亡き人を想う

土方巽の思い出(下)

きのうの続き、稲田奈緒美さんの『土方巽 絶後の身体』からの引用です。

私も、若い頃にはいろいろなことがありました。今さら、取り繕うわけにはいきません。とくにこのインターネットの時代、ちょっと検索すれば、昔のさまざまな行状が瞬時に白日の元に晒されます。ですから、逃げも隠れもしません。たとえば、「酔いつぶれ」「池田香代子」で検索してみてください。証拠写真が出てきます。20年ほども前、名古屋の白川公園で楽しく飲んで笑い転げていただけなのにな。私だけ「先生」がついているのは、これより前に名古屋に住んでいた時「そう」だったことを知っていた名古屋の人が、このキャプションをつけたので「そう」なっているだけで、他意はないと思います。思いたい。

いろいろな人に出会いました。それが現代アート史研究の対象になるような人物ともなると、その謦咳に接したおかげで、私ごときの「家政婦は見た」風の証言も記録されるわけです。きょうご紹介する証言に出てくる口述筆記のエッセイは、土方巽の『美貌の青空』に納められています。

慶応のアートセンターには「土方巽アーカイブ」があります(こちら)。土方の写真は、もちろんネット上にたくさんアップされていますが、たとえば細江英公さんの完璧な作品など、さすがにブログにお借りするのははばかられるので、アーカイブでご覧になってください。


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池田香代子は、生活の裏側も舞踏手も客観的に見ていた。舞踏手たちのトレーニングは厳しく、例えば玉野が、既に太っていた元藤を肩に乗せて稽古場をグルグル回って足腰を鍛えていた。「そういうトレーニングをしなければ、きれいとか、きれいじゃないではなくて、シャープな線が出ないのだろう」と見抜いていた池田は、玉野と土方に膝詰め談判で舞踏手になるよう延々と説得されたことがあるが、首を縦に振らなかった。「動かないでいいから、動かないのも舞踏だから」などと言われたが、同じ動かないのでも、土方や舞踏手が動かないのと素人が動かないのとでは全然違う。その頃、アイドル的存在だった金井美恵子が、好奇心で出演したことがあった。特権的な存在のため、裸にならず、赤い着物を着ておかっぱ頭で動いたが、池田は、「やっぱり、素人が出てるから格好悪かったんですよね、だから私は嫌だったんです。もしやるならば、皆と同じように体を鍛えて、金粉ショーから始めて、それで舞台に出るのでなければ格好悪いから」と考えたためだ。
 
こうして池田は、ショーダンサーにも舞踏手にもなることなく、裏方の手伝いに徹した。当時の池田にとって舞踏手は、表現者であり、自分たち一般ピープルとは違う特別な人たちだ、という思いが強かった。なかでも特権的なのが芦川羊子だった。アスベスト館の中庭には、有名なドラム缶風呂があったが、芦川は男性と一緒に入り、それを週刊誌が面白おかしく書いていた。一方の池田は、小林嵯峨などその他の女性たちと一緒に銭湯へ通った。
 
池田は毎日、元藤から渡された食費で買い物に行き、魚屋では捨てられるような部分も買って、いかに安い材料でボリュームのある食事を作り、踊って腹を空かせている舞踏手たちを満足させるかに苦心した。アパートでは元藤がマネージメントをしており、そこへ行くと、娘がらとべらに両方の腕をしっかりとつかまれ、「がらのママになって!」「べらのママになって!」と言われては、子守をしたのだという。時には、土方のドテラのような衣裳に綿を詰めるなど衣裳作りの手伝いもし、キャバレーの金粉ショーを興行している暴力団事務所へダンサーのギャラを集金に行くこともあった。また、高橋睦郎の勤務先の広告会社や篠山紀信の写真スタジオなどへ、「土方のところから来ました」と言って公演チケットを売りに行ったという。
 
そして、池田のもう一つの重要な仕事が、土方の口述筆記であった。土方は「俺は漢字が書けないから。俺がしゃべるから、書け」と言って、話すことを書き取らせた。その場所は押し入れで、なかに置いてあった小さなこたつを挟んでの作業だった。押し入れに入るときには、芦川から「先生に手を出すんじゃないよ!」と、よくドヤされた。
 
池田が意外に思ったのは、土方も元藤も、クラシックバレエなど古典を踏まえたうえでの話が、日常的に多かったことだ。そういうものも全部やった、モダンダンスもやった、それで辿り着いたのがこれである、という意識を明確に抱き、日常的に確認していたように思われた。
 
池田はボランティアのつもりだったが、元藤は出勤簿を作ってきっちりと名前を書かせ、1日500円か700円か、相場の半分程度ではあってもアルバイト代を支払った。「お芸術をやっているんだから奉仕しろ!ではなくて、一日いくらで、という形をとっていらっしゃったから、とても大変だったと思います」と語る。ともかく、常に金がなかったため、夜になって舞踏手たちが酒を飲むこともなかった。

そのように苦しい台所事情を抱えてマネージメントに徹する元藤と、土方の舞踏を体現しているという自負が強かった芦川、この二人と土方の関係が疑問になってくる。池田は、同じ女性として、二人を見ていた。

「私は、裏方としての元藤さんしか知らないけれど、元藤さんだって踊っていたわけでしょう。それが、土方さんが踊ることで裏方になった。子どももお産みになって。踊るという特権を彼女から奪って、土方さんは踊っていくわけですよね。それは土方さんの残酷さと、マチスモと。そこに芦川さんが入ってくる。芦川さんと元藤さんを、土方先生は使い分けた。私はどっちつかずの透明な存在だったから、両方を見てたけど、二人は接しないところで共存共栄、折り合っていたんじゃないかな。そういう風に役割分担させた土方さんは、ぶっちゃけた話で言えば、ひどい人ですよね。でも、何かを作っていく、舞台を作っていく、チームで作っていく男というのは、ブレヒトにしろそういうところがありますね。彼女たちの内面がどうなっていたかは知りませんが、ともかく芦川さんには『自分だ!』という自負がものすごくあって、確かにそういう肉体をしていました。それは誰しもが認めるところだと思います」


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土方巽の思い出(上)

土方巽。すでに伝説と化した舞踏家です。60年代、70年代を駆け抜け、暗黒舞踏を確立した土方巽、アングラと呼ばれた前衛の世界のまん中に君臨していた……なにか説明をくわえようとしても、気持ちが萎えます。陳腐な言葉しか出てこないことを恥じます。そんな土方巽にかかわった人びとをインタビューし、その足跡をたどったのが、稲田奈緒美さんの『土方巽 絶後の身体』です。じつはそこに数ページ、私の証言も納められています。学生時代に、ほんの短期間、土方巽のアトリエにいました。大学は封鎖状態で、デモにも集会にも参加せず、ぼんやりとしていた私を種村季弘先生が、「お前なんか、ドイツ語勉強するより土方んとこ行け。よっぽど勉強になるぞ」と送り込んだのです。

インタビューに応じているのは、帯に書かれただけでも、「赤瀬川原平、厚木凡人、粟津潔、石井輝男、加藤郁乎、唐十郎、田中一光、谷川晃一、堂本正樹、中西夏之、中村宏、野中ユリ、浜畑賢吉、細江英公、松岡正剛、松山俊太郎、麿赤児、元藤燿子、矢川澄子、横尾忠則、吉江庄造、四谷シモン、ヨネヤマ・ママコ ほか多数」。私の証言など、いちばん面白くない部類です。その部分を再録した下記に出てくるオープニングパーティには、このほぼすべてが参加しておられました。もちろん、種村季弘先生も。当時のアンダーグラウンドのオールスターです。

わたしが土方さんのところにいたのは、1970年8月に西武百貨店池袋店ファウンテンホールで催された土方巽回顧展「はん(火偏に「番」)犠大踏艦」前後のことです。裏には堤清二氏つまり作家辻井喬がいたわけです。

きのう、1月20日は、25年前に土方巽が亡くなった日でした。きょうとあした、2度に分けて稲田さんの大著から引用させていただきます。ぜひ現物を手にとってくださることを願って。「あの時代」の最良の上澄みないし沈殿物が、そこには充満しています。


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初日には、オープニングパーティが西武百貨店の上階にあるレストランを貸し切って行われた。このパーティで隅の方にいたのが、現在翻訳家・評論家として活躍している池田香代子である。池田は、1968年に東京都立大学に入学し、69年に都立大へ着任した種村季弘の下でドイツ語を学んでいたが、間もなく大学紛争によって大学がロックされ、種村宅で手伝いをしたり、種村に連れられて様々なところへ出かけるようになった。当時は「真面目な、四角四面の19歳の女の子」であり、土方についても関心がなかった。ところが種村から、大学よりも土方のところへ行く方が勉強になると言われ、アスベスト館で舞踏手たちの賄いや手伝い、土方の娘がらとべらの子守などをするようになった。「本当に才能も何もない、紛れ込んだ女学生という感じ」と謙遜しつつ、刺激的で魅力的なアスベスト館での経験を思い出している。

「オープニングパーティは、参加している人たちがすごかったですね。三島由紀夫が途中から入ってきて、挨拶をしてスーッと帰りました。私は隅っこで興奮していましたが、後から考えたら、最後のお別れを言いに来ていたのでしょうね。三島は死ぬ前に、いろんなところへお別れをしに行っているんですが、あれがアングラの世界へのお別れだったんですね。それから、寺山修二さんがいて、土方さんたちの輪に入りたいけれど、皆に馬鹿にされて、意地悪されて、仕方ないから隅っこのテーブルにいた私のところへ来て、話しかけてきたんです。『天井桟敷に入りませんか?』と言われましたが、『ヘンな人!』と思っていました。私は天井桟敷よりも、唐十郎の方が上だと思っていましたから、シラッとしていました。そこにいた皆さんも、唐さんの方が上だと思っていたんですよね。四谷シモンさんなども、寺山さんに対する態度は、残酷と言えるほどでした。シモンさんは美しくて、喧嘩も強い。『何よ、あんたなんか、ただの女じゃないの!』って言われて、『私はただの女だなあ』と思っていました。そう言う人たちを隅っこから見ていて、面白かったですね」
 
池田は、お手伝いといえども種村から預かった大切な学生のため、そのようなパーティに参加させてもらえたが、その他の若者は、パーティには参加させてもらえなかった。当時のアスベスト館には、新宿でヒッピーをしていて拾われた者、大学紛争でドロップアウトしてきた学生、演劇や美術から転向してきた若者などがゴロゴロしていた。男性が多かったが女性もおり、常時30人くらいが出入りを繰り返していた。土方はそういう若者たちを、作品やキャバレーの金粉ショーなどにダンサーとして出演させていたのである。
 
ただし、命令を下すのは土方だが、実際に何かをやらせたり、若者を説得したり、引き止めたり、逃亡を食い止めたりするのは玉野黄一で、兄貴役のように皆を束ねていた。例えば、西武百貨店で演じた作品の中で、白塗りの男たちがケチャのように、ベジャールの<ボレロ>のようにテーブルの上に立って輪を作り、胸を叩くというシーンがあった。音楽にサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」がかかり、着物を脱いでからだに縛り、天を仰いだ男たちが、延々と胸を叩き続ける。見ていた池田は「すごく悲しくて、すごくよかった」と言うが、それをやっていた一人の青年が、「自分はこんなことしたくない!」と言ってはゴネ、「俺は帰る!」と夜になると泣いていた。それを、土方が引き止めて、期間中繰り返しやらせたのだ。独裁者のようでもあり、ときにひどい仕打ちもする土方だが、池田によれば、反面で「可愛こぶりっ子な面と、義理堅さ」があり、それが魅力になっていた。それぞれに理由を抱えて浮遊する若者たちが、何かに牽かれて集まり、疑問や不満を感じながらもそこに留まり、からだを動かすことで何かを掴むことができる、そんな不可思議な磁力があったのだ。
 
アスベスト館での生活の様子は、土方自身が「暗黒舞踏の登場感覚」という文章に記している。

 <芦川羊子の部屋は建物の東側に当たる階右端の畳間、小林嵯峨は同階左側の畳間、仁村桃子は嵯峨の部屋とベニヤ壁一枚で仕切られた手前突出しの畳間、二階真中の三畳間が今泉良子の部屋である。嵯峨の部屋の真下にある四畳半に土方が寝起きしている。建物の西側に当たる二階の個室三畳には弾充が寝ており、その窓の下に吠えない犬シバの小屋がある。(中略)
 
五十畳のフロアは酢酸でふく、便所の床は硫酸で焼きブラシをかける。踊り手の肌の手入れには、ライポンと石鹸を半々に使う。この建物から去っていった男たちの遺留品、枕や下着は石油をかけて焼却する。(中略)
 
時折、あどけない純フーテン達が感性の解放区を求めてこのアスベスト館に立寄る。彼らの一人が踊り子の所持品を包みのまま持ち出したことがある。包みの中に短刀があった。(中略)
 
朝が来る。寝床から立上がる死体は、自給経済的肉体のホコリをまとって、マトンをくらい、可視的な金銭を得るために劇場に運ばれる。ギバサ(海草の名。踊りの題名に使用)、売ラブ(踊りの題名)。その看板を、たくさんの探偵はむらがって嗅ぐ。そして寝床のまま水平に運ばれた死体の舞踏を前にして立つのである>
(「fashon's Eye 6」1970年10月)
 
このようにアスベスト館の日常は、玉野(弾充)、芦川、小林ら内弟子が寝起きし、ショーやストリップで金銭を稼ぎながら舞踏の稽古をする一方で、前衛、アングラなどのイメージに惹かれてやってくるフーテンのような若者たちが、住み着いては去っていく混沌とした場だったのである。(続く)
 
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沖縄と升味佐江子さんと知久寿焼さん

こんなことがあるのですね。

半年前のブログ記事を、いまだに毎日10数人の方が読んでくださるのです。あるサイトから飛んできて。少なくとも3000人は読んでくださったことになります。その記事は、6月3日の「東京メディア発 沖縄への涙 升味佐江子さんin『パックインジャーナル』」(
こちら)、あるサイトとは、ミュージシャンの知久寿焼さんのサイトです(こちら)。知久さんは、毎年沖縄に行っていて、高江、とっても行きにくくて、私など1度しか行ったことがありませんが、知久さんは通っています。「ヘリパッドいらない」住民の会のテントで、ライブもやっています。ライブと言っても、道端で酒盛りしながらどんどん歌をうたった、という感じだったようですが。

クリスマスイブの夜、知久さんのライブに行きました。そこで知久さんに、「紹介してくれてありがとう、おかげで、ビデオを何度も見ながら書き起こした甲斐があったわ」とお礼を言いました。知久さんは、「あれが僕の気持ちにいちばん近かったから。じゃあ、当分、リンクしておくね」と言って、話がその前の日にテントが米軍ヘリに飛ばされたことに及ぶと、表情を引き締めました。

