、とても苦労をするのではないか、と思うと心配で心配で夜の目も眠れず、日中睡眠不足でぼうとしているものだから期日を過ぎても約束した仕事が完成せず、このままいくといずれ責任を追及されるのだろうなあ、厭だなあ、と思いつつ、いまのところは何も言われてないので、奥村チヨのヒット曲「中途半端はやめて」(作詞なかにし礼、作曲筒美京平)を、「いざとなったら手を合わせぇ逃げるというの?責任とって、責任とって」なんて、くちずさみつつ、昼酒を飲むなどして赤い顔でへらへらしている。いまのところは。いまのところは。
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「すげーうめー!」

先日、ある教育者とお話をしました。先生は、若者のことばの乱れを憂慮しておられるような印象をうけました。

乱れとは、ある標準や基準があって初めて認識されるものです。日本語には共通語とされるものがあって、それはそれで便利です。遠方に行くと、相手の方のお話が半分もわからなくて往生することがたまにあって、共通語の便利さを改めて噛みしめたりします。

江戸時代、共通語は武士の間や花魁(おいらん)とのやりとりぐらいにしか存在しませんでした。ですから、伊賀と江戸のことばしか解さなかったであろう松尾芭蕉が、宿のふすま越しに漏れ聞こえてくる越後の女たちの話を理解できたはずがないと、わたしは思います。あれは創作。松尾芭蕉という文学者の嘘です。

それはともかく、ことばの乱れを嘆く心性は、国家が一糸乱れず統一されているのをよしとする心性とどこかでつながっているようで、どうも苦手です。それはいわゆる上から目線でなされる取り締まりの色合いを帯びています(「目線」という語の多用も気になる現象ですが、それはまたこんど)。

かつて、「ら抜きことば」が話題になったころ、それを翻訳に使ったというので、やり玉に挙げられました。『ソフィーの世界』でのことです。NHK教育の番組で、ゲストの「識者」に「困りますねえ」なんて言われてしまいました。こういうのは、こちらに反論の機会がないので、それこそ困ります。

「ら抜き」は名古屋地方などでは古くから使われているれっきとした活用です。「られる」だと、可能か受け身か尊敬か、とっさの判断が要求されるので、聞く者に緊張を強います。「ら抜き」なら可能の意味しかないので、わたしは合理的だと思います。

ことばには、時代を経るにつれて合理的に、シンプルになっていく傾向があります。インド・ヨーロッパ語族のなかで、確認できるもっとも複雑な文法をそなえているのは、現存する最古の文書に使用されたヴェーダ語で、もっともシンプルなのは英語です。英語で「三単現のs」と言ってしまえる活用の法則は、ヴェーダ語だと厚さ2、3センチの本になります(そのドイツ語の本はもっていますが、トホホなことに読んでいません)。シンプルさをめざすのは、ことばに内在する生理のようなものです。

そうは言っても、わたし個人は話しことばでも「ら抜き」は使わないし、書きことばで使うときも、「ら抜き三原則」を定めています。それは、
・可能か受け身か紛らわしい(尊敬は区別できます)
・複合動詞である
・原則、話しことばである
たとえば、「狐が……入って来れないように、垣根を直したんだよ」というようなばあいなどです。

ことばは変化する生き物です。自分は「着れる」「食べれる」とは言わない、という方針を立てるのはいいとしても、「ら抜き」を使う人に眉をひそめるのは、わたしは僭越だと思います。「ら抜き」どころか、このあいだは音便まで否定する方に会って、面食らいました。その方はたとえば「すいません」が許せない、「すみません」でないとだめだ、と言うのです。書きことばなら不適切な場面もあるでしょうが、話しことばで「すいません」がだめだなんて、厳しすぎるとわたしは思います。

かく言うわたしも、最近の若者ことばで気になることがあります。それは、女性のぞんざいな物言いです。「めし」「くう」「すげー」「うめー」など、おとなの神経を逆なでにすることを意図しているのなら、まだわかるのです。女ことばと男ことばに違いがあるなんておかしい、という異議申し立てですし、社会批判だからです。若者の反抗は、反抗される側としては受けて立つ覚悟を固める以外ありません。さあ、どこからでもかかってらっしゃい、というわけです(反論の根拠は「お姉ことば」の効用にありますが、これもまたこんど)。

ところが昨今は、そういう意識もなく、これらがぞんざいなことばだという認識もなく使われているようなのです。テレビでかわいらしい女性タレントが、「うまい」なんて言っているのを聞くと、古い人間としてはどう反応していいのかとほうに暮れ、虚脱感を覚えます。
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「核」なのか、「原子力」なのか

きのうの記事の反響の大きさに、みなさんの危機感の強さを思い知らされました。

それで、迂遠なことですが、考えたことがあります。

英語だと、nuclear あるいは atom。後者のほうが、ややくだけたニュアンスをもち、他面ギリシア哲学の「アトム論」という語にさかのぼるという違いはあるものの、軍事にも民生にも混用されているようです。

