三国志

ドラマ『三国志・趙雲伝』に見る、意識・価値観の変化

 今、WOWOWで三国志の趙雲を主人公とした『三国志・趙雲伝(原題「武神 趙子龍」)』をやっている。
 三国志演義だと趙雲は全120回中の第7回から登場する武将だ。
 作家の北方謙三は三国志の小説を書くにあたり中国で取材した時、女性人気No.1が趙雲だったと言っている。
 赤ん坊を守りながら敵中を突破するところがステキ、だそうだ。北方謙三はムカついたので趙雲の出番を減らすと決意したとか。

 このドラマは全59話らしいのだが、三国志演義の第7回に相当するのが27話だった。
 どんだけ回り道しているんだよ、と。
 ここから趙雲が病死するまで、30年ぐらいあるんだけど、1話1年のペースで進むんだろうか?

『三国志・趙雲伝』は時代考証に関して、気持ちがいいぐらい無視している。
 きらびやかで鮮やかな色の衣装に建屋・家具だ。
 人の意識・価値観とかも現代っぽい。
 少なくとも清朝以前の感覚では無い。
 武侠小説の影響を感じるんだけど、武侠小説よりも さらに現代的な感じがする。

 ヒロインたちは女だけで旅に出て山賊につかまって、助けられたら、別の人がつかまって、主人公と一緒に秘境に落ちてサバイバル生活とかが、金庸の武侠小説っぽい。
 趙雲の両親を死に追いやった仇こそがヒロインの父親で、ヒロイン父とヒロインの許嫁である高則が共謀して趙雲の命を狙うとかコテコテかつオリジナルの展開が山盛りだ。
 ああ、また本筋から離れている。
 この作品は作中時間の20年後ぐらいにある大イベント(赤ん坊を守りながら敵中を突破)まで話が進むんだろうか?
 ツッコミどころが多いというか、多すぎてツッコンでられないんだがアクションの質は高いので結構楽しく見ている。

 三国志のドラマはいくつか見ているのだが、時代性と国民性の違いがあると感じていた。
 そのひとつにライバルキャラの描きかたがある。
 どうも、三国志ではライバルを、おとしめる傾向があるのだ。

 無能なライバルは主人公にしてやられて、ムキーと怒るのがお約束である。
 これは100分de名著「三国志」感想でも書いたが、曹操に対する袁紹の扱いなど、歴史書からすでにその傾向があるものだ。
 中には羊コ陸抗のように互いに尊敬しあえる好敵手ってのも居るんですが、そうでない方が多い。

 そこに行くと、『三国志・趙雲伝』のライバル高則は頭がキレて腕も立つという有能設定だ。
 中盤まではヒロインをめぐる確執はあるものの、山賊退治のため趙雲と協力し友情も芽生えている。
 でも、最近の展開でヒロインも栄光も奪われ、内心嫉妬にもだえ苦しんで復讐を狙っていたことが判明して評価が変わってきたような。
 なんにしても強いライバルを倒すことで主人公がさらに強く見えるという手法を中国も使うようになったようだ。
 ヒロインが趙雲に対して「文武両道」を誉め言葉として使っていたりと、中国の価値観も変化している。
 まだまだ、EXILEみたいな色黒細身マッチョは、出稼ぎの肉体労働者のようで不人気らしいが、それも20年ぐらいたてば変わるかもしれない。
 いや、50年後かな。

呉263年付近の天変地異

 NHKで張家界天門山紹介番組をやっていた。
 番組で西暦263年に地震があり、山が門の形に崩れ、呉の皇帝孫休がこれを見て「天門山」の名前をつけたと紹介されていた。

 古代の中国では地震などの天変地異は、天から何らかの啓示であるとされている。
 なので大きな地震があれば史書に記録がのこるのだ。

 263年は三国志の時代なので、三国志を確認してみた。
 で、三国志・呉書の263年(永安六年)あたりに地震の記述は無かった。
 となると、地元の伝承って事だろうか。
 皇帝が関わる事だけに史書にのっていないのは信憑性に関わるが、まあイイか。

 念のため永安六年(263年)の前後を読んだんだけど、なんか天変地異が多い。
 以下、ちょっと抜粋してみます。

『永安二年(二五九)の春正月、震電(かみなり)があった。』

『永安三年(二六〇)の春三月、西陵から赤い烏が出現したとの報告があった。』

『永安四年(二六一)の夏五月、大雨が降って、川や谷が溢(あふ)れた。』
『九月、〔鬱林郡の〕布山から白い龍が出現したとの報告があった。』
『この歳、安呉の平民である陳焦(ちんしょう)が死亡し、埋葬したが、六日たって生きかえり、穴を穿(うが)って出てきた。』

『永安五年(二六二)の春二月、白虎門(建業城の正門)の北楼が火災で燃えた。』
『秋七月、〔新都郡の〕始新から黄色い龍が出現したとの報告があった。』
『八月壬午(じんご)(十三日)の日、大雨が降り雷が鳴って、川や谷が溢れた。』