知久さんの歌はシュールです。chiku_sanでも、ことさらにシュールを衒(てら)っているのではありません。子どもの歌が多いのですが、子どもの頃、知久さんにとってこの世界はわけがわからなくて、悲しくて、ぶっ飛んでいて、ひりひりとつらかった、惻々とさびしかった、ときおりこよなく甘いものがバイバイと手を振って……あの世界いったいなんだったのだ、ということを表現しているから、どうしてもシュールになってしまうのだと思います。あの夜、ワンフレーズだけふつうの、ベルカントみたいに歌ったのは、私にはスキャンダルでした。ハイバリトンの、すごくいい声だったのです。知久さんがいい声を捨ててあの独特な発声を編み出したのは、それでなければ自分の世界を表現できないからなのだ、と納得しました。世界がでたらめに見える側、まっとうでえらそうな世界の裏側に閉じ込められた子どもが発する痛みの声があれなのだ、と。

「お留守番」という歌は、矢川澄子さんのことをうたっているのかな、と思ったとたんに、心の中でどばっと涙があふれました。「暑くもない、寒くもない、木漏れ日のこの家、目が覚めた、生きててよかった、細い肩で話していたね、君がいなくなってから、ぼくはずっとお留守番、君に会いたい……」そんな歌でした。黒姫の矢川さんの家でのいろんな楽しかったことがほうふつとしました。

矢川さんに知久さんのこと、と言うかバンド「たま」のことを最初に教えたのは私だって、知久さんは知ってる? うちの2つ先のブロックに、詩人仲間の白石かず子さんがお住まいで、矢川さんは白石さんのお宅に行く時、西荻窪駅からの道すがら、いつも子どもたちにケーキを買って、寄ってくださるのでした。そんなある日、「これ見てくださいな、きっと矢川さんお好きだから」と、半ば強引に「いか天」のビデオをお見せしたのでした。私はこの番組が大好きで、「たま」が破竹の勢いで勝ち進んでいた頃でした。矢川さんは、「ふうん」とか「ほお」とか、関心なさそうな反応しか示されませんでした。

ところが矢川さんは、秘かに強烈な興味をもったのです。そのことを矢川さんがさっそく、秘書みたいなサポートをしてもらっていた元編集者に言ったら、偶然、彼女は知久さんの親しい友だちで、一気に交流が始まり、この3人ともう1人、若い写真家の4人は荻窪でルームシェアをするまでになった。そこにうかがうと、矢川さんは、「私、お母さんごっこしてるの」といそいそという感じでうれしそうにおっしゃっていました。なのに、知久さんたちったら、「ええ?」なんて語尾を上げてにやにや。「『たま』を見ていると、小町の家を思い出すのよね」が、矢川さんの口癖でした。若き日の矢川さんが渋澤龍彦と過ごした、伝説の鎌倉小町の家。たしかに、「叩き物」担当の冬でもランニング姿の石川さんは、小町の常連、サンスクリット学者の松山俊太郎さんとおかしいほどそっくりだったけれど、矢川さんがだれを渋澤に同定していたのかは、ついにわかりませんでした。矢川さんと知久さんは、詩や絵や音楽でコラボして、そうそう、知久さんの昆虫採集にも矢川さんはつきあって、ツノゼミの食性なんかうんと詳しくなって、ほんとうにまるで永遠の夏休みを遊び惚ける母子のようでした。矢川さん亡きあと、知久さんは黒姫の家を矢川さんのご親族とともに管理している。まさにお留守番。

最後の歌、「今ちょっとここだけの歌」(だったか?)、歌詞はちゃんと憶えていませんが、だいたいこんな意味でした。「このへんな声の歌を聴いているあたしは、たしかに今ここにいる、このへんな声で歌っているぼくは、たしかに今ここにいる」 音楽表現によって煉獄巡りをした果てにたどりついた知久さんの居場所は、知久さんの表現を求める一人ひとりにもその居場所をもたらしている、それを確かめ合うことの深い意味、私たちはひとりぽっちで、でもひとりぽっちではなく、でもでもひとりぼっちで存在するという謎にまで達するほど深い意味が、単純な言葉にこめられていました。そういうこと、私たち芸術家じゃない人間は、芸術家が言ってくれないと、うっかり気がつかないまま死んでしまうのです。

知久さん、すばらしいクリスマスプレゼントありがとう。突然ハグハグするから、まだお客さんがみんなたくさん残っていたのでぎこちなくなってしまった私は、ダサイおばさんです。

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平賀敬さんが亡くなって、もう10年だなんて

平賀敬11月13日は、現代の絵師、アヴァンギャルド戯画家の平賀敬さんが亡くなって10年目のお命日でした。それを記念して(?)、敬さんが暮らしたお宅をちょっと改造した箱根湯本の平賀敬美術館で、展覧会があるという(サイトはこちら)。初日はもちろんオープニング・パーティです。これはもう、万障繰り合わせて行くしかありません。

駅前通りを左に折れ、川を渡って小道を急ぐと、とっぷりと暮れた中、見慣れた平屋の窓という窓からは、あたたかい色の光とさんざめく人の声がこぼれていました。玄関を埋めて外平賀敬美術館 外観まではみ出る脱ぎ捨てられたおびただしい靴、靴、靴。二間ぶち抜きの広間はすでに落花狼藉の気配です。やっぱりね、敬さんの会だものね、どこか敬さんの絵のようになるのです。秋山祐徳太子さんが仁王立ちになって、甲高い声でなにやら指図しています。廊下の隅にようやく居場所を見つけ、スズキコージさんと美濃瓢吾君の背中をつんつんとつつきます。知っている人知らない人、おかまいなしになつかしみ、笑い、食べ、飲む。


敬さんのお葬式の時もこんなでした。敬さんが亡くなった、お通夜は今夜、と電話が来て、息子に「どうしよう」と言ったら、「行こう、行くしかないよ」と車を出してくれました。お葬式風の飾りつけはあったのか、なかったのか、忘れました。とにかく敬さんのお棺が座敷のまん中にあって、人がびっしりと詰めかけ、わいわいとお酒を飲んでいました。敬さんと幸さんの一人息子で、やはり画家の太郎さんと弟子の美濃君が、お棺の頭のあたりに座り込み、いっしんに筆を走らせています。敬さんの死に顔を描いていたのです。できあがると、幸さんは太郎さんの絵にいつまでも頬ずりしていました。美濃君の絵には、ちらりと一瞥をくれただけ。それはそうです。美濃君のデフォルメが過ぎた敬さんの顔に、幸さんが満足するわけはありません。美濃君はいつものように、へらへら笑いながら首を傾げて頭を掻いていました。酔っぱらった祐徳さんが突然涙声をはりあげて、「敬さんよう、敬さんには悪いけど、生きてるって、いいもんだよ!」。何度も繰り返します。あまりの正直さ、あまりの悲しみの深さに、笑ったらいいのか泣いたらいいのか、わけがわからなくなりました。

あれから10年、ごった返す座敷の、床の間を背にしたあたりに、お酒が回って鼻を赤くした和服の敬さんがあぐらをかいているような錯覚に陥ります。種村先生もどこかにおられるはず……。それにしても、この人たちはいったいどういう人たちなのだろう。谷川晃一さんや吉野辰海さんといった作家さんたちは分かるけど、若い人たちもけっこう大勢います。中には、大学で教えている田中信太郎さんが連れてきたゼミの一群もいることはわかりましたが、それにしても雑多な若者たち、そして壮年老年の女性や男性。敬さんのことをまったく知らないという若者も、楽しそうにおしゃべりしていました。

平賀敬美術館 夫婦団欒
平賀敬「夫婦団欒」


この家で、敬さんによく遊んでいただいたもので平賀敬美術館 廊下す。明治の元勲が出入りしたこの別荘に、山縣有朋のお供でやってきた森鴎外が控えていた玄関脇の四畳半でこたつにあたっていると、奥からはげの井筒親方がぬっと現れたりしました。敬さんと花札遊びをしていたのです。長い廊下を、体をぶつけあいながら走るたくさんのパグ犬を、ちいさかった子どもたちが追いかけ回しました。敬さんはよく、橋のたもとのはつ花という蕎麦屋に連れていってくれました。湯本の町で、敬さんはみんなに愛されていました。芸者さんたちのカラオケの先生でした。敬さんの歌は洒脱で、腰をちょっと振りながら、シャンソンでも演歌でも、敬さん流に歌いこなしてしまうのでした。

でも、この家に来るのは気が重かった。幸さんのおもてなしといい、源泉掛け流しの極上のお風呂(刺客を恐れて窓には鉄の格子が入り、脱衣場に祐徳さんの作品、「男爵」が飾ってある)といい、とても来たいけれど、気が重かった。「そろそろ失礼します」と言うのがつらいのです。それで、ここに来たが最後、1週間い続ける人たちもたくさんいたのでした。誰にとっても、帰ると平賀敬美術館 風呂言われた敬さんが、しゅんとして肩を落とすのを見るほどつらい瞬間はありません。けれどややあって、敬さんは「よし、わかった」と、自分に言い聞かせるようにうなずく。そして幸さんに、「おーい、はつ花に行ってくる」と声をかけて、いっしょにしばし別れの蕎麦をたぐるのです。もちろん、敬さんはお酒を飲みます。昼でも夜でも、朝でも。

幸さん、このあいだはお疲れさまでした。私は二次会には行きませんでしたが、あれから何人が戻ってきて泊まったのでしょう。ほんとにいつまでも世話の焼ける「敬さんの仲間たち」です。そんな不心得者たちに、幸さんは古布を継ぎ合わせたお手製のすてきなどてらを一人ひとり着せかけ、やさしく寝かしつけたことでしょう。

平賀敬美術館 幸さんのどてら

座敷に飾ってあったあの女物のどてらは、ここで温泉座談会をやったときに私が着せていただいたものではありませんか? あの時の顔ぶれは、種村先生、池内紀先生、そして敬さんと私の4人でした。そのうちのおふたりまでが、もうこの世の人ではないのですね。

このあいだうかがった時、幸さんは美術館に来ていたお客さんに、座談会が載った雑誌をさっと持ち出して、「この人よ」。あれはやめてくださいませんか。あの時、私は編集者に騙されたのです。敬さんのお宅でやるただの座談会だと聞かされ、大学の恩師が2人まで、当時の温泉ブームの先達としてお出になるとあってはお断りするわけにもいかないと引き受けたら、前日になって編集者から電話がかかり、「いちおう水着のご用意を」。近所の旅館の露天風呂を借り切っての、混浴シーン(!)の撮影もあったのでした。その写真が雑誌には載っているわけで……。

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語り婆(ばっぱ)を送る 櫻井美紀さん

婆(ばっぱ)と言うにはたおやかすぎます、櫻井美紀さん、きのうはあなたを送る会でした。それにしても、献花を待つ間のあのおしゃべり! あなたの精神的な妹や娘たちと、少数の兄や息子たちの、まあかまびすしいこと。あなたは、「あらまあ、ほんとに語りの好きな人たちだこと」と面白がっていらしたでしょうか。紅薔薇が足りなくなり、一度献花されたものをそっと使い回していたのを、私は見逃しませんでした。予期せぬほどたくさんの方がたが、全国からお集まりだったのです。

初めてお会いしたのは、20数年前、奈良で開かれた学会でしたか。あるいは松江だったでしょうか。あなたは、日本の昔話と思われていた「大工と鬼六」は、明治期にノルウェイの聖者伝を翻案したものだ、ということを鮮やかに立証したばかりでした(櫻井さんによる要約はこちら)。いつかきっと私もこんな論文を書いてみたい、と胸躍らせて拝読したものです。懇親会で、あなたがほかの方とお話しなさっているのにぴったりとくっついて、ひと言も聞き逃すまいと耳をそばだてていました。そのうち、私に向けて、「私ね、語り婆(ばっぱ)の会をやってるの」とおっしゃいました。私は一も二もなく、入れてください、と言ったのでした。

それは、学校などで語り聞かせをしたり、集まって語りを楽しんだりする方がたの勉強会でした。私は、そうした実践はやらないくせに、理屈ばかりこねていました。そんな私をあなたは面白がり、グリムについてなど、話をする機会を設けてくださいました。「語り手たちの会」(サイトはこちら)は、あなたの感化力と努力、忍耐力と組織力で全国に会員を増やし、海外との交流も年々盛んになり、NPO法人となって今日に至っています。もちろん、会にはあなたに劣らず優秀で献身的な方がたがたくさんいらして、それらの個性のぶつかりあいから、語りの考え方も会の進む方向も生まれていったのですが、それでも、あなたのキャラクターなしには考えられないなりゆきであったと、私は思います。

あなたからは、厳しさを求められているような気がしていました。自分にたいする厳しさです。あなたご自身が、自分に厳しい方でした。でも、当たりはあくまでも柔らかく、優雅でした。ささやかなもの、軽やかなものを愛し、でも浅いものやまやかしは峻拒なさいました。テクストのあるものを語る時は、テクストを一字一句違えてはならないというのが、語りの世界の主流をなすなかで、あなたが勇気をもって異議を唱える反主流だったことも、これと無縁ではありません。ご子息が話された、破調の天才ピアニスト、グレン・グールドとご自分は似たような立場だと病床でおっしゃったというエピソードに、私も深くうなづきます。

私も私なりの思考の経路をたどって、同じ見解に達していました。人が、この話を語りたい、と思う時、その話にはその人のなにがしかがあらかじめ語りこめられている、それが何かは本人にも明らかではないばあいがむしろ多い、伝承物語には、そうやって無数の人びとの生のなにがしかが、多くは無意識のうちに無数回語りこめられ、話のいのちとして息づいている、話のいのちのありかをおのおのの語り手がそのつどさぐりあて、それに新たないのちを吹きこむのが、語りという行為だと、私は思うのです。

伝承が公共財であり、語りは座によって共有されると同時に、すべての語りの本質はひそやかなところで極私的なものであるという、この二律背反を、あなたはたとえば「心から語る」という平明な言い方で周囲に説いてきました。どんなにささやかな、楽しい話でも、そこには語り手の心の深みに降りていける錘鉛が存在するのだ、特定かつ普遍な深淵を開ける、特定かつ普遍な鍵なのだということと、私は理解しています。

ですから、あなたや会や、そして私の考えだと、てにをはまで丸暗記してテクストどおりに語るなど、ありえないことです。字面にとらわれるのは浅いことなのだと、心にもないまやかしを語ることになるのだと、あなたはおっしゃるでしょう。あなたは、語りは創造であり、語り手はクリエイターだ、ともおっしゃいました。あなたの主催する語りの勉強会では、自分の経験を物語に構成して語ることが課されましたが、それもまた、伝承の中に自分を見出し、伝承を自分の物語として語ることへの、逆方向からの重要なアプローチなのでした。すべての語りは「わたくし語り」なのですから。

