2017年05月29日

エイズの流行は終わるのか キーワードで見るHIV/エイズの現状と課題


拠点病院講演2017

1980年代初めにアメリカでエイズという病気(症候群)が世に出てから、しばらく世の中は大混乱になりました。確実に死を予言する病態と、性にかかわる感染経路から、多くの差別偏見、迫害の嵐に見舞われます。
日本でも1987年日本女性初のHIV感染者が報道され、彼女がCSW(性を生業にしている女性)であったことから大変なパニックになりました(神戸パニック)。
そのときからHIV/AIDSを取材し続けて居る新聞記者がいます。
産経新聞の宮田一雄さん。

このたび、
エイズという流行に遭遇し翻弄されながらも、この30年ぶれずにHIV/AIDSを追い続けて来た記者から直接お話を伺う機会を得ることが出来ました。
6月3日、彼が釧路にやってきます。数年前イルファー釧路の師走講演会で講演してから、二度目の釧路。

マスコミという目を通してHIV/AIDSの歴史と未来はどう映るのか。
医療の専門家とは違う斬新な切り口で私達医療者に問いかけるものがあるはずです。
果たして、エイズの流行は終わるのでしょうか。
キーワードをちりばめながら、HIV/AIDSの現状と課題を読み砕いてくれます。

道東HIV拠点病院等連絡協議会研修会
6月3日 釧路労災病院3階管理棟講堂
16時開場、16時半開演。

市民の皆様の参加をお待ちしています。
もちろん入場無料です。



ilfar946 at 09:51|Permalink

2017年05月01日

無言の向こう

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 釧路芸術館で開催されている無言館作品展に行ってきました。長野県上田市にある戦没画学生の慰霊美術館の収蔵展です。不幸にして戦死(病死)した画家生らの絵や彫刻の遺作と一緒に、彼らの写真とプロフィールが乾いた文章で添えられています。最後の言葉が「享年」で締めくくられています。画家への志なかばで死ななくてはならなかった無念を感じると、作品の前で私は無言になります。まさに無言館とはそういう意図でしょう。

 作品そのものには、悲哀を感じない生き生きとしたものが大勢です。もちろんそうでしょう。描いている時には死を予感していないかもしれません。しかし併せて作者の顔写真とプロフィールを眺めると、その絵の意味に何か別なものを感じてしまうのでした。

 これほど作者と作品が溶け合っている作品展は私にとって初めてでした。絵の上手い下手は私にはよくわかりません。でも、何物にも代えがたい一瞬を切り取っている青春そのものだと言うことは理解出来ます。

 彼らには青春を謳歌する権利があった。戦争がなければ、この画家としての才能を最大限に開花して、日本の画壇をたいそう賑やかにしてくれたでしょうに、絶対的不合理な形でそれがかなわなかった。

 しかしある意味、彼らは作品という形で今と繋がり、その無念を今に語りかけることが出来る。それすら出来ずに戦争で命を絶たれた青春は数え切れないほどあるのですから。

 それなのに今まさに日本の周辺で一触即発のきな臭さが漂っています。シルクロードの向こうではすでに多くの青春が抹殺されています。

 私たちは、これらの絵画を見ながら、無言の向こうを考えなくてはなりません。

 これ以上新しい無言館の作品を作ってはならない。全世界でそれは作ってはならないのです。
 


ilfar946 at 23:15|Permalink

2017年03月20日

「いつものように、、、」

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 搭乗までまだ間があったので、羽田空港の床屋さんに寄ってみました。QB Houseといったでしょうか、カット10分が謳い文句でした。

