今回の選挙結果を受けて、ある新聞社から電話がかかりました。
「谷亮子さんの当選をどう思うか、コメントせよ」
ふたつの理由で、コメントはご勘弁願いました。ひとつ目は、谷さんの政策を知らないということ、ふたつ目は、第一線で活躍する柔道選手の状況を知らない、ということでした。
じつはもうひとつ、電話取材に消極的になる理由がありました。03年の衆議院選挙で、社民党がおおきく後退し、党首の土井たか子さんも落選しましたが、それを含めて選挙結果についてどう思うか、ある新聞社から電話がかかったのは、選挙当日の深夜でした。思うままに答えたなかに、このような件(くだり)がありました。
「『だめなものはだめ』はだめなのか、ショックだ。私は深刻に受けとめている」
翌日の朝刊、その部分はこう書かれていました。
「『だめなものはだめ』はだめなのだ」
電話をかけてきた記者さんは、常からおつきあいがあり、私がどのような考えをもっているか、知らないはずはありませんでした。けれど、紙面に載ったコメントは、私が言わんとしたこととはまるきり逆の意味になっていました。あたかも、社民党の敗退を高飛車にあざ笑うようなニュアンスを帯びていたのです。これでは、土井さんに申し訳が立たない。それこそショックでした。
それからいくらもしないうちに、出席したあるパーティに、土井さんのお姿がありました。謝るには今しかない。私は意を決して土井さんに近づき、いきさつをお話ししました。膝はがくがく震えていました。「今後一切、電話取材には応じませんので、どうかお許しください。ほんとうに申し訳ありませんでした」と申し上げると、土井さんは、あの声量豊かな明るい声で、こうおっしゃったのです。「そんなこと言わないで。あなたはこれからも元気に活躍してください。私はなーんとも思っていませんよ」その度量のおおきさ、あたたかさに、私は人目はばからず不覚の涙をこぼしてしまいました。謝って泣いたのは、これが初めてです。
ついでに言うと、泣いて謝る人を、私は信用しません。それは、謝る自分への憐憫ないし感動の涙だと思うからです。
前にも書いたかと思いますが、取材とはよく言ったものです。なにしろ、材を取る、ですから。取ってきた材料をどう料理するかは、取材者の裁量です。取材源はまな板の鯉というわけで、その程度の覚悟はあります。なるべく記事の自分の部分だけは事前に見せていただくようにはしていますが、最終的には記者さんにお任せするしかないとは、よく理解しているつもりです。それで、こちらの言わんとすることが十全に伝わるかどうか覚束ない電話取材には、どうしても慎重になってしまいます。
なのに、雑誌の記者さんのなかには、お会いしたこともないのに、「小一時間、電話取材に応じてほしい」と申し込んでくる方がおられます。そんな手抜きをしてどうする、と思います。お互い、ちょっとたいへんでも、やはりどこかで落ち合ってじかにお会いし、目と目を見合わせてしっかり話を聞いていただかないと、と思うわたしは、めんどくさい、古い人間です。でも、そうやって時間をかけた分、記者さんに損はないと思うのですが。
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「谷亮子さんの当選をどう思うか、コメントせよ」
ふたつの理由で、コメントはご勘弁願いました。ひとつ目は、谷さんの政策を知らないということ、ふたつ目は、第一線で活躍する柔道選手の状況を知らない、ということでした。
じつはもうひとつ、電話取材に消極的になる理由がありました。03年の衆議院選挙で、社民党がおおきく後退し、党首の土井たか子さんも落選しましたが、それを含めて選挙結果についてどう思うか、ある新聞社から電話がかかったのは、選挙当日の深夜でした。思うままに答えたなかに、このような件(くだり)がありました。
「『だめなものはだめ』はだめなのか、ショックだ。私は深刻に受けとめている」
翌日の朝刊、その部分はこう書かれていました。
「『だめなものはだめ』はだめなのだ」
電話をかけてきた記者さんは、常からおつきあいがあり、私がどのような考えをもっているか、知らないはずはありませんでした。けれど、紙面に載ったコメントは、私が言わんとしたこととはまるきり逆の意味になっていました。あたかも、社民党の敗退を高飛車にあざ笑うようなニュアンスを帯びていたのです。これでは、土井さんに申し訳が立たない。それこそショックでした。
それからいくらもしないうちに、出席したあるパーティに、土井さんのお姿がありました。謝るには今しかない。私は意を決して土井さんに近づき、いきさつをお話ししました。膝はがくがく震えていました。「今後一切、電話取材には応じませんので、どうかお許しください。ほんとうに申し訳ありませんでした」と申し上げると、土井さんは、あの声量豊かな明るい声で、こうおっしゃったのです。「そんなこと言わないで。あなたはこれからも元気に活躍してください。私はなーんとも思っていませんよ」その度量のおおきさ、あたたかさに、私は人目はばからず不覚の涙をこぼしてしまいました。謝って泣いたのは、これが初めてです。
ついでに言うと、泣いて謝る人を、私は信用しません。それは、謝る自分への憐憫ないし感動の涙だと思うからです。
前にも書いたかと思いますが、取材とはよく言ったものです。なにしろ、材を取る、ですから。取ってきた材料をどう料理するかは、取材者の裁量です。取材源はまな板の鯉というわけで、その程度の覚悟はあります。なるべく記事の自分の部分だけは事前に見せていただくようにはしていますが、最終的には記者さんにお任せするしかないとは、よく理解しているつもりです。それで、こちらの言わんとすることが十全に伝わるかどうか覚束ない電話取材には、どうしても慎重になってしまいます。
なのに、雑誌の記者さんのなかには、お会いしたこともないのに、「小一時間、電話取材に応じてほしい」と申し込んでくる方がおられます。そんな手抜きをしてどうする、と思います。お互い、ちょっとたいへんでも、やはりどこかで落ち合ってじかにお会いし、目と目を見合わせてしっかり話を聞いていただかないと、と思うわたしは、めんどくさい、古い人間です。でも、そうやって時間をかけた分、記者さんに損はないと思うのですが。
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