5月のEテレは100分de名著「三国志」をやっている。
 私の三国志ページは今見るとダメな部分が多いんですが、ずいぶん更新をしていない。
 ちょっと便乗して、情報更新がわりに感想書きます。
 と言うか、あまり感想になりませんでした。
 オマケに長すぎたので、2回に分けます。

 陳寿が「三国志」を書いた経緯は割愛して。
 「正史とは何か」とかは、高島俊男「三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)」を読むのがオススメです。
 番組での「正史とは正しい歴史という意味ではなく、時の政府が認定した歴史書」と言ったような言い回しは、「三国志きらめく群像」の影響を感じさせる。

 で、なんで後漢が崩壊して三国志みたいな乱世になってしまったのかと言う話だ。
 テレビでは尺が足りないのか簡単な説明だけだが、もちろん簡単な話じゃない。(テキスト版ではもう少し詳しく解説している)
 思いっきり簡単に言うと、地方豪族の貴族化にともない皇帝や国家の力が弱まった結果だ。
 ちょっと長い話になりますが、三国志の根幹にかかわる部分なのでお付き合いください。

・後漢の衰退と、貴族の誕生、その間の三国志

 そもそも……なんですが、劉邦が建国した前漢は王莽が政治的にのっとり、一度滅んでしまう。
 政治的にのっとったんですが、王莽の政策は非現実的なことが多く内乱・外乱が起きて大陸を大混乱の乱世にしてしまう。
 で、それを再統一したのが劉邦の末裔である光武帝・劉秀である。
 なので、後漢は漢の後継を名のっているが、微妙に方向性の違う国になった。

 光武帝・劉秀は、なぜ前漢が滅んだのかを分析する。
 王莽が国をのっとるとき、勉強のできる学者は大勢いたのに誰も阻止できなかった。
 ならば国を運営する人材は、頭が良いとかでない。
 私心無く、愛国心があり、度胸のすわった人間力のある人こそふさわしいのだ。

 と言うわけで、後漢は「孝廉」という人事評価を重視する。
 社会秩序を守るという意味での親孝行や、私欲のない清廉潔白な人材を求めていたのだ。
 こうして後漢は人間力重視の政治を約200年つづけた。
 いわば壮大な社会実験をやったようなものだ。

 で、三国志が始まる後漢末期にはどうなっていたのか?
 孝廉は行われていたのだが、形骸化していた。
 そもそも考廉をどう評価するのかが問題だ。
 親孝行も清廉潔白も、その気になれば演じることができる。
 表向きは清廉潔白を演じていても、私財を溜めこんでいた偽善者が増えるのだ。(『後漢書』劉虞伝の例など)

 さらに問題なのは、誰が考廉を判定するのかと言う問題である。
 光武帝は、人格的に立派な人を採用すれば、おなじく立派な人を評価すると考えていたのだろう。
 だが、偽善者などが入りこんで200年もたつと有力者(金持ち)が有力者の一族を評価して採用するようになる。
 へんに学力不問としちゃったので、ものすごく家柄がものを言う時代になってしまったのだ。

 この状態は以後も定着し、家柄で人を評価する貴族の世となる。
 試験で人材採用を行う科挙が完成する北宋までの約700年間を貴族は生きのびるのだ。(宮崎市定「科挙」)

 さて、三国志の時代に生まれはじめる貴族という存在には大きな問題があった。
 まず、能力が有ろうが無かろうが家柄で出世できるかどうかが決まるってのが問題だ。
 さらに、貴族には皇帝に対する忠誠心が薄いという点がさらに問題だった。
 貴族は皇帝よりも、自分の家や貴族社会を優先する。
 後漢の後、魏晋南北朝・隋・唐・五代十国と国や皇帝が次々に変わっても貴族は生きのびる。

 皇帝をないがしろにする、貴族の習性なんですが、これは古来から社会のイロイロなところにあるモノかもしれない。
 三国志演義、水滸伝、西遊記などの中国の物語では組織のリーダーが無力であり、活躍するのは強い部下という指摘がある。(井波律子「三国志演義」)
 また、「三国志きらめく群像」では三国志の群雄の一人・韓遂に対して「韓遂という男は、自分が大将になるよりも、誰か別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつるのが好きな男であった。もっともその韓遂も、もとを正せば北宮伯玉らにかつがれたのである。だからそれは、韓遂の好みというより、西方の異民族の習慣、ないし常套手段だったのかもしれない。」と言っている。
 その「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」という習慣が西方の異民族だけでなく、民族や地域を越えた普遍的な習慣だったのではないだろうか。

 この「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」と言うシステムだが、漢の更に前の秦にも原因があったと思う。
 秦は中央集権の政治システムをとっていた。
 どういうことかというと、州や県の役人を中央政府から派遣するのだ。
 現代日本では地元の人間が選挙で県知事や市長を選ぶ。
 古代中国では、県知事や市長(に相当する役職)は国から派遣されるのだ。

 地元との癒着防止のため、役人は自分の出身地に着任しない。
 もう少し後の時代の資料だと、任地の決まった役人には商人が近づいてきて旅行や通訳の手配を売り込みに来る。
 よその土地には当然友達も居ないので、詩仲間を客として同行させたりもするようだ。

 県知事や市長のような人は、よそ者なので(時に言葉も通じない)地元の人間の協力が必要となる。
 ここでも「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」システムが成り立っていたようだ。

 もちろん、赴任した長官は大人しく操られたりしないで逆襲に出たりもする。
 三国志の群雄のひとりである劉表は荊州刺史(日本でいえば、大きな県の知事ぐらいの役職)として赴任したとき、従わない地元勢力を謀略をもって倒している。(三国志 注「戦略」)
 倒すときに別の地元勢力である蔡瑁カイ越らの力を借りた。
 これも見方を変えれば、対立する地元勢力が新任の大将を利用したと解釈できる行動だ。

 長くなりましたので、いったんマトメます。
・三国志の世界は地方豪族が貴族化する過渡期である。
・地方豪族(貴族)は、大将を立てて後ろからあやつる行動を好む。

 元々、地方豪族にとって皇帝はお飾りみたいなものだったのだろう。
 なので三国志の群雄割拠は、皇帝がどうなろうと あまり関心の無い地方豪族が勝手に活動した結果だ。
 大将になる気の無い群雄は自ら皇帝になろうとしない傾向がある。