★団長日記★

          人として女として劇団代表としての喜怒哀楽を綴っています。                                  

今日から高校演劇大会

今日から、北海道石狩支部高校演劇大会が始まりました。
何か、各馬一斉スタート、みたいに聞こえますが、演劇の大会というのは、上演順に一校ずつ決まった時間に上演していくので、観る方も演じる方もなかなか大変です。

大会の運営は、参加校の顧問の先生方と演劇部の生徒さんたちで行われ、それぞれ、受付係や大道具の搬入(ホール内への運び込み、運び出し)係、会場アナウンス係など、連日、朝から晩まで交代で奮闘していらっしゃいます。特に、石狩支部というのは、全国の中でも大変参加校の数が多い大会なので、期間も一週間と長く大変な賑わいとなります。

私自身、ある高校の演劇部を指導している身ですので、この時期は大変忙しくなり、他の予定を入れることは全く出来なくなります。が、もっとずーっと昔、生徒として参加していた頃を毎年、思い出すほど懐かしく思い入れがある大会です。

もし、私がこういう大会で、参加するための努力をしていなければ、今、ここにこうしていることはなかった。もし、あの頃の大会で観た沢山の感動がなかったら、今、ここにこうしていることはなかった、と思うと、大会を運営し継続してきてくださった全ての方にお礼を言いたい、といつも思います。

忘れられない大会の現場を支えて下さった人たちの中に、会場のスタッフの方たちがいます。
なんにも知らない素人である私たちに、懇切丁寧に照明や音響、大道具の設置について教えてくれ相談に載って下さった。
リハーサルの時に、頭を下げて変更したい部分を伝えると、「舞台は生き物なんだから、これで決まりなんてことはないんだ。だから、謝るな。どうしたいのかだけ言え!」と言われて、感動したことが忘れられません。
あれは、どれだけ大変なことを頼んでしまったのか、今、自分が舞台作りをする身になってよく分かるけど、ああいうスタッフさんに出会えた私の知る生徒も、今、まさにそういうスタッフになっています。

あの頃は、生徒だったので、運営する側の苦労も知らず、ただがむしゃらに「最優秀賞を取って、もう一度だけ、このメンバーでこの芝居がしたい!」と必死なだけでしたが、大人になって運営する側の苦労を目の辺りににすると、こういう大会を始めて、継続されるようにしてきた大人がいてくれたから、今でも懐かしいあの頃の思い出を持つことが出来たんだと、気づかされます。

だから
いろんなところから審査員のお仕事を頂くようになってからは、体が空く限りどこへでも飛んでいっています。私にしてみれば、どこの大会であれ、私に大切な成長の場を与えてくれた恩義を感じている場。少しでも、昔の自分たちが与えてもらったものを返したい、そんな思いで引き受けます。


今年は、自分が指導する演劇部の上演が終わったら、上川支部の審査に飛んでいきます。
今から、プログラムを見てわくわくしています。

また、今年も素敵な本番に出会えますように。







地震に遭ってしまいました。

大変長らくご無沙汰いたしました。

明るい話題で団長日記を再開したいのはもちろんですが、

やはり、ひと言、これは書きます。


胆振東部地震で被災した方々にお見舞い申し上げます。


こう書く私もまた、札幌に住んでいるので被災者です。

とはいえ、私自身の家や実家などは取り立ててここに書くほどの被害に遭うこともなく、

両親の体調を心配する程度で済みました。

団員や元・団員、身近な仲間とも連絡がつき、無事を確認できてホッとしています。

私にとっての最大の被害は、地震がくる直前まで書き進めていた脚本のデータが消えたこと。

まる2日間と半日かけて、やっと電力が戻った時にまずやったことは

パソコンを起動させたことでしたが、懐かしいWindowsの画面が立ち上がって

天にも祈る思いで探した一番残っていてほしかったものは、やはりダメでした……。

書くときはいつも自動保存されるようにしていたのに!