 慌ただしく椅子に座らされ、「いつものように、、、」と言いかけた時、ああ、この言葉はもう伝えられないんだな〜としみじみ思いました。
 20年以上同じ床屋で髪を切ってもらっていました。病院の前にある床屋です。
 まだまだ真っ黒くてフサフサな頃から、だんだん白いものが混じり始めた頃も、なんとなく髪が細くなりはじめてボリュームが気になりだした頃も、床屋のオヤジさんは今が一番いいように整髪をしてくれました。髪のことはあまり話しませんでした。ただ唯一、染めなくていいよ、自然が一番だ。床屋のオヤジらしからぬことを言った記憶があります。
 髪の話はしなかったですが、いろんなことを話しました。共通の話題はジャズでした。やっぱりスタンダード。サックスを吹き始めたと言った時、自分のことのように喜んでくれました。下手な独奏もちゃんと聴いてくれました。時には涙さえ流してくれました。オヤジさんが裸一貫で東京に修行に出ていた時、その床屋にはジャズメンがたくさん来ていたのだそうです。そんな彼らがたまらなく格好良く憧れていたと。でもジャズでは飯は食えないからやめな、ときっぱり言われたんだと話す顔は本当に残念そうに見えました。
 釣りもゴルフも大好きでした。私は釣りはしないですが、海釣りの壮大さを本当に嬉しそうに話していました。大漁になるとよく家まで届けてくれたものです。まるっきしゴルフが上達しない私に整髪そっちのけで、鏡の前でスイングの矯正をしてくれたこともありました。もっとも、私がゴルフをやめてからはそんなことはなくなりましたが、今度は孫の話が続きました。美容師の奥さんと、3人の娘を育て上げ、一応亭主関白ぶりを気取ってはいましたが、孫となるとからっきし好々爺になりました。
 私もまだ子供が小・中学生の頃、オヤジさんにカットをお願いしたことがありました。でも長くは続きませんでした。だって、「いつものように」って言っても、毎回違うんだもの。息子はそう言ってました。その時の髪の状況にあわせて変えるんだろうなと、私なりの言い訳でしたが、結局は昭和の床屋の雰囲気に馴染めなかったのかもしれません。
 そんな昭和の雰囲気丸出しの床屋に私はどっぷり浸かって、「いつものように、、、」。月に一回の楽しい儀式でしたし、忙殺される日常からのつかの間のオアシスでもありました。

 7年前、肺がんが見つかりました。ステージ4でした。先生に体預ける、よろしくお願いします。その代わり最後まで先生の髪を切るから。オヤジさんはそう言って、落胆した妻や子供達を気遣っていました。早期に見つけてあげられなかった自分を悔やみました。
 あらゆる化学療法に耐え、一時はがんは消えました。しかし何度も再発。局所再発には放射線療法も、外科的切除も経験しました。先生の髪をほっとけない。いつもそれが口癖でした。
 昨年の暮れ、ついに癌性胸水がコントロール出来ない時が来ました。それでも在宅酸素療法で一時帰宅を果たしました。そしてこう言ったのです。先生の髪を切る。ほらみろ俺が切ってないから、もうボサボサだ。
 入院中閉じていた店を開け、携帯酸素ボンベに繋がったオヤジさんは、おぼつかない足取りで鏡の前に立ち、弱々しい手つきで私の髪に触れました。一ヶ月もハサミを使わないとほら刃がなまっちゃうんだ。そう言って砥石を取り出し、私の前でゆっくりと研ぎ始めました。昭和の頑固職人そのままに。先生、こうやって研ぐんだ。俺はね研ぎのマイスターだったんだ。20年以上もお付き合いさせてもらって初めての光景でした。
 そのハサミで髪を切ってもらいながら、泣いてはいけない、笑わなくてはと思っても、涙を抑えることが出来ませんでした。
 それが、私への最後の整髪になりました。
3月11日、大震災のあの日にオヤジさんは家族みんなに見守られながら旅立って行きました。
2ヶ月も放置された私の髪の毛をそのままに。

「いつものように、、、」
もう言えなくなった言葉を心に秘め、10分間カットは長い黙祷となりました。

合掌。


ilfar946 at 23:08|Permalink

2017年01月08日

イマジンを国歌に

John-Lennon
 新年の挨拶をしようと、何度かキーボードに向かいましたが、最近の世界の動向がきな臭く、大きな負の潮流が我々を飲み込むような恐怖に覆われて、安穏な抱負が浮かんでこなかったのは事実です。

 いつからこんなに世界に壁が出来始めたのでしょうか。国境の壁、体制の壁、人種の壁、宗教の壁、多様性の壁、心の壁。いたるところに壁、壁、壁。
DONALD-TRUMP
 トランプがメキシコとの国境に壁を作ると言ったから始まったことではありません。ヨーロッパではもっと前からその予兆はありました。EUの離脱、難民拒否。保守的な政党君主が台頭しヨーロッパ全土に無数の壁が築かれ始めています。そしてもっと以前からの中近東での宗教の壁は、現在IS(イスラム国)という象徴の暴挙に代表されています。

 今朝のテレビ番組の中で、コメンテイターが人間には成長欲求と退行欲求があり、現在世界は退行欲求が台頭していると言っていました。普段、評論家の言葉は鵜呑みにしないようにしていますが、今日の説明は心にストンと落ちました。