『永安六年(二六三)の夏四月、〔零陵郡の〕泉陵から黄色い龍が出現したとの報告があった。』
『冬八月、蜀から、魏の攻撃を受けているとの知らせがやって来た。』(※ この年に蜀は滅ぶ)
『『呉歴』にいう。この歳、青い龍が長沙に出現し、白い燕が慈胡(慈湖)に出現し、赤い雀が豫章(よしょう)に出現した。』

『永安七年(二六四)』『秋七月』『癸未(きび)(二十五日)の日、孫休が逝去した。』
 そして、呉にとって最後の皇帝となる暴帝・孫晧が即位する。

 西暦263年前後は天変地異ばっかりだ。
 なかでも安呉の平民・陳焦が死後6日後に生きかえって土から出てきたってのがスゴい。
 平民の名前が史書にのるのは珍しい。やっぱり当時もインパクトがあったのだろう。
 なお、動く死体の妖怪キョンシー(殭屍)が文献に登場するのはもっとあとの事になる。
 生きかえった陳焦がどうなったのか気になるんですけど、その後が書いていないのが残念だ。

100分de名著「三国志」感想もどき2後編1

 グダグダに遅れていますが100分de名著「三国志」曹操の回の感想後編です。
 後回しにしたのは、番組とあまり関係ない話になる予定だからだ。
 やっぱり、長くなりそうなので、何回かにわけて書きます。

 前編で戦わない反董卓連合の顛末を書いた。
 で、曹操は兵を四千人あつめたものの反乱を起こして逃げられる。
『ふたたび兵を収容して千余人を手に入れ、進軍して河内に駐屯した。』
 この河内ってのは『袁紹は河内に駐屯し』と書かれているので、この記述が曹操が袁紹の傘下に入るという話の根拠だろう。
 渡邉義浩の何冊かの著書で曹操が袁紹の傘下に入るという話は出てくるのだが、その根拠を説明された記憶が無い。
 たぶんコレの事だと思うが、間違っているかもしれない。

 千余人の兵を食わせるには、領地が必要だ。
 領地を持たない曹操は袁紹に養ってもらったということなのだろう。
 だが、曹操は養ってもらっているわりに袁紹の言う事を聞かない。
 袁紹が劉虞を皇帝に擁立しようとしたら、曹操は反対する。

 ここで曹操が反対するのは当時の価値観としてアリだ。
 1前編で書いた通り、私心無く愛国心があり度胸のすわった人間力のある人が後漢の求める人材である。
 自分たちに都合の良い皇帝を擁立しようという動きに反対する気骨ある行動は誉めなくちゃいけない。
 誉めなくちゃいけない行動だけに、袁紹は曹操が疎ましくなったのか、曹操を黒山の賊徒退治に派遣して東郡太守に任命する。
 初平二年(191)秋から冬にかけてのことである。

 さて、この頃に曹操の参謀となる荀彧が加入するのだが……
 荀彧伝の記述を要約すると次のようになる。

「董卓の乱が起きると、出身地である潁川にも被害が及ぶと荀彧は考え避難を提案した。郷土に執着する人たちは避難を決断できず、荀彧だけが一族を連れて避難する。のちに潁川は董卓による被害を受けた。荀彧は同郷の韓馥を頼る。だ到着すると韓馥はすでに袁紹に地位をのっとられていた。袁紹はそのまま荀彧や彼の弟を任用しようとする。だが、荀彧は袁紹を見限り、初平二年(191)に東郡にいる曹操のもとへ向かった。」

 この記述で二点ワカることがある。
 荀彧は先の見通しができる人間であると言うことだ。
 だが、周囲の人にあまり信じてもらえていない。

 潁川の人は荀彧の見通しを信じられず避難しなかった。
 荀彧の一族は、荀彧を信じて避難したが、荀彧が袁紹を見限ったのとは逆に袁紹につかえている。
 未来の予想は正しいのだが、予想を信じてもらえていない。
 才あれど評価されずって点で曹操と荀彧は似た者同士だ。

 歴史の大きな流れからすると、豪族たちは才能よりも家柄が評価される貴族社会を形成していく。
 皇帝がかわろうと、王朝がかわろうと、貴族たちはそれらを後ろから操ろうとする。
 曹操と荀彧は、この貴族化の流れに逆らい、才能を人事評価に据えようと世界に戦いを挑む。
 結果的に敗北して貴族社会になっちゃうので、曹操の目指した社会がどんなものだったのかワカらない。

 三国志の編者である陳寿は曹操を『超世の傑(時代を超えた英傑)』と評している。
 曹操は世界を変えようとした英雄だったのだ。

陳寿『三国志』 2017年5月 (100分 de 名著)
100分de名著「三国志」

100分de名著「三国志」感想もどき4

・第4回 劉備の「仁」、諸葛亮の「知」

 三国志演義では主役あつかいの劉備と諸葛亮が〆の話となる。
 100分de名著では、劉備と諸葛亮の緊張関係にふれていた。

 だいたい、どこでも主従には緊張関係がある。
 権力の奪い合いであり、予算の奪い合いだったりで。
 漢の国家会計は、公共工事などに使う国家財政費と皇帝が私的に使ってよい帝室財政に分かれている。
 他の時代までは詳しくないのだが、まあ事情は同じだろう。

