花の文化史44 睡蓮

2年近く中断していた「花の文化史」を再開します。しばらく夏の花が続きますが、暑かった今年の夏を見送る、という趣旨でお許しいただければと思います。

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 「水瓶に目高と水草をお勧めします。睡蓮鉢に目高はいいですよお。朝、じつに花らしい花を咲かせます。まさに華、睡蓮鉢は最近、タイなどの東南アジア産のが、安くて、インテリアとしてもいいものが出回っています」

「庭友」から、先日こんなメールが届いた。

目高鉢ならやっている。若き魚類研究者の「金魚はでかくなっちゃいますよ」のひとことで、これに決めた。

近所の店で、様子のいい大きな鉢を驚くほど安く買ったためだ。白地に細かい唐草模様。焼きがやや甘く、アジアの産だろうとは思ったが、なるほど、今はこういう鉢がはやっているのか。

スイレンを「水蓮」と書いているのを見かけるが、正しくは「睡蓮」。蓮も水の中に咲くのだから、「水蓮」ではこの花の性質を表したことにはならないにもかかわらず、「水蓮」という漢字のイメージはいかにももっともらしい。

だからそれでもいいけれど、やはり「睡蓮」と書きたい。昼前に花を開き、夕方に閉じる。それで「睡り蓮」。美しい名前だ。

花の小さな一種は日本に野生して、古来、未草(ひつじぐさ)と呼ばれてきた。これも床しい名前だ。未の刻、つまり午後二時に花開く草というわけだが、実物はもっと早起きなので、花はこの命名を心外だと思うかもしれない。

水面(みなも)に映える陽光に花弁をすきとおらせる睡蓮は、その形も抽象的で、咲く場所も水面すれすれという現実離れしたところなので、物質ではなくて純粋な光のみでできているのかと思わせる。ラテン名がニンファエア、「妖精花」というのもうなずける。

けれども、水辺から乾いた大地へと進出した植物の仲で、水中に留まった睡蓮は原始的なのだそうだ。

睡蓮を買うことにした。そうすれば、遠い昔、しずしずと水から上がっていく他の花々を見送る睡蓮が夢に現れるだろうか。

P83睡蓮(伏見文夫・絵) 
 
 
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花の文化史43 薔薇(原種)

今回で、花の連載はおしまいです。もっとも、ブログをお休みしていた間に掲載すべきだった8点が残っています。季節外れになってしまったのは、睡蓮、露草、朝顔、浜木綿、瑠璃玉薊、コスモス、野薊、鳥兜です。これらは来年、ふさわしい季節が巡ってきたらアップすることにします。

この連載を毎日新聞にしていた1年は、けっこうたいへんでした。なにしろそれまで花のことはあまり知らなかったからです。伏見先生から「次はこれを描くよ」とご連絡をいただくと、図書館に行ったり、取材にでかけたり、その下調べにネットをあちこちしたり。今となってはいい思い出です。最後の原稿を入れた1週間後、911が起き、生活は一変しました。その意味でわたしの物書き人生前半の最後となる、思い入れのある作品です。次回は「あとがき」を掲載しようと思います。

伏見文夫さんは、薔薇と薊がお好きです。それぞれ、何点もお描きになりました。わたしはようやくの思いで一文一文をこなしていたので、「また薊?また薔薇? もうネタがないわ」と意気消沈したものです。けれど、美しい絵を眺めていると、ふしぎと書きたいことが心のどこかからうらうらと陽炎のように立ち昇ってくるのでした。

最終回も薔薇です。あれから10年、白い一重の難波茨の花は、今や拙宅の南側の壁を2階まで埋め尽くしています。1年にたったの1週間だけ。

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鹿児島のほうだったと思う。家一軒がそっくり白い薔薇におおわれている映像を、この春テレビのニュースで見た。蔓は屋根にも登り、びっしりと花をつけている。見事というしかない光景に息をのんだ。

花の主の、長年花に注いできた心意気のほどを思う。大写しにされた花は小ぶりの一重咲きだった。原種に近いものという。園芸種よりはまだしも強いだろう。海風の吹きつける岩陰にも、照葉野茨の可憐な花を見ることがあるが、人の手のかかっていないものは強いのだ。

それにしても、薔薇といえば丹精こめた、とくるように、手のかかる花の代表格であること、今も昔も変わりはない。野生の薔薇も、シェークスピアによれば妖精たちが手入れをしているらしい。『真夏の夜の夢』の妖精の女王タイターニアは、「麝香茨が天蓋のように覆いかぶさ」(福田恒存訳)った下で夢をみる。その花の手入れを、妖精たちに命じているのだ。

「麝香茨の蕾の毛虫を殺しておいで」

明治の翻訳家、若松賎子は、結婚したときに夫にあてて格調高い英詩を書いた。

「私を薔薇だと思って丹精しても、骨折り損を後悔するわ」

自分はありふれた土や露なのだから、という一行に続けて、二十歳の賎子はこう歌っている。けれども、夫はこの土をこよなく貴重に思い、豊かに肥やすことに労を厭わなかったようだ。賎子は『小公子』『小公女』の名訳を残した。男を飾る花として、愛でられる受身に甘んじるのではなく、みずからの薔薇の花を咲かせたのだ。

テレビを消し、花屋に走って難波茨を四株買った。二十年後に我が家が白薔薇に埋もれる幻に衝き動かされて。


P105ラブ
(伏見文夫・絵) 

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花の文化史42 菊

明治のこのくにを訪れた欧米人は、人びとの暮らしを彩る菊がよほど印象的だったらしい。このくにを「菊愛(め)ずる人びとのくに」と呼んだ。フランス士官ピエール・ロティが書いた短篇小説のタイトルが「お菊さん」であるのには、そのような背景がある。ヒロインは蝶々夫人と同じ境遇の女性だった。

菊ははなやかだが、どこか屈折した翳がある。菊は、八世紀半ばに成立した「懐風藻」で初めてこのくにの文学に登場するが、翳ははやくもこのとき、この花にまとわりついた。

それらの漢詩は、長屋王が催した菊花の宴で披露されたものだった。ところが、これがいけなかった。王を煙たく思っていた藤原氏から、宴は謀反に他ならないと騒ぎ立てられ、王は自刃を命じられた。菊は不老長寿の霊薬、道教呪法の花として中国から伝わったのだが、菊の宴を催した王は、政敵を呪う黒魔術をとりおこなったとの嫌疑をかけられたのだ。

そして藤原氏の栄華のきわみ、その庇護下にあった紫式部は、菊をながめて鬱々としている。「めでたきことおもしろきことを見聞くにつけても……ものうく思はずになげかしきことのまさるぞいとくるしき」が、式部がひそかに菊に抱いた感慨だ。まるで、みずからのパトロンの先祖が無念の死に追いやった長屋王の悲憤にのりうつられているかのようだ。

紫式部から数百年、江戸の町人世界の菊は、貴族文化も呪法もどこへやら、江戸・団子坂の菊人形になどなりながら、人びとの生活のなかで陽気にはじけている。じつはロティのお菊さんも、男が別れを告げに訪れると、男から得た報酬を満足げに勘定していた。いいではないか。現地妻などもち、帰国するといっては感傷に浸っている男のほうがよっぽどおかしいのだ。複雑でたくましく、一筋縄では行かない菊は、そこに痛快な一矢を報いた。

P99菊
(伏見文夫・絵)
 

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花の文化史41 薄

ついさきごろ、先史時代の遺跡から薄が発見されたというニュースを目にした。穴の底に薄が敷いてあり、その上に小枝が並べてあった。食物を貯蔵したのだろうとのこと。

薄は万葉集に「尾花が末を秋とはいはむ」とあるように、昔からこのくににあって、人びとの心になじんできた。山火事や伐採のあと、傷ついた自然を癒すように、まずは薄が大地をうめつくす。高度成長期には、筑豊の炭坑が閉じられると、薄があっというまにボタ山のてっぺんまで這いあがった。そんな薄は「閉山草」と呼ばれたが、このとき薄は失意の人びとの心の傷を覆うことができたのだろうか。

高原で、薄の穂が目路はるか、同じ方向に弧を描いてなびいているのに目を凝らしていて、ふいに悠久の時間の流れにひとり取り残されたような気になり、底無しに恐ろしくなったことがある。そそくさとすぐそばの駐車場に引き返し、自動販売機でジュースを買った。

ひところ、背高泡立草(ルビせいたかあわだちそう)に押されて、薄の行く末があやぶまれたことかあった。麒麟草(ルビきりんそう)とも呼ばれるように、まっ黄色の穂状の花をふりたてたこの外来種は、いまにこのくにの秋の景観をぶち壊す、というわけだ。けれども、陣地が広がるとかえって劣勢に転じるバックギャモンというゲームのように、黄色一色になったところでは、次の年、薄が盛り返す。麒麟草と薄はこのくにで、なかよく押しくらまんじゅうをすることにしたらしい。若い人の中には、麒麟草のそよぐさまを好ましく感じる人もいる。景観とは人の心と自然が作り上げるものである以上、そんなものだ。

「遊行寺のすすき光沢持ち始む」(高澤良一)

鎌倉の遊行寺の薄念仏が近づくと、関東の残暑は先が見えてくる。


P101薄
(伏見文夫・絵) 

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花の文化史40 金木犀

毎年、秋のおとずれとともに決まって驚く。町の中にこんなにたくさんの金木犀が植えられていたのか、と。
 
金木犀は、いつもは姿のいい、けれどそれほど自己主張の強くない庭木として、緑の中に溶けこんでいる。それがどうだろう。涼しさも本物になった頃、あちこちの庭から、生垣から、香気の点が呼応して線となり面となり、しまいに体積となって、金木犀は馥郁たる香りでいっとき町を占拠する。それも、むせるような百合の匂いともまた違う、やさしく宥めるような香りで。
 
学名、オスマンサス・フラグランス。「いい香りを放つ」という意味のギリシア語と、「香り高い」という意味のラテン語からなる。命名者は、同じような言葉を二つ重ねないと、この芳しさは言い表せないと思ったのだろうか。
 
花はごく小さい。葉っぱの軸の付け根や小枝のとちゅうに、五ミリほどの橙(ルビだいだい)色の花が集まっている。庭木を剪定しているお宅の前に、びっしりと花をつけた枝が惜しげもなく落ちていると、ありがたく拾って帰る。するとたったの一枝で、狭い住まいにはすみずみまで金木犀の香りが漂う。
 
並外れた香(ルビかぐわ)しさが災いすることもある。子どもが金木犀の香る庭先で、「トイレの匂い!」と叫んでいるのを聞いたことがあるのだ。ラベンダー畑にたたずんで「せっけんの匂い!」と歓喜している若い女性を見たことがあるが、ラベンダーはそれでいい。どこにでも畑があるわけではないのだから。

でも金木犀は身近な木だ。昨今では化学合成できない香りはないというが、あまり安易に一年中同じ芳香に、しかも合成したものに親しむと、季節のうつろいや自然の不思議にたいする幼い感性が損なわれはしないかと、心が痛む。金木犀のためにも、それは悲しい。P103金木犀
                 (伏見文夫・絵) このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote





花の文化史 39 向日葵


向日葵の花は朝から夕方までに、東から西へとぐるりと回るのだと、ずっと信じていた。夏の日の夕方、朝遊びに行くときに見たのとは反対の方向を向いている向日葵を見たことがあるような気すらしていた。現実には、向日葵は多くの向日性の花と同じように、明るいほうに向かって咲くだけなのだった。
 