 成長欲求とは、人間として成長するためにコミュニケーションを求め、理念を追求するものであり、達成するには長期的展望が必要で、かつ相応の負担を強いられるものであり、第二次世界大戦以後世界が求めていた欲求に他なりません。いわゆる大人の欲求です。

 一方、退行欲求は内向きになり、壁を作る。負担を強いられるのが嫌で、今が良ければ良いという刹那的欲求。もちろん敵を作ることになります。まさに子ども的欲求です。今の世界はこの退行欲求が吹き荒れているというのです。

 人間として言ってはいけない事がありました。それを暗黙のうちに人間は守ってきました。トランプはそのパンドラの箱を開けたのです。退行欲求の人々はそれに飛びついた。タブーを破るような言動に快感を感じるようになったのです。今が良ければいい。負担なんてまっぴらだ。

 ある評論家はこうも言いました。明治維新から150年、終戦から70年。日本ではおよそ70年から80年周期で体制の大変革が起きている。そろそろ次の体制の大変革が起きる時期なのだという事でしょうか。それが、退行欲求の波だとしたら、まだ成長欲求を抱いていると思っている私たち大人たちは一体どうしていけば、その波に飲み込まれないようになるのでしょうか。

 これが、
 今年一年考え続けないといけないテーマとなりました。

 イマジンを国歌にするため。全ての国家の国歌。

 どんなに負担を強いられても、目指すところは、そこです。

 私は大人の人間でありたい。



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2016年12月26日

イルファー釧路の一年(2016)


 クリスマスを挟んだ連休は、大変な大雪になりました。釧路はたいしたことはありませんでしたが、空路、JRは寸断。一時的に陸の孤島化したのは事実でした。こんなプレゼントはいらないですね。
札幌はもっと大変だったようで、新千歳空港では、何日も空港泊まりがあったとか。暴徒化する中国人を尻目にじっと耐えている日本人は偉いなと改めて思った出来事でした。
 さて、今年一年のイルファー釧路の10大ニュースを発表する時期になりました。宮城島が独断と偏見で選んだニュースとは。
 ランキングではなくて、暦順に掲載します。
1. 稲田先生、第42回大山健康財団賞受賞(3月17日)
稲田先生大山賞
稲田先生のケニアにおける継続的な活動に対して、大山健康財団賞が贈られました。とても名誉なことです。まさに継続は力なり。それに関わっているイルファー釧路も嬉しい限りでした。





2.第22号イルファー釧路通信(4月)
通信表紙16
松原編集長の元、昨年に引き続いてA4特大号フルカラーで完成。年に一回の発行になりましたが、より充実した通信としてみなさまのお手元にお送りいたしました。エイズ学会でも配布してきました。





3.松下照美さん来釧(5月14日)
松下さん宴会
毎年北海道に来るたびに釧路に寄ってくれます。いつも元気でお酒好きの松下さん。イルファー釧路との交流は続きます。



4.イル括B&G LGBTの理解(7月30日,31日)
イル活2016ポスター
労災看護専門学校の学生の実行委員が主体となり、大自然のなか、性と生を語り合い、イル活の理想の姿を追い求めました。トランスジェンダーの当事者を迎え、LGBTの理解を深めました。そして次の実行委員へまた来年へしっかりバトンが引き継がれました。
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5.ケニア医療キャンプ(9月16日から27日)
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宮城島にとっては16回目。山村先生、藤盛先生、畠中さんの初参加組と無事ミッションを果たしてきました。歯科治療は大坪先生から藤盛先生へしっかりと引き継がれさらに進化しました。今年はコトレンゴセンターというHIV陽性者の子どもたちが暮らす孤児院にも診療に行きました。そこでも畠中さんは孤軍奮闘したくさんの鍼をうっていました。

6.はじめての試み、第一回地平線会議(10月9日)
第一回地平線会議 ケニア報告会2016
ケニア医療支援の内容やケニアの現状をホットなうちに報告しようと、今年はじめての試みが実現しました。連休の合間にもかかわらず100人以上が来場した市民対象としたケニア報告会。我々の体験を地域に還元しよう大作戦は来年も続きます。帰国して短い期間のうちに、藤盛、山村、畠中さん、よくまとめてくれました。
ケニア報告会





7.HIV抗体検査会(10月16日)
HIV検査会16
街のなかでのHIV検査の啓発。イルファー釧路は受付で頑張りました。100人の検査無事終了。全員が陰性でしたが、陰性であることの意味をきっちりと説明することの必要性を感じています。