日本語にも、「核」と「原子」のふたつの語がありますが、軍事には「核」が優勢なものの両方が、民生には「原子力」だけが使われてきました。このことばの使い分けがはっきりするのは、1955年に制定された原子力基本法だそうですが、その第2条には、こうあります。

「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限り、民主的な運営の下に、自主的に行うものとし、その成果を公表し、進んで国際協力に資するものとする」

民主・自主・公開のもとに原子力を平和利用するという、いわゆる原子力三原則です。原爆の惨禍のいまだなまなましい当時、原子力の研究開発を進めるために、最低限これだけは守ると、人びとにたいする説得材料として掲げられたものでした。

これに関与した科学者は茅誠司と伏見康司。おふたりとも、世界平和アピール七人委員会の初代メンバー、当時の良心的科学者の代表格と言っていい方がたです。この方がたが、ことばの詐術をたくらんで「核」と「原子力」を使い分けたとも思えないのですが、ともあれそれから54年、この三原則は守られてきたのでしょうか。とくに民主と公開。すべての情報は公開され、すべての決定は民主的におこなわれたでしょうか。

書いていて空しくなります。54年かけてわたしたちが経験的に知ったのは、原発と民主主義は相容れない、ということでした。54年かけて為政者は、原発と民主主義は相反する、と証明したのです。それは秘密主義と密室の意思決定によってしか、建設も運転もできなかったのでした。

原発はもういいかげんやめる時だと、わたしも考えるひとりです。
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気になる「大臣」

今までは格別気にもかけなかったのに、鳩山新総理が就任記者会見で何度も「国民主権」ということばをつかったとき、異和感がむくむくと頭をもたげました。

「大臣」ってなんかヘン、と。

だって「臣(おみ)」ですよ。家臣、臣下の「臣」、忠臣蔵の「臣」です。そのトップという意味の「大」がついてはいますけど、君主に仕える者という意味に変わりはありません。戦前は、自分の名前の前につけて、「臣(しん)○○」と名乗りたがる人たちがいました。戦後も、吉田茂が嬉々として「臣茂」と名乗っていました。

「臣」には「やっこ」という読み方もあります。「やっこ」は、一般的には「奴」と書きます。「奴隷」の「奴」です。「やっこ」はもとは「家(や)つ子」、「つ」は「の」という意味の助詞です。どこの家の子分やねん……。

首相外相の「相」も、広辞苑によれば「君主を輔佐し政を行う職」です。

戦後、憲法を制定したときに、なんとかならなかったのでしょうか。だって、国民主権を謳うなら、その実態からしておかしいでしょ? 「○○省長官」とかにすべきだったと、わたしは思います。

あるいは、こういうことばの記憶が完全に失われて今日に至っていることは、むしろ歓迎すべきなのかもしれません。だとしたら、「大臣」と聞くたびに気になる古くさい人間としては、置き去りにされて本望です。
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わたし、パロディストだったんです

グリムのメルヒェンには、30年前に出会って以来、ずっと関わってきました.その過程で、個人全訳もやりました(講談社刊、文庫版もあり)。

そのため、たとえばWikipediaによると、わたしは「グリム童話の翻訳をライフワークとし」ているそうです。

そんなことはありません。
魔女が語るグリム童話
自分の研究、というとおおげさですね、探求、でもごたいそうだけど、とにかく興味のおもむくままに対象にとりくんできた、その過程に避けて通れないものとしてグリムがあり、その翻訳があった、ということです。

20年ほどグリムに思いを凝らしているうちに、突然、あの話この話がアタマの中で暴れ出し、気がつけば、わたしはまるで憑かれたようにパロディを書いていました。

それが、2冊の本になりました。『魔女が語るグリム童話』と、『続・魔女が語るグリム童話』(洋泉社、1998年刊、1999年刊)です。正編の評判がよかったので、出版社の要請で続編を書いたのではありません。1冊出してもまだパロディが止まらなかったので、こちらからお願いして続編を出していただきました。しかも、続編のほうが厚いという、念の入れようです。

いまの時代になおメッセージを発しているいにしえの作品が、古典と呼ばれるのだと思います。その点、グリムはまさに古典の名にふさわしい。表面的にはその当時の価値をさししめすかのように見えるグリムのメルヒェンは、その奥底からいまという時代にガンガン鳴り響く声でメッセージを発していました。それを書き留めました。メルヒェンとはどういう文芸か、ということも書き込みました。

基調はお笑いです。グリムのパロディと聞いて、残酷とエロティシズムにおどろおどろしく彩られたゴシックな味わいを連想した方、ごめんなさい。

どちらも挿絵はスズキコージさん。コージさんとは40年来の友だちです。これまで、8冊のグリム本に絵を描いていただいています。表紙絵はわたしがモデルらしい。わたしがこんなふうに見えるなんて、コージさんの目は変わっていると言わせてもらいたい。