伝承をわがものとして語るには、伝承物語とは何かを、きちんと理解しなければなりません。そのあたりのことで、私が仲間内でこねる理屈も微力ながらお役に立ったのだとしたら、うれしいことです。けれど、あなたや、あなたによって鍛えられた会員のみなさんから私がいただいたもののほうがうんと大きいことは確かです。グリムのメルヒェンを個人訳したとき、400字の原稿用紙で1500枚以上ある訳稿に、会員のみなさんに朱を入れていただいたのです。自分ならこう語る、と。そのままいただいた言い回しもありますし、そうでなくても立体的に自分の語りの文体を検証できたことは、すばらしい経験でした。

あなたはたくさんの人びとの憧れの的でした。私も憧れを寄せるその他大勢のひとりでした。あなたは私の持っていないものをすべてお持ちでした。文庫を開けるほどのお金と自宅、経済力も理解もあるおつれあい、決定的なのはお育ちのよさ。あなたは、「大工と鬼六」の次に飛騨高山の「味噌買橋」に着目し、現地にも足を運んでおられました。「いっしょに行きましょうよ」と言ってくださいましたが、生活に追われていた私は、さびしく諦めるよりありませんでした。その「味噌買橋」のルーツをイギリスの民話に同定した論文(要約はこちら)もおみごとでした。

さらには、水茎うるわしいその筆跡、優美なしぐさとたたずまい、美しい声とおっとりとした日本語は、誰にもまねのできないものでした。そのパロール(音声言語)は、語りだけでなく学会発表でも議論でも、うっとりと聞き惚れさせる魅力にあふれていました。あなたが絶世の美女を語る時、あなたは絶世の美女以外のなにものでもありませんでした。そんな語り手は、残念だし悔しいことに、ほかにはいないと思います。

お別れの会で上映されたあなたの最後の語り、年末に催されたその語りの会に、私は参加できませんでした。「源氏物語」の「夕顔」を、夕顔のひとり語りとして語ったそのパフォーマンスに、私は慄然としました。夕顔が語っているのなら、それはもはやこの世にはいない存在が冥界から語りかけているのであり、それこそはモノガタリ、モノノケの語りとしての物語の真骨頂です。それが、あなたが最後に心血を注いだ作品であり、しかもお別れの会で夕顔になりきって語る今は亡きあなたの映像を、私たちが食い入るように見つめている……その巡り合わせに動揺したのです。光源氏にもてあそばれ、消費された名もない女夕顔はしかし、あなたの語りでは逆に光源氏を消費してはかなくもしたたかに生き、なんの未練も残さずに、満足してさばさばと今生を終えていました。光の君は私の深い心の内をおわかりではなかったようだ、という一言が、すべてを突き放す虚無の孤独をつきつけ、でもやさしく包みこんで、言いしれぬ余韻を残しました。

ここ10年ほど、私は会にはほとんど顔を出さず、あなたとお会いすることもあまりありませんでした。でも、会報はすみずみまで読んでいました。会に足が遠のいた原因をつくったのは、櫻井さん、あなたです。2001年の911のあと、メールで平和のことなど話し合っていた中であなたが回してくださった一通のチェーンメール、あれをインターネット時代の民話(フォークロア)、「ネットロア」ととらえて書き直し、『世界がもし100人の村だったら』として出版したことで、私の人生の一部がおおきく変化し、新たな分野での活動に時間を割かれて、大好きな語りの世界から遠のいてしまったのです。そんな私を櫻井さん、あなたは眼を細めて祝福してくださいました。

司会の大島廣志さんが最後におっしゃったことはほんとうです。私も言います、あなたにお会いできたことは私の名誉です、と。ありがとうございました。櫻井美紀さん、77歳なんてあまりにも早すぎるお別れですけれど、悔やんでも今となっては詮ないことです。今ごろあなたは、あなたの夕顔のように、さばさばと笑っておられるのでしょうか。

合掌

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種村季弘逝って6年

できるだけ毎日更新と謳いながら、6日も更新を怠りました。船旅から帰って、公私ともに忙しかった、暑かったなどなど、言い訳をしようと思えばできますが、とにかく更新する気力が出なかった、ということです。外部的には、民主党の代表選とか沖縄の選挙とか、結果いかんでかなり情勢は変わってくる、その結果待ちの凪(なぎ)に入ったこともあると思います。 

けれど、きょうは更新します。わたくしごとで恐縮ですが、恩師の命日だからです。文筆家が亡くなると、すぐさま文芸誌の編集者は、誰かゆかりの同業者に追悼文を書かせようとします。けれど、縁が深ければ深いほど、当人は周章狼狽、発表に値する文章など書く状況にないこともしばしばです。そこを、なだめすかし、脅しで迫って原稿をむしり取るのが、文芸編集者の腕です。そんな辣腕編集者の言葉を思い出します。「こういう文章は今しか書けないものです。今は僕を恨むかも知れないけれど、僕はあなたが書いたことは、後々あなたにとってよかったと思います。もちろん、読者にとっても、僕にとっても」

依頼の電話に「今そんなもの、書けませんっ!」と即座に断ったものの、編集者の叱咤激励におろおろと書き綴った恩師の追悼文、「文學界」2004年11月号に載ったものを、ここに転載します。


     ************************


初めて読んだ種村季弘はポランスキー「水の中のナイフ」の映画評、わたしは高校生だった。
 
当時、生意気な高校生には、映画少女映画少年のやからがいて、つれだって授業を抜け出しては、新宿までヌーヴェルバーグの映画を観に行ったり、小難しげな映画評論を読んだりしていた。雑誌なら「映画芸術」や「南北」だった。そこに、種村季弘は書いていた。
 
「水の中のナイフ」論は、フロイトのエディプスの三角形で三人の男女の関係を読み解くもので、そんな評論は読んだことがなかった。ものごとがこうも鮮やかに、余すところなく解明できるのかと、しんそこ驚いた。「種村季弘はいい!」と叫ぶことが、わたしたちの仲間意識を強めた。受験勉強に明け暮れるクラスメイトを尻目に、自分たちはすごい世界を知っている、という高揚感で、授業をさぼることへのちりちりとした焦燥を忘れようとした。
 
進学先には東京都立大学を選んだが、二年生になる直前、種村季弘が都立大に赴任するといううわさを聞いて、びっくりした。種村季弘はてっきり映画評論家だと思い込んでいたからだ。「種村季弘って独文なんだって!」と友人に言いに行ったことを憶えている。
 
その春、都立大で独文学会が開かれ、新任の種村季弘もやってきた。当日はあいにくの大雨で、種村季弘は痩せた肩によれっとしたバーバリ風のステンカラーのコートをひっかけ、人びとからすこし離れて、異物のようにぽつんと立っていた。
 
あれだ、あれが種村季弘だ。
 
わたしは意を決して近づいた。あこがれの対象に近づく心境ではなかった。そんな心境になるにはあまりに生意気で、むしろ対決する意気込みで、でもみっともないほどおずおずと、まるで刺客のように壁を背にした、剣呑な目つきの種村季弘に歩み寄り、言った。

「わたし、ドイツ語できないんですけど、先生の授業とってもいいですか」
 
相手を品定めする一瞬の間があり、

「あー、ぼくもできまっせーん」
 
あの、しゃべる気のないときの喉にひっかかるような独特な声を、頭の中でぐるぐる回すような出し方で、拍子抜けする答えが返ってきた。相手のしゃっちょこばりを萎えさせ、あらぬ方へと吹き飛ばしてふわりと未知の快を味わわす観念の関節外しを、わたしは出会い頭にくらったのだ。
 
種村季弘三十四歳、わたしは十九歳だった。
 
わたしは学生のだれかれを、「ぜったい面白いからとろう」と種村季弘の演習に誘ったが、それに呼応したのはひとりだけだった。そこで読んだのは、カネッティの『眩暈』。その十数年後にノーベル文学賞をうけることになるカネッティをこのくにで、いや、世界でもっとも早く大学の授業にとりあげた例ではないだろうか。これを皮切りに、種村季弘の確かな目を思い知らされることが、ずっと続くことになる。
 
演習は苦痛だった。病的なほどに本の好きな男の子が、本のたくさんあるところに閉じこめられる、という冒頭部分に、えんえん手こずったからだ。なにしろ、毎回半分の訳読を分担するわたしは初級文法を終えたばかり、定冠詞まで辞書でひくありさまで、からきし読めない。沈黙がちいさな演習室を満たし、その原因を一手にひきうけているわたしはいたたまれなかった。種村季弘は、怒るでも親切に指導するでもなく、ときおり「……だろ」とぽつりとつぶやいて助け舟を出すだけだった。
 
六月に入ると、種村季弘はふたりの学生に言い渡した。

「うちに来い。授業はそこでやる」
 
茅ヶ崎の団地の一室で、洪水のような話と酒の饗応は丸二日続き、帰りには出たばかりの初エッセイ集『怪物のユートピア』とグスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』というおみやげまでいただいた。このときから、種村季弘の、転々と場所とスタイルを変えるさまざまな自宅に入り浸る年月が始まった。種村季弘は、ものになるやらならないやらわからない学生たちのために、たくさんの時間とお金と気持ちをつかった。学生だけではない。さまざまな芸術家志望の若者が、種村季弘の家に出入りしていた。あれはいったいなんだったのか。わたしたちが将来を嘱望されていたわけがない。種村季弘は後年、「幻滅は男の最高の快楽だ」というようなことを書いた。幻滅するには期待が先行しているはずだ。もしかしたら種村季弘は、幻滅の可能性に賭けて、学生たちにみずからの人生の原資を先行投資していたのかもしれない。
 
種村家のキッチンでぐちゃぐちゃに酔っぱらっていたひとりは、いまは滋賀県立中央図書館館長として、図書館地下の広大な収蔵庫に子ども対象の出版物をすべて収集するという野心を遂げつつある。もうひとりは、いまや国会図書館でこのくにの図書館行政を決定する立場にある。図書館界の大物がふたり、若いころ種村季弘の周辺にいたのは、もちろんただの偶然だ。それでも、これは書いておきたくなるほどに暗示的な、わたしにとっての種村季弘のいる風景なのだ。書物にたいする際限のない蒐集の情熱を誘発するようななにかが、種村季弘にはある。もっとも、種村季弘自身には、書物を集めることへの純粋な情熱はなかった。書物は道具であり、消費財だった。自由な閲覧を許された蔵書には、エンピツでいろんな印が書いてあった。
 
後期、カネッティの演習がどうなったか、記憶にない。わたしは、小説の冒頭に出現した膨大な書物の闇に閉じこめられたまま、三十六年がたった。
 
大学では、すぐに紛争が始まった。世の中全体が沸騰していた。種村季弘は、「極右と極左が面白いんだ」と言っていた。三島由紀夫と唐十郎のことだ。唐十郎を初めて活字で紹介したのは種村季弘。週刊誌の記者時代のことだ。唐の赤テントの団員が寺山修司の天井桟敷の団員と乱闘騒ぎを起こしたときは、種村季弘が新宿署に唐を身請けに行った。三島とは「週刊読書人」で対談をした。三島が、種村季弘という若い書き手に興味をそそられての企画だった。三島が市ヶ谷で割腹自殺した日、わたしは当時晴海の高層団地に住んでいた種村のもとに駆けつけた。電話をしたら、らしくもない腑抜けた声で、「ああ、死んじゃったなあ」と繰り返すので、心配になったのだ。その日の種村季弘は、がっくりと肩を落としてあぐらをかき、こちらがなにを言っても上の空で、「死んじゃったなあ」とつぶやくばかりだった。
 
大学は、なにがどうなっていたのか、わたしには当時も今もよくわからないのだが、とにかくキャンパスはあちこちで備品がひっぱり出され、ひっくりかえされ、立て看が乱立し、紙が舞い、雑然としていた。高揚していた人びともいたが、わたしは息苦しかった。
 
講義の代わりに大小の集会が開かれるなか、独文教室でも教師と学生の集会が開かれた。都立大では、共産党系の民主青年同盟(民青)が強く、いわゆる三派はほんのひとつまみだった。その双方の勢力が、大学内に泊まり込んでいた。その状況を話し合ったのだろうと思う。深刻には違いなかったが、むしろどちらかというと当惑の澱んだ空気が薄暗い研究室を満たしていた。「三派」に共感する、詩人でもあった菅谷規矩夫が、なにごとか勇ましいことを言った。それに、ハイネ研究家であった井上正蔵が激怒した。
 
だれも反論しない。気まずさに一座が押しつぶされそうになったとき、それまでいるかいないかわからなかった種村季弘が沈黙を破った。

「三派が泊まり込むのは悪くて、民青はいいというのは、おかしくはありませんか」
 
このとぼけたひとことが井上の怒りの炎に油を注いだ。井上は、「三派」は秩序紊乱者であり、「民青」はかれらから大学を守るために泊まり込んでいるのだ、と口角泡を飛ばしてまくしたてた。けれどわたしは、笑いをこらえるのに懸命だった。だれもが声高に正しさを競い、争っていた当時の特異な雰囲気のなかでは異質ともいえる形式論に意表を衝かれたのだ。まっとうはしらける。そしておかしい。おかしみは無頼とも言うべき捨て身のなにかに裏打ちされていると知ったのはこのときだった。
 
種村季弘は新左翼シンパと見なされ、日大全共闘のラブコールに応えて封鎖中の日大で特別講義をしたが、「君たちがよく言うナンセンスについて話します」と前置きして、モルゲンシュテルンなどの、満場の学生たちの誰も知らないドイツのナンセンス詩人について語った。種村季弘らしい、相手の期待をはぐらかす、人を食った話だ。
 
種村季弘はどんな時流にも流されない。なぜならば、種村季弘は時流を作る人だからだ。なにものにもおもねらないまっとうさを、さりげなく、とことんかわい気なく差し出しては、なに食わぬ顔で現場を立ち去る。それが種村季弘の流儀だった。
 
種村季弘はほどなく都立大を辞した。在任期間はたったの四年だったろうか。表向きの辞任の弁は、「教師の器ではない」だった。わたしには、「大学ってとこは、女の腐ったのしかいられねえとこだろ」と言った。女のわたしにたいしてそれはないだろう、と内心反発を覚えた。
 
種村季弘の死が明らかにされてすぐ、大きな台風が矢継ぎ早に列島を襲った。そんなある日、わたしは飛行機に乗っていた。真っ白い雲海の上の空は、輝くばかりの青だった。機体は猛烈な強風にきしむほど揺れ、客室乗務員の額に脂汗が光っていた。
 
人間のからだの七割は水分だというけれど、種村先生、あなたはこの風に乗ってどこかへトンズラなさるおつもりですか。水へと還った先生、この見渡すかぎりの白い雲の、いったいどこにおいでですか。烈風を呼んで、一刻も早く世界に拡散してしまおうとなさるおつもりですか。なんとせっかちな、種村先生。
 
