・「二袁」の盛衰
後漢末でもっとも力をもっていた地方豪族(のちの貴族)は 袁紹・袁術の袁一族だった。
なので、三国志の前半ではこの二人が二大巨頭となって覇権を争う。
勢力No.1と言いながら、袁紹も袁術も自分の出身地である豫州でなく、他の場所を本拠地にする。
日本の戦国武将はほとんどが地元の有力者が大きくなっていく。
逆に三国志の武将はほとんどが外部からやってきた雇われ君主だ。
地方豪族(貴族)は、大将を立てて後ろからあやつる行動を好む、というワケです。
袁一族は最大勢力と言いながら、単独で勢力を作ったりしない。
最大勢力といっても単独では限界があるのだろう。
袁紹・袁術の二人は名門だけどタイプがかなり違う。
当時の人事評価は孝廉が基準だ。
あと、家柄・外見・評判だ。
袁紹は家柄も良く、見た目も良く、人格も良い。
三国志 注『英雄記』には成廉と言う評判と喪に服す行動がホメられている。
注を入れた裴松之は、この記述の信憑性を疑っているが、そういう高評価があったという点だけ考慮すれば良いだろう。
対する袁術は、見た目と、孝廉の評判が無い。
少なくとも良くは無いのだろう。
いや、浪費家のエピソードはあるので、『廉』がダメだ。
孝廉のフリをすることはできるのだが、誰もができるワケじゃない。
そういう人は、何をアピールするのか?
勉強して学識を高めるのか?
いや、『侠気(おとこぎ)があることで知られた。』(袁術伝)とあるように、アウトローな行動でアピールしたのだ。
ちょっとワキ道にそれますが、社会が求める孝廉という価値基準に対するアンチテーゼとしてか、この時代は奇矯な行動をする人が増える。
宮城谷昌光の『三国志』では、この時代は勉強をする人が少なかったとある。
なにしろ宮城谷昌光が書いているのだから論拠がある話なのだろう。(例えば、曹操が年とってからも勉強するのはオレと袁遺ぐらいと言うエピソードがある)
反孝廉的な人たちは、のちに酒や薬でラリって議論をおこなう清談に興じるようになる。
話をもどして、袁紹と袁術の盛衰についてだ。
番組では袁紹は優柔不断で失敗したと話している。
袁術は皇帝僭称により人心が離れていったと言っていた。
おおむね、その通りなんだけど、これには歴史の結果バイアスがかかっている。
つまり、結果から逆算して、敗者にはダメな部分があるから負けたのだと考えてしまう傾向だ。
袁紹は曹操に敗れて滅ぶ。
で、正史・袁紹伝を曹操と対立する前と後でくらべると、かなり露骨に失敗するようになってしまう。
もちろん問題点もあるのだが(後で書きます)、曹操と争う以前は決断力と胆力のある行動が多い。
だが、袁紹の決定的な問題点は自信過剰なところだ。
番組では袁紹が優柔不断のため、沮授の意見を採用できないと言っていた。
しかし、曹操と争う前は採用したこともある。
『従事の沮授が袁紹に進言した』(略:四方の敵を倒して漢を再興しましょう的な事を進言する)『袁紹は、「これこそ、私の思っていたことだ」と喜び、即刻、上奏文をたてまつり沮授を監軍・奮威将軍に任命した。』
ここで重要なのは、袁紹が採用する策って自分と同じ意見だと言うことだ。
袁紹は広く意見を聞くというポーズを取るが、けっきょく自分と同じ考えしか採用しない。
もっとも、これは雇われ君主と支える地方豪族との権力闘争と言えるのかも。
けっきょく自分の意見を採用するのであれば部下の意見を聞く意味が無い。
袁紹は自分の能力に自信があるのだろうが、異なる意見を採用できないところに個人の限界がある。
曹操と戦う前までは袁紹の方針で勝っていたので、成功体験から路線変更が出来なかったパターンと言えるのかも。
また、ちょっと余談なんですが、この時期の皇帝は董卓につかまり長安にいる。
この状態にもかかわらず、皇帝に「上奏文をたてまつ」っているのだ。
しかも、こういう上奏文は袁紹だけでなく みんな出している。
「三国志きらめく群像」でも、役職がかぶっている人もいるし、こういう上奏文がどれだけ意味があったのかとツッコミをいれている。
ここでも、形式上は皇帝に仕えているけど、現実だと好き勝手にやっているのだろう。
話をもどして、今度は袁術について。
袁術が皇帝を僭称するのは問題なのだが、なんでそんな事をしたのか、だ。
やとわれ君主である袁術は、豪族たちの支援の上で成りたっている。
皇帝を名乗るような大事件は袁術の考えだけでできるようなことじゃないだろう。
三国志には、袁術が皇帝になろうとしたとき、閻象が反対し、張烱の説を採用したとある。
王や皇帝になる時は、部下がずらずらと名前を連ねた書を出すものだが、それが載っていない。
失敗した事なので、消したい過去として文章を処分しちゃったのかも。
袁術を皇帝にしてあやつろうとする豪族たちが、あるていど居たのは確かだろう。
たとえ担がれたとしても足場が固まらないうちに皇帝になっちゃったのは袁術の失敗だ。
だが、袁術と支援する豪族たちには、それなりの事情と考えがあったのだろう。
後漢末でもっとも力をもっていた地方豪族(のちの貴族)は 袁紹・袁術の袁一族だった。
なので、三国志の前半ではこの二人が二大巨頭となって覇権を争う。
勢力No.1と言いながら、袁紹も袁術も自分の出身地である豫州でなく、他の場所を本拠地にする。
日本の戦国武将はほとんどが地元の有力者が大きくなっていく。
逆に三国志の武将はほとんどが外部からやってきた雇われ君主だ。
地方豪族(貴族)は、大将を立てて後ろからあやつる行動を好む、というワケです。
袁一族は最大勢力と言いながら、単独で勢力を作ったりしない。
最大勢力といっても単独では限界があるのだろう。
袁紹・袁術の二人は名門だけどタイプがかなり違う。
当時の人事評価は孝廉が基準だ。
あと、家柄・外見・評判だ。
袁紹は家柄も良く、見た目も良く、人格も良い。
三国志 注『英雄記』には成廉と言う評判と喪に服す行動がホメられている。
注を入れた裴松之は、この記述の信憑性を疑っているが、そういう高評価があったという点だけ考慮すれば良いだろう。
対する袁術は、見た目と、孝廉の評判が無い。
少なくとも良くは無いのだろう。
いや、浪費家のエピソードはあるので、『廉』がダメだ。
孝廉のフリをすることはできるのだが、誰もができるワケじゃない。
そういう人は、何をアピールするのか?