このたび、正編が文庫になりました(宝島社刊)。よろしかったら、お手にとってみてください。
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「父兄」

先日、「TVタックル」に田嶋陽子さんが出ていました。例によって、他の出演者と派手な言い合いをしているとき、言っちゃいました。

「父兄」って。

このことばを使う人はけっこういます。ごく若いお母さんたちも使います。父も、ましてや兄など1人もそこにいなかったことは、参加した自分たちがいちばんよく知っているはずなのに、「父兄会」と言ったりして。

田嶋さんは、この番組をつうじて戦うフェミニストとして世に知られるようになった方です。その田嶋さんが「父兄」とは。習い性は恐ろしい。

テレビ局もテレビ局です。「戦う女」という田嶋さんのキャラクターをたいせつにしたいなら、うっかりミスは編集してさしあげればいいのに。それとも、ミスに誰も気がつかなかったのでしょうか。ありえる話です。ともあれ、田嶋さんがお気の毒になりました。

「父兄」は、明治時代につくられた旧民法に根ざすことばです。旧民法は、家長が支配する厳格な家制度をさだめていて、家長になれるのは原則、父か長男でした。父が亡くなったり隠居したりすると、長兄が家を継いで家長になったのです。

家長は絶大な権力をふるって、家を差配しました。家族がだれと結婚するか、どこに住むか、すべて家長が決めました。誰かを家から追い出したり、戸籍から切り離したりするのも、家長の一存でした。

家長は、子どもや弟妹の学校に、保護者として出ていきます。当時は、女性がおおやけの場に出ることはありませんでした。ですから、保護者は「父兄」、保護者会は「父兄会」だったわけです。

昔、女学校に進むのは、中層上層の少女たちでした。そこでの「父兄参観」はすごいですよ。娘や妹が通っていてもいなくても、地域の特権階級の家長たちが学校にやってきました。日も決められていなかったりします。いつでも男たちが、少女たちの教室にどやどやと入ってきた。その目的は、息子や弟の嫁探し。少女たちの品定めです。気に入った少女がいたら、校長に成績や品行や家柄を確かめる。個人情報保護もなにもあったものではありません。

ですから、卒業を待たずに結婚する少女は珍しくありませんでした。いわば寿退学です。そのいっぽうには「卒業顔」ということばがありました。「おまえは卒業顔だから、結婚できる見込みはない。卒業し、師範学校に進んで教師にでもなれ」というわけです。

SFみたいな話ですが、ほんとうです。井上章一さんの『美人論』(リブロポート 1991)に書いてあります。嘘だと思ったら、のぞいてみてください。

旧民法は1947年になくなりました。新しい憲法が施行され、それにともなってさまざまな法律が手直しされた、その一環です。旧民法の家父長制度は、憲法24条にさだめられた両性の平等に、およそ似つかわしくありませんでした。

その瞬間、「父兄」は法律の裏打ちを失いました。でも、ことばとしてはいまだにゾンビのようにしぶとく生きています。もしかしたら、心の制度としてもわたしたちの意識の底にまだ棲息しているのかもしれません。もちろん、田嶋さんの意識のどこを捜しても、そんなものはとっくに絶滅しているはずです。なのに、かっかしたらこのことばがひょいと出た。習い性は恐ろしい、と言ったゆえんです。

テレビのワイドショーには、新聞を読むコーナーがあります。何年か前、画面の新聞記事には「父兄」とあるのに、アナウンサーはそこを棒でなぞりながら「保護者」と読み、そのことにコメントするでもなく先を読み進めました。局のサイトでその方の自己紹介を見たら、「映像と声でなにが伝えられるか」というようなことが書いてありました(今見たら、変わっていましたが)。

このときは、映像は「父兄」なのを承知であえて「保護者」と声にすることで、ことばにたいするわたしたちの配慮不足や意識の死角をさりげなく伝えてくださったわけです。テレビ朝日の佐々木正洋アナウンサー、おみごとでした。
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「惚れたが悪いか」

太宰自分が書かせていただいたから言うのではありません。

「別冊太陽 太宰治」、いいです。写真も文章も。

太宰を知りつくしている人にも、ぜんぜん知らない人にも、豊富な情報や資料で、味わいを深めてくれる。それでいて、太宰文学と向き合うことをじゃましない。

今年は太宰生誕100年ということで、いろいろな企画がなされています。けれど、語りつくされた感のある太宰を、奇をてらうことなく真正面からとりあげて、陳腐に脱しない。「別冊 太陽」にはいいものがたくさんありますが、これもその1冊。

わたしが書いたのは、「御伽草子」についてです。
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「引き返す道はもうないのだから」表紙180


「引き返す道は

 もうないのだから」
(かもがわ出版)

・このブログから抜粋して、信濃毎日新聞に連載したものなども少し加え、一冊の本にまとめました。(経緯はこちらに書きました。)
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