三十六年もお出入りさせていただいたのに、わたしは種村先生、生身のあなたに触ったことがありません。べつに、変な意味ではありません。三十六年もおつきあいいただいたなら、なにかの拍子に指の関節が手の甲に当たるとか、そんな事故があってもいいはずでしょう。なのに、それがなかったのです、種村先生。先生は、女性にかぎらず男性にたいしても、なれなれしいつきあいはお嫌いでしたよね。だからわたしは、奥さまとはいつだって抱き合ってふざけていたのに、先生にはいつもぴんと背筋を伸ばして接していました。その積み重ねが、先生に一度も触ったことがないままに、すでに先生のおからだのないいまこのときを迎えることにつながりました。
 
でも、ようやくお許しを得て新宿の病院にお見舞いにあがったときに、これだけは、と思い定めて申し上げたように、先生がたった一度わたしにお見せになった涙の責任は、とってくださらないと困ります。東京大空襲で浮浪児になり、命を落とした小学校の友人たちのために流されたあの涙は、いまのわたしを衝き動かしています。先生は、まるでひとつまみの毛を吹いてたくさんの分身をつくりだす孫悟空のように、数多くの分身をさまざまな分野に送り出されました。ですから、才能もない、いまはデスクワークより外での活動の多いわたしのような者も、先生のちいさな分身のひとつと思っていいいですよね。あの先生の一筋の涙から、いまのわたしは生まれたのです。

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思い出横町 編集者の手紙

文芸誌の編集者の仕事は、ドラマの中でのように、文壇バーで作家とお酒を飲むことではありません。ひたすら手紙を書くことだと教わったのは、大学の恩師、種村季弘先生からです。

ある日、お宅を訪ねると、仕事部屋から出てきた先生は、手に持った一通の手紙をひらひらさせながら、さも痛快そうにおっしゃいました。

「これ、読んでみろ、編集者ってえのはな、こういう手紙を書くもんだ。それにしてもすごいぞ、この編集者。まだ若いらしいが、こんだけの文章を書くんだ」

編集者だった先生は、かつて梶山季之や水上勉に、原稿依頼の手紙をお書きになったはずです。誰にもまねのできない、あのみごとな日本語で。いつぞや当時を振り返って、「あの頃文壇でいばってたやつらより読まれるべき作家だと思っただけだ」と、投げやりな口調に自負を隠しておっしゃっていましたから。先生は、同人誌などで文章修行していた梶山や水上の第一発見者だったのです。

「編集者の手紙」が自分のところに来た。その重く意味するところを編集者の側からよくご存じなだけに、興奮が納まらない先生の勢いに押されて、私信のはずの手紙におずおずと目を通しました。雑誌への連載の依頼でした。差出人は、「ユリイカ」誌の名編集長、三浦雅士。これが、69年7月号から1年続いた「ユリイカ」巻頭連載、「アナクロニズム」の始まりでした。文学と思想の世界を一世風靡した「ユリイカ」の10年を決定づけた、伝説の連載です。

そんな「編集者の手紙」を、後年、私が受け取るとは思ってもみませんでした。岩波書店のPR誌「図書」に書いたごく短いエッセイを読んだ文芸誌の編集者から、当のエッセイよりはるかに長い手紙が届いたのです。未知の、男性編集者でした。便箋も封筒も鳩居堂のゆかしい代物、万年筆による達筆の文字で、情理をつくした流麗な文章が綴られていました。用件は、「図書」のエッセイを読んだ、ついては小説を書いてみないか、というものでした。あなたには書くべきことがあるのに、自分でも気づいていない、表現とも言えないこんなかい撫(な)での表出でよしとしている、少し苦労してみなさい、面倒はみよう、というのです。これを聴きながら書くようにと、CDも添えられていました。フランスの暗い感じのクラシック音楽でした。

勇躍、時代を画する連載を始めた師と異なり、私は怖じ気づいてしまいました。こんな名文を書く編集者に見せられるような小説など、書けるわけがない、と。件(くだん)のエッセイが掲載されたのは2000年の3月号ですから、もしもあの時に恥ずかしながら小説家修業を始めていたら、あれから10年、ものになったかならなかったか、今ごろは結論が出ていたことでしょう。

きょうは、55年前に父の葬儀がとりおこなわれた日、その日のことを書いたものは、去年、このブログに記録しましたが(こちら)、今年は、もしかしたら私が小説家になるきっかけになったかも知れないエッセイ、「思い出横町」を転載します。思い出横町は、戦後すぐには雑多な市場でしたが、今なお気安い飲み屋や定食屋がひしめきあい、活況を呈しています。


     *************************


新宿の思い出横町の一角から火が出て、何十軒ものお店が焼けた。1999年11月24日の出来事だ。

中央線の電車が西から新宿駅に入っていくとき、進行方向の右側の眼下を、ごちゃごちゃとした茶色っぽいパッチワークのような屋根群のはしっこが退(すさ)っていく。線路にぴったりくっついて、背後にそびえるビルをいつのまにか自分たちの防波堤にして、澄まして棲息している牡蠣の群れのような、趣のある一角だ。

高架線からそんなふうにえらそうに見下ろすわたしと、たまさかその牡蠣の群れのなかにプランクトンのようにまぎれこむわたしは、別人格のような気がする。もっとも、内部に入り込むことはなくて、その手前の但馬珈琲に入りがてら、ちらと奥の気配をのぞくだけだけれど。

そこが昼火事に遭った。いま、黒ずみてんでにめくれたトタン板や、やけに鮮やかな青いビニールシートが、いやおうなく目を射ると、いつかはこうなるとわかっていたような奇妙な納得と、愛惜の念が惻々とこみあげる。

この火事から44年前だから、1955年なのだが、これはなぜかどうしても昭和30年と、年号で言わないと感じが出ない。夏に父が死に、30そこそこの母はその年の暮れに、7歳のわたしと4歳の妹の手を引いて、まだ闇市然としていたここに年末の買い物に来た。少し歩くことを厭わなければ、住んでいた杉並からここまで、都電を使って10円で来ることができた。母は、精神的にも経済的にも、これからいったいどうやって生きていったらいいのか、とほうに暮れていた時期だったはずだが、喪中でも幼い娘たちにはささやかなお正月をしてやろうと思ったのだろう。そこはとびきり安い市場だった。

人出でごった返す中、母が突然棒立ちになって、人混みの一角に目をこらしている。その目からはらはらと涙がこぼれた。どうしたのかと思っていると、母が言った。

「あの女の人がね、お父さんが死ぬ前に、お父さんに親切にしてくれたの」

どの女の人かなど、わかりようがない。なのに記憶は嘘つきだ。わかりようがなかった、と記憶をたどるたびに、次の瞬間、暗いモノトーンの映像のまんなかに赤い口紅がぽつんと見える。きつくパーマをかけ、サザエさんスタイルにきっちりセットした黒髪がつやめく。白い顔は半ば伏せ気味に左を向いている。肩幅の広い淡い色のセーターはボートネック風。

わたしの記憶は、見え透いたことに、他の映像体験を組み込んで、こんなまことしやかな像をでっちあげているのだ。そして、わたしにもっとも親しいその時代の女性の映像は、ほかでもない、写真が好きだった父が撮った、母の昔の写真なのだ。母その人が、思い出横町の雑踏の向こうに浮かび上がって、わたしの手をぎゅっと握って棒立ちになった母と、記憶の中でひそやかに向き合い、一瞬、過去の時間がとまる。

母は気を取りなおし、買い物に戻ったことだろう。暗い喧噪はふたたびわたしを頭からすっぽり包んだことだろう。その遭遇のあとの記憶は空白だ。きっと、何も起こらなかったにちがいない。

自死する直前、父が水商売の女性の元に転がり込んでいたということを、わたしはずっとあとになるまで知らされなかった。当然といえば当然だが。わたしはあのとき、そうか、そんな親切な人がいたのか、よかったな、と父のことを思っただけだった。けれども後年、状況が理解できるにつれ、あの時の母の涙とことばに、静かに衝撃を深めた。母は、つらい状況でその女性の姿を認め、その思いを誰かに聞いてもらいたいにも、頑是ない娘しかいなかったのだ。そのことばは、自分を裏切ったかわいそうな亡夫への愛に満ち、娘をいたわり、相手の女性への共感めいたものすら暗示して、自分の尊厳を守るものだった。若い母には、それだけの心の力があったのだ。気の合わないこともある母だが、この44年前の大晦日の一事で、わたしはひそかに母という人を受け入れている。その思い出横町が、半分近く消えてなくなった。

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「沖縄だけは必ず勝ちます」 ある特攻隊員の遺書

父上様母上様御一同様

愈々明日出撃です。もう準備萬端整ひ防空壕で寝台に臥せり乍らこの便を書いています。

一昨日の攻撃に出陣する筈でしたが、飛行機の整備が悪く、残念にも取残されました。岡部中尉、森少尉、福田少尉、中村少尉は戰死されましたが、黒崎少尉、伊東少尉、西野少尉私の四人は明日一緒に征きます。昨日も出發する予定で飛行場に行き、既に飛行機に乗ってゐたのに急に中止になりがっかりしました。然し明日は出られますので断然張切ってゐます。明鏡止水といふ所です。

明日こそは必ず必ず見事に命中して見せます。目指すは正規空母です。敵機動部隊の眞只中に櫻の花を咲かしませう。

明日一緒に征く連中が皆夫々里へ便りを書いたり作戰を練ったりしてゐます。美しく勇ましいそして静かな光景です。皆偉いです。しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか。やるぞ断乎やる。

さて、二十四年間の私の生活は実に幸福なものでした。良い家族で良い両親と良い兄弟に包まれ、自由に楽しく過して来ました。本当に満足して死ねます。お父様には筑波で会へるし、お母様は苦労して遠い所を訪ねてくださいましたし、二晩もゆっくり話をして、私の氣持も私達の生活もよく知って戴きましたし、実に幸運に恵まれてゐます。最后迄この幸運が続いてうまく命中する様祈る許りです。

佐々木にも会ひました。彼は少々遅れるので口惜しがってゐます。

鹿屋荘には二度程行きました。西野と福田と三人で雛一羽と玉子十ケをもって飲みに行き、風呂へ入り、一晩ゆっくり語りました。とても有意義な一夜でした。明日征ったら、森や福田が一升さげて待ってゐる事でせう。また皆で痛飲します。

今日迄何の孝行もせず申訳なき次第ですが、お役に立った事をもって許して下さい。時岡家の長男として父祖代々の家をつげず、残念といふより申訳ありませんが、国なくして家もなしですが、その代わり沖縄だけは必ず勝ちます。安心して下さい。

(中略)

福田の恋人の○○○子さんが林田区東尻池○丁目○○ノ○○石井様方宛で便が付きますから、福田の元気だった様子でも知らせてあげて下さい。

今十一時、もう寝なくては明日の出撃に差支へますから止めます。

感謝しつつ征きます。死を知らんとす、また楽しからずや

そうそう藤田少尉の奥さんが家に来られたかも知れません。藤田も一緒に行きます。佐藤はまだ當高にゐます。

では皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子、お元氣で頑張って下さい。○○の宛名がわかったら知らせて下さい。

頑張って、張切って、行きます。さよなら

五月十三日午后十一時十九分

                                     鶴夫拝

お祖母様
お父様
お母様
○子様(良い奥さんになれよ、我儘禁物)


65年前の遺書です。鹿屋航空基地から投函された、神風特別攻撃隊第六筑波隊海軍少尉時岡鶴夫さんの絶筆。24歳とは思えない、女性的な細やかな達筆、夜が明ければ死ぬ若者とは思えない落ち着き。最後のほうで2カ所だけ、書き直しの跡が見られます。「行って来ます」の「って来ます」が二本の線で消され、「きます」と。「行って来ます」だと「行って(帰って)来ます」、往還を表すようでふさわしくない、と思い直したのでしょうか。胸を衝かれます。そして、「十一時」の右にちいさく「午后」。もう夜遅いんだ、と言いたかったのでしょう。はたしてこのあと、かれは眠れたでしょうか。

遺書は、今年4月の鹿屋の慰霊式で読みあげられたそうです。うらうらと暮れてゆく五月の夕方、打ち込みながら、今がこの方の犠牲の上にあるなどと嘯(うそぶ)いて納得する気には、とうていなれませんでした。大本営がいかに沖縄を捨て石としか見ていなかろうが、上層部は特攻の戦術的効果など信じもせずに送り出したのだろうが、沖縄に押し寄せるアメリカの大艦隊を食い止めるために死ぬのだと信じた、信じようとした若い人の「沖縄だけは必ず勝ちます」は、私が死ぬまでふさがらない心の傷口です。

ここには、国のためとか、天皇のためとかの言葉は出てきません。かろうじて「お役に立」つという言い方で、国家が意識されています。けれど、なんの役に立つのか、文字にしない、今この時自分がこの手を動かして文字にするのは別のことだ、この特攻隊員の、切迫した言外の思いが伝わってくるようです。敢えて書かなくても暗黙の了解があるから書かないのだ、という解釈もあるでしょう。けれど、その人個人にとってきわめて重要なことであれば、人はやはり書きます。時岡さんが、「皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子」と、改めて一人ひとりに呼びかけているように。最後の手紙を終えようとしているこの時、そのすぐあとにもう一度、末尾の呼びかけを書くことがわかっているのに。

また、「国なくして家もなし」という言葉も、国を前に押し出してはいます。けれど、「国」は「家」、つまりは家族の存続のためという理由があって初めて正当化されています。これが、この時代に理不尽な死を義務づけられた若者の、煩悶の末のぎりぎりの納得だったのでしょう。「しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか」と、必死に自分を鼓舞している24歳の若者の内面を思うと、命のさかりにみずからその命を擲(なげう)つところに追い詰められたこの若者の取り返しのつかなさに、何十年たった今でも、私は狼狽します。

クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に、「戦うのは国のため、でも死ぬのは友のため」というせりふがあります。個人にとって戦うことと死ぬこと、どちらが一大事かと言えば、もちろん死ぬことです。つまり、具体的で身近な人間関係が国家という抽象的なものの上に位置づけられているのです。それは保守主義的です。時岡少尉は保守主義者です。「お母さん」と言って死んでいったおびただしい兵士は、みな本来の意味での保守主義者です。

親孝行ができなかったと詫びるのは、こうした遺書に特徴的ですが、そこには、自分だって生きたいのだ、生きて孝行したいのだ、という思いがこめられているでしょう。この時代、孝行とは、まず働き、家族をもつことです。自分の人生を生きるということです。生きたいと言うために謝る。残酷です。

ここに名前が挙がっている人びとの教官、と言ってもすこし先に任官されたため、すぐ下の後輩たちの指導にあたり、すべて見送ってから自分も特別攻撃に出ることになっていたところ、終戦を迎えて奇しくも生き延びた木名瀬信也さんという方がいます。長年、大学で英文学を教えておられました。その木名瀬さんと電話で話をしていて、NHKの「日本海軍400時間の証言」が話題になりました。私が、「戦後何十年もたって、『あの作戦は失敗だったね』『残念だったね』と言ってわははと笑っている人たちのために、叔父たちは亡くなったんですね」と言ったら、電話の向こうから木名瀬さんの「うっ」という嗚咽が聞こえました。