8.稲田先生歯科治療で二度来釧(10月、11月)
稲田先生歯科治療
90歳まで活動を続けるために、稲田先生は歯を根本的に治す覚悟をなされました。そして選んだのが、釧路。大坪、藤盛の二大プロフェッショナルの技が光りました。




9.師走講演会大盛況、カミングアウトする必要のない社会をめざして(12月3日)
師走講演会ポスターJPEG2016
10年ぶりの繁内幸治さんの講演。HIVはこの10年で何が変わって何が変わっていないのか、LGBTに関する取り組みのなかから、あぶり出していきます。カミングアウトする必要のない世界を作り出すために、彼の飽くなき活動が続きます。また10年後の再会を約束しました。
繁内さん講演




10.HIV/AIDSご相談フォーム利用件数150件突破
HIV相談フォーム
2014年4月20日から記録を残し始めて、2016年12月まで150件突破。一週間に1から2件の相談があったことになります。多くは感染不安でしたが、HIV感染初期症状についての質問もかなりありました。ネット検索で得た知識の不安定さが垣間見られました。



2004年に発足したイルファー釧路は来年13年目になります。
毎年毎年同じことを、信念をもって繰り返しながら、そして新しい変化を見いだしていく。
稲田先生や松下さんたち、ケニアとの交流と、地域でのHIV予防啓発。
今年もすこし出来たのかなと思っています。
これもひとえに、みなさんのご協力、ご理解があってのことです。
一年間ありがとうございました。
そして来年もよろしくお願いします。
繁内さんを囲んで


ilfar946 at 19:45|Permalink

2016年12月04日

虎穴に入らずんば、、(第13回師走講演会)

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信じられないほどの快晴の中、繁内幸治さんを乗せた飛行機は釧路に降り立ちました。
2005年の第2回師走講演会で彼が語ったことが、蘇ります。
HIVエイズと共に生きる社会を作るために、まず取り組むことは、言葉の差別の解消であること。
感染者ではないのです。陽性者なのです。
性的嗜好ではないのです。性的指向なのです。
などなど、、
今でも心に残っている言葉です。
それから日本のエイズパニックから薬害エイズの教訓までを丁寧に解説され、陽性者が自ら名乗り出て感染予防に参加できるような社会を作らないといけないとお話しされました。
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あれから10年。何が変わって何が変わっていないのか。彼は語ります。
HIVの薬はどんどん進歩し、現在では1日一回一錠でコントロール出来る時代が来ています。でも、差別偏見はまだまだ残っています。HIVに脆弱性のある(感染しやすい環境に置かれている)グループとしてのLGBTもまた同じです。LGBTは性的マイノリティーとして括られていますが、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルなどの性的指向(LGB)と性自認(T)に分けられます。さらにはLGBTの中に分類されないような性的マイノリティーも存在すると言われています。そう考えると性の認識も全く個性と同じで、十人十色なわけです。そして彼らはマイノリティーとして10年前と変わらず大衆の無知無理解からくる偏見差別にさらされています。
だから潜む。だから予防啓発のメッセージが届かない。だからHIV感染の脆弱性から逃れられない。
それを変えるにはどうすればいい?当事者が自ら行動を起こし、語り、カミングアウトして、自分たちを大衆の前に可視化していくことが大事なのか?
それも大切。ただ途轍もないエネルギーと途方も無い時間がかかる。
しかし当事者でもある繁内さんはもっとも効率的な手段に出ました。
東京オリンピックまでに、性的マイノリティーの人権擁護を担保し世界に発信しなくてはならないと判断した政府の懐に単身飛び込んだのです。
現在、自民党性的指向・性自認に関する特命委員会のアドバイザーに就任。LGBT理解増進法(仮)の制定及び現行法内での可能なLGBT支援33項目の実施に向け積極的に関わり始めたのです。
まさに虎穴に入らずんば、です。
そして彼は言います。差別禁止法ではダメなのです。理解を進める法律じゃないどダメなのです。
目指すのは、カミングアウト出来る社会(10年前にはそれを目指していた)ではなく、カミングアウトしなくてもいい社会なのです。そこはマイノリティーという括りさえもが存在しない社会です。そもそも歴史的に性に関して寛容であった日本は出来るはずだと。

これからの10年の目標が出来ました。
カミングアウトしなくてもいい社会を作る。
この言葉が、過去・現在・未来を語る講演の締めとなりました。
そして、10年後再び釧路を訪れることを約束して、繁内さんは翌日快晴の釧路を後にしました。
爽やかな空でした。
繁内さんを囲んで