そう、私はあの地震がきた瞬間、ちょうど興に乗っていた時で、手動で保存することなど

頭から吹っ飛んで、脳内にふってくるシーンを忘れないうちに形にすることに没頭していたの

です。すると、突然、耳鳴りのような、自衛隊の演習中の戦闘機がはるか上空を通過していく

ときのような音がして、カタカタカタと小さく家具が音を立て始めたと思った途端に、バッと

目の前が真っ暗に。

えっ、停電?と思う間もなくガタガタと大きな揺れが来たので

家人に地震だ!と大声で知らせながら隣室のベッドに倒れ込みました。

倒れ込むつもりもなかったから、それほど強い揺れだということはすぐに分かって

揺れがおさまるのを待っていたわけです。

地震が一度止まってからは、スマホで地震速報を見て、家の中を確認したり、水を溜めたり

懐中電灯を用意したり…。でも、何をしていても余震を警戒していたので

本当に落ち着けませんでした。


こういうことがあると、翌日からは本当に忙しくなりますね。

実家の他にも、劇団の道具や荷物を預けてあるところに被害を確認しに行って片付けたり

あちこちに連絡を取りながら、今後の予定をどんどん変更しなくてはならなかったりで。

現在、高文連演劇大会が間近にせまっていますが、演劇の大会をするということは

利用するホールや会館が大きな被害に遭っていたらもう中止になるしかない。

うちの劇団ですと、普段からあちこちで大道芸みたいなことをやってきたので

ホールが使えない…となったなら何とかやりようを考えればいいわけですが

大会なんてそういうわけにはいきません。

知人の事務局に携わる先生方の連絡をメッセンジャーで確認しながら

どうか、全道各地の高校が、予定通りに大会を行えますように、今、舞台をしている人たちが

無事に公演を終えますように、と祈らずにはいられませんでした。



あれから3週間。

街も、周囲の様子が落ち着いてきて、演劇大会も予定通り準備が進められています。

余震も減ってきて、震度3程度では驚かない体になってきました。

北海道全体としては、被害の爪痕は大きく、これからいろんなことを立て直していかなきゃ

いけなくて、まだまだ困難な日々が続きますが、こういうことになってつくづく思ったことが

ありました。

それは、これが冬の最中に起きたことでなくて不幸中の幸いだったということ。

厳寒の冬にこんなことが起きていたら、暖が取れなくて二次災害が次々と起きたかも

しれません。

もう1つは、原発が再稼働されていなくて、本当に助かった、ということです。

どこぞの有識者といわれる人が書いた、原発を稼働させていたらこんな大停電は

起きなかった、という記事を読みましたが、たとえ稼働させていなくとも、原子力発電所が

停電、と聞いただけで青ざめ、問題は解決したと聞いてホッと胸をなで下ろす、

そういう場所にいない人間だから言えると、つくづく感じました。

電力の供給量が増えたって、今回の地震の被害がもし、稼働している原子力発電所に

被害を与えたら、電力の復活を待つ、どころではない辛さを味わうところだったと思うと

福島第一原発の事故を思い出さずにはいられませんでした。


歴史に学ぶ、とよくいいます。

私たちの現在の生活は、いつも、幾たびの苦難に遭い、被災して奪われたたくさんの

尊い命の犠牲の上に成り立っているんだ、ということを忘れてはいけないと思います。

住めなくなるかもしれないという恐れより、電力の復旧を待つ我慢の方が、まだいい。



わざわざご連絡下さった方々、心配して下さった方々、ありがとうごさいました。









飼い猫のお葬式でした

今日は年末から具合が悪くなっていた飼い猫のお葬式でした。

お葬式、とは言っても、遺体を焼きに行った、というだけのことなんですが、やはり大事な家族の一員だったので、昨日、息を引き取ってしまってからは何もする気が起きず。
そんな自分を奮い立たせて、午前中から、飼い猫が普段生活に使用していたものも、この何日間、放置していた部屋も何から何まで掃除して、バスタオルにくるんだ遺体をしっかり抱いて連れて行きました。