 私的と言っても先祖をまつったりとか公的性格の強い使いかたもあり、コレって公的で良くね?と予算を奪い合うこともあるらしい。
 前漢のころは、私的予算の方が大きかったりと、ワケのわからん状態だったらしい。
『元帝時代(前四八~前三三年)において、国家財政費は四〇億銭、帝室財政費は四三億銭であり、前者には武帝時代における増税策による収入が加わっていることを考えると、帝室財政の規模の大きさをうかがうことができる。』(世界歴史大系 中国史1

 だが、霊帝(黄巾の乱がおきた時の皇帝)が即位した時は、私的につかえる財産がかなり少なくなっていた。
 で、霊帝は役職を売る売官をやってしまう。
 このように、皇帝と家臣は互いの権力や予算をかけて争っていたのだ。

 「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」と言う動きは、どの時代にも見えてくる。
 ただ、立てられた大将だって大人しくあやつられたりしない。
 また、大将を上手くあやつれない時は、自分が大将になろうとする者も出てくる。
 これが、君主と家臣の緊張関係だ。

 番組では劉備が諸葛亮に、我が子・劉禅に才が無ければお前がかわりになれと「乱命(従うことのできない命令)」を出したと紹介しています。
 跡継ぎに才が無ければお前がかわれってのは、常套句みたいなもので孫策も張昭に「もし仲謀(孫権)に仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい。」と言っている。(張昭伝 注・呉歴)
 ただ、「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」という行動を考えると「責任をトップに押しつけて操ろうとするだけでなく、自分がトップになって責任を取る気になってやれ」という意味合いが出てくるのかもしれない。

 なお、諸葛亮と張昭はポジションが似ていて、地方勢力によそから来た知識人で、組織のNo.2なんだけど実質イチバン偉いみたいな立場で、先代から押しつけられた年上の存在である。
 孫権は張昭とかなりバチバチと権力争いをすることになった。
 劉禅はわりと諸葛亮の言いなりのようだ。
 そこは、大将の資質の差ってところだろうか。

 諸葛亮と劉禅の緊張関係については中村愿『三國志逍遥』が諸葛亮の「出師の表(出兵するさいの決意表明みたいなもの)」について面白いことを書いている。

『一読して解ることは「出師の表」が、劉禅と臣下ら(及び反諸葛亮派)に対して成都を留守にしている間の後事を指示した、事務的性格の強い文章だということである。
 それも強制と脅しを内に秘めた、死人に口なしの「先帝」の威厳を最大限に利用して、自己の功績と権威を控え目に強調し、さらに実力とは遠くかけ離れた妄想に近い軍事行動を、有無を言わさず承認させるための――。
 そこに臣下としての真の意味での"忠"(天子に尽くすことは、天子たらしめている天下(よのなかのひとびと)のために尽くすことである。)は、どこを捜しても見当たらない。』

 「出師の表」は有名なのでググればいくらでも出てきます。(こちらなど)
 もちろん一読しても、強制と脅しを内に秘めた文章だとはワカらん。
 その辺の説明は『三國志逍遥』を読んでください。
 まあ、こういう解釈もあるのかと言う感じ何ですが。
 100分de名著で言う通り劉備と諸葛亮の間に緊張関係があったからこそ、こういう説も出てくるのだろう。

 劉備の子・劉禅は暗君の代表みたいに言われているけど、権力の奪い合いでは家臣に勝っている。
 でも、人望がなかったのかも。
 国が亡びる時に諦めましょう、ここで試合終了ですよとか言われちゃうのは切ない。

 なお、『三國志逍遥』では『陳寿の手になる人物伝のなかで、もっとも人間的魅力の少ない者のひとりは劉備であろう。』とも言っている。
 悪い部分のみに注目すれば人間的魅力が少なく見えるだろうが、全体で見渡せば劉備はじゅうぶんに魅力がある。と私は思いますが。
 劉備の遺言とか道徳の教科書にのせても良いぐらいに感動的だし。

 このように歴史とはいろいろな解釈ができる。
 100分de名著で語られた三国志も、いくつかある解釈のひとつだ。
 そんなワケで、私の解釈もありますし、第二回の感想で書きそびれているので、その辺をちょっと補記する予定です。
 歴史ネタは 調べものをしなくちゃいけないんで、ちょっと時間がかかってしまうので、更新頻度は少なめになると思いますが。

陳寿『三国志』 2017年5月 (100分 de 名著)
100分de名著「三国志」

100分de名著「三国志」感想もどき3

・第3回 孫権「信」がピンチを救う

 2回感想の後編をまだ書いていませんが、先に3回感想を書いちゃいます。

 呉は孫堅、孫策、孫権という父・兄・弟の三代がうちたてた。
 三国志の君主はほとんどが他地域からやって来た雇われ君主だと前に書きましたが、孫権だけは出身地(戸籍地)と同じところに勢力を築いている。
 と、言っても孫一族は弱小豪族なので、やっぱり外部から来た雇われ君主の要素が大きい。
 地元の呉郡には呉の四姓と言われる有力豪族「顧・陸・朱・張」を筆頭に数多くの豪族がいて、やっぱろ寄合政権のようになっていた。
 番組では周瑜の周一族が最大の名士として孫氏政権を支えたと言っているが、袁紹たちの袁一族ですら単独で独立できなかったように、周一族だけじゃたかが知れているのだろう。