筑波海軍航空隊1-2時岡鶴夫さんの遺書にある福田少尉は、私の叔父なのです。福田喬(たかし)、享年22歳。早稲田の学生でした。野球部だったそうです。昔のぶかぶかのユニフォーム姿で、バットを杖のようにしてしゃがんだ写真があります。野球が好きでたまらない、といったくしゃくしゃの笑顔です。大好きな写真なのですが、今手元にありません。右は、「愛機」の前の叔父です。










このたび公開された時岡さんの遺書で、叔父に好きな人がいたことを初めて知りました。動揺が収まるまで、数日は木名瀬さんに電話をかけられませんでした。戦後、ずっと筑波航空隊の特攻隊の資料を収集し、遺族の世話にあたってきた木名瀬さんも初耳だそうです。林田区は、今の神戸市長田区です。祖父の一家は、東京に越す前は須磨に住んでいたので、この住所に縁のある方がいたというのは、おおいにあり得ます。

ここはしかし、大空襲があったあたりではないでしょうか。神戸は、大規模な空襲を3回うけていますが、その1回目の3月17日には、市西部の旧林田区が狙われました。309機のB29が2300トンの焼夷弾で襲いかかり、死者2598人、負傷者8558人を出しています。そのことを、時岡さんはご存じないままに遺書を書いたのかも知れません。

去年、やねだんに行ったのは、鹿屋を初めて訪れたついででした。友部に行ったのも、叔父たちが木名瀬さんと過ごした航空隊跡を、知り合いの方がたに案内していただくためでした。その、以前講演に呼んでくださった方がたのひとりは、今は病院になっている元航空隊司令部の建物に、偶然、ついこのあいだまで勤めておられました。現存する唯一の司令部建築を保存する運動を始めようか、と言ってくださいました。

きょうは、沖縄海域で亡くなった叔父の、65回目の命日です。65年前のこの日も、神戸は92機のB29によって炎に包まれました。叔父の恋人、○○子さんはご無事だったでしょうか……。

筑波海軍航空隊1-1

後列右が時岡鶴夫さん、中列左が木名瀬信也さん、前列右が叔父
『筑波海軍航空隊 青春の証』(友部町教育委員会生涯学習課 2000年刊 木名瀬さんの資料・文章を中心に編まれた。すでに品切れだったところ、友部の知人が八方手を尽くして入手してくださった1冊)

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南風椎さん

南風さん、

先月の13日と14日に、私が勝手に書いたブログ(こちらこちら)に、心のこもった記事をありがとうございました。ようやくお返事をお書きします。

矢も楯もたまらなくなりました。毎日、ブログは拝見していましたが、4月28日に沢田としきさんが亡くなられたことを書いていらしたからです(
こちら)。沢田さんには、1度だけ、絵本をつくっていただきました。伊藤美好さんと書いた、『11の約束 えほん教育基本法』という本です。2005年の春、教育基本法が変えられてしまうかも知れない、という危機感のなかでの出版でした。国家は人を型にはめてはいけない、ということをきちんと言っていた、今や旧のつく教育基本法を、生活の言葉で語りなおした絵本です。


11の約束


沢田さんは、私たちの意図を十分に汲みとった、いえ、それ以上の表現をしてくださいました。この表紙にしてからが、怒った顔や泣きべその顔を出してくるなんて、心地よさだけを描けばいいと思い込んでいる凡百の絵本作家には考えもつかないことです。それに、この黄緑の地。ふつう、本はこの色を敬遠しますよね。沢田さんは、ご自分の表現に自信があったのだと思います。仕事で、ご葬儀には伺えませんでした。ご病気だとは聞いていましたが、こんなに早くとは。まだお若いし。もっともっと沢田さんのお仕事が見たかった。残念です。

南風さんとは、『世界がもし100人の村だったら』の原案の、「村の現状報告」でもご縁があったのですね。ダネラ・メドウズさんともきちんと連絡をおとりになった(わたしは「ドネラ」と表記してしまいました)。私が字幕を担当した「ベルリン・天使の詩」もご存じだった。もっと驚いたのは、勝新太朗さんのお話です(
こちら)。ついこのあいだ、春日太一さんの『天才 勝新太朗』(文春新書)を一気に読んだところだったので、南風さんが紹介されている、繊細で含羞を含んだ勝新太朗像が心に沁みました。

10年以上も昔になるでしょうか、「ブロードキャスター」という番組があって、そこに出ていた時、勝さんがお父さまの納骨式でお骨にかぶりついた、という話題が取り上げられました。みなさん、相変わらずとんでもないことをするお騒がせな人だ、というようなコメントをしていました。私は思わず、「あれは由緒正しい行動で、地域によってはお葬式を『骨噛み』と呼ぶ。国文学者の折口信夫の一周忌には、そのお骨を混ぜたお酒を弟子たちが回し飲んだ」と言ってしまいました。場違いな発言だったようでした。

でも、お骨にむしゃぶりつく勝新太朗の映像に、心の深いところから感動、と言っては月並みですが、根源的ななにかがわき上がってくるのを、抑えることができませんでした。あれは、人目を意識した外連(けれん)などではない、勝新太朗という天才の中の始原的ななにかが躍り出た瞬間だったと言いたかったし、今もそう信じています。

でもこれは、「1000の風」の対極にある民俗的心情ではありますね。「1000の風」の話ですけど、盗作や無断借用、私も経験があります。人がそれにたいして戦うのをすぐそばで見ていたことも、私自身がされてしまったことも。そういうことをする人は、なかなかその事実を認めません。すぐにその事実を認め、謝罪し、活動を自粛した上で作品を書き直した立松和平さんなどは、希有な例外ではないでしょうか。あの騒動のさなか、複数の編集者が立松さんに「こんど仕事しましょう」と連絡したそうです。立松さんのお人柄がなせる技です。私も立松さん、好きでした。あの方もこのあいだお亡くなりになりましたね。その1年ほど前に、たしか出雲行きの飛行機で偶然ごいっしょしたのが最後でした。

盗作したほうは認めようとしない。そのことに、盗作されたほうは、さらにいやになってしまう。いやな気分で過ごさなくてはならない理不尽さに、なおいっそういやになる。たまりません。親しい友人に、「立場が逆でなくてよかった、私が盗作した側だったら、もっと耐えられないと思うわ」と言ったら、「そういう人は、初めから盗作なんかしないのよ」と笑われてしまいました。

南風さんも、心の隅でいやな思いをなさりながら、日々を過ごしておられることでしょう。でも、どのような決着がつくにせよ、たくさんの人びとが虚心にこの顛末を受けとめていると思います。それはきっと、南風さんの宝物になっているのではないでしょうか。

お返事にもなりませんが、こうして南風さんとお出会いをした、なにかご縁があるのでしょう。人はある年齢になると友だちの友だちにしか会えない、と言ったのはブルデュー、フランスの社会学者です。きっとそういうことだろうと思います。風になった何人もの人びとが、そうかもしれないね、とほほえんでいる気がします。

筍パーティ、すてきですね。わたしも畑、やってるんですよ。

(ご本の映像、きれいでなくてすみません。きょうの沢田さんの本の映像とともに、こんど入れ替えます)


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井上ひさしさんを送る

今はもう井上さんが目覚めのない眠りについておられるなんて、実感が湧きません。治療はきびしいけれど、仕事に意欲を燃やしておられる、そんな伝聞を信じていました。信じたかったからだと思います。

あまりに急でした。井上さんもメンバーでいらした世界平和アピール七人委員会は、毎年11月にどこかで講演会をするのですが、去年は名古屋でした。翌年、つまり今年は名古屋で生物多様性条約会議があるので、そのプレイベントという位置づけの七人委講演会で、井上さんは米作りについてお話しなさることになっていました。それが、前日に体調を崩され、まさにドタキャンされたのです。それからまだ5カ月です……。

小説にも言えますが、井上さんのお芝居は、どんなに重いテーマを扱っていても、どこまでも下世話な地表を離れるものではありませんでした。そうやって、近現代史とか、戦争とか平和とか、まじめに向きあうべきテーマを、私たちの日常と地続きのものにしてくださった。井上さんの、軽演劇の香りのする、あっと驚く展開の人情喜劇のたくらみは、そこにあったのだろうと思います。かもし出される笑いは、社会への、世界への、そして弱い存在である私たち自身への批判を孕んでいました。これは、品のいい、心根の直(すぐ)な人にしかできないことです。

七人委でごいっしょするようになって、ほんの5年ほどですが、いろんなことがありました。会議の休憩時間に、喫煙コーナーに私のほうが先にたどりつくことは稀でした。いつも、すでに井上さんが、煙草を持った左手の肘を右掌で支えるようにして、ちょっと背をかがめて紫煙をくゆらせていました。そこで話をするのが、私の秘かな楽しみでした。会議には、いつも何かお菓子を差し入れてくださいました。それも、名だたる銘菓とかではなく、ご近所で購ったりした、でもおいしい「B級銘菓」なのでした。あれは、忙しくて欠席なさることもあったり、ぎりぎりに飛び込んだり、急いで次の予定に移動しなければならなかったりした井上さんの、照れ隠しだったのかもしれません。

サービス精神と好奇心のかたまりのような方でした。チャーミングな方でした。

「ねえねえ、池田さん、911陰謀説ってあるでしょう、あれどう思います?」あるとき、そうお訊きになってきたことがありました。私が当惑していると、同じく意見を求められた池内了さんが、「科学者の国際的なメーリングリストは、物体の自然落下についての計算式の投稿合戦みたいになってますよ」と、いつものちょっと醒めた、でも面白がっているような言い方で応じておられました。委員会には、陰謀説に熱を上げている人はいなかったので、子どものように意気込んでいた井上さんは、拍子抜けしたみたいでした。その後、井上さんから陰謀説を聞かなかったのは、すこし調べてみて、この仮説には脈がないと放擲してしまわれたからだろうと思います。

8日に鳩山首相にお手渡しした第102番目のアピールが、世界平和アピール七人委員会に井上さんがお名前をつらねた最後のものになりました。おそらくあれが、井上ひさしとしての社会への働きかけの最後になったのではないでしょうか。それが、核兵器廃絶への望みをつなげていいものだったことは、悲惨な戦争や停滞する国際政治への批判といった、ネガティヴなものではなかったことは、戦争を憎み、核兵器を憎んだ井上さんにとって、せめてよかったと言えるかもしれません。

人一倍お仕事をなさり、人一倍お忙しい中、ペンクラブや9条の会、そして世界平和アピール七人委員会と、人一倍社会貢献に骨身を惜しまなかった井上さん、お疲れさまでした。もっともっとごいっしょしたかったけれど、今はもう、ゆっくりお休みください。

合掌

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矢川澄子さんを偲ぶライブ 原マスミ+知久寿焼

おととい、原マスミさんと知久寿焼さんのライブに行きました。ちらしには、こうあります。

詩人、作家の矢川澄子(1932-2002)は、原マスミ・知久寿焼の親しい友人でした。ふたりの音楽とことばを愛し、ふたりも彼女との交流を大切にしていました。

「天沼の会」と「黒姫 矢川澄子の会」の共催。「天沼の会」は、矢川さんが天沼でルームシェアしていた年下の人びと、「黒姫 矢川澄子の会」は晩年、黒姫にお住まいだった矢川さんのゆかりの人びとです。会場の別のフロアには、矢川さんの本が展示されました。これは、天沼のアジトを引き払うのを機に、矢川さんのことを思う人びとが集まるライブなのでした。「ふたりで矢川さんちでつくった曲」も何曲か歌われました。

「エントランスで寝そべってつくっていると、矢川さんはキッチンでごはんつくってるんだよね。引き戸を閉めると、矢川さんが来て開けて、閉めると開けて、『開けて、やりなさい』って言うんだよね」なんていうMCとともに。

いろいろな方がお見えでした。西江雅之さん、三宅榛名さん、堀内誠一さんの奥さま、そして矢川さんの妹小池一子さんとはごあいさつできました。

亡くなってもう8年になるのだ、と改めて時の流れの速さを思いました。あの日は朝から呆然として、飛行機の時刻を間違えて乗りそびれ、かろうじて別の社の便で所用に間に合ったのでした。

ある雑誌が追悼号を出すことになり、文章など書ける状態ではありませんでしたが、しぼり出すように書きました。その追悼号は出ませんでした。のちに、別の雑誌が追悼企画を出しました。わたしもそこで鼎談をしていますが、原稿は筐底ならぬパソコンの中に眠っています。それを、ここに載せておきます。

中島みゆきに「わたしの子供になりなさい」というアルバムがあります。白い花が両側からそよぐ道を歩きながら振り向いてほほえむ中島みゆき、その前をうつむき加減に歩くふたりの子ども。ほっそりとした中島みゆきの服、矢川さんにも似合うだろうな、この白いちいさな花は蕎麦かしら、矢川さん、黒姫のおいしいお蕎麦屋さんにつれていってくれたっけ……そんなことを考えながらジャケットを見ていると、ふたりの子どもが原さんと知久さんに見えてきました。


矢川さんが死んだ。

矢川澄子が亡くなった。

自死だという。新聞の死亡告知欄の「自殺」には、異和感をとおりこしていたく傷つくものがある。

最後に矢川さんを抱きしめたのはいつだったろうか。あの小さな集まり、矢川さんから「わたしは行くわよ」と聞いていたのに、わたしは行かなかった。共通の友人が受けた文学賞の授賞式、行けば矢川さんに会えると知りながら、わたしは行かなかった。それどころか、忙しさにかまけて、最近出した本をまだ発送していない。矢川さんは本の広告をご覧になって、わたしのところには来ていない、いつもは発売日より前に届くのに、と心外に思われたかもしれない。そして、長野にはとんとご無沙汰だ。伺います、と言うばっかりで。自責の念に狼狽する。あのとき、無理でもなんでも出かけていれば、もしかしたら、と思うのはおこがましいだろうかと、思いは千々に乱れる。

わたしが下訳をしたのはただの一度、矢川さんのクレー論だ。種村季弘先生のご紹介だった。わたしが27歳だったから、矢川さんは44歳でいらした。ひとりになられて、まだ日が浅い頃だった。自立の必要もあり、どんどんお仕事をなさっていた。どう訳したらいいのか、どうしてもわからない語がひとつ残った。正直に申し上げて、訳稿をお渡しした。後日、お電話をくださり、「あれは……にしておいたわ」。みごとだった。

