グダグダに遅れていますが100分de名著「三国志」曹操の回の感想後編です。
 後回しにしたのは、番組とあまり関係ない話になる予定だからだ。
 やっぱり、長くなりそうなので、何回かにわけて書きます。

 前編で戦わない反董卓連合の顛末を書いた。
 で、曹操は兵を四千人あつめたものの反乱を起こして逃げられる。
『ふたたび兵を収容して千余人を手に入れ、進軍して河内に駐屯した。』
 この河内ってのは『袁紹は河内に駐屯し』と書かれているので、この記述が曹操が袁紹の傘下に入るという話の根拠だろう。
 渡邉義浩の何冊かの著書で曹操が袁紹の傘下に入るという話は出てくるのだが、その根拠を説明された記憶が無い。
 たぶんコレの事だと思うが、間違っているかもしれない。

 千余人の兵を食わせるには、領地が必要だ。
 領地を持たない曹操は袁紹に養ってもらったということなのだろう。
 だが、曹操は養ってもらっているわりに袁紹の言う事を聞かない。
 袁紹が劉虞を皇帝に擁立しようとしたら、曹操は反対する。

 ここで曹操が反対するのは当時の価値観としてアリだ。
 1前編で書いた通り、私心無く愛国心があり度胸のすわった人間力のある人が後漢の求める人材である。
 自分たちに都合の良い皇帝を擁立しようという動きに反対する気骨ある行動は誉めなくちゃいけない。
 誉めなくちゃいけない行動だけに、袁紹は曹操が疎ましくなったのか、曹操を黒山の賊徒退治に派遣して東郡太守に任命する。
 初平二年(191)秋から冬にかけてのことである。

 さて、この頃に曹操の参謀となる荀彧が加入するのだが……
 荀彧伝の記述を要約すると次のようになる。

「董卓の乱が起きると、出身地である潁川にも被害が及ぶと荀彧は考え避難を提案した。郷土に執着する人たちは避難を決断できず、荀彧だけが一族を連れて避難する。のちに潁川は董卓による被害を受けた。荀彧は同郷の韓馥を頼る。だ到着すると韓馥はすでに袁紹に地位をのっとられていた。袁紹はそのまま荀彧や彼の弟を任用しようとする。だが、荀彧は袁紹を見限り、初平二年(191)に東郡にいる曹操のもとへ向かった。」

 この記述で二点ワカることがある。
 荀彧は先の見通しができる人間であると言うことだ。
 だが、周囲の人にあまり信じてもらえていない。

 潁川の人は荀彧の見通しを信じられず避難しなかった。
 荀彧の一族は、荀彧を信じて避難したが、荀彧が袁紹を見限ったのとは逆に袁紹につかえている。
 未来の予想は正しいのだが、予想を信じてもらえていない。
 才あれど評価されずって点で曹操と荀彧は似た者同士だ。

 歴史の大きな流れからすると、豪族たちは才能よりも家柄が評価される貴族社会を形成していく。
 皇帝がかわろうと、王朝がかわろうと、貴族たちはそれらを後ろから操ろうとする。
 曹操と荀彧は、この貴族化の流れに逆らい、才能を人事評価に据えようと世界に戦いを挑む。
 結果的に敗北して貴族社会になっちゃうので、曹操の目指した社会がどんなものだったのかワカらない。

 三国志の編者である陳寿は曹操を『超世の傑(時代を超えた英傑)』と評している。
 曹操は世界を変えようとした英雄だったのだ。

陳寿『三国志』 2017年5月 (100分 de 名著)
100分de名著「三国志」