 魯粛伝には、袁術に使えるが見限って周瑜と一緒に長江を渡り(つまり孫策陣営に行く。注によれば孫策と意気投合したらしい)、孫権の代になって将来が不安だったので 去ろうとしたら引きとめられたと書いてある。
 周瑜伝には、孫策陣営に行くのは袁術が皇帝僭称した翌年(198年)とあるので、孫策の独立を支援したというより、あとから参加したようだ。
 これを周瑜が孫策の独立を援助し、孫権が魯粛を見出したと解釈するなら、ちゃんと説明して欲しい。

 孫策・周瑜・魯粛が袁術を見限ったが、最初からの計画なのかどうかが気になる。
 袁術の皇帝僭称で人が離れた論は、その通りだと思うが、孫策たち以外に離れた人がどれだけいたのか良くわからん。
 この辺は計画的と思われる記述があちこちにあるんですが、全部書いてると長くなるんで省略します。

 今回の100分de名著「三国志」は、BGMがたぶんジャイアントロボだ。
 展開の強引さが似ているという事なんだろうか。
 どっちも、ちゃんと説明しろやとツッコミ入れたくなるところが似ている。

陳寿『三国志』 2017年5月 (100分 de 名著)
100分de名著「三国志」

100分de名著「三国志」感想もどき2前編

・第2回 曹操 乱世のリーダーの条件(前編)

 今回も感想書きます。
 いや、今回もあまり感想にならないと思いますが。
 
 今回の話は曹操メインなんだけど、正史を扱うと言っているのだから演義準拠で話をしないで欲しい。
 三国志大好き芸人の「諸説あります」テロップ付きのトークじゃないんだからさ。

 ちょっと、「100分 de 名著」テキストから引用します。
『反董卓連合軍の結成時には、曹操は盟主となった袁紹から行奮武将軍に任じられました。しかし、董卓が早々に長安へ撤退すると、戦陣には厭戦ムードが蔓延し、袁紹、袁術ら参加者の大半は酒宴を繰り広げていました。』(略)曹操は『董卓軍の追撃を主張して、陣中で孤立します。』(略)『董卓は洛陽からの撤退時、追撃に備えて精強な涼州兵を残していきました。』

 三国志演義の汜水関・虎牢関の戦いあたりの話ですね。
 反董卓連合軍の攻勢で董卓は虎牢関から洛陽に撤退し、長安に遷都して洛陽に火をかけた。曹操は追撃を主張するが、賛同をえられず単独で追う。董卓は追撃対策としてケイ陽に伏兵をおく。ってのが大雑把な話だ。(三国志演義1

 この部分は時系列や地理関係、人物の活躍が虚実いりまじっている部分で、正史と演義の差を比較する場合に良く引き合いに使われる。
 そういう部分なのだから、ちゃんと正史の準拠で話をしてほしかった。

 比較として『三国志 武帝紀』から引用します。(なお、太祖は曹操のこと。年代は太陰暦と西暦で一致しないんだけど、見逃してください)

『太祖は陳留に行きつくと、家財を散じて義兵を集め、董卓を滅ぼそうと計画した。冬十二月、己吾(きご)において旗あげした。この年は忠平六年(一八九)である。』
『初平元年(一九〇)の春正月』(略)袁紹ら『は、同時にみな兵をあげた。軍勢はそれぞれ数万、袁紹を盟主に推挙した。太祖は奮武将軍を兼務した。』
『二月、董卓は挙兵のことを聞くと、天子を移居させて長安を都とした。董卓はそのまま洛陽に駐屯していたが、けっきょく宮室を焼き払った。この時、袁紹は河内に駐屯し、張バク・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗(さんそう) に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔チュウは潁川に駐屯し、韓馥はギョウにあった。董卓の軍が強力なので、袁紹らはあえて先頭をきって進軍しようとしなかった』
 曹操は進軍を主張し『張バクは、将軍衛茲に兵を分け与えて太祖に随行させたが、ケイ陽のベン水まで来ると、董卓の将軍徐栄と遭遇した。交戦したが負けいくさとなり』
『太祖は酸棗(さんそう)にたどりついたが、諸軍の兵十余万は、毎日酒盛りの大会議を開いており、積極的に攻勢に出るつもりはなかった。』
 曹操は揚州で兵を募集した。『〔揚州〕刺史 陳温と丹陽の太守 周昕は四千余人の兵を与えてくれた』が、龍亢(りゅうこう)まで来たところで兵が反乱を起こす。
『ふたたび兵を収容して千余人を手に入れ、進軍して河内に駐屯した。』
 反董卓連合は内部抗争をはじめる。
『二年春(一九一)、袁紹と韓馥はついに劉虞を皇帝に擁立したが、劉虞はあくまでも引き受けることを承知しなかった。
 夏四月、董卓は長安に引きあげた。
 秋七月、袁紹は韓馥を脅して、冀州を奪った。』