編集者と原稿の詰めをなさっているところに、同席したことがある。矢川さんは、編集者の注文に、つぎつぎと即決で代案を出していった。決断力、強い、というふたつのことばが頭の中を交互にとびかい、舌を巻いた。わたしなら、ごめんなさいして締め切りを聞き、ひとりで考えさせてください、と持ち帰るところだ。ギャラリーはわたしのほかにもいた。わたしなら、あんな状況ではかっと頭に血がのぼって、なにも考えられない。

対立をすると、じゃんけんのグウとパアのように、わたしが必ず負けた。対立の原因は決まっていて、功名争い。といっても、世間でいうのとは方向が逆で、仕事でわたしが矢川さんを前面に押し立てようとすると、決まっていさかいが起きた。矢川さんが中心になって仕事をすることは、もちろん、つねに編集者の意向でもあった。編集者もわたしも、その作品を矢川訳で読みたくて、巣の雛のように切ない思いで懇願したものだ。この作品はアンソロジーのメインだから、訳は矢川さんにやっていただきたい、あとがきは矢川さんでないとだめです……。

「いやよ」

ことば少なにきっぱりと言われてしまうと、編集者とふたりがかりでも、頑として聞き入れていただけなかった。むやみとしゃしゃり出るのはエレガントではない。そういう信念が、矢川さんにはあった。すねたように黙られてしまうと、こちらは手も足も出ないのだった。美学を譲らないお嬢さまの保身の強さに、じゃりんこ育ちは歯が立たないことを思い知らされた。

わたしが勝つには、脅すに限った。もっと重要な仕事をしていただくことになる、というぐあいに。共訳で詩集を出したときだ。あとがきをどちらが書くかでもめた。

「あなたが書いてよ」と、矢川さんは言い張った。わたしは必死になって抗弁した。

「この子ども向けアンソロジーのあとがきを書かないと、こんどおとな向けを出すときに書いていただくことになりますよ」

「じゃあ……書く」

そんなふうに、一度だけ、じゃりんこが勝った。

児童文学の翻訳の世界にわたしをお導きくださったのは、矢川さんだ。先のクレーの下訳のあと、「児童文学や絵本はやらないの?」と聞いてくださった。わたしは3人目の子どもを身籠もっていた。幼い子どもも2人いる。もしも仕事をしくじったら、出版社からは、やっぱり女はだめだとか、子どものいる女に仕事など任せられないのだとか言われ、矢川さんにご迷惑がかかる、と思い、「1年たったらお願いします」と言った。きっかり1年後、ドイツにいたわたしに、矢川さんご紹介の仕事が舞いこんだ。グリムのメルヒェンだった。この仕事が、その後のわたしを決定づけることになる。

あのときはきっかり1年後に仕事を回してくださいましたね、とわたしが言うと、矢川さんはいつも、「あら、そう?」と言うのだった。ほんとうに「あら、そう?」だったのか、あるいは含羞がそう言わせたのか、あまりにさりげなく、じゃりんこには真意が読めなかった。はるかに後塵を拝する後輩を、目下として見るようなことは金輪際なかった。

先のクレーの下訳のときが初対面だったのだが、もうすぐ子どもが生まれる、しかも3人目が、というお話をしたとき、矢川さんはどぎまぎしたように、「わたし、あなたの歳でなにをしていたのかしら」と言った。悲しみにうろたえているように見えた。その思いは後年、いくつかの作品に結晶した。矢川さんは子どもをもうけたかったのだ。細いからだにしては、胸元が豊かだった。わたしはいつも、うるさい子どもたちをひきつれて、矢川さんの秘かな悲しみをかきむしっている、といううっすらとした罪悪感のようなものを覚えていた。

でも、だから、矢川さんは子どもが好きだった。若い人が好きだった。東京のアジトを若い人たちと共同で借りたマンションに設けていらして、伺うと、「お母さんごっこをやってるの」と、うれしそうにおっしゃった。同居の若者たちは、「えぇ?」と、いたずらっぽく笑いあっていた。黒姫では、昆虫採集にやってきた若者にいそいそと同行して、「ここにいるわよ!」と歓声をあげていた。その虫の食性にも詳しくなってしまっていた。子どもの夏休みに喜々としてつきあう、過保護の母親そのものだった。

その若者、バンド「たま」の知久寿焼くんのことは、わたしが矢川さんにお教えしたのだ。拙宅の近くに、詩人仲間の白石かずこさんがお住まいで、矢川さんは白石さんを訪ねる時、決まって子どもたちに豪華なケーキを買って、拙宅に寄ってくださった。そんなあるとき、知久くんが歌っている「いか天」のビデオを、なかば無理やりお見せした。きっと矢川さんがお好きだろう、と思ったのだ。その後、知久くんが矢川さんの3人の同居人のひとりにまでになるとは、思いも寄らなかった。横取りされたような気がした。

「たま」に囲まれて、矢川さんは幸せそうだった。「小町の家に集まっていた連中そっくり」というのが口癖だったが、叩き物(パーカッション)担当の石川くんが松山俊太郎さんだということはわかったが、あとは誰を誰に見立てていらっしゃるのか、さっぱりわからなかった。とくに、誰に澁澤龍彦のおもかげを見ていらしたのかが。

若い女性たちが生き生きと自分の道を行くのを、自分には拒まれていたこととして、一抹の寂しさとともに、まぶしい目で見ておられた。「ほんっと、いまの若い人はえらいわぁ」と言う矢川さんの声を、わたしは聞こうと思えばいつでも記憶のテープを再現できる。

片や若い者たち、片や正当に評価されていないと判断なさった過去の女性文学者に、わがことのように肩入れなさっていた。尾崎翠、野上弥生子、森茉莉、野溝七生子、アナイス・ニン。それから、それから……。矢川さんの書架には、「父の娘」がずらりと並んでいて、そればかりは、わたしには異質で入りこめない世界だった。たとえばラカンの娘について、声をひそめてお話になるのだったが、わたしにはついていけなかった。

自分などものの数ではない、と言い暮らしていた矢川さんの自意識と、矢川さんを囲む者たちの思いは、しかし決定的にずれていた。矢川澄子こそ、誰にもまねのできない日本語で綴られた美しい作品におびただしく囲まれて、燦然と輝く存在だった。ああいう日本語遣いは二度と現れないだろう、というのがお決まり文句だった翻訳仲間もいる。わたしは、いつか自分なりの仕事ができるかどうかなどまるでおぼつかないながら、この歳に、矢川さんにはこういうことがあった、こういうお仕事をなさった、こんなことをおっしゃっていた、と段を一段ずつ踏みしめながら、加齢の梯子を昇っていた。行く手には矢川さんがいた。だから、加齢は楽しみだった。なにしろ、お会いするたびに、矢川さんはすてきでいらしたからだ。

じゃりんこ育ちで、ぽこぽこ子どもを生んで、がさつで、太くもっさりとしていて、矢川さんとはある意味、好対照だったわたしが、45歳を目前に、矢川さんと同じくひとりになるという選択をしたとき、いのいちばんに話を聞いていただいたのは、矢川さんだった。ふらりと黒姫に行った。

矢川さんは、「あらまあ」と意外な展開に驚いていらした。心配してくださる反面、面白がってもいらした。わたしも、矢川さんとは似ても似つかないわたしがそのような仕儀になったことを、矢川さんといっしょに面白がった。まあ、やや常軌を逸した悲壮な興奮状態にあったのだろう。

それ以降は、ますます矢川さんを意識した。初めてわかる矢川さんのお気持ちも、肯定的なものも痛ましいものも含めて、多々あった。加齢の梯子は、はるかに矢川さんを仰ぎ見つつ、ますます楽しいものになった。この今のわたしの歳をこえた矢川さんが、今何歳でこういう存在だ、ということが希望にも励みにもなった。それが、これからは、ふり仰ぐ矢川さんの梯子は71歳でとぎれているのだ。この梯子は、もう伸びない。矢川さんは駆けっこのとちゅうで眠ってしまった兎のように、うずくまったまま動かない。

今のわたしの歳を17年前にこえた矢川さんは、71歳で自死した。わたしは、これからどうやって生きていったらいいのか、わからない。

矢川澄子の名訳ポール・ギャリコの『雪のひとひら』の、ラストの雪の死には、矢野顕子が曲をつけ、歌っている。「おかえり」と、やさしくエロティックな声が歌っている。

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はるかにすれちがった人 谷川雁

高二の古文は、非常勤の福田先生でした。いつも寝不足のような不機嫌な表情で、ぼそぼそと講義なさっていました。受験キッズは古文の授業を寝るか、内職をする時間と決めてかかり、先生もそうしたガキどもを軽蔑のまなざしで見ていたように思います。その福田先生が詩人那珂太郎として、現代詩壇最高の栄誉、H氏賞を受けられた時は驚きました。

その直後の定期試験、先生はいつもの重箱の隅をつつくような文法問題のほかに、小論文形式の問題を出しました。「赤人、憶良、人麻呂のうち一人を選んで論ぜよ。」わたしは迷わず人麻呂を選び、夢中で幼い感想を書きました。その音(おん)のつらなりが醸し出す呪術めいた悲しみの世界に惹かれていたのです。それが那珂太郎の世界に通じると知ったのは、試験が終わってようやくその詩集を手にした時でした。返された答案には、朱ペンでマルが何重にも書きなぐられていました。わたしの、学校時代の数少ない自慢のひとつです。

那珂太郎は、若い頃、北九州で谷川雁と出会っています。『原点が存在する』の詩人谷川雁は、同人誌「サークル村」を上野英信、森崎和江、石牟礼礼子といった人びとと創刊して炭鉱労働者のあいだで活動し、60年代には吉本隆明、埴谷雄高と並び称され、突如上京して、こんどは子ども向け語学教材や絵本をつくって普及させる仕事に転じた人として、インパクトの強い、けれどわたしにとっては大きな謎のかたまりでした。

ところで、わたしが翻訳の世界に入ったのは、大学の恩師、種村季弘先生が紹介してくださった矢川澄子さんのお導きです。種村先生は、当時矢川さんのおつれあいだった渋澤龍彦と、仕事上のいわば同志のような関係でした。矢川さんとのお出会いは1975年、ちょうど矢川さんが渋澤龍彦と別れた頃でした。そのきっかけをつくったのが谷川雁だとは、うすうす知ってはいましたが、矢川さんにそうした話題をぶつけたことはありません。おそらく谷川雁は、子ども向けの文学や絵本を訳したり書いたりしていた詩人矢川澄子の才能に注目して、接近したのではないでしょうか。

ほどなく、矢川さんが黒姫に引っ越した時は、意表を衝かれました。きゃしゃで、いかにも都会的な矢川さん、繊細でさびしがり屋の矢川さんがどうして東京を離れたのだろう、しかも人里離れた黒姫の山裾に、と理解できなかったのです。けれど、ほどなく黒姫におじゃました時、矢川さんはぽそっと言ったのです、森の向こうに谷川雁の家がある、と。それで合点がいきました。いかにも生活力のなさそうな矢川さんが、なぜ黒姫を選んだか、そこでの暮らしに耐えられたかが。谷川雁は独自に家庭生活を送っていましたが、森ひとつの距離をおいて、ひとりになってしまった矢川さんをさりげなく支えていたのでした。矢川さんのエッセイには、谷川家のちいさな子どもたちが登場するようになりました。

矢川さんは、けっしてわたしを谷川雁と会わせませんでした。ご自身の渋澤人脈と谷川人脈を分けておきたかったのかもしれません。けれど、わたしはその後、意外なところで谷川雁と遠くつながります。民俗学に足を踏み入れた私は、学会などでお兄さんの谷川健一さんをお見かけするようになったのです。スケールも体躯も、そして声もおおきな方で、構想力と組織力に富み、きっとそういうところが谷川雁と似ているのだろう、と思いました。

今、谷川雁が注目を集めています。谷川雁論や、谷川がかかわった雑誌の復刻が相次いでいるのです。国のエネルギー政策転換のあおりで、仕事も生活も、人によっては家族すらも奪われた炭坑婦・炭坑夫と同じ地面に立って、けれども頭ひとつ秀でた偉丈夫の大音声で呼ばわった谷川雁の言葉が、グローバリゼーションでどん底競争を強いられている現代のおびただしい人びとの胸に、改めて烈しく響くのかも知れません。

ついに直接お目にかかることのなかった谷川雁ですが、こうして何度もすれちがったということ自体、なんらかの縁があったのでしょう。人は歳をとってようやく、こうした細々とした破線のような縁を過去に引いて今を生きる自分に気づくのかも知れません。今まではなんとなく鬱陶しい感じがなくもなかった谷川雁ですが、遅ればせながら、じっくりと向きあってみようと思っています。
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追悼 田英夫さん

「だんだん戦争体験者が少なくなってきた。そういう中でもうそろそろ憲法改正していいじゃないかというような気持ちが総理を始め皆さんの中にあるとすれば、私は死ぬわけにいかない。いつまでも生きていかなくちゃいけませんよ。」

2003年6月5日、参議院武力攻撃事態への対処に関する特別委員会における小泉首相(当時)にたいする田英夫議員の反論です。これに対するに小泉サンは、「戦争をしなければ侵略されて、その国の独裁に任せれば戦争は起こらないかもしれません。それだったらもう奴隷の平和です」と切り返しました。田さんは、「全くあの戦争犠牲者たちの願いが分かっていない」と、つぶやきのようなことばを残して質問を終わりました。

わたしの母は、夫亡きあと、保険の外交で子どもたちを養いました。共同通信社も仕事先でした。わたしは8歳か9歳でしたが、夏休みなどには母につれられて、日比谷公園内にあった社屋に行っては、半地下の発送部で、学生服のお兄さんたちに遊んでもらいました。当時、共同通信では、発送部にアルバイト学生として入り、卒業と同時に正社員になるという就職のしかたがあったそうです。お兄さんたちは、まだ珍しかったコピー機で、千円札をいっぱいつくってくれました。わたしは、そこらじゅうにふんだんにあるざら紙と4Bのエンピツで、お絵かきをしたりして、上の階で仕事をしている母を待ちました。

外電用のテレックスはあったでしょうが、インターネットどころかFAXもなかった当時は、発送部に夜学の学生さんたちがおおぜい待機していて、紙に印刷された記事をバイクで各新聞社に運んでいたのです。雑然とした広いフロアの隅は衝立で仕切られていて、いつも10人ほどの学生さんがドイツ語の予習をしていました。今はなき東京都立大学の二部の学生が多かったそうです。都心にある、国立よりも授業料の安い公立大学の夜間部は、働きながら学ぶ若者にはもってこいでした。10年後にはわたし自身がそこに入学し、あのとき初めて見たドイツ語を学ぶことになったなんて、ふしぎな巡り合わせです。

そのころ、田英夫さんは共同通信の花形記者でした。その田さんが、母を通じて生命保険に入ってくださったのです。もしかしたら、ときには子連れで保険の勧誘にやってくる若い母に、同情してくださったのかもしれません。あるとき、田さんにそのことをお話ししたら、なんと、憶えていてくださいました。「おかげさまで、こんなに大きくなりました」と言ったら、眼を細めて、おもしろがっておられました。

