『シン・ゴジラ』感想3回目です。
  なぜスカイツリーを破壊しなかったのか?という疑問から『シン・ゴジラ』の守破離に思いいたりました。
 そして、『シン・ゴジラ』の最終決戦が、ある作品と似た構図になっている事に気がつく。
 『シン・ゴジラ』は『宇宙戦艦ヤマト』だったんだッ!

・『宇宙戦艦ヤマト』のおさらい
 ほとんどの人が名前を知っているだろうけど、内容をしらない人もいるでしょうし、ちょっと説明します。
 宇宙戦艦ヤマトは地球を救うため宇宙へ旅立ち、異星人のガミラス帝国と戦う事になる。(※ かなり説明省いています)

 名前からわかる通り、宇宙戦艦ヤマトは日本人の心情によりそう存在だ。
 乗組員も日本人ばっかりだし。
 しかし、アニメ監督の庵野秀明はヤマトと戦うガミラスも実は日本であるという。
 米軍の空襲で焼野原になった日本と同じように、ヤマトの攻撃でガミラスも焼野原になる。

 ガミラスを滅ぼした古代進のセリフが象徴的だ。
「地球の人も、ガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。…愛し合うことだった」
 『宇宙戦艦ヤマト』とは、日本同士が戦い合う、言わば合わせ鏡のような戦争を描いた物語ではないか。

 また、ヤマトに兵器も人材も倒されたガミラスのとる作戦が本土決戦だった。
 武器の無いガミラスはあえてヤマトを母星に引きこみ、自爆攻撃にも似た攻撃をする。
 ヤマトよ、酸の海に沈め! だ。

   (※ この項目は朝日新聞WEBの連載記事「ヤマトをたどって」を参考にしています。うろ覚えですが。現在は読めないようですが片鱗はtogetterに、まとまっています)

・ゴジラはヤマトで、日本人がガミラスだッ!
 ヤマトの合わせ鏡構造を前提として考えると、圧倒的な戦闘力をもって強力なビームを撃つゴジラはヤマトである。
 そして、ゴジラによって自衛隊が無力となった日本人は本土決戦として自国のビル群を瓦礫に変えてゴジラの動きを封じた。
 ゴジラと愛し合うことができれば良かったけど、サイズ差とか障害が大きすぎて無理っぽいな。

 ゴジラがヤマトであるという事は、日本でもある。
 日のささない深海から生存権拡大のため陸上に進出したゴジラは、かつての日本と同じかもしれない。
 ゴジラは攻撃されても特に反撃しなかったが、大型貫通爆弾で出血するダメージを負い、火炎で反撃する。
 この行為は現代日本の防衛方針である専守防衛と同じだ。
 また、注がれる血液凝固剤をわりと素直に受け入れちゃうのも、NOと言えない日本に通じるものがある。

 ゴジラを消耗させる日本の作戦は無人兵器の特攻だった。
 無人を強調しすぎて、かえって本当は人が乗っているんじゃないかと思えてしまう。
 むしろ本土決戦と言う作戦からしたら、特攻のほうが似合いそうだ。

・『シン・ゴジラ』と戦争
 世間的に言われているように『シン・ゴジラ』は東日本大震災と原発事故の隠喩(メタファー)と考えるのがイチバン合う。
 だが、『シン・ゴジラ』は日本の経験した戦争の隠喩(メタファー)と考えることもできる。
 宇宙戦艦ヤマトは第二次世界大戦と切り離せないように、ゴジラも大戦を引きずっているのだ。

 日本の長である総理大臣は、なんども決断を迫られる。
 同じ光景は、過去の日本でもあったはずだ。
 日中戦争への決断、ドイツとの同盟の決断、米国と開戦をする決断、それらの決断を迫る事態があっただろう。

 ゴジラ退治に自衛隊は防衛出動をする必要がないらしい。
 だが、『シン・ゴジラ』が戦争だと考えるなら、やはり防衛出動でないとカッコつかないだろう。
 『シン・ゴジラ』は様々な見方ができる作品である。
 かつて起きた戦争をもう一度考えるための材料にもなりうるのだ。


◆関連書籍も10月に発売されるようです。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ
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シン・ゴジラ音楽集
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