16世紀末のイギリスで著された植物学の本はすでに、この花が太陽を追いかけるというのは俗説であるとして退けている。今も昔も、科学者の観察眼はたいしたものだ。たしかに冷静になってみれば、あの巨花をぐいと天に向けて支えるごりごりに硬くて太い茎が、そう器用に動くとは考えにくい。素人の思いこみほど、いいかげんなものはない。
 
向日葵は、コロンブスが1494年の第2航海で、ハイチ島あたりからカスティリヤにもたらした。古来、「太陽の花」と呼ばれた花は、菊、蒲公英、灯台草、マリゴールド、ヘリオトロープなどなど枚挙にいとまがないが、向日葵が登場すると、黄色い花弁をまるでコロナのようにめぐらしたとてつもなく大きく豪奢な花は、まさにこれだとばかりに、その名跡を襲名してしまった。
 
事実、ペルーでは太陽神の化身として崇拝され、黄金でかたどられて太陽神殿の巫女の神聖な装束を飾っていた。大きな葉をなびかせて、2メートル、あるいはもっと高いところでひねもす夏空と対峙している向日葵の花は、神ならずともどこか人間の顔じみていて、人には聞こえない声で、空や太陽と深遠な宇宙論を交わしているかのようだ。
 
その向日葵の向日性だが、若い茎ほど強いという。花も歳をとると、生きることへの貪欲さが薄らぐということか。ようやく衰え、わが身の重さに耐えかねてぐらりと傾きながら、あとしばしとばかりに現世に佇む向日葵にこそ、命の謳歌を聞く思いがする。



  
P81向日葵
                      (伏見文夫・絵) このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote





花の文化史38 蓮

小耳にはさんだ片言隻句がなぜかずっと気になっていることがある。ことあらためて調べるまでにはいたらない。ただ、いつまでも忘れられない夢のように、ふと浮上してはまた消える。
 
バラモン教のもっとも古い文献、「リグ・ヴェーダ」には青い蓮しか出てこないというのも、そんな気になる話だ。けれども、青い蓮は見たことがない。蓮といえば白か、濃淡さまざまな紅しか思い浮かばない。青い蓮とは、たとえば睡蓮の聞き間違いだったのか。
 
睡蓮と蓮、正式の区別はどうなのだろう。蓮には芳香があって睡蓮にはない、蓮の葉は大きくて風に揺れているけれど、睡蓮の葉は小さいのが水面にくっついて静か──そんなイメージがあるだけだ。それから、蓮の根は食べられる。蓮根ほど面白いかたちの野菜もめったにない。
 
ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスが200年前に未完のままに発表した小説を、なぜか日本では「青い花」と呼ぶ。原題は違うのに。けれども、この命名ゆえもあってか、この作品は多くの人に忘れがたい感銘を与えてきた。ドイツ文学を志し、人生を決定してしまった人も珍しくない。
 
これは、夢に見た青い花を求めて少年が詩人として成長していく、臆面もないまでに神秘な物語だ。この青い花を蓮だとする説がある。当時のインド学が、ゲルマンと古代インドの言語の結びつきを世に知らしめ、熱狂をもって迎えられた。そんなインド・ブームのさなかに、遠方へのあこがれを語りこめたこの作品は、魂の旅をいざなうものの象徴に、インドの文献から紹介された青い蓮を用いた、というのだ。
 
ともあれ、つぼんで水面下に没してはまた花開く、そんな蓮をなぞるように、ささいなことを繰り返しふと思い出しながら、未完の物語のように悩ましく流れていくのが、人それぞれの命なのかもしれない。

P79蓮
                      (伏見文夫・絵)
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花の文化史37 芍薬

「立てば芍薬、座れば牡丹」−−これはいい。牡丹は枝を横に伸ばすのにたいして、茎がすっとまっすぐ上に伸びる芍薬は、昂然とした美女の立ち姿のたとえとしていかにもふさわしい。牡丹と芍薬、似通った花を見分けるための唱えごととしても洒落ている。

問題は、「歩く姿は百合の花」だ。江戸中期の洒落本「無論里(ろんのないさと)問答」には、「踊の歌にいはく」とあるから、舞踊歌に由来する言い回しらしい。それにしても百合と歩行−−これにはどんな意味があるのだろう。考えあぐねているうちに、百合の花が先ごろ亡くなった歌右衛門のように、首を前に突き出して歩いてくる夢を見てしまった。
 
それはともかく。芍薬はその名前からして、いにしえより漢方で珍重されたことが見てとれる。平安時代に中国からやってきた。漢方に用いられた多くの花卉が、美しさを不可解なほど無視されていたのにたいし、芍薬は渡来当時からその花の姿を愛でられもした。その点、めずらしい花だ。
 
薬として知られていたことは、ヨーロッパでも同じだ。芍薬の英語名ピアニーは、アスクレピオスと双璧をなすギリシアの医術の神、パイエオンにちなんでいる。それどころか、医薬植物はすべてパイオニアイと呼ばれていたのに、いつしか芍薬がこの名前を一身に担ってしまったのだ。いまでも芍薬の根には鎮痛作用があるとされている。昔の人の、経験にもとずく知識は大したものだ。
 
薄紅色をはじめ、さまざまな色に咲く芍薬だが、野生種の山芍薬は純白一色だという。何日も咲き誇る園芸種とちがって、たった一日か二日で散ってしまう。大和は葛城山系の小暗い木陰に咲くという白い芍薬と、いつか対面したいものだ。

P77芍薬
                     (伏見文夫・絵)
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花の文化史36 山百合

「この根っこ、おいしいんですよ」

喬木と見紛うほどに繁茂し、大輪の花を風にゆらしている山百合を指差してそんなことを言うと、ヨーロッパ人はその蒼眼を剥く。調子に乗って、みごとな葉をこんもりと盛りあがらせている擬宝珠(ぎぼし)を、「これは茹でると最高なんです」と言えば、こちらを見る目はもう、「この野蛮人!」と言っている。日本人が鯨を食するとは知っていたが、百合や擬宝珠まで胃袋におさめてしまうとは、もう許せない──ヨーロッパの客人は、外交辞令を重んじて、言わずにがまんしているのだろう。食や美意識の文化摩擦には一筋縄ではいかないところがある。

百合と擬宝珠、いずれも日本からヨーロッパに渡って脚光を浴びた。そして品種改良が重ねられ、華麗に生まれ変わって里帰りした。百合なら真っ白い大輪のカサブランカが代表格だ。ひところはホテルなどでしかお目にかかれない高価な花だったが、いまはかなりお手ごろだ。

そのご先祖、山百合は、白地の花弁の中央に淡い黄色の筋がすっと入り、そこから飛沫のような斑点が散っている。かつては東京近郊でも丘陵といわず小暗い崖といわず、この花の大群が埋めつくしていたという。「かつて」とは戦後すぐ。朝切りの山百合を山のように背負って都心に売りに来る人びとが早朝の国電総武線に見られたと、聞いたことがある。車内は百合の香りでむせかえったことだろう。
 
そして、カサブランカがもてはやされた「ひところ」とは高度成長期。いまは経済が幸福の尺度ではなくなって久しい。町の花屋でカサブランカを買うのもいいが、住宅が建ち並ぶかつての山百合の丘陵を越えて、山百合に会いに行こうか。かの地にはきっと温泉も待っているだろう。

P75山百合
                      (伏見文夫・絵) このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote





花の文化史35 梔子

梔子(くちなし)の匂いには人肌のぬくもりがある。それも、初子(ういご)をあげた若い母親のような匂いだ。白い花が肌理細やかな乳房を彷彿させる。その花香が梅雨寒の夕まぐれに漂ってくると、そこはかとなく切ないような心持ちになる。
 
それでだ、合点がいった。カラオケで「くちなしの花」を聴くとなぜか納得できない気分になる理由に思い当たった。「小さな幸せそれさえも、捨ててしまった自分の手から」と歌われる「小さな幸せ」とは、幼子をともに育むささやかな幸福のことだと、無意識裡に受け止めていたのだ。わが子の母親である人が「いまでは指輪もまわるほど、やせてやつれた」なんぞといううわさを耳にしたのなら、そんなところでかっこつけてないで、早くおうちに帰ったらどうなの−−内心、異議を申し立てていた。ごきげんで歌っている人は、とばっちりもいいところだ。

梔子は漢の時代から働き者だ。その実は腫れや血を止め、熱をさまし、痛みをやわらげた。まるでやさしい母親のようだ。食べても大丈夫な染料としても用いられた。いまでも正月が近づくと、家々の台所で慈姑(くわい)やきんとんを黄金色に染めあげる。
 
昔は布も染めた。『古今和歌集』にこんな歌がある。

「みみなしの山のくちなし得てしかな思ひの色のしたぞめにせむ」
 
大和三山のひとつ耳成山がくちなし山とも呼ばれるのは、ここに梔子が自生していたからだという。耳もない、口もない。下染めというからには、その色は表に出ない。恋は幾重にも秘められている。けれども、梔子の黄色を下染めにしてあらしめようとしている色は、鮮やかこのうえない緋色。梔子には、見かけによらず激しいところがあるらしい。

P73梔子
                      (伏見文夫・絵)
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花の文化史34 薔薇

梅雨どき、薔薇がなかったら、私たちの暮らしはどんなに侘しいだろう。重苦しい曇天のもと、薔薇の花からは、降(ルビふり)のこしてや、と言いたくなるような微光が射しているかのような気がして、ほうっと気持ちが明るくなる。
 
けれども薔薇は、愛でられるだけが取柄ではない。香水の原料になるのはもちろんだが、ワイン作りに欠かせないのだという。その道の達人、山田健氏の薀蓄(うんちく)だ。
 
薔薇を育てている方は、この木がいかに病気にかかりやすいかを熟知しておられることだろう。若枝から出たういういしい葉が白い粉をまぶしたようになるのがウドンコ病、代表的な薔薇の病気だ。ちょっと目を離していると、すぐにやられる。とにかく薔薇は世話が焼ける。
 
葡萄の木もウドンコ病にかかる。薔薇のそれとは菌の種類が違うが、繁殖する気候条件がほぼ同じなのだそうだ。そこで、葡萄畑のウドンコ病が出やすい風通しの悪いところやじめじめしたところに薔薇を植えておく。そして、ちょっとでもその兆しがあると、早手回しにごく薄い農薬を周辺の葡萄の木に撒く。そうすれば、病気が葡萄畑に蔓延してしまった場合の何十、何百分の一の薬ですむ。葡萄園の薔薇は、かつて鉱山で有毒ガスの探知に使われた黄色いカナリアと同じ役割を担っているのだ。弱いものが、弱さゆえに、身を呈してほかのなにかを守る。
 
かくして、いい葡萄園のそこここにはかならず薔薇の花が咲き零(こぼ)れていることになる。それがフランスなら、葡萄畑を押し分けるようにりっぱな薔薇の並木道が通り、その先にシャトーがそびえていたりする。まっ赤に咲き誇る薔薇を愛でながらゆっくりと並木道をたどる人がいたら、それは葡萄園の園丁が、芳醇なワインを夢見て丹精している姿なのだ。これぞ、酒と薔薇の日々。


 
P71早春
                         (伏見文夫・絵) このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote