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2016年11月26日

Human rights-based approach

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今年のエイズ学会、臨床の分野では、治療法についてはほぼ出揃った感があります。
テノホビルTDFという極めて有効な逆転写阻害剤をさらに改良して副作用が少なくしたTAFが導入され、さらに治療法が洗練されてきました。一日一回一錠という標準は定着した感があります。ですから、エイズ学会と言えば新薬の報告花盛りという時代は終わり、おとなしい雰囲気であったと言えます。とにかくちゃんと薬を服用すればほほエイズにならないで天寿を全う出来るという文脈は既知のものとして事は進んでいるようです。
基礎分野では、いよいよHIVの潜伏感染をどう撲滅するかに向かってきています。HIVというウイルスは、休眠状態にあるリンパ球にもこっそりと侵入しじっとしています。そのためどんなに薬でウイルスの複製をやっつけても、ウイルスが完全に除去できないのです。その潜伏しているウイルスをどうやって駆逐するか。それが成功出来れば、ウイルスの完全排除になる。ひいては完治するわけです。まだまだ難しい問題がありますが、基礎で熱く議論されている所です。
何れにしても、薬剤の進歩により、HIVのコントロールは可能になりました。
だから、全ていいのかというとそうではありません。
薬がなくて、エイズは死ぬ事が運命つけられていた時代、社会と医学は、感染予防のために手を携え模索していました。そこに社会学的アプローチがあったのです。予防としてのコンドーム装着の促進、ハームリダクション、社会的スティグマ、偏見差別の払拭など。医学的アプローチが不十分だったからこそ、社会的アプローチの重要性が叫ばれていました。
誤解してはいけません。医学的進歩によりHIVが慢性病になったからと言って、社会的アプローチの必要性は減ったわけではないのです。むしろそういう時代だからこそ、社会的アプローチはますます必要になってきているのです。
そういう意味で今回は、社会学的セッションに多く参加してみました。
Human rights-based approach(HRBA)という言葉があります。健康課題や貧困、国際協力など様々な課題に取り組むにあたりその目的や方法にhuman rights(人権)の原則を適用することです。HIV/AIDSが持つスティグマと、そのリスクに脆弱とされる人々(LGBTやセックスワーカーや薬物依存者など)の抱えるスティグマへの取り組みには欠かせないアプローチ法です。HIV/AIDSのリスクに脆弱な人々には多くのハーム(災い)があります。差別偏見はもちろん、犯罪、薬物使用、感染伝播、死亡、医療費の高騰、家庭問題、失業、貧困などなど。これらのハームを取り除くことが必要であり、その前提に彼らの人権を認め擁護することが大切なのです。
例えば、薬物依存。これを非犯罪化することで新たなアプローチが開かれるのではないかと考えられて来ています。アルコール依存も薬物依存も同じ物質依存ですが、扱われ方や認識が異なるのはどうしてか?当事者は問いかけます。犯罪ではなくて病気としての認識が必要なわけで、犯罪という言葉は、やめなくてはいけない自分を作り出し、やめたい自分の邪魔をする。ここにもHRBAが必要なわけです。
例えばセックスワーカー。職業としての選択の自由の中にあるはずなのに、法の外に置かれることが多く、ハラスメント、殺人、感染というハームに晒されています。HRBAの元で、彼らの置かれているシステム、社会環境の整備を進めること以外に、HIV/AIDS感染リスクの脆弱性から抜けられる道はないのです。
例えばLGBT。彼らこそ人権保障が必要な人たちです。暴力を受けない権利、差別されない権利、健康に生きる権利(ジョグジャカルタ原則;LGBTの人権保障に関する原則)を了解することこそHRBAであり、HIV感染予防の出発点になるわけです。
薬が進歩したから、HIVが慢性病になったからもういいのではなくて、HRBAの理解を推し進めることが本当のHIV撲滅につながることを全世界の人々が理解することが大切だと改めて感じたエイズ学会でした。
そしてそれはHIV対策に限ったことでないことも。
あらゆる多様性を包み込む魔法こそが、HRBAなのでしょう。
トランプさんに聞かせてあげたい(笑)。
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2016年11月25日