 読んでみると、反董卓連合は最初から戦っていないことがわかる。
 そして、全員集合してもいない。
 袁一族が分散して、各地を支配しているようにも見える。(袁遺は袁紹の従兄)

 さらに、董卓は洛陽から動いていない。
 曹操は洛陽にたどりつけず敗退するが、董卓が洛陽から出ていくのはその一年後だ。
 董卓が洛陽を出るのは、孫堅が地道に勝ちながら近づいてきたためだろう。
 そのあいだ、董卓は1年かけて弱火でじっくり洛陽を焼いていたのかもしれない。
 兵士の宿営場所として屋根や壁は必要だし、延焼しても困るので、盛大に焼くのは出ていく直前だと思うが。

 番組では、曹操の勇気ある行動が愛国的だと評価されたと言っている。
 実際に揚州で兵を募集したとき陳温と周昕が協力してくれているが、十余万の中の四千人で、しかも逃げられて千人だ。
 評価されても、この程度の協力しかしてもらえない。

 1回感想・前で書いたように、当時の豪族たちは主君とは操るものだと思っているようで、忠誠心が無い。
 曹操の愛国的な行動も、本音の部分では評価していないのだろう。
 で、名門中の名門である袁紹がやろうとしたことは、長安に拉致された献帝を見捨てて、新しい皇帝を立てようとすることだ。
 この計画は失敗はするが、名門の思考パターンがワカる一例である。

 話が書ききれなかったので、後日つづきを書きます。

陳寿『三国志』 2017年5月 (100分 de 名著)
100分de名著「三国志」

100分de名著「三国志」感想もどき1後編

・「二袁」の盛衰
 後漢末でもっとも力をもっていた地方豪族(のちの貴族)は 袁紹袁術の袁一族だった。
 なので、三国志の前半ではこの二人が二大巨頭となって覇権を争う。
 勢力No.1と言いながら、袁紹も袁術も自分の出身地である豫州でなく、他の場所を本拠地にする。
 日本の戦国武将はほとんどが地元の有力者が大きくなっていく。
 逆に三国志の武将はほとんどが外部からやってきた雇われ君主だ。
 地方豪族(貴族)は、大将を立てて後ろからあやつる行動を好む、というワケです。

 袁一族は最大勢力と言いながら、単独で勢力を作ったりしない。
 最大勢力といっても単独では限界があるのだろう。

 袁紹・袁術の二人は名門だけどタイプがかなり違う。
 当時の人事評価は孝廉が基準だ。
 あと、家柄・外見・評判だ。
 袁紹は家柄も良く、見た目も良く、人格も良い。
 三国志 注『英雄記』には成廉と言う評判と喪に服す行動がホメられている。
 注を入れた裴松之は、この記述の信憑性を疑っているが、そういう高評価があったという点だけ考慮すれば良いだろう。

 対する袁術は、見た目と、孝廉の評判が無い。
 少なくとも良くは無いのだろう。
 いや、浪費家のエピソードはあるので、『廉』がダメだ。

 孝廉のフリをすることはできるのだが、誰もができるワケじゃない。
 そういう人は、何をアピールするのか?
 勉強して学識を高めるのか?
 いや、『侠気(おとこぎ)があることで知られた。』(袁術伝)とあるように、アウトローな行動でアピールしたのだ。

 ちょっとワキ道にそれますが、社会が求める孝廉という価値基準に対するアンチテーゼとしてか、この時代は奇矯な行動をする人が増える。
 宮城谷昌光の『三国志』では、この時代は勉強をする人が少なかったとある。
 なにしろ宮城谷昌光が書いているのだから論拠がある話なのだろう。(例えば、曹操が年とってからも勉強するのはオレと袁遺ぐらいと言うエピソードがある)
 反孝廉的な人たちは、のちに酒や薬でラリって議論をおこなう清談に興じるようになる。

 話をもどして、袁紹と袁術の盛衰についてだ。
 番組では袁紹は優柔不断で失敗したと話している。
 袁術は皇帝僭称により人心が離れていったと言っていた。
 おおむね、その通りなんだけど、これには歴史の結果バイアスがかかっている。
 つまり、結果から逆算して、敗者にはダメな部分があるから負けたのだと考えてしまう傾向だ。

 袁紹は曹操に敗れて滅ぶ。
 で、正史・袁紹伝を曹操と対立する前と後でくらべると、かなり露骨に失敗するようになってしまう。
 もちろん問題点もあるのだが(後で書きます)、曹操と争う以前は決断力と胆力のある行動が多い。
 だが、袁紹の決定的な問題点は自信過剰なところだ。

 番組では袁紹が優柔不断のため、沮授の意見を採用できないと言っていた。
 しかし、曹操と争う前は採用したこともある。
『従事の沮授が袁紹に進言した』(略:四方の敵を倒して漢を再興しましょう的な事を進言する)『袁紹は、「これこそ、私の思っていたことだ」と喜び、即刻、上奏文をたてまつり沮授を監軍・奮威将軍に任命した。』
 ここで重要なのは、袁紹が採用する策って自分と同じ意見だと言うことだ。
 袁紹は広く意見を聞くというポーズを取るが、けっきょく自分と同じ考えしか採用しない。
 もっとも、これは雇われ君主と支える地方豪族との権力闘争と言えるのかも。

