・第2回 曹操 乱世のリーダーの条件(前編)

 今回も感想書きます。
 いや、今回もあまり感想にならないと思いますが。
 
 今回の話は曹操メインなんだけど、正史を扱うと言っているのだから演義準拠で話をしないで欲しい。
 三国志大好き芸人の「諸説あります」テロップ付きのトークじゃないんだからさ。

 ちょっと、「100分 de 名著」テキストから引用します。
『反董卓連合軍の結成時には、曹操は盟主となった袁紹から行奮武将軍に任じられました。しかし、董卓が早々に長安へ撤退すると、戦陣には厭戦ムードが蔓延し、袁紹、袁術ら参加者の大半は酒宴を繰り広げていました。』(略)曹操は『董卓軍の追撃を主張して、陣中で孤立します。』(略)『董卓は洛陽からの撤退時、追撃に備えて精強な涼州兵を残していきました。』

 三国志演義の汜水関・虎牢関の戦いあたりの話ですね。
 反董卓連合軍の攻勢で董卓は虎牢関から洛陽に撤退し、長安に遷都して洛陽に火をかけた。曹操は追撃を主張するが、賛同をえられず単独で追う。董卓は追撃対策としてケイ陽に伏兵をおく。ってのが大雑把な話だ。(三国志演義1

 この部分は時系列や地理関係、人物の活躍が虚実いりまじっている部分で、正史と演義の差を比較する場合に良く引き合いに使われる。
 そういう部分なのだから、ちゃんと正史の準拠で話をしてほしかった。

 比較として『三国志 武帝紀』から引用します。(なお、太祖は曹操のこと。年代は太陰暦と西暦で一致しないんだけど、見逃してください)

『太祖は陳留に行きつくと、家財を散じて義兵を集め、董卓を滅ぼそうと計画した。冬十二月、己吾(きご)において旗あげした。この年は忠平六年(一八九)である。』
『初平元年(一九〇)の春正月』(略)袁紹ら『は、同時にみな兵をあげた。軍勢はそれぞれ数万、袁紹を盟主に推挙した。太祖は奮武将軍を兼務した。』
『二月、董卓は挙兵のことを聞くと、天子を移居させて長安を都とした。董卓はそのまま洛陽に駐屯していたが、けっきょく宮室を焼き払った。この時、袁紹は河内に駐屯し、張バク・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗(さんそう) に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔チュウは潁川に駐屯し、韓馥はギョウにあった。董卓の軍が強力なので、袁紹らはあえて先頭をきって進軍しようとしなかった』
 曹操は進軍を主張し『張バクは、将軍衛茲に兵を分け与えて太祖に随行させたが、ケイ陽のベン水まで来ると、董卓の将軍徐栄と遭遇した。交戦したが負けいくさとなり』
『太祖は酸棗(さんそう)にたどりついたが、諸軍の兵十余万は、毎日酒盛りの大会議を開いており、積極的に攻勢に出るつもりはなかった。』
 曹操は揚州で兵を募集した。『〔揚州〕刺史 陳温と丹陽の太守 周昕は四千余人の兵を与えてくれた』が、龍亢(りゅうこう)まで来たところで兵が反乱を起こす。
『ふたたび兵を収容して千余人を手に入れ、進軍して河内に駐屯した。』
 反董卓連合は内部抗争をはじめる。
『二年春(一九一)、袁紹と韓馥はついに劉虞を皇帝に擁立したが、劉虞はあくまでも引き受けることを承知しなかった。
 夏四月、董卓は長安に引きあげた。
 秋七月、袁紹は韓馥を脅して、冀州を奪った。』

 読んでみると、反董卓連合は最初から戦っていないことがわかる。
 そして、全員集合してもいない。
 袁一族が分散して、各地を支配しているようにも見える。(袁遺は袁紹の従兄)

 さらに、董卓は洛陽から動いていない。
 曹操は洛陽にたどりつけず敗退するが、董卓が洛陽から出ていくのはその一年後だ。
 董卓が洛陽を出るのは、孫堅が地道に勝ちながら近づいてきたためだろう。
 そのあいだ、董卓は1年かけて弱火でじっくり洛陽を焼いていたのかもしれない。
 兵士の宿営場所として屋根や壁は必要だし、延焼しても困るので、盛大に焼くのは出ていく直前だと思うが。

 番組では、曹操の勇気ある行動が愛国的だと評価されたと言っている。
 実際に揚州で兵を募集したとき陳温と周昕が協力してくれているが、十余万の中の四千人で、しかも逃げられて千人だ。
 評価されても、この程度の協力しかしてもらえない。

 1回感想・前で書いたように、当時の豪族たちは主君とは操るものだと思っているようで、忠誠心が無い。
 曹操の愛国的な行動も、本音の部分では評価していないのだろう。
 で、名門中の名門である袁紹がやろうとしたことは、長安に拉致された献帝を見捨てて、新しい皇帝を立てようとすることだ。
 この計画は失敗はするが、名門の思考パターンがワカる一例である。

 話が書ききれなかったので、後日つづきを書きます。

陳寿『三国志』 2017年5月 (100分 de 名著)
100分de名著「三国志」