エイズ学会、今昔物語

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気温差20℃。今年のエイズ学会は鹿児島です。しかし思わぬ寒波でこちらも結構風が冷たいです。ケニアレポートからすっかりご無沙汰の「代表のブログ」ですが、さすがにエイズ学会報告は外せません。
今年のテーマは、〜エイズ学の過去、現在、そして未来〜
エイズ学会は今年で30回(つまり30年)。エイズが世に現れたのが1981年。それからわずか5年後には日本エイズ学会が開かれたことになります。日本のエイズ患者が最初に報告されたのが1985年。ゲイの方でした。しかし本当の第1号は1984年の血友病患者さんでしたが、産学両者の種々の思惑で隠されていました。そこから日本での偏見差別が始まります。最初の報告が血友病患者さんだと正確に報道されていたら、日本人のエイズに対する見方は変わっていたかもしれません。他人事(ゲイの人たちのこと)ではなく、同情と支援をすべき対象へと。
日本のエイズ学会はそんな中で発足したのでした。治療法もなく死を待つだけの患者へ告知をどうするか、どう緩和に至るか、その予防は?と多くの問題に手探りで立ち向かい、感染者への偏見差別との戦い、薬害エイズ問題などのナイーブな事柄にも関わることを求められた学会でした。時には、発表演題について当事者に散々に批判された風景を見たこともありました。
エイズ学会が通常の医学系学会と違うところは、医者だけじゃない集合体であったということ。
患者、臨床医療関係者、基礎医学者、社会学者、行政、そして市民。みんなが、真剣に治療を模索し、偏見と戦っていた。それが日本エイズ学会の30年だったように思います。
私もエイズ学会に関わって15年以上になります。この業界の人たちとずいぶんおつきあいも出来ました。エイズという病気を通して医療のあり方を見直し、本来のヒューマンコミュニケーションを学びました。エイズに関わる人々の熱意を通して一つの殻に閉じこもらない積極性とグローバリゼーション、そして多様性を学びました。それが今の医師として、人間としての財産にもなっています。
この30年、エイズ学会もずいぶん変わりました。私もずいぶん変わりました。
エイズの今をレポートしたいと思っています。
とりあえず初日は、恒例のイルファー釧路通信を会場の最も目立つ所に置くというミッション。事前告知していないので、学会運営者にとっては迷惑なゲリラ戦法です。
鮮やかな色彩を放つ表紙のイルファー釧路通信は来年のエイズ学会開催告知フライヤーの横に何気なく鎮座することと相成りました。
私の口演は、初日朝一番のHIVと悪性腫瘍のセッショであまり人が集まらない中で(笑)無事終了。高橋道生氏のポスターも無事貼り終えとりあえず安心。
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おっと、岩室先生と遭遇。私のエイズの師であり、同志でもある尊敬する先生。
コンドームデザインのお揃いのネクタイで記念撮影。
夕方は、Human rights-based approachのお勉強と相成りました。
これについては、明日のブログで報告することにします。
では、また。
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2016年09月27日

帰国の日(総括)