 けっきょく自分の意見を採用するのであれば部下の意見を聞く意味が無い。
 袁紹は自分の能力に自信があるのだろうが、異なる意見を採用できないところに個人の限界がある。
 曹操と戦う前までは袁紹の方針で勝っていたので、成功体験から路線変更が出来なかったパターンと言えるのかも。

 また、ちょっと余談なんですが、この時期の皇帝は董卓につかまり長安にいる。
 この状態にもかかわらず、皇帝に「上奏文をたてまつ」っているのだ。
 しかも、こういう上奏文は袁紹だけでなく みんな出している。
 「三国志きらめく群像」でも、役職がかぶっている人もいるし、こういう上奏文がどれだけ意味があったのかとツッコミをいれている。
 ここでも、形式上は皇帝に仕えているけど、現実だと好き勝手にやっているのだろう。

 話をもどして、今度は袁術について。
 袁術が皇帝を僭称するのは問題なのだが、なんでそんな事をしたのか、だ。
 やとわれ君主である袁術は、豪族たちの支援の上で成りたっている。
 皇帝を名乗るような大事件は袁術の考えだけでできるようなことじゃないだろう。

 三国志には、袁術が皇帝になろうとしたとき、閻象が反対し、張烱の説を採用したとある。
 王や皇帝になる時は、部下がずらずらと名前を連ねた書を出すものだが、それが載っていない。
 失敗した事なので、消したい過去として文章を処分しちゃったのかも。

 袁術を皇帝にしてあやつろうとする豪族たちが、あるていど居たのは確かだろう。
 たとえ担がれたとしても足場が固まらないうちに皇帝になっちゃったのは袁術の失敗だ。
 だが、袁術と支援する豪族たちには、それなりの事情と考えがあったのだろう。

100分de名著「三国志」感想もどき1前編

 5月のEテレは100分de名著「三国志」をやっている。
 私の三国志ページは今見るとダメな部分が多いんですが、ずいぶん更新をしていない。
 ちょっと便乗して、情報更新がわりに感想書きます。
 と言うか、あまり感想になりませんでした。
 オマケに長すぎたので、2回に分けます。

 陳寿が「三国志」を書いた経緯は割愛して。
 「正史とは何か」とかは、高島俊男「三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)」を読むのがオススメです。
 番組での「正史とは正しい歴史という意味ではなく、時の政府が認定した歴史書」と言ったような言い回しは、「三国志きらめく群像」の影響を感じさせる。

 で、なんで後漢が崩壊して三国志みたいな乱世になってしまったのかと言う話だ。
 テレビでは尺が足りないのか簡単な説明だけだが、もちろん簡単な話じゃない。(テキスト版ではもう少し詳しく解説している)
 思いっきり簡単に言うと、地方豪族の貴族化にともない皇帝や国家の力が弱まった結果だ。
 ちょっと長い話になりますが、三国志の根幹にかかわる部分なのでお付き合いください。

・後漢の衰退と、貴族の誕生、その間の三国志

 そもそも……なんですが、劉邦が建国した前漢は王莽が政治的にのっとり、一度滅んでしまう。
 政治的にのっとったんですが、王莽の政策は非現実的なことが多く内乱・外乱が起きて大陸を大混乱の乱世にしてしまう。
 で、それを再統一したのが劉邦の末裔である光武帝・劉秀である。
 なので、後漢は漢の後継を名のっているが、微妙に方向性の違う国になった。

 光武帝・劉秀は、なぜ前漢が滅んだのかを分析する。
 王莽が国をのっとるとき、勉強のできる学者は大勢いたのに誰も阻止できなかった。
 ならば国を運営する人材は、頭が良いとかでない。
 私心無く、愛国心があり、度胸のすわった人間力のある人こそふさわしいのだ。

 と言うわけで、後漢は「孝廉」という人事評価を重視する。
 社会秩序を守るという意味での親孝行や、私欲のない清廉潔白な人材を求めていたのだ。
 こうして後漢は人間力重視の政治を約200年つづけた。
 いわば壮大な社会実験をやったようなものだ。

 で、三国志が始まる後漢末期にはどうなっていたのか?
 孝廉は行われていたのだが、形骸化していた。
 そもそも考廉をどう評価するのかが問題だ。
 親孝行も清廉潔白も、その気になれば演じることができる。
 表向きは清廉潔白を演じていても、私財を溜めこんでいた偽善者が増えるのだ。(『後漢書』劉虞伝の例など)

 さらに問題なのは、誰が考廉を判定するのかと言う問題である。
 光武帝は、人格的に立派な人を採用すれば、おなじく立派な人を評価すると考えていたのだろう。
 だが、偽善者などが入りこんで200年もたつと有力者(金持ち)が有力者の一族を評価して採用するようになる。
 へんに学力不問としちゃったので、ものすごく家柄がものを言う時代になってしまったのだ。

 この状態は以後も定着し、家柄で人を評価する貴族の世となる。
 試験で人材採用を行う科挙が完成する北宋までの約700年間を貴族は生きのびるのだ。(宮崎市定「科挙」)