花の文化史33 紫陽花

箱根湯本駅から、最終の登山電車に飛び乗った。乗客は数人。二輌編成の電車は静かに動き出した。鉄橋を渡り、ちいさなトンネルをくぐり、山肌をじりじりと登る。いくつめかのカーブを曲がって、ふもとの町がやや遠ざかり、車窓に夜の山の濃密な闇が広がる、と予想した目に飛びこんだのは、満開の紫陽花の壁だった。それが随所にもうけられた照明に映えて、延々と続く。
 
車内に歓声があがるでも、カメラのシャッターがおりるでもない。乗客は仕事帰りの地元の人びとだからだろう。観光客は、もっと早い時間に山に上がっているはずだ。みんなじっと腰掛けたまま、さすがにときおり目を窓の外に泳がせている。
 
紫陽花の群れに覗きこまれながら、登山電車はしずしずと山を登っていく。車窓の威圧感にいつしか異様な気分になり、「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはいないのだろうか」−−『銀河鉄道の夜』のジョバンニになって、心の中で叫んでいた。紫陽花は星だった。星雲であり、ひとつひとつが宇宙だった。
 
「あじさい」の語源は「集(゙あづ)真(゙さ)藍(あい)」だという。けれども、こんにち一般的なセイヨウアジサイではなく、野生のガクアジサイにつけられた名前だから、手鞠型の花の姿を思い浮かべて納得したのでは、早合点ということになる。華麗なセイヨウアジサイは、日本原産のこの花が中国経由でヨーロッパに渡り、改良を重ねられて里帰りしたものだ。
 
知られているように、萼片が大きくなったのが紫陽花の「花」だ。花屋で売られている鉢物のなかには、巨大な萼片の先がかすかに縮れてさえいるものもある。それはそれで見事だが、額紫陽花のあるかなきかのかそけき色香が、私は好きだ。

P69紫陽花
                    (伏見文夫・絵)
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花の文化史32 白詰草

喜多川歌麿の「ビードロを吹く女」。切手にもなっている、浮世絵の名品だ。別名「ポッピンを吹く女」。女がくわえている、ガラス製の漏斗のようなものがそのようにも呼ばれるためだ。呼び名はこのほかにもチャンポン、ピンポン。いずれも、これを吹いたり吸ったりすると薄い底が立てる、ポコペコという音の聞きなしだ。
 
ただし、ビードロだけは擬音語ではなくガラスのことで、長崎貿易の昔、オランダ渡りのガラスはきわめて貴重なものだった。江戸の人は、舶来のガラスを科学や産業の発展に役立てようともしたが、こんな玩具を作って面白がりもした。旺盛な遊び心にはおそれいる。1メートル以上もの、とんでもなく大きなものもあったという。
 
オランダ船から下ろされるガラス製品の木箱には、乾草が詰めこまれていた。それがクローバーだった。詰め物に使われたクローバーは「詰め草」と呼ばれた。そして、こぼれ種から咲いた花が白かったから、白詰草。
 
英語で「クローバーの中に」と言えば、贅沢三昧に過ごすことだが、これは幸運をもたらすとされる四葉のクローバーを念頭に置いた言い回しではない。クローバーに囲まれた牛の幸せからきている。それがアイルランドのシンボルになったのは、この地にキリスト教を伝えた聖パトリックが、三位一体の教義を三つに分かれた葉になぞらえて説いたからだという。
 
歌麿からちょうど百年後の1853年に生まれたゴッホは、日本の浮世絵から影響を受けて独自の世界をひらいた。ゴッホだけでなく、19世紀末の画家たちは競って浮世絵から空間処理やデフォルメを学んだ。彼らの手に渡った浮世絵は、日本から輸入される雑貨品の詰め物としてやってきたのだった。もちろん、歌麿も。

P67白詰草
                       (伏見文夫・絵)     

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花の文化史31 躑躅

惚れた男は山の向こうに住んでいた。娘は毎晩、米を三粒握りしめ、まっ暗な山道を走った。男の家に着くと、手の中の米粒はほかほかの餅になっていた。その餅を、娘は男に食べさせた。
 
そんなことが続くうち、男は恐ろしくなった。娘の身で暗い山を毎晩越えてくるとは、魔性(ましょう)のものにちがいない。ある夜、男は山道で待ち伏せ、駆け抜けようとした娘を鉈(なた)でばっさり斬り殺した。娘の血は山腹をまっ赤に染めた。次の年も、次の次の年も。毎年その頃になると、山はあわれな娘を悼むように、躑躅(つつじ)の花で覆われるようになったのだ。
 
躑躅乙女の悲話だ。米粒は酒になると語られることもある。三粒の米は、そこに宿る穀霊が、夜の山に跋扈(ばっこ)する魑魅魍魎(ちみもうりょう)から守ってくれると信じて、娘が握りしめていたのだろう。いずれにしても、稲作とゆかりの深い言い伝えだ。
 
里から見える山に躑躅の花が咲くと、人びとは苗代に籾を蒔いた。花は季節の指標だったのだ。なかでも、遠目にもあざやかな赤い躑躅がとくに神聖視されたのは、当然のなりゆきだろう。
 
躑躅が農耕にたずさわる人びとの畏敬の念を集めていたことは、牛玉(ごおう)宝印の札を田の水口に挿すときに、ところによっては松の枝とともに躑躅の花をそえることにも表れている。さらには、陰暦卯月八日(うづきようか)に山に登り、藤や山吹、そして躑躅の花を採ってきて、竿の先につけて庭先に立てる習慣も、かつては広く見られた。天道花(てんとうばな)の信仰だ。天道花は、山から里へと田の神をいざない、そこにとどまっていただくための依代(よりしろ)なのだった。メイポールはなにもヨーロッパだけの風習ではない。

P65躑躅
                        (伏見文夫・絵)
 
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花の文化史30 鈴蘭

昔、親戚の家の鏡台にちいさな香水の壜があって、そのなかに黄ばんだ鈴蘭のひと房が俯いていた。壜をつまんだ指先には、ほんのりといい匂いが残った。
 
「君影草っていうのよ。いい名前ね。すずらんって、なんだか商店街の名前みたいで興醒め」
 
背後で、香水の持ち主の声がした。いたずらを見つかって、どきっとして振り向く。その人は少し前まではお妾さんで、その家のおばさんが若くして亡くなってから、後添いに入った。子供心にも、きれいな人だ、と思った。西洋香水は、薄暗い和室の片隅の、華やかな着物を裁ち直した鏡台掛けの前で、秘めやかなおとなの世界を暗示していた。
 
香水が普及した現代、もはや鈴蘭の花入り香水は、観光地の土産物屋でしかお目にかかれないだろう。けれども、鈴蘭から抽出したエキスは、今でもほかの原料とブレンドされて、さまざまな香水の香りに奥行きを与えている。それはぱっと香りたつのではなく、甘さの陰にどこか苦さを宿しているような、夢のなかにおぼつかなく沈んでいくような匂いだ。
 
アイルランドには、「妖精のはしご」という異名がある。してみるとかの地の妖精は、鈴蘭の花茎を上り下りできる、虫ほどの大きさなのかもしれない。いつかロンドンで見たシェイクスピアの「真夏の夜の夢」では、妖精役がみな、昆虫のような動きをしていた。薄物をひらめかせ、ひくひくとけいれんするようにひっきりなしに動き回る。その表情からは人間的なものが払拭され、そこには異形のものたちが跳梁する異界が広がっていた。あのほの暗い森の舞台には、鈴蘭があったような気がする。
 
清楚で可憐な花姿とはうらはらに、鈴蘭は花にも葉にも根にも有毒な成分を含んでいる。それを煎じたアクア・アウレア、黄金水は、さまざまな痛みを和らげるとされた。身近な花にも、人は計り知れないものを感じ取り、恐れながらもそこから恵みを引き出そうとした。人間と美しい花、あるいは自然とのつきあいとは、そういうものかもしれない。

P63鈴蘭

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史29 林檎

グリムのメルヒェンに林檎はいくつ出てくるだろうか。
 
まずはなんと言っても、白雪姫を亡き者にしようと、悪いお后が作る毒林檎が1つ。それから、ときて、数えるのは不可能だと気がついた。林檎が木ごと登場するからだ。
 
それらの木は、世界の果てにはえていたりする。そして、そこには黄金(きん)の林檎がなっていた、と語られることもある。なかにはしゃべる林檎もいる。「たいへんたいへん、ぼくをゆすって、ぼくをゆすってくれってば。ぼくたち林檎は、熟してるんだ」(「ホレばあさん」)
 
ゲルマン神話では、若返りの林檎が知られている。神々はこの林檎を食べるので、世界の終わりまで歳をとらない。また主神オーディンは、林檎によって孫レリルの妻を妊娠させた。林檎と不老、そして多産は、切っても切れない関係にある。林檎は豊饒の女神フレイヤに捧げられているのだった。
 
ひところドイツで売られていた林檎は、それほど品種が豊かでもなかった。「ドイツの林檎は2種類だけ。しなびているのと、いないのと」と言いのけて、ドイツの人びとを当惑させていた日本人もいた。たしかに、色も大きさもさまざまな日本の林檎を見なれた目には、青空市場のテントの下に山と積まれた野良林檎とでも言うようなドイツの林檎は、ぱっとしない。
 
けれども、食べるとこれがおいしいのだ。それに、庭のある家では必ずと言っていいほど林檎の木を植える。そして収穫すると、近くの加工場に運び込み、甘いムースの瓶詰めを作ってもらう。瓶詰めは地下室にずらりと並び、1年間、食卓を賑わす。そんなドイツと日本、どちらが豊かな食を楽しんでいるだろう、と考えてしまう。
 
メルヒェンの黄金の林檎は、半分ずつ食べた若者と姫に恋心を目覚めさせた。本来なら、姫が妊娠した、と語るところの、これはメルヒェンのすてきな言い替えだろう。

P61林檎

(伏見文夫・絵)
 
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花の文化史28 花菖蒲

五月雨(さみだれ)に沼の石垣水こえて何(いず)れかあやめ引きぞはつらふ

「はつらふ」は「煩う」。鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政(げんさんみよりまさ)の歌だ。

頼政は後白河院の侍女あやめの前に恋をした。権力者は残酷だ。院は5月5日の夕暮れに、あやめの前を含む女3人に同じ姿をさせ、「誰があやめの前か、当てたとらそう」と言った。頼政は先の歌を詠み、思う女を手に入れた。「源平盛衰記(じょうすいき)」のエピソードだ。

この「あやめの前」、じつは「菖蒲前」と書く。けれども、しょうぶは、薄緑の小さな花を蒲の穂のようにびっしりつけるサトイモ科の植物。あやめとは別物だ。しかし、尚武に通じるとして甲冑などの文様になったのは、あやめであってしょうぶではない。上から入った外来の名を、在来種の実体が乗っ取ったかっこうだ。

あやめと菖蒲。とにかく紛らわしい。さらには花菖蒲、杜若(かきつばた)。ものの本をひもとけばひもとくほど、なにがなんだかわからなくなる。

けれども、こういうことではないだろうか。このくにの野に咲いて農事の時を知らせ、特別の霊力があるとされていた花は、「あやめ」と呼ばれていた。そこへ宮廷が中国から、端午の節句の菖蒲を導入した。人びとは、葉の形が似ていることから、菖蒲を「あやめぐさ」と呼んだりしたが、いつしかこの二つは混同された。いまも端午の節句にはあやめが飾られているとおりだ。