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1.医療専門職集団
今年のケニアキャンプも無事終了した。そして揃いも揃った医療専門者集団。内科医、小児科医、歯科医、歯科衛生士、鍼灸師、薬剤師、看護師。ここ数年、これ以上ない程の最強の布陣である。しかも全員がボランティア志願で自主的に集まってくる。すごいことになった。現地に到着したとたん、何をすべきかをとっさに把握し、その持ち場で動き出す。この集団のなかでの自主性主体性の素晴らしさ。確かにプムワニはresource limiting(医療資源の極めて乏しい)地域であり、日本でのやりかたを根本的に変えなくてはならないが、海外医療支援活動や保健衛生活動の経験豊富な人材たちは、頭の切り替えが極めて速い。そんななかで始まったキャンプだ。スムーズにいかないはずはないし、現地スタッフの統率のとれた身のこなし(受付、エスコート、診療助手、通訳)は10年前には考えられないほどの変わりようで、時間の無駄がなくミッションは進行した。
総受診患者は2000人を優に超え(処方箋総数2036枚)、歯科、鍼灸のブースでも昨年並みからそれ以上の数を記録している。HIVの陽性者は初日こそ29人中6人(20%)が陽性で、増加が危惧されたが、翌日からは一人か二人出るくらいで、二日目からはリピーターが増えたせいだろうと推測される。最終結果を待たねばわからないが、おそらく昨年並みかそれ以下の陽性率だろう。それでも、外来には一見してエイズの日和見感染を発症している新患を見つけることが出来るのが常で、しかしそういう人に限って、絶対に検査を受けないと言い張る。まだまだdiscrimination(差別偏見)がある地域なのだ。合わせて検査する梅毒はHBVについても、HIVとの共感染は散見される。いつも7%程度(日本では1%、北海道は少し高いが)となるHBVの陽性率も気になるところだ。
ただ、今後の布陣を考えるにあたり、毎日350以上(最終日は505枚)の処方箋の出る外来で、特に小児が多いとなれば、薬剤師一人ではかなりハードワークになる。実際青山さんは薬剤師がもう一人いると、看護師が本来の仕事に回せるだろうと言っている。小児科はマジュマがかかわってくれてほぼ四人体制はかなり充実していたと言っていい。今後もこの維持していきたい数字である。また内科の4人体制は現状でほぼ達成できる。歯科医と歯科衛生士のコンビネーションは絶対であり、今後もそれを維持する努力が必要だろう。
2.ロジスティック
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 HIV陽性者のmedical check upはプムワニのイルファー事務所で行われる。キャンプ初日その事務所に入って驚いた。だだっ広い粗末な一部屋だった二階が、仕切り(それもちゃんとした建材で!)でいくつかのブースに区画され、壁の色も統一されている。プライバシーに配慮された立派な診察室に生まれ変わっていた。素晴らしいリノベーションだ。しかもこれをすべて稲田先生とワンボゴ、アリの3人で成し得たのだ。
ロジスティシャン(物資調達、施設・機材・ 車両管理など幅広い業務を担当)は大切である。彼らの仕事により、医療キャンプなどのミッションの成否が左右される。16年間これをほとんど稲田先生ひとりで賄っている事実をもう一度考え直さなくてはいけない。ワンボゴやアリは現地スタッフとしてかなり頑張ってくれている。毎年の成長を肌で感じてはいる。しかし、これだけ規模が拡大したキャンプだ。薬剤の管理は青山さんが積極的に関与してくれているし、日本からの薬剤や物資の調達はメールでの連携で日本側も対応しているわけだが、もう少し現地でのロジスティシャンが必要だと思う。できれば日本人がいるといい。そういう意味で五十嵐さんや富塚さんは有能なロジスティシャンだった。
3.現地のニーズ
 15年前のプムワニは、貧困のためほとんどが医療の恩恵を受けられなかった。医療機関もかなり限られていた。そのため、我々の目的は、医療に接する機会のない人々に受診機会を提供し、同時に無料HIVテスト(VCT)実施し、HIV陽性者を拾い上げ、ケアすることだった。ところが、2005年ころからHIV検査が無料となり、VCTとしての役割は終わった。そのため、一般診療とHIV陽性者ケアを二本柱として今回まで継続してきた。その基本スタンスは変わりないし、むしろ稲田先生が現地でフォローアップ体制を確立してからは、陽性者のケア、近隣病院へのコンサルテーションが主体となりどんどん実績を上げている。
 一般外来をしていて最近気が付くのは、彼らの医療に対するニーズも変わってきているのではないかということだ。日常のなかで、医療に接するハードルがどんどん下がっているような気がする。なにかあれば気楽に近隣のクリニックを受診し、処方箋を書いてもらえるライフスタイルが定着しつつあるようだ。処方箋をもらったが、金がないので、ここで出してほしいというのは以前からあったが、最近はセカンドオピニオンを求めるような受診も散見されるようになってきた。現地で診断処方されたけど、よくならない。どうしたらいい?というような内容だ。日本の医療の質の高さに期待しているのかもしれないが、少なくとも貧困ゆえ病院に行けずに我々のクリニックを訪れる古典的な診療風景ではない。しかし我々の医療キャンプでの聴診器と触診、わずかの超音波機器のみでは、そういう人たちに対して現地医療機関を超えるだけの十分な診療をカバーできない。つまり彼らの期待に応えることが出来ない。仕方のないことだが、十分な説明しかやれることはない。このようなことはまだまだ例外的な事例だが、今後増えてくることが予想され、我々の診療体制も現地のニーズの変化に対応できることが求められるが、そこが限界でもある。
4.継続とチャレンジ。
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同じところで同じことを、着実に継続することは力であり信頼である。そこに新しい行動を組み込むことで進化となる。今年も二つ、新しいことに挑戦した。
一つは小児の体重測定による栄養指導。2歳児までの体重測定をして、3パーセンタイルを下回る小児に対して、マジュマによるスワヒリ語での栄養指導。さらに重症であれば、現地のヘルスケアコミュニティへの情報提供をした。そのような幼児は8%弱と予想以上に少なかったが、彼らの栄養管理や生活指導に繋げることで、健康な成長を担保できるだろう。今年は初めての試みだったが、来年からも継続することの意義を確信した。
もう一つはコトレンゴセンターでの、HIV陽性小児の診察。そのセンターのあるカリンという地域のHIVクリニックが患者コンサルトを通して稲田先生と繋がり、そこからの情報でコトレンゴセンターの子供たちの定期的medical check upを要請された。小児中心とはいえ、成人に達している利用者もいるし、歯のケアは必須だろうし、職員からは鍼灸への期待もあり、我々の医療スタッフ全員での対応が可能と判断し、今回の視察兼、診療となった。どのような段取りで、本当に必要な子供たちにどのような医療介入とコンサルテーションが出来るかは、まだ一回のトライではわからない。今後試行錯誤を繰り返しながらも、コトレンゴセンターと関わっていくことになるだろう。とにかく価値のある第一歩だったと思う。
5.治療サポート。
ここケニアではお金がなければ、癌の療法は受けられない。手術はもちろんだが、化学療法はなおさらだ。ブログで何度か登場した乳癌再発のベネット(仮名)。稲田プロジェクトの患者のひとり。HIVフォロー中に発見された乳癌で、治療に関してはイルファーがサポートしてきた。それは大切なサポートだと思うし彼女を特別扱いしているわけではない。しかしこれからフォローしているHIV陽性者にさまざまな癌が発生する可能性がある。続々と発生してくるかもしれない癌患者に対しすべからく治療サポートが出来るのかは保障がない。そのようなサポートをどうするのか、今後はNPOイルファーとも十分話し合わなくてはならない課題だろう。