 さて、三国志の時代に生まれはじめる貴族という存在には大きな問題があった。
 まず、能力が有ろうが無かろうが家柄で出世できるかどうかが決まるってのが問題だ。
 さらに、貴族には皇帝に対する忠誠心が薄いという点がさらに問題だった。
 貴族は皇帝よりも、自分の家や貴族社会を優先する。
 後漢の後、魏晋南北朝・隋・唐・五代十国と国や皇帝が次々に変わっても貴族は生きのびる。

 皇帝をないがしろにする、貴族の習性なんですが、これは古来から社会のイロイロなところにあるモノかもしれない。
 三国志演義、水滸伝、西遊記などの中国の物語では組織のリーダーが無力であり、活躍するのは強い部下という指摘がある。(井波律子「三国志演義」)
 また、「三国志きらめく群像」では三国志の群雄の一人・韓遂に対して「韓遂という男は、自分が大将になるよりも、誰か別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつるのが好きな男であった。もっともその韓遂も、もとを正せば北宮伯玉らにかつがれたのである。だからそれは、韓遂の好みというより、西方の異民族の習慣、ないし常套手段だったのかもしれない。」と言っている。
 その「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」という習慣が西方の異民族だけでなく、民族や地域を越えた普遍的な習慣だったのではないだろうか。

 この「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」と言うシステムだが、漢の更に前の秦にも原因があったと思う。
 秦は中央集権の政治システムをとっていた。
 どういうことかというと、州や県の役人を中央政府から派遣するのだ。
 現代日本では地元の人間が選挙で県知事や市長を選ぶ。
 古代中国では、県知事や市長(に相当する役職)は国から派遣されるのだ。

 地元との癒着防止のため、役人は自分の出身地に着任しない。
 もう少し後の時代の資料だと、任地の決まった役人には商人が近づいてきて旅行や通訳の手配を売り込みに来る。
 よその土地には当然友達も居ないので、詩仲間を客として同行させたりもするようだ。

 県知事や市長のような人は、よそ者なので(時に言葉も通じない)地元の人間の協力が必要となる。
 ここでも「別の者を大将に立ててそれをうしろからあやつる」システムが成り立っていたようだ。

 もちろん、赴任した長官は大人しく操られたりしないで逆襲に出たりもする。
 三国志の群雄のひとりである劉表は荊州刺史(日本でいえば、大きな県の知事ぐらいの役職)として赴任したとき、従わない地元勢力を謀略をもって倒している。(三国志 注「戦略」)
 倒すときに別の地元勢力である蔡瑁カイ越らの力を借りた。
 これも見方を変えれば、対立する地元勢力が新任の大将を利用したと解釈できる行動だ。

 長くなりましたので、いったんマトメます。
・三国志の世界は地方豪族が貴族化する過渡期である。
・地方豪族(貴族)は、大将を立てて後ろからあやつる行動を好む。

 元々、地方豪族にとって皇帝はお飾りみたいなものだったのだろう。
 なので三国志の群雄割拠は、皇帝がどうなろうと あまり関心の無い地方豪族が勝手に活動した結果だ。
 大将になる気の無い群雄は自ら皇帝になろうとしない傾向がある。

木と紙と三国志

 今週の『とめはねっ!』で、木簡と紙に文字を書くときの差や、紙の歴史が語られていた。
 いつものように先生の話は途中で終了させられてしまうのだが。
 つづきが気になるだろ。

 今回は運よくつづきを知っている。
 タラス河畔の戦いで、捕虜になった中国人のなかに紙職人がいたため紙の製法が中央アジアそしてヨーロッパへと伝わったのだ。
 ひとりの名も無き人間の存在が歴史をかえるなんてドラマチックな展開である。
 もっとも紙の製法はいつかどこかで伝わっただろう。
 タラス河畔の戦いで紙職人が捕虜になったのは偶然だが、紙の製法が伝わったのは必然なのだ。

 パピルスの製法ははじめて知ったので、なかなか興味深かった。
 悠久のエジプト展的なところでパピルスを見たことがあるんだけど、アレは確かに紙というより植物っぽかった。
 なにしろ繊維の筋がしっかり浮きでている。
 繊維をほぐして織った布じゃないかと思ったほどだ。

 ちなみに中国では紙が誕生するまえは、薄絹に書く場合もある。
 紙よりもさらに高く貴重な素材なので、あまり薄絹は使いませんけど。

 さて、パピルスや木簡と紙の違いは繊維だ。
 木簡の場合だと木目と言ったほうがいいかもしれない。
 紙にくらべると書き心地がずいぶんちがう。
 書きかたや、筆の持ちかたもちがったので、書体が異なるのは当然なのだ。

 紙は作るのに手間がかかる。つまり値段が高い。
 虫食いなど保存も難しいし、濡れたら弱くなるし簡単にやぶれる。
 墨で書いたら文字を消せない。

 木簡に文字を書く場合、間違ったら削って消せるから便利というのはちょっと忘れていた視点だ。
 三国志の人物に張既という人がいる。
 蒼天航路だと、ちょっと活躍している人だ。

 『張既の家は代々名家ではなかった』『つねに上等な刀(誤りを削去する小刀)と筆と書板を用意しておき、上級の官吏たちで持っていない者がいるのをねらってそのつど与えた。そのおかげで認められるようになった。』(正史三国志3 張既伝 注の『魏略』)
 こまかい気配りをみせて名門じゃないけど認められたワケだ。

 さて、蔡倫が紙を発明(改良)したのは三国志より100年ぐらい前の時代だ。
 張既が小刀を常備していたことから、100年たってもまだ紙が普及していなかったことがわかる。
 やっぱり紙は、まだまだ高くて貴重なのだ。

 それでも、紙を求める人は多く、生産量も増える。
 不便で高いのに、なぜか?