陸奥では、かつみという花も菖蒲の代用とされるほど水辺を覆っていたことが、鴨長明の「長明無名抄」にある。芭蕉は「みちのくのあさかのぬまの花かつみかつ見る人に恋やわたらん」という古今和歌集の恋の歌に惹かれていた。「奥の細道」には、安積沼にさしかかると、「かつみ、かつみ」と晩春の日の暮れるまで訪ね歩いたとある。このかつみが花菖蒲のご先祖、ノハナショウブらしい。江戸の昔から改良を重ねられ、現在500とも600とも言われる品種を誇る花菖蒲になった草は、安積沼のほとりに生えていたのだ。

P59花菖蒲

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史27 牡丹

猪の肉を牡丹というのは、シシと牡丹が縁語だからとはすぐに見当がつく。唐獅子牡丹は華麗に設(しつら)えを飾り、村祭りの獅子舞で、獅子は牡丹の花に酔う。そして、花札の絵柄にあるように、獅子はいつしか猪になった。鹿に紅葉の札もあるが、鹿肉は紅葉と言い替えられるのだった。さらに、花札とは関係ないが、馬肉は桜だし、江戸の人はお茶目だ。獣肉をあからさまに名指すことへのひるみを、遊び心ではぐらかす。

けれども牡丹なら、連想の先は味噌仕立ての鍋ではなくて、やはり楊貴妃でありたい。白居易をはじめとするおびただしい詩人に謳われ、ずしりと重い伝統に耐えきれないかのように、幾重もの花弁をしどけなく開く大輪の牡丹と、暮れゆく長安の春を惜しんで、玄宗帝とともにこの花の咲き乱れる水辺にたたずむ美女は、いかにも似つかわしい。どちらも、その美は豊満さにある。牡丹は肉感的な花だ。

そういえば、三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」に出てくる幽霊にも、そこはかとない肉のぬくもりがある。この幽霊、恋人と床を共にするのだ。なぜ幽霊に肉体があるのか。それはこの噺が、中国の小説の翻案だからだ。中国の死霊には実体があるのだ。ちなみに、円朝には海外にネタを求めた新作噺が多い。モーパッサンの小説も、オペラ「トスカ」も、グリムのメルヒェンも、明治という新しい時代に新しい話芸を確立しようとしていた健啖な噺家の胃袋におさまった。

牡丹は、平安の昔からこのくにの風土に深く根ざしながら、ふるさと中国の遠い記憶を保っているのだろう。そのために、円朝の新作噺は、牡丹にゆかりの幽霊ならば中国風に体があってもおかしくないと、ごく自然に受け入れられたのではないか。おかげでお露の霊は、夜な夜な牡丹の花を描いた灯籠を侍女にかかげさせ、からん、ころんと下駄の音を先触れに、恋しい新三郎のもとに通ってくることができたのだ。

P57牡丹

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史26 花水木

「あれはハナミズキと言っちゃいけないそうですよ。前はアメリカハナミズキって呼んでましたけどね、お役所の人に言われました。遺伝子を調べたら、在来の山法師(やまぼうし)のほうに近いんだそうです。だからあれは山法師」

いまさらそんなことを言われたって、と私は内心、立ち往生してしまった。若いランドスケープ・アーキテクト、つまり総合的な造園を手がける現代の庭師と話していたときだ。彼が設計するのは、公園や遊歩道など、おもに大規模な植栽なので、いきおいお役所と仕事をすることも多いのは、先の言葉からもうかがえる。

花水木と山法師、まるでイメージが違うではないか。花水木と聞けば、濃淡の紅の花を、まるでリボンを結んだように樹幹いっぱいにまんべんなくつけて、町を華やかに飾っているところを連想する。しゃれた並木道に、瀟洒なブティックの脇に、閑静な住宅街のそこここに、細めの枝を斜め上に向けて広げた枝振りも好ましく、花水木は町によく似合う。

片や山法師は、関東地方なら箱根の山道をこんもりと見下ろしているところがまず思い浮かぶ。4枚の花びら、正しくは総苞片も白くて小ぶりで、ひんやりと湿った山の匂いに包まれて、そこだけ静かに明るんでいる。そんな、あくまでも地つきの、どちらかと言うと地味な山の木と、1912年に時の東京市長、尾崎行雄がアメリカに桜を寄贈したとき、その返礼として3年後に鳴り物入りで海を渡ってきて、東京から全国に広まった花水木とでは、来歴からしてまったく異なるのだ。

けれども、春をいつまでも謳歌するように花の時期が長く、夏にはそよぐ葉が心地よい影を作り、秋ともなればみごとに紅葉し、葉が落ちたあとも姿のいいこの木は、やさしく私たちの生活にとけこんでいる。

花水木女ふたりの歩を合わす                      有馬静子

P55花水木

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史24 アネモネ

キリスト教はギリシア神話と微妙に響きあっている。たとえば深紅のアネモネは、磔刑の丘にしたたったイエスの血の色とされるが、ギリシア神話でも同様で、ただし血を流したのは猪の牙にかかった美しい少年神アドニスだった。

アドニスは、大地母神アプロディテと冥界の女王ペルセポネに愛された。そこで、1年をふたつに分けて双方のもとで過ごした。これが現実の話なら、ハンサムな若い男が地位も経済力もある年上の美女2人にふたまたをかけたわけだ。

けれども神話の世界では、アドニスは植物の神格化ということになる。大地が花と緑におおわれる季節と、植物が死に絶え、地上から姿を消す季節が交替するのはなぜかを説明するのが、アドニスの神話だ。アネモネは、そんな死んでよみがえる若い男神になぞらえられた。それは、この花が宿根草であることと無縁ではないだろう。

アドニスという名は、西セム語の「わが主」を意味する「アドン」から来ている。言うまでもなく、イエスは「わが主」と呼びかけられる。アドニスもイエスも、死と再生の神なのだ。そこに愛というエロティックな要素があるかいないかで、物語はがらりと趣を異にする。

しかし、キリスト教がいかにエロスを、ひいては古来の女神崇拝を締め出そうとやっきになっても、後世の人びとはそれをかぎつけた。そして、聖母マリアとイエスのつながりを強調し、マグダラのマリアをイエスの恋人とする伝説を編み出した。これを伝承の復元性という。神話や伝説は、まるで人類が物語のDNAを持っているかのように、なにかが語り落とされても、いつしか再び語り込まれるのだ。物語もまた、死と再生をくりかえす。

イエスが「ソロモンだにその装い及(し)かざりき」と言った野の百合は、アネモネのことだったらしい。イエスは、この花と自分が結びつけられて2000年の時を旅すると、知っていたのか、どうか。

P53アネモネ

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史23 スイートピー

農協の高橋さんは忙しい。この季節は連日、軽トラでスイートピー屋さんを回る。栽培農家を、そう呼ぶのだ。高橋さんが担当する神奈川の寒川町に、スイートピー屋さんは30軒ある。

その日、スイートピー屋さんは全員留守をした。出荷の最盛期に、3日にわたって品評会など、さまざまなイベントが行われる。そこへそろって出かけたのた。それできょう、高橋さんは事務所の自分の机でぽつねんとしていた。

案内してくれたお宅には、パステルカラーの蝶をびっしりと閉じこめたような温室が、長ながと三棟並んでいた。耕地での農作物の発育状況を「立毛(たちげ)」と言うのだそうだが、そのコンテストで、今年この地区最高の評価をえた栽培農家だという。奥さんがひとり、作業の真っ最中だった。足元に摘み取られた茎や巻きひげがちらばっている。花の香りとともに、奥さんが出てきた。

「3日、お日さまが出ないと蕾が落ちてしまうんです」

静かな愛惜の声だった。その愛惜は、落ちた蕾に向けられているとも、報われないこともある丹精に向けられているともとれた。可憐な花は、世話をしてくれる人にときとしてつれない仕打ちもするのだ。いけない子、と奥さんの頭越しにそよいでいるピンクの花を見やった。

「太陽の方に曲がらないようにするのです」

スイートピーは1本ずつ、タコ糸でガラスの天井から吊ってある。

「へたすると折れちゃうんですよ」と、高橋さん。

「たいへんな技術ですね」と言うと、「いえ、手間暇です」2人から答えが返ってくる。

「あの、赤いのって、あるんですか?」言わずと知れた松田聖子の歌が気になって、軽薄な質問に恐縮しながら、でも聞いてしまった。

「ええ、ありますよ」

指の先には、温室のかなた向こうの端にほんの数メートル、そこだけ深紅の蝶が群れていた。

P49スイートピー

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史25 桜 〜 こんな年だからこそお花見を

きょうはまだ「花の文化史」の出番ではありません。でも、東京都知事選に立っている現職が、地震と津波の被害者や被災者に配慮してお花見を自粛すべきだ、と言い出しました。なんだかすなおに受け取れない提案です。それに、伝統を重んじる立場からすると、お花見は死者への供養のためにおこなうのが本然のすがたです。それで、きょうのエントリは「桜」にしました。今年は忘れられないほど思いをこめて、盛大にお花見をいたしましょう。東京の桜は早くも三分咲きです。

     ************************

花見は枝垂桜(しだれざくら)の下で行うのがおおもとだったらしい。

平安の昔、人びとは桜の花が乱れ散るさまを、憤りをのんで死んだ人の御霊(ごりょう)が荒らぶっているのだとして、怖れおののいた。案の定、桜の季節には疫病が流行った。疫病は御霊の祟りなのだ。そこで、人びとは恐るべき御霊を鎮めるために、寺社の満開の枝垂桜のもとに集って、歌をうたい、笛や太鼓、鉦(かね)の音もかまびすしく、無礼講で騒いだ。

花の下(もと)連歌と呼ばれる催しも、その流れにある。足利尊氏が上野国のとある寺で、戦死した部下たちの追善のために連歌会を開いたら、枝垂桜が咲き誇る庭にぽっかりと底なしの穴が開き、そこから餓鬼が顔を出し、「来年も桜を見に来ないと地獄に堕ちる」と告げて、また冥界に帰っていった、という言い伝えがある。桜はこの世とあの世をとりもつ聖なる樹なのだった。

九州博多の大濠公園は花見の名所だが、20年ほど前、突然地面が陥没し、大きな穴が開いた。桜の季節だったように記憶するが、定かではない。さいわい怪我人は出なかったが、とっさに尊氏の伝承が思い合わされて、私は腰が抜けるほどびっくりした。復旧工事でごったがえす映像の片隅に、閻魔大王に遣わされた小鬼でも映ってないかと、テレビ画面に食い入ったものだ。

桜と死者を結びつける想像力は、近代をつらぬいて、私たちの心の奥底にもひそかに流れている。荒俣宏『帝都物語』は、廃墟と化した東京が一望千里の桜の花盛りとなって、壮大な物語の幕を閉じる。桜が咲く頃になると、なぜかそわそわと心落ち着かないのは、死者たちが呼んでいるからだ。どんちゃん騒ぎをして慰めてほしいと、時空のかなたから叫んでいるからだ。だったら、酔っぱらいたちの傍若無人も、花見の主客、死者たちに免じてよしとしよう。カラオケのグループになれなれしく闖入する酔っぱらいおじさんも、花見の王道を行っているのだ。花の下連歌では、見ず知らずの者が飛び入りで歌を詠むことは大歓迎だったそうだから。