そのきゃしゃな体型と控えめな物腰からは、南極越冬隊に新聞記者として参加したときの連載が熱狂的に迎えられたことも、ニュースキャスターの草分けとして絶大な人気を誇ったことも、ベトナム戦争中のハノイを取材して、時の政権からすさまじい圧力を受け、番組を降板したことも、そして参議院選挙の全国区でトップ当選したことも、まったく窺えませんでした。わたしの知っている田さんは、いつも静かに笑っておられました。

田英夫さん。享年86歳。気骨のジャーナリストとして、厳しい政界での平和の政治家として、じゅうぶんに生きられたのではないでしょうか。

2005年4月21日、参議院憲法調査会に、田さんは病をおして出席し、つぎのような発言をしました。議場は水を打ったように静まりかえりました。もうこのくにの国会では、元特攻隊員が議員として発言することはありません。田さん、お疲れさまでした。あなたの思いは、たくさんのわたし・たちによって受け継がれていくことを、お約束します。まずはあなたが間違いと断じたイラク戦争が、このくにでも市民の主導で裁かれることになったとご報告して、お見送りしたいと思います。合掌。

「私は、年齢的にもうお分かりのように、戦争をまともに体験した世代であります。特攻隊で生き残って帰ってきて、そしてこの憲法ができた。そのときは復学をして学生でありましたが、感動して読んだことを今でも覚えております。(中略)
 
この憲法ができたときの世界的な人間、人類の思い、これが結晶になったのは、実は日本が降伏する以前に既にできていたようでありますが、国連憲章、そしてそれを追うようにして日本の敗戦後にこの憲法が作られたわけですが、世界の人たちが共通に持っていたのは、このような戦争という悲惨なことは二度とやっちゃいけないと、こういうことだったと思います。
 
今、現実が合わなくなったから、それをやはりきちんと現実に合わせるようなものに変えなければならないという意見が、大手を振って歩いていると言ってはあれですが、多いわけですけれども、今の現実というのは、当時の国際社会みんなが感じていたことと全く違ったことを、特にアメリカのブッシュ政権が発足してからそれが顕著になっていると思います。今のイラク戦争は、正に国連憲章を踏みにじって無視して行われた戦争であります。戦争という行為、つまり武力行使で、武力で国際紛争を解決するということは禁ずると、国連憲章ははっきりと当時の世界の人々の思いをつづっているわけですね。そして、その国連憲章と同じ考えを基盤にしてできたのが日本国憲法だと、戦争から帰ってきたばかりの生き残った青年はそう思いました。
 
それが、つまり今のイラク戦争に象徴されるような、国際情勢の方が間違っているんだと言ってもいいんじゃないでしょうか。それに合わせるということは、間違った方に合わせるということになる。国際貢献の名の下に、日本がこの憲法を、むしろ違反すれすれのような状態で自衛隊をイラクに送る方が間違っていると、私はそう思えて仕方がないんですが。」
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あと1週間で丸7年 ある政治家の死

2002年10月25日、衆議院議員だった石井紘基さんが亡くなりました。自宅前で、一人右翼を名乗る男に刺されて。家賃の工面を断られたからという、とうてい信じられない理由で。

石井さんは、特別会計や天下り会社、特殊法人、公益法人に消える巨額のお金を追求していました。いわゆる虎ノ門の闇です。よく知られているように、虎ノ門には、そうした組織が蝟集しているのです。石井さんは、国会質問の書類を提出するために持って出たところを殺されました。

いま、石井さんがたったひとりで立ち向かった、わたしたちのお金が消えていく巨大な闇に、政権を奪取した人びとによって追求の光が差し込もうとしています(……ですよね?)。これを石井さんが知ったら、どんなことをおっしゃるでしょう。

参議院議長江田五月さんは、石井さんのもっとも近しい政治家です。わたしはその江田さんと、翌26日を丸1日ごいっしょしました。車で移動しながら、あちこちでふたりで講演のようなことをしたのです。車内の江田さんは沈痛そのものでした。口を横一文字にむすび、厳しい面持ちで前方をにらんでいました。その心中、察するにあまりあります。わたしは、どう接したらいいやらとほうに暮れて、つまらないことをのべつしゃべっていたように記憶します。まったく、肝の据わらない、ヘタレそのものです。江田さんは、そんな下らない話にも、律儀に耳を傾けていました。そして、会場に着いて人びとを前にすると、満面の笑みで力強く政治の希望を語り、車に戻るとまた腕を組んで黙り込む。壮絶な政治家の一面を見た思いでした。














わたくしごとですが、年下の友人が死を選びました。わたしのすべての日常の時間が立ち止まってしまい、先をたどることができません。自分より若い人の死は、どう受けとめたらいいかわかりません。どう悲しんでいいか、わかりません。

いつか、わたしが倒れたとき、いっしょに救急車に乗って、病院までつきそってくれたね。「だいじょうぶですよ、ぼくも何度も救急車で運ばれた」と、「だいじょうぶですよ、だいじょうぶですよ」と、点滴の枕元で、わたしを落ち着かせるようにというより、客観的事実を述べるように繰り返していたね。やさしいUすけ。人なつっこい笑顔がかわいかった。子猫を2匹もらって、よろこんでいた矢先じゃないの。

「ねえ、香代子さん、犬か猫を飼おうと思うんですよ、どっちがいいかなあ」
「そりゃ、猫でしょう、Uすけ君は留守が多いんだから。猫は犬より勝手に自分でやってるよ」
「そうかあ、猫かあ」

もう猫を手に入れたように、むじゃきによろこんでいたね。

病気だったのだ、薬があわなかったのだ、と納得しようとするのですが、かれがどんなにさびしかったかと思うと、たまりません。Uすけ、わたしの半分あまりしか生きずに死んでしまうなんて、それはないよ……。

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銃弾はどこから 中村哲先生講演拾遺

書くべきかどうか、今も迷っています。けれど、先週土曜日の練馬会場では、優に
1000人を越す方がたが中村哲先生の話を聞きました。テレビカメラも入っていました。ですから、やはり書いておこうと思います。しかし、それだけの証人がいたにも拘わらず、これから書くことは、おそらくだれもが口をつぐんでいるだろうと思います。それで、タイトルに「拾遺」とつけました。

中村先生は、昨夏の伊藤和也さんの死に触れて、およそ次のようなことをおっしゃいました。

「彼の命を奪った銃弾は、捜索に出た村人たちの銃から発砲された。だから、武器をもつとろくなことはないと、常々言ってきた」

耳を疑いました。なぜなら、伊藤さんの命を奪ったのが捜索隊の銃弾だったなんて、初耳だったからです。ペシャワール会の会報はいつも読んでいますが、そんなことは書いてなかったと思います。そう伝えるメディアの報道にも、接したことがありません。

伊藤和也さんの活動と死を追ったドキュメンタリー「菜の花畑の笑顔と銃弾」、先週もNHK総合で再放送されたようですが、今年2月に放映されたものを録りおいてあったので、再見しました。番組制作時、NHKは、そして取材に協力したペシャワール会などはこの事件をどう見ていたかを、ナレーションから検証しようと考えたのです。ナレーションは、まずこう表現します。

「武装した男たちに拉致され、銃弾をうけました」

なんの気なしに聞けば、多くの人が、伊藤さんは「武装した男たち」に撃たれた、とうけとめるでしょう。けれどナレーションは実際には、伊藤さんが武装グループに連れ去られたこと、その後銃弾をうけたことしか言っていません。発砲したのが拉致メンバーだとは、言っていないのです。

ナレーションは、「伊藤さんは銃弾に倒れました」という言い方もしています。発砲したのは誰かは、避けた言い方です。

番組は、ごくふつうの農家にも武器があること、ペシャワール会は元兵士もむしろ積極的に灌漑工事に雇っていることを、伊藤さん撮影の写真とともに伝えます。事件の1年ほど前から治安が悪くなり、伊藤さんたちはほどなく撤収することになっていた、とも。

そして事件が起こります。ナレーションは言います。

「助けようと伊藤さんのあとを追う村人たち。しかし伊藤さんは銃弾をうけ、亡くなりました」「犯人は、金目当てで外国人を狙ったよそ者たちでした」

「犯人」とは「誘拐犯」なのか、「狙撃犯」なのか、あるいは「誘拐殺害犯」なのか、はっきりとしません。

事務局長の福元満治さんは、「伊藤和也さんを、武装グループの凶弾によって失ってしまった」と書いています。いっぽう中村先生は、現地での追悼会でこう弔辞をのべています(いずれも
ペシャワール会サイトより)。

「伊藤くんを殺したのはアフガン人ではありません。人間ではありません。今やアフガニスタンを蝕む暴力であります」

アフガンに蔓延する暴力への強い憤りの表出であるとともに、もしも、伊藤さんを救おうとして不幸にもその命を奪うことになってしまった村人がいたとしたら、その人にたいする深い心の底から発せられた慰めともうけとれることばです。

わたし自身は、今この時点では、伊藤さんは捜索隊の流れ弾をうけた、という説に傾いています。アフガンの誘拐事情は知りませんが、一般に、外国人を追い出すという政治目的なら殺しもするでしょうが、「金目当てで外国人を狙った」誘拐なら、命を奪う必然性はないでしょう。むしろ、それは目的達成をさまたげます。

伊藤さんの命を奪った銃弾は3発。すべて脚に当たり、うち1発が太腿の血管を断ち切っていたそうです。いっしょにいた誘拐犯たちが、殺意をもってそんなところを撃つでしょうか。至近距離から命を奪おうとするなら、狙うのは心臓か頭部でしょう。険しい山道を逃走するのに、人質の脚を撃って足手まといにする愚か者はいません。

番組は、村人はふつうに火器をもっている、と言います。だったら、伊藤さん捜索に出た村人たちが銃をもっていかなかったとするほうが不自然です。今回見直して、番組は、言わず語らずのうちに、真相をわかってくれ、と訴えているかのように思えてきました。

また、誘拐犯の片割れが逮捕されたことで一件落着とし、それ以上のことはうやむやにしておこうという、けっして外部者が軽々に批判すべきではない合意が、村人と中村先生のあいだになりたっているのか、とも想像します。真相を究明して責任を追及することは、共同体に「正義」を回復させ、未来を築くうえでなんの足しにもならない、むしろ傷を深めるだけだ、という判断です。部族社会とは何か、アフガンに20年以上腰を据えた中村先生、さらには九州若松にルーツをもつ中村先生には、そうした理解が働くと思います。

しかし、イスラムの法、シャリーアでは、ときとして報復は義務でもあります。この合意はもしかしたら、シャリーアを超える赦しが存在することを、村の人びとに深い感銘とともに伝えたかもしれません。そして、番組制作者はその合意、「密約」を尊重した……。

けれど、もしもこの推測どおりあいにくの悲劇だとしたら、つらさ痛ましさはなおいっそう募ります。何十倍も無念です。伊藤さんのために、ご遺族のために、中村先生のために、ペシャワール会のために、そしてほかでもない村の人びとのために。

以上、中村先生は少なくとも2009年9月19日にはこのように考え、表明した、というに過ぎないとお断りしたうえで、わたしの勝手な憶測をまじえ、このささやかなブログに書いておきます。それは記録のためであり、20数年、さまざまな無念を乗り越えてこられた中村先生のことばをさらに深く心に刻むためであって、真相究明を叫ぶためではありません。もしも「密約」があったのだとしたら、わたしもまた、深く頭を垂れてうけとめたいと思います。中村先生はおっしゃいました。

「だから、武器をもつとろくなことはない」
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「ソウデアリマス」

台風と地震の被害にあわれたみなさまに、心からのお見舞いを申し上げます。

それにしても、浜岡原発1、2号基が運転をやめたあとでほんとうによかった。あの老朽原子炉が稼働中だったら、スリーマイルやチェルノブイリ級の事故が起きていたかもしれません。

                       * * *

新聞の切り抜きは、年末の大掃除のときに処分します。

けれど、毎年どうしても処分できない1枚のちいさな新聞紙の切れ端があります。すっかり黄ばんだその切り抜きは、「8/4」と鉛筆でメモしてあるものの、何年なのかはわかりません。裏面の記事からすると、シドニーオリンピックをひかえた2000年のようです。

きょうはその、読者欄に掲載された一通の投書をご紹介します。


「ソウデアリマス」

年齢のせいか夜明け前に目が覚めるようになった。決まって思い浮かぶのは哀切を帯びた夫の最期の言葉である。

再入院で心身共に弱り始めた昨年末のある朝、医者の問いかけに突如、軍隊口調の「ハイ、ソウデアリマス」と、重病人とは思えない大声の返事を聞いたときの驚き、戦争中の悪夢をよみがえらせた瞬間でもあった。

戦争末期、繰り上げ入隊をした夫は新兵にとっての”洗礼”で、過酷な体験を強いられたようで元気なときも当時の話になると温厚な表情が一変し、紅潮させていたのである。

その衝撃が心の奥に存在しつづけ幻覚となり、譫妄(せんもう)という症状に現れたと思われる。魔界の軍隊でむしばまれた魂が人生のどんちょうを降ろすその時にタイムスリップ。一兵卒となって逝った男の寂寥(せきりょう)がしのばれ、戦中派の無常を感じた。

最期の「ハイ、ソウデアリマス」は名もなき一兵卒の慟哭(どうこく)のメッセージに聞こえてならない悲しさがある。

                         (小林すみこ 66 主婦 東京都府中市)

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ウォルター・クロンカイト

7月17日、ラジオ、白黒テレビ、そしてカラーテレビの時代を通じて活躍したアメリカのジャーナリスト、ウォルター・クロンカイトが亡くなりました。92歳でした。

第二次世界大戦、公民権運動、ベトナム戦争。きびしい状況に、歯に衣着せず、しかしつねに冷静さを失わずに発言し続けた、伝説のアンカーマンです。取材先のベトナムから、「この戦争は勝てない」とレポートしたために、ジョンソン大統領は再選を断念したと伝えられています。

ケネディ大統領暗殺を伝える白黒テレビのクロンカイトが、強く記憶に残っています。デスクに両肘を置き、からだをやや右に傾けて、黒縁のメガネを何度かかけたりはずしたりし、声を詰まらせそうになりながらも、原稿を手に、淡々と最新の情報を伝えるあの姿が。右上に時計があったのでしょう、見上げて、正確な数字は忘れましたが、「30何分前のことです」と、あくまでも私情を交えずに正確さを心がけていました。

引退は1981年。アメリカのマスメディアが大資本の寡占にゆがめられる前でよかった。そして亡くなったのが、オバマ大統領誕生のあとでよかった。

個人的には、サイモンとガーファンクルの「きよしこの夜 7時のニュース」を思い出します。音楽のうしろに流れるニュースを読んでいるのが、クロンカイトです。あえて暗いニュースを選んで並べていて、60年代後半のこの曲が発表された当時もその後も、聴くたびに胸が締めつけられたものです。

