半年前のブログ記事を、いまだに毎日10数人の方が読んでくださるのです。あるサイトから飛んできて。少なくとも3000人は読んでくださったことになります。その記事は、6月3日の「東京メディア発 沖縄への涙 升味佐江子さんin『パックインジャーナル』」(こちら)、あるサイトとは、ミュージシャンの知久寿焼さんのサイトです(こちら)。知久さんは、毎年沖縄に行っていて、高江、とっても行きにくくて、私など1度しか行ったことがありませんが、知久さんは通っています。「ヘリパッドいらない」住民の会のテントで、ライブもやっています。ライブと言っても、道端で酒盛りしながらどんどん歌をうたった、という感じだったようですが。
クリスマスイブの夜、知久さんのライブに行きました。そこで知久さんに、「紹介してくれてありがとう、おかげで、ビデオを何度も見ながら書き起こした甲斐があったわ」とお礼を言いました。知久さんは、「あれが僕の気持ちにいちばん近かったから。じゃあ、当分、リンクしておくね」と言って、話がその前の日にテントが米軍ヘリに飛ばされたことに及ぶと、表情を引き締めました。
知久さんの歌はシュールです。

「お留守番」という歌は、矢川澄子さんのことをうたっているのかな、と思ったとたんに、心の中でどばっと涙があふれました。「暑くもない、寒くもない、木漏れ日のこの家、目が覚めた、生きててよかった、細い肩で話していたね、君がいなくなってから、ぼくはずっとお留守番、君に会いたい……」そんな歌でした。黒姫の矢川さんの家でのいろんな楽しかったことがほうふつとしました。
矢川さんに知久さんのこと、と言うかバンド「たま」のことを最初に教えたのは私だって、知久さんは知ってる? うちの2つ先のブロックに、詩人仲間の白石かず子さんがお住まいで、矢川さんは白石さんのお宅に行く時、西荻窪駅からの道すがら、いつも子どもたちにケーキを買って、寄ってくださるのでした。そんなある日、「これ見てくださいな、きっと矢川さんお好きだから」と、半ば強引に「いか天」のビデオをお見せしたのでした。私はこの番組が大好きで、「たま」が破竹の勢いで勝ち進んでいた頃でした。矢川さんは、「ふうん」とか「ほお」とか、関心なさそうな反応しか示されませんでした。
ところが矢川さんは、秘かに強烈な興味をもったのです。そのことを矢川さんがさっそく、秘書みたいなサポートをしてもらっていた元編集者に言ったら、偶然、彼女は知久さんの親しい友だちで、一気に交流が始まり、この3人ともう1人、若い写真家の4人は荻窪でルームシェアをするまでになった。そこにうかがうと、矢川さんは、「私、お母さんごっこしてるの」といそいそという感じでうれしそうにおっしゃっていました。なのに、知久さんたちったら、「ええ?」なんて語尾を上げてにやにや。「『たま』を見ていると、小町の家を思い出すのよね」が、矢川さんの口癖でした。若き日の矢川さんが渋澤龍彦と過ごした、伝説の鎌倉小町の家。たしかに、「叩き物」担当の冬でもランニング姿の石川さんは、小町の常連、サンスクリット学者の松山俊太郎さんとおかしいほどそっくりだったけれど、矢川さんがだれを渋澤に同定していたのかは、ついにわかりませんでした。矢川さんと知久さんは、詩や絵や音楽でコラボして、そうそう、知久さんの昆虫採集にも矢川さんはつきあって、ツノゼミの食性なんかうんと詳しくなって、ほんとうにまるで永遠の夏休みを遊び惚ける母子のようでした。矢川さん亡きあと、知久さんは黒姫の家を矢川さんのご親族とともに管理している。まさにお留守番。
最後の歌、「今ちょっとここだけの歌」(だったか?)、歌詞はちゃんと憶えていませんが、だいたいこんな意味でした。「このへんな声の歌を聴いているあたしは、たしかに今ここにいる、このへんな声で歌っているぼくは、たしかに今ここにいる」 音楽表現によって煉獄巡りをした果てにたどりついた知久さんの居場所は、知久さんの表現を求める一人ひとりにもその居場所をもたらしている、それを確かめ合うことの深い意味、私たちはひとりぽっちで、でもひとりぽっちではなく、でもでもひとりぼっちで存在するという謎にまで達するほど深い意味が、単純な言葉にこめられていました。そういうこと、私たち芸術家じゃない人間は、芸術家が言ってくれないと、うっかり気がつかないまま死んでしまうのです。
知久さん、すばらしいクリスマスプレゼントありがとう。突然ハグハグするから、まだお客さんがみんなたくさん残っていたのでぎこちなくなってしまった私は、ダサイおばさんです。
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