P51桜

(伏見文夫・絵)  
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花の文化史22 チューリップ

チューリップという名前がターバンから来ているなんて、知らなかった。昔、トルコの男性が頭に巻いていた布だ。今でもインド人などに見ることができる。チューリップは、その蕾がターバンに似ているからだという。現代のターバンは白が大部分のようだが、古いオスマンの細密画に描かれた貴族の頭には、きらびやかな色や模様のターバンが巻かれている。あれなら、チューリップの蕾を連想してもおかしくはない。

16世紀の半ば、トルコ駐在オーストリア大使がウィーンにもたらした。当時トルコは、軍事的には恐怖の、文化的には憧れの的だった。憧れの地からやってきた珍しい花に、その地の風俗にちなんだ名がついたというわけだ。

チューリップには香りがない。ドイツの19世紀の詩人プラーテンは、これほどに美しい花に香りまであったらほかの花が悲しむと考えた神が、チューリップから香りを取りあげた、と歌っている。神とはギリシア神話の神。この詩は、トルコ伝来の花にはどうしてもギリシア神話風の逸話をつけないと気がすまない、当時のヨーロッパの風潮を反映している。

チューリップはウィーンからドイツに渡り、オランダにもたらされると、そこで変種作りに火がついた。いきおい、そのころのオランダ派の静物画にはチューリップが好んで描かれたが、開ききった姿をとらえたものが多く、蕾に近い形を愛でる感性を驚かす。

ブームの中、華麗な新種にはとほうもない値段がつき、投機熱はとどまるところを知らなかった。今さかんに行われているオプション取引は、この時代のチューリップの球根売買のなかで考え出されたシステムだ。球根栽培者は、すばらしい新種の球根をたしかに売るという約束を書面にしたためて、仲買人に売った。仲買人は、新種誕生を信じて、紙切れに大枚をはたいた。

ひところ日本では、チューリップはチンジャラジャラという喧噪の中、毎日無数に咲いていた。幸運をもたらすこと、17世紀のオランダと変わりはない。

P47チューリップ

 (伏見文夫・絵) 
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花の文化史21 蒲公英

子供の頃、あの冠毛でふいに人の頭を叩き、「綿毛が耳の穴に入ると、耳が聞こえなくなるんだぞ!」と言いながら逃げていく男の子たちに、本気でふるえあがった。

蒲公英(たんぽぽ)の英名、ダンディライオンは、フランス語のダンドリオン(ライオンの歯)がなまったもので、ぎざぎざの葉がライオンの歯に似ているためだ。ダンディなライオンという意味ではない。「ダンディ」は、歯を意味する「デント」になるべきだった。すると、デントライオン……デンタライオン。あれ、どこかで聞いたような。

上から見た蒲公英は、葉の広がり具合と花の形が幾何学的で好ましい、と澁澤龍彦に書かれてしまうと、まさにその通りで、黙るしかない。あの葉をサラダやおひたしにする野草愛好家は多い。ほのかな苦みに、春になったうれしさを噛みしめるのだ。町田康は小説「夫婦茶碗」の中で天麩羅にしていた。これは季節を楽しむためというよりは、お金がないためにそういう仕儀になってしまったのだが。

けれども、町中の道ばたに生えているのは、どんなにおいしそうでも摘むのは躊躇してしまう。犬や猫のおしっこがかかっていたらどうしよう、と思うのだ。昔、フランスでは葉が利尿剤として使われたということが、そういう連想に繋がるのかもしれない。

かつて、あの小さな妖精のパラシュートのような種がふわふわと風に乗っていく光景に、胸が締めつけられた。同じ花から育っても、栄養の行き届いた運のいい種も、そうでない種もあるだろう。それに、ちゃんと地味(ちみ)のいいところに落ち着くだろうか。落ちたところが陽のあたらないところや、硬い石の上だったらどうしよう。

蒲公英の種は、教室で机を並べていた私だちだった。いつかちりぢりに飛び立って、それぞれの運を試すのだ。幸多かれと綿毛を見送る早春の風の中、私という種はきっとどじなことになる、と半ば確信していた私は、かなりいじけた子供だったらしい。

P45蒲公英

                  (伏見文夫・絵)  
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花の文化史20 ポピー

「咲いていよ
地の底であれ
罌粟(けし)の花 あおく あおく
おのが傷の むごさのほどに」
                                       (西垣通『刺客(テロリスト)の青い花』)

ポピーといえば愛らしく、虞美人草といえば妖艶、罌粟というと禍々しさと痛ましさがないまぜになったイメージを呼び覚ます。言うまでもなく、罌粟からは魔の薬とも、人類を苦痛から解放した偉大な薬ともなる阿片がとれる。

かれこれ30年前、ドイツの田園地帯に車を走らせていた。麦はまだ青くどこまでも波打ち、麦畑と道との境はおびただしいポピーによってまっ赤に縁取られていた。ポピーの赤は麦の海にも点在し、美しいと同時にただならぬ気配さえ漂わせて、あたりはポピーの大群生に覆われていた。

パーキングエリアで会った老夫婦も、そんな風景に見入っていた。太陽が傾き、光が赤らむと、平原に群れ咲くポピーはすきとおるように赤を浮き立たせ、この世のものとは思えないひとときが訪れた。すると、夫人がさも恐ろしいことを口にするように、言った。

「このあいだの戦争が終わる直前にも、ポピーが大発生したのです。こんなことはあの時以来」

ドイツが降伏したのは5月だった。ご亭主は心なし顔をこわばらせて麦畑に目を凝らしていたが、こちらを向き、私の目を覗き込むようにしてうなずいた。そしてまた、視線をもとに戻したその横顔に、この夫婦が戦争で負った重い何かを思った。

大発生はともかく、ヨーロッパの麦畑に赤いポピーはつきものだ。人びとは麦畑のポピーを抜かないらしい。それは、ローマ神話の眠りの神ソムヌスが、大地と穀物の女神ケレスに贈った花だからだろう。ポピーが大地を深く眠らせることで、次の年の豊かな収穫が約束される。大地母神ケレスの像は、小麦とポピーの花冠で飾られた。

豊饒の喜びと救済と破滅と。ポピーは重すぎる人間の業(ごう)をかそけき花弁に担って、今日もこの惑星を吹く風に揺れている。

P43ポピー

                     (伏見文夫・絵)
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花の文化史19 椿

巴黎茶花女遺事。日本語では「パリちゃかじょいじ」と読む。19世紀フランスの小デュマの小説「椿姫」の、百年前清末に現れた翻訳だ。林是(りんじょ)という文人が流麗な文語で紹介した。椿は中国語では茶花というのだ。だから、椿姫は「茶花女」。

物語は、椿姫とあだ名されるほど椿をこよなく愛した高級娼婦マルグリットは、「日本の薔薇」とも呼ばれたこのエキゾティックな花で装い、社交界の中心となっていた、と語る。当時は高価だった椿を遠方から毎日取り寄せるというのが、度肝を抜くゴージャスぶりだったのだ。けれども、椿が散り際に一抹の不吉なドラマを連想させることに、彼我の違いはないらしい。椿姫も、その美の絶頂で真の愛を知り、不治の病に散る。

散り際への関心でも、科学者だと意外な方向に向く。寺田寅彦は高校時代に漱石の句、

落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿かな

を、友人と徹夜で検討したことがあるという。つまり、椿は下向きに着地するか、と。この問題はずっと寺田の心の片隅に引っかかっていたようで、後年観察を重ねて、これぞという結論を得た。それを書き記す寺田の筆致は淡々としているが、その口元はかすかにほころんでいたのではないか。

それによると、椿の花は「うつ向きに落ち始めても空中で回転して仰向きにならうとするやうな傾向があるらしい」ので、木が高いほど仰向きの落ち椿が多く、回転する暇(ルビいとま)のない低い木の下には俯せの落花が多い。回転には花の形による空気抵抗、花の重心の位置などが影響するが、もしも虻が花の芯にしがみついていたら、「重心がいくらか移動し……反転作用を減ずる」のではないか、と寺田は推論している。科学用語がたくまざる愛嬌となった、おっとりと高雅な文章だ。

今年は椿を愛でるふりをして、樹高と落ち椿の向きの統計をとり、寺田説を検証してみようか。メモをすれば、一句浮かんだ図になるだろう。

P41椿


(伏見文夫・絵) 
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花の文化史17 菫

花を愛でるとき、私たちは奇妙に花から目を逸らしてきたらしい。暗闇にそこはかとなく漂う花の香りが、花の美そのものだったりした。「にほふ」という嗅覚にかかわる動詞が、あでやかな花の姿を表すまでに。花はまじまじと見つめるものではなかったのだ。
 
たとえば、芭蕉が菫を歌うとこうなった。
 
山路来て なにやらゆかし 菫草
 
テーマは、山道のほとりの菫か、それがゆかしく思われる山道のたたずまいか、あるいはそこをたどる旅人の心か。たぶん同時にそのどれでもあるだろう。このような含みのある表現に、私たちはなじんできた。余韻をたっとび、対象を描ききることを詩に要求しなかった。
 
ところが、たとえばモーツァルトが曲をつけているので有名なゲーテの「菫」では、「草はらに、小首かしげてひっそりと、愛らしく咲いてい」る菫の描写に始まって、娘がやってくるようすが語られる。「羊飼いの娘かろやかに、歌いながらやってきた」。そして娘に摘んでほしいという菫の思いや(「ほんのひととき、いちばんきれいな花になりたい、あの娘に摘まれて、あの胸にしなだれたいから」)、なのに踏みつけられ、マゾヒスティックな喜びのうちに死んでいく菫の心情が、「ああ」という感嘆符をちりばめて歌いあげられている。「それでも菫はうれしかった。『だって、あの娘のせいで死ぬのだもの。あの娘の足もとで』」ゲーテの菫はすこぶる人間臭い。
 
芭蕉は、山道で菫に心を惹かれて、それでおしまい。ゲーテの詩は、野に咲く菫を発端に、ひとつの物語を組み立てた。芭蕉の終りは、ゲーテの始まりなのだった。
 
花を見つめ、花そのものを語るという態度は、そう古いものではないのだ。手にした薔薇の蕾を凝視しながら、「おお、薔薇、汝病めり!」とつぶやく男を、佐藤春夫は「田園の憂鬱」に描いたが、ほんの80年前まで、そんなことをするのは神経を病んだ人間でなければならなかった。とくにそれが男ならば。


P37菫
                                    (伏見文夫・絵)
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花の文化史16 ヒアシンス

水面を球根の底部すれすれに保ち、根が伸びてきたら少し水位を下げる。すると、白い根が日に日にまあるい容器いっぱいに広がっていく。本来土の中で進行することが、白日の下で起こっている。しかも光の屈折で、根は実物より大きく見える。上方向にも、球根の先端を緑の芽が突き破り、にょきにょきと葉を伸ばし、そのあいだからさらに高く茎を伸ばして、ヒアシンスはついにはびっしりと花をつける。水栽培は、何度見てもやはり不思議な光景だ。
 
それは、教室のうしろにずらりと並んで、燦々(さんさん)と陽をあびているヒアシンスに目を瞠(みは)った驚きを、いまに甦らせてくれる。なかには、ひん曲がってとなりの花にちょっかいを出そうとするのや、どうしてもほかの花に後れをとるのもいたっけ。

16世紀、敵として恐れられ、またその洗練された文化が複雑なあこがれをいざなったオスマントルコから、この花はヨーロッパにやってきた。

「これがかの、アポロンと西風の神ゼピュロスに愛されたラケダイモンの美少年、ヒュアキントスが流した血から生えたという、伝説の花でございます。アポロンが、愛する少年の死を悼(いた)んで『AI(アイ)』と叫んだその声が、文字となって、ほら花びらに」
 
そんなでたらめなふれこみでこの花を皇帝に献上したのは、トルコ駐在大使だろうか、商人だろうか、あるいはオスマンの版図となっているギリシアへのヨーロッパ人の憧憬を見透かして、一杯食わせたトルコの外交官だろうか。ヒュアキントスが変身したのは飛燕草(ひえんそう)であって、ヒアシンスではない。トルコ伝来のさまざまな植物にギリシア神話由来の逸話をまとわせながら、ウィーンのトルコ熱は、モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ行進曲」にまで行き着く。
 
ヒアシンスの花は香水の原料になる。1キロの精油を採るには、その6000倍が必要という。無慮6トンのヒアシンス!