ご紹介したyoutubeのバージョンは、曲のあとに虫の声が流れます。クリスマスに虫が鳴いているところで、ラジオから流れるクロンカイトの声に耳をすませている……そう、ベトナム従軍兵が想定されているのでしょう。秀抜な演出だと思います。

youtubeのサイトにも起こされていますが、クロンカイトが読み上げたニュースは、およそ以下のとおりです。

……上院で、公民権法に関する宅地解放法案が審議入りしました。反対陣営の結束は固く、賛成する議員の多くは支持を失っています。ジョンソン大統領は、あらゆる宅地差別を禁止する法案を提出していますが、はじめから勝ち目はなく、議会の空気もそれを反映しています。そのため妥協策が司法議会で検討されました……ロサンゼルスでコメディアンのレニー・ブルースが亡くなりました。死因は睡眠薬の飲み過ぎによるものと思われます。42才でした……マーチン・ルーサー・キング牧師は、日曜日に予定されているシカゴ郊外での住宅開放のデモを中止するつもりはない、と語りました。地元警察のリチャード・オグルビー警部は、デモには州兵の出動を要請すると語りました……シカゴ看護婦9人殺害容疑で起訴されているリチャード・スペックの第1回公判が大陪審で開かれました。9人の看護婦は、シカゴのアパートで刺殺されたり絞殺されているところを発見されました……ワシントンでは、反米活動に関する予備会議で、話し合いがベトナム反戦運動に移るにつれて緊張した空気が流れ始めています。傍聴していたデモの参加者たちは、反戦スローガンを叫んだために強制的に排除されました……ニューヨークで開催された派兵兵士の集会で、ニクソンは、反戦活動は合衆国に最大の不利益をもたらすと演説しました……7時のニュースでした。グッドナイト

昨年亡くなった筑紫哲也さんは、「ニュース23」を「今日はこんなところです」としめくくりましたが、これはクロンカイトの「And that's the way it is.」がお手本だと伺ったことがあります。

合掌

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立葵

立葵立葵の季節です。

この花が苦手でした。どうしても乗り越えられないものがあったのです。数年前、友人の鎌田實さんから、「言っちゃえばいいんだよ」とうながされ、すこしずつことばにしてきました。

そして去年、ある雑誌にこんなエッセイを書く機会を得ました。その後、実際に立葵の種を蒔いたのですが、なぜか今年は芽吹きませんでした。来年こそ、あの花に会いたいと思います。

きのうは、父の54回目の命日でした。


立葵の花が嫌いだ。鼻紙の造花のような風情が安っぽくて、なのに無骨な太い茎を人の背丈ほどに伸ばすのがあつかましくて。

あの夏の日、白いシャツを腕まくりした男たちが何人も、険しい表情で家の内外を動き回っていた。だれもが真一文字に歯を食いしばっている記憶の映像に声はない。

戦後すぐ建てられた、柱もか細いちいさな家に、子どものいる場所はなかった。狭い庭もたくさんの革靴に踏まれ、ちゃちな花壇はみるみる跡形もなくなった。

だから、家の前でおとなたちの動きに目をこらしながら、妹の肩を抱いていた。追い払われ、後じさりし、あの花の茂みに退路を阻まれて立ちつくしていた。

かんかん照りの空の下、立葵の花に頬をくすぐられ、みじめだった。何が起きているのか、十全に理解していたわけではなかったが、なぜかひたすら恥ずかしかった。恥ずかしくても、隠れる場所はなかった。

父が死んだのだ。それも自死。前の晩、祖父の家の住み込みの家政婦、しいちゃんが、窓辺に腰かけ、ふくよかな膝にわたしを抱いて教えてくれた。

「おとうちゃま、死んじゃったのよ」

「嘘だ」とわたしはしいちゃんを撲った。「しいちゃんの嘘つき」両手で拳をつくり、お乳のすこし上のぷわぷわしたところを何度も撲った。しいちゃんは、撲たれても怒らなかった。わたしの背中に両手を回し、俯いてただ泣いていた。

記憶はそこから炎天下の薄桃色の花の茂みに飛び、途切れる。恥ずかしさの感覚を残して。

このとき抱え込んだ理不尽な恥ずかしさはしかし、故なくはなかった。意地悪なおとなたちはいるものだ。子どもには分かりにくいことばで、声高にわたしの身の上を取り沙汰した。わたしは聞かなかったふりをした。分からないふりをした。立葵からは目を逸らした。それしか、身を守る術がなかった。

おとうちゃま、わたしと妹がかわいくなかったんだ。だから死んだんだ。父親に愛されなかった娘。その事実は、自分ではどうしようもない恥として、わたしの心に張りついた。顔のまん中にバッテンの印がついているような気がした。

春美という転校生をいじめたのは、その年の二学期だったか、あるいはもうすこしあとだったか。頬の赤い、かわいい男の子だった。「男のくせにはるみだって」とわたしは毎日言いつのった。春美君は抵抗しなかった。とほうに暮れていた。そして、いつのまにか転校していった。

先日、まるで緩慢な自死のような拒食とアルコール依存を続け、命の危険に陥った若い友人を、病院に担ぎこんだ。そのとき、彼女が言ったことにはっとした。

「わたしが死んでも、彼が悪いんじゃないんです、わたしは彼を愛しているんです」

同居している恋人を思うことばだった。そうだ、どんなにだれかを愛していても、死を選んでしまう人はいるのだ。愛がこの世にその人をつなぎとめえないほど心が病まなければ、人は自ら死になどしない。そんな単純なことがわからずに、わたしは半世紀も生きた。「そうよね、わかってるよ」そう言いながら、わたしは友人の、子どものように痩せ細った腕を撫でさすった。

幼い頃の謎が答えに出会うために、人は生きるのかもしれない。すべての謎が答えに出会った時、命はここを飛び立つのかも知れない。

なぜあのときいじめられたのか、わたしが春美君に抱え込ませてしまった謎は答えに出会っただろうか。出会っていてほしい。春美君に、届かないごめんなさいを届けたい。

この秋は、立葵の種を蒔こうと思う。来年の夏、薄桃色の花に会うために。

(所収:「詩とファンタジー」2008年秋号 かまくら春秋社)



写真は「無料写真素材・東京・横浜・湘南」からお借りしました。


 


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マイケル・ジャクソン(3) モータウンの「死」、アメリカの「死」

マイケル・ジャクソン追悼イベントについては、これでおしまいです。

黒人運動家のシャープトン師も登壇しました。先日、「タイガー・ウッズにもオプラ・ウィンフリーにもオバマにも先駆けて、黒人のために扉を開けた」とマイケルを讃えた人です。とても熱のこもったスピーチでした。内容が日本語になるのが待ち遠しいと思います(オプラ・ウィンフリーとは、絶大な人気を誇るテレビの司会者で、さしずめアメリカ版女性みのもんた、あるいは黒柳徹子というところでしょうか)。

モータウンの重鎮らしい人が壇上に進み出て、マイケルを讃えました。

モータウンは、マイケルがジャクソン5のメンバーとしてデビューしたレーベルです。モータウンとはモーター・タウン、デトロイトのことです。この自動車産業の中心である黒人の多い街に、黒人音楽の枠を超えた新しい音楽を発信しようとモータウンが旗揚げしたのはちょうど50年前、マイケル・ジャクソンが生まれたのとほぼ同時でした。

モータウンの創業者は、レーベル経営が軌道に乗るまで、GMのラインで働いていたそうです。そのGMが経営破綻に陥り、アメリカ経済は世界を道連れにどこまで沈んでいくのかもわからない。そんな今、あの金ピカ80年代を象徴するスーパースター、マイケル・ジャクソンが亡くなったのです。黙祷を捧げるアメリカ下院議会をニュースで見ましたが、アメリカのアイコンの死を悼むというにとどまらない、二度と甦らないアメリカの繁栄そのものにこうべを垂れているようにも見えました。

けれどいま、ミュージックビデオのなかで肌の色も性別も超え(「ブラック・オア・ホワイト」)、生死の境すら超えようとした(「スリラー」)マイケルの越境願望は、天才の自己へのあくなき拘泥でありながら、同時にすべての存在へと、世界へと向かわざるをえない、とほうもないやさしさの表現だったことに、いやおうなく気づかされます。

とくに早すぎる「晩年」には、そうした思いにあふれる楽曲をつくっていました。なのに、所属レコード会社との確執で、マイケルは思うような活動ができませんでした。「ソニー・ウォーズ」と呼ばれるこのいきさつを、このくにのニュースはあまり報じないように思います。ソニーがこのくにの会社だからでしょうか。アメリカのソニー経営者はアメリカ人だし、マイケルは終始このくにの人びとへの好意を表して、一企業とこのくにの人びとを混同するような愚かなことはしなかったのに。

ここまで書いたら、「ウィー・アー・ザ・ワールド」を国連歌にしたらいいのに、という友人のメールがとびこみました。

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マイケル・ジャクソン(2) 「スマイル」

きのうに引き続き、マイケル・ジャクソンの追悼イベントについてです。

ライオネル・リッチーは出てきたけれど、もちろんクインシー・ジョーンズは出てこない、ポール・マッカートニーはなぜ……参加した人にもしなかった人にも、マイケルが大きな存在だったからこそ、いろいろ複雑なことがあるのでしょう。同時に、大きな存在だったからこそ、さまざまな事情を乗り越えて、その死の直後にここまで盛大なイベントを捧げることも可能だったのでしょう。ショービジネスの文脈で語られることがらもあるのでしょうが、それを差し引いても、「キング・オブ・ポップ」にふさわしい追悼イベントだったと思います。

(追悼イベントは無料だったそうですが、これだけの成功を収めれば、マイケルの不世出のスーパースタートしての位置づけは確固としたものになり、今後の印税収入に大きく影響するでしょう。もとよりポップスは「売れてなんぼ」の世界です。経済的な成功を過小評価したり度外視したりすべきではありません)

スティービー・ワンダーは、MCも歌声もピアノの音も、鋭すぎる悲しみに満ちていました。「この夏、きみがいなくなってしまうとは、夢にも思わなかった」……あんな痛切なスティービーを聴いたのは初めてでした。とちゅう、「マイケル」と呼びかけた声は、胸に突き刺さりました。

ブルック・シールズの、なにかを必死にこらえているようすは、女優ならではの演技だなどとはとうてい思えませんでした。「幼い頃から人目にさらされていたわたしたちは、いちばん心許せる、自然体でいられる友だちでした。子ども同士として、たくさんの時を過ごしました。彼は笑うのが好きでした。こよなくかわいらしく、繊細で純粋な笑いでした。マイケルは、『たいせつなものは目に見えないんだよ』といった星の王子さまのような人でした。見てください、三日月にマイケルが腰かけています。わたしたち、ほほえまなければ」といったことばには、真心とほんものの悲しみがにじみ出ていました。

彼女のスピーチには、何度となく「スマイル」ということばが出てきました。その次にマイケルのお兄さんが歌った「スマイル」が、あんなに悲しい歌だったとは。マイケルがいちばん好きな歌だったそうです。

キング牧師の娘にあたる方のスピーチは、威厳にあふれていました。早く日本語字幕つきで再見したいものです。わたしは、英語の聴き取りがほとんどできませんので。どんな人が登場したのかも、また大型スクリーンに映し出されたマイケルのさまざまな映像についても知りたいものです。苦痛に満ちた声でマイケルが語りかけていた内容も知りたい。文字でも出ましたが、理解のスピードが追いつきませんでした。スクリーンには、暴力的すぎるとMTVが拒否した作品も、ちらと映った気がします。黄色い帽子の子どもたちに囲まれた、日本でのマイケルの姿もありました。

(この項はあしたに続きます)

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マイケル・ジャクソン(1) 「スリラー」のモーツァルト

ガラスのような神経で、肉体的苦痛と山のようなトラブルを孤独に耐えねばならなかったマイケル・ジャクソン。ゴシップにまみれ、「もう終わった」といわれ、はんぱではない金銭トラブルを残したまま、最後まで創造意欲を燃えたたせていたにもかかわらず、若くして世を去った天才音楽家……モーツァルトを思い出さずにはいられません。
 
その追悼イベントをネットで見ました。
 
ファンのみなさまには申し訳ないことに、その生前はさして熱心な聞き手ではありませんでした。「バッド」はメッセージ性もあるし、ロックとしていい曲だ、ビデオで踊るふっくらとしたマイケルもいいな、と思ったことはあります。が、そこまででした。
 
そのダンスがオリジナリティそのものだということも、このたび初めて知りました。それほどに、だれも彼もがマイケルをまねしていたわけです。ミュージックビデオの独創性も、当時は認識していませんでした。歌とダンスに超絶的な才能を見せた彼だからこそ、その両方を表現できるミュージックビデオに注目し、新たなジャンルとして一気に完成の域にもっていったのでしょう。既存の容器に収まりきらず、みずからのジャンルを創設してこそ天才──リアルタイムでは、そんなことにも思い至りませんでした。
 
マイケルに関心がなかったのは、彼が全盛期を迎えていた80年代の音楽にあまりつきあわなかったためです。あのバブリーな時代、いろんな意味でみんなが踊っていました。そこに鳴り響いている音楽という印象があって、R&Bやこの時代の刻印をだれよりもくっきりとしるしたマイケルの楽曲には、どうにも入り込めなかったのです。
 
すばらしい作品がたくさんあることを認めるのに吝かではありません。たとえば「スリラー」。文句なしです。でも、なぜタイトルが「スリラー」なのでしょう。ゾンビ映画はホラーと呼ばれるのですから、あの歌のタイトルは「ホラー」でもよかったはずです。
 
でも、そうではないのがいかにも80年代だと思います。「ホラー」は「垂直」を表すラテン語「ホロリス」からきていて、この世の外、とくに上から襲いかかる超越的な恐怖を意味します。それにひきかえ「スリル」は、遊園地のジェットコースターが「スリル満点」といわれることを考えればわかるように、現世にとどまった面白怖いという感覚です。面白ければなんでもいい、恐怖さえ面白がる。そんな多幸感と自信にみちたバブルの時代には、タイトルは「スリラー」でなければならなかった、そんな気がするのです。
 
ついでにいうと、恐怖には「スリル」と「ホロリス(ホロル)」のほかに「テロル」があります。これはテラ(大地)に由来する恐怖で、現実の人間がくりひろげる思想や政治にまつわる暴力の恐怖です。21世紀は、この「テロル騒動」に幕を開けたのでした。
 
(この項はあしたに続きます)
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おしらせ
「引き返す道はもうないのだから」表紙180


「引き返す道は

 もうないのだから」
(かもがわ出版)

・このブログから抜粋して、信濃毎日新聞に連載したものなども少し加え、一冊の本にまとめました。(経緯はこちらに書きました。)
・かもがわ出版のHPから購入していただけましたら、送料無料でお届けします。
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