勉強して学識を高めるのか?
いや、『侠気(おとこぎ)があることで知られた。』(袁術伝)とあるように、アウトローな行動でアピールしたのだ。
ちょっとワキ道にそれますが、社会が求める孝廉という価値基準に対するアンチテーゼとしてか、この時代は奇矯な行動をする人が増える。
宮城谷昌光の『三国志』では、この時代は勉強をする人が少なかったとある。
なにしろ宮城谷昌光が書いているのだから論拠がある話なのだろう。(例えば、曹操が年とってからも勉強するのはオレと袁遺ぐらいと言うエピソードがある)
反孝廉的な人たちは、のちに酒や薬でラリって議論をおこなう清談に興じるようになる。
話をもどして、袁紹と袁術の盛衰についてだ。
番組では袁紹は優柔不断で失敗したと話している。
袁術は皇帝僭称により人心が離れていったと言っていた。
おおむね、その通りなんだけど、これには歴史の結果バイアスがかかっている。
つまり、結果から逆算して、敗者にはダメな部分があるから負けたのだと考えてしまう傾向だ。
袁紹は曹操に敗れて滅ぶ。
で、正史・袁紹伝を曹操と対立する前と後でくらべると、かなり露骨に失敗するようになってしまう。
もちろん問題点もあるのだが(後で書きます)、曹操と争う以前は決断力と胆力のある行動が多い。
だが、袁紹の決定的な問題点は自信過剰なところだ。
番組では袁紹が優柔不断のため、沮授の意見を採用できないと言っていた。
しかし、曹操と争う前は採用したこともある。
『従事の沮授が袁紹に進言した』(略:四方の敵を倒して漢を再興しましょう的な事を進言する)『袁紹は、「これこそ、私の思っていたことだ」と喜び、即刻、上奏文をたてまつり沮授を監軍・奮威将軍に任命した。』
ここで重要なのは、袁紹が採用する策って自分と同じ意見だと言うことだ。
袁紹は広く意見を聞くというポーズを取るが、けっきょく自分と同じ考えしか採用しない。
もっとも、これは雇われ君主と支える地方豪族との権力闘争と言えるのかも。
けっきょく自分の意見を採用するのであれば部下の意見を聞く意味が無い。
袁紹は自分の能力に自信があるのだろうが、異なる意見を採用できないところに個人の限界がある。
曹操と戦う前までは袁紹の方針で勝っていたので、成功体験から路線変更が出来なかったパターンと言えるのかも。
また、ちょっと余談なんですが、この時期の皇帝は董卓につかまり長安にいる。
この状態にもかかわらず、皇帝に「上奏文をたてまつ」っているのだ。
しかも、こういう上奏文は袁紹だけでなく みんな出している。
「三国志きらめく群像」でも、役職がかぶっている人もいるし、こういう上奏文がどれだけ意味があったのかとツッコミをいれている。
ここでも、形式上は皇帝に仕えているけど、現実だと好き勝手にやっているのだろう。
話をもどして、今度は袁術について。
袁術が皇帝を僭称するのは問題なのだが、なんでそんな事をしたのか、だ。
やとわれ君主である袁術は、豪族たちの支援の上で成りたっている。
皇帝を名乗るような大事件は袁術の考えだけでできるようなことじゃないだろう。
三国志には、袁術が皇帝になろうとしたとき、閻象が反対し、張烱の説を採用したとある。
王や皇帝になる時は、部下がずらずらと名前を連ねた書を出すものだが、それが載っていない。
失敗した事なので、消したい過去として文章を処分しちゃったのかも。
袁術を皇帝にしてあやつろうとする豪族たちが、あるていど居たのは確かだろう。
たとえ担がれたとしても足場が固まらないうちに皇帝になっちゃったのは袁術の失敗だ。
だが、袁術と支援する豪族たちには、それなりの事情と考えがあったのだろう。