P35ヒヤシンス
                                   (伏見文夫・絵) このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote





花の文化史15 ラナンキュラス

ラナンキュラス。なんともバタ臭い響きの名前だ。その名のイメージどおり、花もぽってりと豊満に咲き誇る。色は……いわく言い難い。なにしろ、ない色がないほど、まさに色とりどりなのだから。なかには、二色に咲き分けるものもある。
 
じつに派手やかな花だが、16世紀にトルコからヨーロッパにもたらされたときには、一重のごくシンプルな花だった。それが17、8世紀にかけて改良に改良が重ねられ、当時の宮廷文化と華やかさを競い合うように、ラナンキュラスはより大きく華麗に色鮮やかに変化した。もはや、原形もとどめないほどに。いまでは、直径が10センチ以上もある、巨大な万重咲きの豪華な園芸種もあるという。
 
それでも、名前だけは変わらずにラナンキュラス。学名はこれにアシアティウスがついて、ラヌンクルス・アシアティウス、「アジアの小さな蛙」というほどの意味だ。1世紀のローマの博物学者、大プリニウスの命名だという。プリニウスが見たのが、蛙のいるような水辺を好む種類だったからとされている。
 
英名はペールジャン・バタカップ、「ペルシア金鳳花(゙きんぽうげ)」だが、またの名はクロウフット、「鴉の足」だ。そういえば、日本では金鳳花の別名にうまのあしがたというのがあって、ラナンキュラスもそう呼ばれることがある。いずれも、葉の形があだとなって、このような優雅ならざる命名を誘った。いずれも花の姿には似つかわしくないひなびたニュアンスの、動物にちなんだ名前だ。
 
ところが、動物はこの花を食べない。フランスの言い伝えによると、人間が誤って食べると、ぶざまに笑い死にするという。では動物も、笑いが止まらなくなるので食べないのだろうか。動物が笑う? そんな馬鹿な。真相は、とても辛いからだ。もっとも、食べたことはないが。
 
とにかく陽気な花だ。花そのものが、あけっぴろげに笑っている。


P33ラナンキュラス
                                   (伏見文夫・絵)

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花の文化史14 スノードロップ

積もった雪にそこだけ柔らかな穴が小さく開き、すっと伸びた茎から白い蕾がうつむいて、まわりの雪の色に溶け込んでいる。

待雪草。松雪草とも書くこの名前、きれいだが、明治の初めに渡来した花の名にしては、いまだに熟していない憾(うら)みがある。英名のスノードロップは、花びらが、雪からしたたる滴を連想させることからついた名だと思い込んでいた。それが、違った。ドロップとは、耳飾りのことなのだった。耳朶から下がる、滴のような耳飾り。
 
この楚々(そそ)とした春告草(はるつげぐさ)は、ヨーロッパでは純潔の象徴、さらには聖母マリアの花とされた。春を先取りする聖母の祭りの日、マリアの像はにぎにぎしく町を練り歩く。先頭を楽隊が行き、正装に威儀を正した市長、市参事団、そして白い割烹着(かっぽうぎ)のような制服をつけた少年たちが続く。僧らはつづれ織りの旗を掲げ持ち、司祭は大きな帽子も重そうに、香炉を左右に振る。その後ろを屈強の男たちに担がれて、飾り立てられた神輿(みこし)が進む。その上から、マリア像は沿道の信徒に祝福を与える。まわりを取り囲む、おびただしい蝋燭(ろうそく)の炎の海。
 
そのあいだ、いつもは聖母像が安置してある祭壇はがらんどうだ。そこで身代わりに、この花が飾られた。祭りの興奮から忘れ去られた礼拝堂の留守をひっそりと守るのは、この日のために修道院で育てられたスノードロップなのだった。
 
この無垢(むく)の花、罪作りなことをしてしまったこともあるのではないか。スコットランドから縁あってイングランドに嫁いできた嫁が、ふるさとでは幸運をもたらすとされているスノードロップを部屋に飾った。ところがこの花、イングランドでは忌み嫌われている。清らかすぎる白い花はまた、死をも暗示してしまうのだ。姑(しゅうとめ)は、そんな不吉な花を家に持ち込むなんて、と気分を損ねて……痛ましい思いをした女たちのドラマに、つい想像をたくましくしてしまった。

P31スノードロップ
                                            (伏見文夫・絵)

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花の文化史13 白椿

その八百比丘尼(やおびくに)と名乗る旅の女は、自分は齢(よわい)何百歳にもなると語った。禁断の人魚の肉を食べたため、八百までの寿命をさずかったのだという。しかし、抜けるように白く美しいかんばせは、どう見ても15か6にしか見えない。半信半疑の村人たちに、女は、平家一門の栄耀栄華とあわれなその末路を、その目で見たこととして物語った。北国街道を下ってくる、山伏に身をやつした義経や弁慶の一行に出合った日のことを、まるで昨日のことのように語った。

そのあまりの迫真力に、話をすっかり信じた村人たちは、女を手厚くもてなし、病人の枕元に案内して加持祈祷してくれるよう頼み、あるいは今年の作柄や虫害、漁の首尾や天候をたずねなどした。女は、村に入ったときから手にしていた一枝の椿を、海辺の土に挿し、その根づきぐあい、花の咲きぐあいからそれらはわかろう、と言い置いて、村を去った。

春の木と書く椿は、冬のさなかにもつやつやと深緑の葉を茂らせている。その葉叢がたまさかの冬の陽射しに照り映えると、そこだけ春が来かのようで、なんとも心強い。葉のあいだに花がのぞいていたりすると、寒さにこわばっていた気持ちがほろほろとほぐれていくような気がする。季節の再生を女の霊力に託したいにしえの人びとが、椿をその象徴に選んだ思いが胸にしみる光景だ。

八百比丘尼が椿を植えていった場所は聖域とされた。みだりにそこの椿を折ると、たたりで嵐が起こると恐れられ、近づくことすらはばかられた。そんな椿山が、椿山明神を祭りなどして、東北の海岸に点々と繁茂している。伝説の八百比丘尼が、あるいは八百比丘尼と称した漂泊の巫女たちが歩いたあとだ。雪国の椿は、さすらいの女たちの聖なる祈りとしたたかさをないまぜに、雪の重みと海から吹きつける寒風に耐えている。

八百比丘尼が持ち歩いたのは、白い椿だったそうだ。
P25白椿
(伏見文夫・絵)
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花の文化史12 松

ずっと不思議に思ってきたことがある。城の石垣や白壁に影を落とす松の姿だ。それは、私たちの感性にすっかりおなじみになっていて、各地の見るべきほどの城や城址には、かならずと言っていいほど松の老木がみごとな枝をひろげている。荒城の月は、「千代の松が枝分け出」るのだ。

けれども、城をいくさの拠点と見たとき、そこに松を植えるのは危険すぎるのではないだろうか。なにしろ、松明(たいまつ)という言葉が示すように、松は燃えやすいのだ。樹脂をふんだんに含み、あかあかと燃える。空気が乾燥した冬場に油火矢(あぶらひや)など射かけられたら、ひとたまりもなく炎上するだろうに。松の中には、山火事に遭うとはじめて松ぼっくりが芽吹く性質のものもある。この種類の松は、いつかは燃えることを前提に、代替わりを用意しているのだ。

つまり、日本の城はいくさを考えていなかった、あるいはいつしか忘れ果ててしまったのだ。いくさびとというよりは、むしろ儒教思想に根ざす教養人だった武士たちは、変わらぬ忠誠の象徴として、「つゐにもみぢぬ松」を主君の城のまわりにせっせと植えた。そこに生まれた景観が私たちの美意識を育んだ泰平の300年の幸せを思う。それが、激動の20世紀を経たはずの今、泰平というよりも、

文字どほり雲ひとつなし議事堂の空のヘイセイ世紀末の松(仙波龍英『墓地裏の花屋抄』1992年刊所収)

というわけだ。これは、実景だとすれば、二重橋あたりの広場の松越しに、ちょこんと頭だけ出している議事堂の風景だろう。議事堂前庭にはさまざまな樹木がうっそうと茂っているが、意外なことに松はとんと見あたらない。

異端の歌人は、この歌の末尾に小さな文字で(……鶴亀、鶴亀)と書き添えている。このあっけらかんとした鬱屈をいかにせん。
P29松2
(伏見文夫・絵)
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花の文化史11 カトレア

今はどうなのか、かつて東京のあるデパートの包み紙が、白地に赤いカトレアの花を浮き上がらせていた。デパートが消費の殿堂として輝いていた時代、その花の姿は神々しく見えた。それが今や、カトレアは私たちの生活にすっかり溶け込み、ごくふつうに花屋さんの店先に見られるようになって久しい。

19世紀の初め、イギリス人がブラジルで、樹上に寄生して咲いているカトレアを見つけた。持ち帰り、育てること六年、1824年にようやく、蘭の女王、カトレアに初めての花が咲いた。寒いイギリスでそれを可能にしたのは、産業革命。大きな板ガラスが大量に生産され、性能のいい温室を作れるようになったからだ。

古来、ヨーロッパの緯度の高い地域では、南国へのあこがれを植物に託した。王侯貴族の宮殿にはオランジェリー、つまりオレンジ宮と呼ばれる温室がつきもので、異国の草木が生い茂っていたものだ。そのあこがれを近代に受け継いだのが、ひとつにはカトレアをはじめとする蘭への情熱だった。大英帝国では、海を越えて新種の蘭の株を捜すことが職業としてなりたち、彼らはオーキッド・ハンター、「蘭の狩人」と呼ばれた。1200種もの新種を発見した雄もいる。

狩人が原種をもたらすと、こんどは園芸家が、温室で品種改良に取り組んだ。その熱狂ぶりは、17世紀のチューリップ熱をはるかにしのぐものだったという。それはそうだろう。熱狂を担う階層の厚さも、社会全体の富の規模も違っていた。すべては、産業革命の前と後の違いだ。

大きくて強いガラスとともに、鋳鉄が出現した。十九世紀後半になると、それらを組み合わせた巨大建造物が現れる。その嚆矢が、1851年に世界で初めて開かれたロンドン万博の目玉、水晶宮(クリスタル・パレス)だ。その屋根がアーチ型だったのは、結露が落ちないように配慮した、温室の構造をなぞったらかだ。このデザインは、その後、駅舎やデパートのガラス天井にひきつがれていく。カトレアは、どこかでデパートとつながっている。そう、どちらも近代の豊かさの象徴だったのだ。
P19カトレア
(伏見文夫・絵)
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花の文化史10 クリスマスローズ