この猫は、なんと病院でも驚かれた20歳。犬や猫の20歳は人間で言えば96歳に換算されるそうです。
死因は、腎臓から徐々に弱る、いわゆる老衰でした。つまり、悪くなり始めたらもう手の施しようがない、というヤツです。検査結果が分からないうちから、すでにお医者さんに老衰だと思うと言われていたので、苦しんで永らえるよりは自然に任せようと、覚悟は決めてはいました。

この1ヶ月、人間で言えば要介護度5の状態。
夜中に何度もトイレにつれていかなくてはならなくなり、毎日、ご飯を食べたところを見計らって薬をのませ、最後は顔を支えて水を飲ませなくてはならないくらいに。
本当は全く目を離せない状態になっている子を置いて、稽古に行ったり家から出かけなくてはならないときは、毎回、「頼むから、帰るまで頑張っていて」と拝むような気持ちで車を運転していたものです。きっと、ペットを看取ったことがある方なら、この気持ち、分かってくれると思いますが、本当に、冗談でも大げさでもなく、身が引き裂かれるような思いでした。

それが、三日前から目に見えて悪くなり、今まで何匹も猫を飼ってきた私としてはもう何日も持たないと分かってしまうわけで、あちらこちらに連絡して最期を看取るようにしました。
最期は虫の息で小さくひと鳴きすると、慌てて抱き上げた私の腕の中で、二度ほどビクビクとけいれんした後、静かに息を引き取りました。

治療にあたってくれた病院でも、遺体を焼きに行った動物管理センターでも、「そこまで生きられて天寿をまっとうできたこの子は幸せですね」と言われましたが、飼い主としては、もっとこうしてやればよかった、ああしてやればよかったと思うことばかり。
遺体を手放すときには、人目をはばからず何度も抱きしめては泣いてしまいました。

お骨を手元に戻してもらうようなことは、私の場合は望みませんでした。
そこに、私を癒やしてくれたあの体の温かさも可愛い声もビー玉のような瞳もないからです。
死んでしまえば、もう遺体に何かが宿ることはない。土に帰るだけ。
だから、本当は何かしてあげたいなら、生きて元気なうちにしてあげるべき。
それがどこかで分かっているからこそ、人は死んでしまった後に後悔して、お墓だのなんだのと尽くしたくもなるのかもしれません。
私ももちろん沢山の後悔はありますが、会えなくなってしまってからいろいろやったって、自己満足だけだと分かっているし、死んでしまったペットのことを忘れたことなんてないので、自分なりの葬儀をしようと思いました。

今、思えば、なんと運のいい子だったんだろうと思います。
もし、本番中ならば、病院に預けて、たとえ危ないと連絡が入ったとしても駆けつけることは出来なかったからです。
家族同様だったものですから、つい、自分の父の、生死を分ける手術を前に本番に出ていたときと同じように、「頼むから居ないときに死なないで」と願って、その通りにはなったのですが、それでもやはり、この子はこれで幸せだったんだろうか?と何度も自問自答していました。
だから、動物管理センターのおじさんが、「20歳まで生きられるなんて、飼い主さんもよく頑張った」と言ってくれたことが、救いになりました。

帰宅したら、どっと疲れて、何をしていても眠たい。
考えてみたら、最近、あまり熟睡していなかった。
ご飯の味が分かる。久しぶりに美味しいのが、また悲しい。
ああ、私はまだ、生きていられるんだな、と感じます。
動物の死を看取るといつも学ばされる。
生きていられることは、本当は、普通のことなんかじゃない。それだけで奇蹟なんだと。
最後の最後まで、自分で食べようとし、飲もうとし、もう動かなくなった後ろ足を引きずって、動きたいと前足を踏ん張る。ただ、最後まで生き抜こうとする姿に、今、まずは普通に生きているということに動物より大きな脳を持っている人間の自分が、無頓着で無感動になってはいけないと思わされる。

捨て猫の飼い主になって20年。
人生の五分の二を一緒に生きてこられたことに感謝。

もう会えないことより、癒やされてきた日々のことを大切にしたいと思います。








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