 ここで、ちょっと理由を考えてみてください。


 答えは、木簡などより軽くて場所をとらないから!
 つまり情報密度が高いのだ。
 木簡だと引越しする時に牛車いっぱいに積んで運ばないといけない。
 だが、紙だとずっと少なくてすむ。

 歴史はくりかえす。
 最近、本は紙から脱却し電子書籍になろうとしている。
 読みやすさや複製など問題はイロイロあるが、電子書籍はいずれ普及していくだろう。
 なにしろ紙にくらべて場所をとらないから。

 毎週ふえるマンガ週刊誌と、毎月ふえるコミックス。
 引越しのたびに、本をつめたダンボールが重いし多い。
 こんな経験をしていると、やっぱり電子書籍に魅力を感じる。
 昔の人も、紙の本を見たときに同じ思いを抱いたのかもしれない。

曹操と孫子、曹叡と卑弥呼

 なんか三国志ネタが転がっていたので。

孫子の兵法ってそんなに凄い書物なの?ゴルゴ31さん情報)

 孫子の兵法が時代をこえて利用されているのは、内容が抽象的という部分も大きい。
 経済学者野口悠紀雄は具体例を集めて抽象化すると法則になるといっている。
 孫子の兵法は時代や場所をこえて普遍的に通用する基礎法則なのだ。(もっとも具体例もけっこう入っていますが)

 ただ、基礎だけに現実への具体的な応用がちょっと難しい。
 そこで孫家の兵法家が顧問となって具体的な対処法を教えるというのが、乱世での使われ方だったらしい。(孫子
 アレですね、ドラッガー読んでも良くわからんから高校野球に当てはめて『もしドラ』(AA)にしてみるみたいな感じだ。
 または、君主論を小学校の学級支配闘争に置きかえて『よいこの君主論』(AA)みたいな。

 で、解説書や新しい法則や具体例の類似本がいっぱい出てしまい、700年もたつと地の文がどれだかワカらなくなってしまった。
 そこで登場したのが、学問にあかるく実戦もこなし法則を実践してみせた天才軍略家、三国志の曹操である。
 曹操が正しいと思われる文章を選択して残したのが、現代に伝わる『孫子の兵法』だ。
『自身で十万余字にのぼる兵法の書物を書き、諸将の征伐の場合、すべてこの新しい書物によって事を行った。』(正史 三国志1

 曹操がまとめたNEW孫子は1700年ほどたっても、ほぼそのまま伝わった。
 こういう事実を見ると、やっぱり曹操って天才だったんだな実感する。



魏に朝貢したのは、遼東・朝鮮を支配する公孫氏が滅ぼされた翌年だった…「三国志」を冷静に見つめた卑弥呼の国家戦略好き好き大好きっさん情報)

 「卑弥呼にとって公孫氏の滅亡は決して対岸の火事ではなかった。今度はいつ自分が攻められるか危機感をもったに違いない」とありますが、コレは無い。
 わざわざ日本に攻めてこないよ。メリットが大きいので朝貢しているだけだ。
 後漢の光武帝に倭の奴の国王が朝貢して金印をもらった話は有名だし。朝貢は昔からやってんですよ。(参考:漢委奴国王印 - Wikipedia

 卑弥呼が魏に朝貢したのは、景初三年(239)とありますが、三国志の魏志倭人伝部分には景初二年六月とある。
 公孫氏が滅んだ時期(景初二年八月)から逆算して、景初二年は誤字で景初三年が正解だろうとしているのが内藤湖南以来の学説だ。
 でも、三国志を読むと景初二年六月に到着したのは帯方郡(朝鮮半島のあたり)であり、首都で卑弥呼へのねぎらいの詔書(みことのり)をもらったのが十二月だ。景初二年でも問題なさそうだ。(正史 三国志4
 この辺は『中国の歴史 三国志の世界』(AA)で詳しく考察されているので、そっちを読んでください。

 あと、なんで1年の誤差にこだわっているかというと、曹操の孫・曹叡は景初三年(二三九)春正月丁亥の日(一日)に崩御している。
 景初三年説だと、卑弥呼に詔書をだしたのは曹叡じゃなくなるのだ。これじゃ、ロマンない。
 もっとも、景初二年説でも病気で寝込んで布団の中から指示したんだろうし、あんまロマンないんだけど。
 ちなみに曹叡の享年は三十六歳だ。数え年だから満年齢で34~35歳ですね。
 って、もう私より年下かよ!
 本当に若くして亡くなったんだな……
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