クリスマスカードに、ぎざぎざの葉っぱとともに白っぽい蕾か赤い花が描かれていたら、この花だと思って間違いない。学名はヘレボルス・ニゲル、「仔鹿の黒い食べ物」、あるいは「殺す黒い食べ物」という意味だ。「クリスマスの薔薇」という格調高い、またどこか甘やかな通り名とはかけ離れた名前だが、その昔、クリスマスローズはその花ではなくて、根が注目された。そして、クリスマスローズの根は黒い。

その黒い根に魔力があるとされた。それはギリシアの昔から、狂気に効く霊薬だった。あるいは霊感をさずける妙薬として、劇作家や哲学者が愛用した。ギリシア悲劇は毎年一挙に新作が発表され、投票で優劣があらそわれる競技そのものだったから、劇作家たちは案を練るのに、この根に頼った。哲学者たちも、頭脳を駆使した論争で勝たないことには仕事にならない。いずれの場合も、ドーピングは不問に付されたということだ。

17世紀ごろまでのイギリスでは、この根を取るのに、魔術の作法が定められていた。なんでも、そのまわりに剣で円を描き、呪文を唱えながら引き抜くのだという。しかも、そうやって引き抜いているところを鷲に見られたら死ぬともいわれたので、空にも目配りが必要だった。

アダムとイブがエデンの園を追われたとき、この花を持っていった、という言い伝えもある。あるいはまた、幼子イエスへの捧げものを購えない貧しい羊飼いの娘のために、天使が咲かせたとも。それらのややセンチメンタルな伝承は、クリスマスの季節に純白の蕾をつけるこの花に、いかにもふさわしい。ささやかな花が、ギリシアとキリスト教、ふたつの大いなる文明から重すぎる意味づけをされている。

だが、そんなことよりも、花が白からだんだんと褐色がかった紅に染まっていく風情がなんとも奥床しい。渡来した花なのに、そのつましいたたずまいは、日本の庭の片隅にしっくりとなじんでいる。
P27クリスマスローズ
(伏見文夫・絵)
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花の文化史9 石蕗

漢字で書いた文字面(もじづら)がいい。「つわぶき」と、口にしたときの音がいい。

庭木の下や庭石のほとりに、雪をのせてもつやつやと濃緑の、まあるい葉をさしのべる石蕗の親しげなたたずまいは、まるで親戚のおばさんのようになつかしい。

茨城の磯原の砂浜に、天妃山(てんぴさん)という小さな山がぽこんとそびえている。山全体が弟橘媛(おとたちばなひめ)神社の境内で、黒っぽいそなれの松や、そのほか潮風に幹を白々と晒された大木が、まるで渚から湧き上がるように密集し、からみあって繁茂している。

天妃はまたの名を媽祖(まそ)、中国大陸からやってきた、海の安全を守る女神だ。弟橘媛も、身を挺して日本武尊(やまとたけるのみこと)の船を嵐から救った。神の名前はどうでも、この小さな山はいにしえより海の男の信仰を集めてきた。寄進者に野口姓が多いのは、童謡作家、野口有情の生家が程近いからだろう。

実際に、この山は海の男にとって頼り甲斐のある山なのだ。はるか沖合いからも、いい目印になるためだ。境内の木を伐ることを禁じた昔の人の知恵を思う。木が倒されて目印の姿が変わったのでは、その用をなさない。各地の漁港のそばには、日和山(ひよりやま)と呼ばれる小山があって、海の神を祀っているが、天妃山もまた、水戸藩一の大津漁港を出入りする船を、ずっと見守ってきたのだ。

その天妃山は、秋ともなると石蕗の花に埋めつくされる。小暗い山の地面が、びっしりと石蕗に覆われているからだ。春にぐんぐん伸びた太い茎の先に、黄色い花がまばらな房となって咲く。葉によっては、一面にくねくねと白っぽい線が描かれているのは、蝸牛(かたつむり)の這ったあとだと、土地の方はおっしゃった。潮風にもめっぽう強い石蕗は、蝸牛には弱いらしい。そこそこ趣のあるいたずら書きは、すべて一筆書きだった。

その茎を春に煮たという佃煮をいただいた。ゆかしい香りが口いっぱいに広がった。
P23石蕗
(伏見文夫・絵)
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花の文化史8 水仙

美少年ナルキッソスは、どんなに娘たちから言い寄られても、けっして心を動かさなかった。

女神ネメシスは、そんなナルキッソスに腹を立てた。それは、ネメシスが大地母神の掟を神々や人間たちに守らせることを職掌としていたからであり、ナルキッソスのつれなさは、まさにその掟をないがしろにするものだったからだ。太古、男が女の誘いを断るなど、おこがましいことだった。据え膳食わぬは大罪だったのだ。

ネメシスの怒りに触れたナルキッソスは、水仙に変えられた。それは、真ん中にあるカップのような部分が紅の縁取りもあざやかな、白い水仙だったというが、黄色い水仙には別の伝説がある。ペルセフォネに思いを寄せる冥界の神ハデスが、眠っていたこの美少女に触れたため、彼女の冠の白い水仙が黄色く変わったというのだ。大きな濃紺の水仙にまつわる伝承も、ペルセフォネが冥界に嫁いだことと関係している。それによると、ハデスの恋に同情したゼウスが、この異様に美しい花で少女をおびき寄せたという。

ペルセフォネは、ハデスの願いを容れて、一年の半分だけ、冥界に女王として君臨することになる。そのいきさつはどうあれ、いずれにしてもその発端には水仙の花が咲いていた。

それは、水仙は春にも咲くが、晩秋から早春にかけて、つまり冬に咲くからではないか。冬は、ペルセフォネが冥界の夫ハデスのもとで過ごす季節だ。水仙は、冥界つまり地下世界にいるペルセフォネの、せめて消息なりと地上に伝えようと、冬枯れた大地を破って咲くと考えられたのではないか。

ペルセフォネは、大地母神デメテルの娘である。娘が地上に帰ってくると、デメテルは娘とともに高らかに哄笑しながら、森を駆け抜ける。すると、木々はいっせいに花開き、鳥は卵を孵し、けものは仔を産む。その春を待つあいだ、水仙は寒風にゆれている。
P21水仙
(伏見文夫・絵) 
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花の文化史7 浜菊

「これから、浜菊を見に行くんです」

近所の大地主さんに言った。

「それならうちの庭にあるよ」

まだ見ぬ浜菊をなんとしても見なければ、と時間をやりくりした取材行なのに、まさに出鼻をくじかれた恰好だ。内心の動揺を隠し、1本手折ってくださったのをありがたくちょうだいした。いかにも菊らしい葉っぱの裏と縁は白。可憐な白い花が、いくつか寄りかたまって咲いている。

それでも、今更めげてはいられない。東京から北へ三時間ほど高速道路を飛ばし、着いたところは磯原。とにかく海辺に咲く浜菊を捜そうと、茜色の夕空の下、砂浜沿いの家並みを歩いていった。枸杞(くこ)の茂みが薄紫の小さな花と、色も形も滴る血のような実をつけているが、どこまで行っても浜菊は見あたらない。と思ったら、末枯(すが)れた小さな菜園の入り口に、大きな白い花を盛大につけてこんもりと茂っている一株を見つけた。海辺では、都会の庭と違ってこんなに大きな花をつけるのかと感嘆し、折ると、小枝のような茎はぽきんと音をたてた。民宿の女将に見ていただくと、「今年、高萩からもらってきた浜菊は、そういうんじゃないけど」

庭の隅を見せてくださる。大地主さんの庭にあったのとよく似た菊が、小さな蕾をいっぱいつけて、咲く日を待っていた。いま折ってきたのは、葉っぱに小さなぎざぎざはあるものの、全体にぼってりとしていて、へらのようだし、裏は白くなく、なにより花がマーガレットのようだ。いっぺんに心許なくなった。

翌日、五浦(いづら)に足を伸ばし、岡倉天心が建てた朱塗りの六角堂から海を隔てた断崖に、真っ白い帯を見た。案内の方に聞くと、群生する浜菊と言う。花は小さいのか大きいのか、遠くてわからなかった。

帰ってきたら、なんと浜菊がスーパーで売られていた。1株200円。マーガレットのような花だった。そして、図鑑で知ったのである。小さな花の方は、小浜菊と言うのだと。
P17浜菊
(伏見文夫・絵)
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花の文化史6 山茶花

3歳500万特指混合馬齢芝1400。

わかる人にはわかるが、わからない人にはさっぱりわからない。これは、「さざんか賞」というレースのデータだ。初冬に阪神競馬場で行われるレースだが、これに限らず、山茶花には西日本のイメージがつきまとう。この花、東北には珍しく、北海道ではめったに咲かない。

山茶花を 旅人に見する 伏見かな

この句をひねった井原西鶴も京阪の人だ。冬のこととて、遠路はるばる来た人に見せる花と言えば、山茶花しかなかったのだろう。吹き始めた寒風にまだなじまない体がこわばる。そんな季節、花びらの縁をわずかに縮らせた山茶花は、やさしく人をなごませる。

「さざんか」は、もとは漢字をそのまま読んだ「さんさか」だったという。言いにくかったので、いつとはなしに「さざんか」。漢字を思い浮かべながら見ると、なるほど、お茶の花に似ている。山茶花はラテン語でカメリア・ササンクワ。つまりは、椿の仲間で、日本の固有種なのだ。椿と違って、山茶花は花びらが一枚ずつはらはらと散る。

さざんかさざんか、咲いた道
焚き火だ焚き火だ、落ち葉焚き

この山茶花は、生け垣に咲き、地べたには、気の早い花びらが点々と散り敷いていたことだろう。でも、こんな風景にもなかなかお目にかからなくなった。なんでもかんでも、燃やせばダイオキシンが出るものと信じて疑わない人が増えているらしいのと、行き交う車があぶなっかしくて、道ばたで焚き火などしていられないからだ。それに、アスファルトの上の焚き火はあとが汚い。土の上だとそうではないから不思議だ。

なんともきゅうくつな時代になったものだ。社会が豊かになり、栄養や清潔さがいきわたって、子供たちの手に霜焼けができなくなったのは喜ばしいが、私たちはそれとひき換えに、こういうおっとりとした時間や空間を記憶の底に沈めなければならなかったのだ。
P15山茶花



(伏見文夫・絵)
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花の文化史5 萩

南フランスに、オートリーヴという小さな村がある。どんな小さな村にも、手紙を待っている人たちがいて、郵便配達人がいる。しかし、なにしろ小さな村だ。配達はあっと言うまに終わり、配達人には、毎日たっぷりと暇がある。

この村のシュヴァルという配達人は、1879年のある日、空っぽになった郵便カバンに、なにげなく道ばたの石ころを入れた。また一つ。そしてまた一つ。そんな日が続いたかと思うと、こんどは村はずれで、一人セメントをこねている彼の姿が見られるようになった。

それから33年後、そこには摩訶不思議な「城」がそびえていた。これが、郵便屋シュヴァルがたった一人で、乏しい知識を豊かすぎる想像力でふくらました「理想宮」だ。高さ11メートル、横幅26メートル。イスラム風の一角のとなりはギリシア風、そしてケルト風、ローマ風。どれもコンクリで石をつなぎ合わせた、稚拙な素人細工だ。ときにはかがまなければ通れないほど天井の低い、迷路のような幻想建築は、正面にのっぽの神像(のつもりらしい)を何体も配して、南仏の陽光の下、うつらうつらと白昼の夢を見ている。物好きな観光客につれられた子どもたちが嬉々として走り回り、セメントがちょっとばかり崩れようが、おかまいなしだ。

小さな村の郵便配達人は、同じようなことをするらしい。紀州の山奥の村の郵便配達人あさちゃんは、毎日、配達を終えると、自宅のまわりから始まって、せっせと萩を植えた。こちらもやはり、何十年もの間。そして定年退職を待って、民宿を始めた。熊野古道の道筋にあたるその近露王子(ちかつゆおうじ)という集落では、季節ともなると、どちらを向いても、まるで地から湧き出た小型の打ち上げ花火のように、萩がこんもりと枝をしならせ、白や小豆(あずき)色の小さな花を惜しげもなくこぼして、地べたをおおいつくす。

その萩の宿の、時代づいた縁側で、谷をはさんだ雄大な稜線の上に出る月を待ちながら酒を飲む。それが格別なのである。
P13萩

(伏見文夫・絵) 
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花の文化史4 桔梗

桔梗水(ききょうみず)ということばがある。あるいは、あった。東北の太平洋側で、漁師が黒潮をそう呼んだ。板子一枚で沖に漕ぎ出して、はるか水平線までを埋め尽くして滔々と流れる濃紺のうねりに遭遇し、大漁の予感に武者震いする。桔梗水とは、なんと心躍りのすることばだろう。そして、雄渾な黒潮と可憐な花を、色という一点でつなげる想像力の底知れないほどの意外さに、心を耕される思いだ。

桔梗は、大昔から人の暮らしによりそって、つつましく咲いてきた。その根は食料となり、飢饉の時には民を救った。しかし、よく水にさらさないと、微量に含まれるサポニンが、体力の衰えた老人や子どもを苦しめた。

毒性があるということは、薬ともなったということだ。風邪をひいたり、怪我をしたりすると、干した桔梗の根は、ほかの生薬とともに薬缶に投じられ、ぐつぐつと煎じられた。

そんな桔梗を、人びとは親しみをこめて五弁の花を皿にかたどり、紋所とした。また、きれいな端切れでかわいい巾着を作り、桔梗袋と呼んで、少女に持たせた。この袋は底が五角だったのだ。

桔梗への親愛の情は、日本列島に限ったことではない。朝鮮半島では桔梗はトラジ。そう、心浮き立つあの「トラジ打令(タリヨン)」は、つれだって野山に分け入り、桔梗をさがす女たちのよろこびを歌ったものだ。そのよろこびは、「エーヘイヨー、エーヘイヨー、肝の臓もとろけるほどだよ」。

トラジは白い花をつける。女たちはその根を掘った。食べるために。桔梗水といい、桔梗は食べることのよろこびと直結したところで、東アジアの風に揺れていた。チョゴリの袖にかかえられた竹籠には、その根だけでなく、白い釣り鐘型の花もまた揺れていたことだろう。

「トラジ、トラジ、真白のトラジ
深山の奥の、真白のトラジ
二株掘れば、竹の手籠にどっさり」
P11桔梗

(伏見文夫・絵) 
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花の文化史3 月見草

いま、月見草と呼ばれている花は黄色い。けれども、ほんとうは月見草は白いのだという。黄色い花を咲かせるのは、正しくは待宵草。幕末の嘉永年間に、どちらもあいついで太平洋のかなたからやってきた。

富士によく似合う、という太宰治のあまりにも説得的な決め文句によって、「黄色い月見草」はこのくにの風土に、富士山と同じ悠久の昔からしっかりと根づいているような顔をしているが、なんのことはない、ほんの150年ほど前にお目見えした新参者だったのだ。そうやって、風光は変わっていく。そして、私たちの感性も、つねに新しいものを取り込んで変わっていく。

白い月見草は、大正時代には黄色い待宵草に駆逐されてしまった。いまでは幻の花だ。一方、黄色い待宵草は、浜辺に河原に山の中に、たくましく野生化した。竹久夢二が「待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ」と歌ったのは、1912年だから、この花もすでに黄色かったはずだ。

けれども、夢二はなぜ待宵草ではなく、宵待草としたのか。

思いつくのは、長唄「明けの鐘」だ。宵は宵でさんざん待ったのに、明けの鐘が鳴ると、恋人はもう帰らなければならない。はかない逢瀬を恨む女心をしんみりと歌いあげたこの曲は、またの名を「宵は待ち」。夢二の「宵待草」の底には、この長唄の記憶が流れているのではないか。長唄では、恋人は来るには来る。けれども、夢二の歌では、恋人はいつまでも来ない。やるせなさもいっそう募ろうというものだ。これは、もと歌を暗示することによって情感をさらに深める、本歌取りという伝統的な技巧そのものだ。

ところで、富士を背景に、夕暮れの薄暗闇に浮き上がるのが、もしも黄色ではなく白い花だとしたら、そこはいっぺんに墨絵の世界になるだろう。そう思ったら、薄墨を流したような富士の裾野の荒蕪地にさやぐ無数の白い花を見てみたくて、矢も盾もたまらなくなってきた。
P09月見草


(伏見文夫・絵) 
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花の文化史2 薊

「春は菜の花、秋には桔梗、そしてあたしはいつも夜咲く薊」

中島みゆきは歌うけれど(「アザミ嬢のララバイ」)、冠をいただいた丸っこい頭のような薊の花は、日暮れとともに閉じる。薊は、歌のなかでのみ夜に咲く。

「薊の花も一盛(ひとさか)り」と諺にあるように、薊の花はやさしげでもはなやかでもない。とげとげしい葉が茂りに茂ったなかから傲然と伸びあがる、むしろかわいげのない花だ。色ばかりは紅から濃紫と、あいにく花らしいので、かえって戸惑う。

さらに薊のイメージを悪くしているのが、歌舞伎の「十六夜清心(いざよいせいしん)」だろう。なにしろ、心中くずれの僧、清心が名乗るのが、鬼薊清吉なのだから。彼は悪事の限りをつくして、無惨な死を選ぶ。

ドイツの俗信でも、薊はろくなことを言われていない。殺人現場や自殺者の墓に咲く。墓に生えると、そこに眠る死者が呪われている証だ。しかし、嫌われ者はもっと強力な嫌われ者にも嫌われる、との発想が、薊に魔女退散や呪い除けの役を振ることになる。

その最たるものが、十世紀半ばのスコットランドの故事だ。攻め込んだデーン人の斥候が薊を踏みつけた。彼はギャッと叫び、奇襲は失敗。ということは、かつて兵士は裸足同然だったのだ。このことがあってから、スコットランド王家は薊を紋章にかかげた。嫌われ者を救国の花とした、スコットランドという国のきびしい歴史がしのばれる。

この国の悲劇の女王、メアリ・スチュワートはイングランドのエリザベス女王と対立し、たたきのめされた。思いなしか、薊の花は、冠をいただいた美しい首のように見える。重たげにうつむく薊は、過酷な運命を粛々とうけいれて、うなじに何度も打ち落とされる斧によって殺されたメアリの悲しみを、いまに語り伝えるかのようだ。
P07薊

(伏見文夫・絵)
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花の文化史1 オールドローズ

2000年の10月から、毎日新聞日曜版で1年間、連載をしました。テーマは花。伏見文夫さんの絵に添える短いエッセイがほしいとのこと。それまでさして関心のなかった分野です。少し考える時間をいただきました。すると、記憶の闇からたくさんの花々が浮かび上がってきました。花々がつぎつぎに生まれてくるその闇をのぞきこんだ時、それは私自身の記憶の底をつきぬけていることを知りました。人間が花に思いを寄せてきた、太古に至る過去からの、豊饒な風を感じたのです。私の感性とは、私が独自にかたちづくったものではない、膨大ないのちの記憶がかすかな声でささやきあう場なのだ、と知った瞬間でした。

今までは意識すらしていなかったそのかそけき声に、この機会に耳を傾けてみよう。そう思って、連載をお引き受けしました。連載を振り返ると、私は短いエッセイに遠い過去の人びと、つまり膨大な死者への思いだけでなく、身近な死者への手向けのことばをそこここに忍びこませていました。

西からの東海道新幹線が終点に近づき、もうすぐ新橋を通過する時、その左側にスピードを落とした車窓から、線路沿いのビルの列に1軒だけ、ちいさな木造の建物が見えます。「おふくろの味 炉端」というおおきな看板だけはよく目立ちます。古い梁もみごとな天井をあおぎながら2階、3階と上がっていくと、顔見知りの画家さんたちの絵がびっしりと飾られていて、個展のオープニングなどさまざまな催しの打ち上げなどでこの店でくり広げられた、酒の席の数々の武勇談が思い出されます。

連載が終わり、1冊の本になった時(『花ものがたり』毎日新聞出版局)、私はその1冊を携えて、久しぶりにお店の引き戸を開けました。そして、和服に前垂れ姿のご亭主に、第1回「オールドローズ」のページを開いてお渡ししました。しばしページに目を落としていたご亭主は、目を上げて、にこっと笑いました。その文章は、連載が始まった年の5月に自死された井上大輔さんのことを思いながら書いたのです。井上さんは、60年代後半、グループサウンズのブルーコメッツでフルートとヴォーカルを担当していた方です。ご亭主は井上さんのお兄さん、そのやさしい瞳は弟さんそっくりでした。


☆☆☆☆☆


「オールドローズ」


女の子は名前をレンヒェンといった。男の子は「めっけ鳥」といった。二人は人食い婆に追いかけられながら、こんなやりとりをする。口火を切るのは、レンヒェンだ。

「あんたがあたしを捨てなけりゃ、あたしもあんたを捨てやしない」

「そんなことしないさ、いつまでも」

「あんたは薔薇の木になって。あたしはそのてっぺんで薔薇の花になる」

グリムの「めっけ鳥」というメルヒェンの一節だ。いわゆる魔法逃竄譚(とうざんたん)、ギリシアの昔から世界じゅうに知られている、神話や昔話のモティーフで、主人公は変身したり、背後に物を投げて山や川を出現させながら、一瀉千里(いっしゃせんり)に逃げる。イザナギが黄泉(よみ)の国から逃げ帰るときも、この手を使った。

「スブ・ロサ」、ラテン語の「秘めごと」ということばには、薔薇の花が咲いている。「ロサ」は薔薇のこと、「スプ・ロサ」は「薔薇のもとで」というのがもとの意味だ。薔薇は、西方では世界の象徴だった。すべてを暗示するものは、容易にひっくり返って、すべてを秘めるものになる。薔薇は惜しげもなく開きながら、大いなる秘密という意味を帯びるのだ。

グリムの「いばら姫」では、姫を百年の眠りから目ざめさせる王子がやってくると、城をとりまく茨の垣根に、いっせいに薔薇の花が咲いた。ところで、花はそれまでにも毎年咲いていたのだろうか。おそらくは咲かなかった。メルヒェンでは、語られないことは起きなかったこと。薔薇は百年目に初めて咲いたとするのが、メルヒェンの暗黙の了解だ。

城の塔も見えないほど高く生い茂ったいばらの垣根に、べた一面、薔薇が咲く。それも一挙に。息をのむほど美しい光景だ。眠りの森は、馥郁(ふくいく)とした薔薇の香りにむせかえったことだろう。もうお気づきだろうか、30年前ブルーコメッツは、「ブルーシャトー」に眠り姫の物語を歌ったのだ。

P05オールドローズ(伏見文夫・絵)


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「引き返す道はもうないのだから」表紙180


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