16年、25回めのケニア医療キャンプは無事終了した。今年のナイロビは太陽が少なかった。我々は、プムワニの年に一回の太陽になれたのだろうか。
そう信じながらこのブログを閉じることにする。
今年は、ほぼ全員が元気で終えられたことに感謝。そして、日本で留守を守ってくれている同僚に感謝、家族、サポーターに感謝。
アサンテサーナ!
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2016年09月26日

最後の締めはモヨホーム・子供たちの未来(9月25日最終日)

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ナイロビから北へ高速道路をひた走りティカへ。ケニア診療の最終日にモヨホーム(モヨチルドレンセンター)に通うようになってもう何年になるだろうか。数年前知人の紹介で、釧路に来ていた松下照美さんのお話しと「チョコラ」(チョコラとは現地語で拾うという意味で、路上でものをひろって生活している子供の俗称で、松下さんとストリートチルドレンとのつながりを実写したドキュメント)という記録映画を見る機会があり、そこで繋がった。ティカで、ストリートチルドレンの更生のためにこんなにすごいことをやっている人がいる。逢いに行きませんか。と、稲田先生に提案したのが最初だった。
それから松下さんとは、同志のような繋がりを持っていただいている。毎年5月には活動報告と活動資金集めの途中に釧路に寄ってくれるし、9月は私が訪問する。つまり毎年5月と9月に再会する関係だ。特に今回は、コトレンゴセンターにも一緒に行ってくれて、診療を手伝っていただいた。
モヨチルドレンセンターでは、いつものように子供たちが大歓迎してくれる。どうしてこんなに明るく笑っていられるのだろうと思うほどだ。半分はストリートチルドレン、半分は養育放棄された子供たちと孤児。彼らにとってモヨホームは天国のようなところだ。笑顔をみるとわかる。しかし、いつまでもいられるわけではない。8年の学校生活を終えると、親元などへ戻るか自活の道へ入る。それが国の方針でもあり、モヨホームの信条でもある。厳しいように聞こえるが、それまでの間を心からケアし教育の機会を提供するのであり、そのモヨにいる期間こそ子供の心と体の成長に一番大切な期間なのだ。モヨチルドレンセンターの活動はそれだけではない。HIV陽性で施設に入っている子供や、障がい者への学校教育費用を肩代わりしたり、お金がなくて昼食が取れない子供たちに、ランチサポートをしたりしている。それも20年以上も。
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着いた早々、お互いの自己紹介。子供たちは、名前と学年年齢、そして将来何になりたいかを語る。ドライバー、パイロット、エンジニア、コック、兵士、医師、歯科医師、農夫などさまざまだが、目指せDreams come true! いまこの素晴らしい環境のなかで努力すれば必ず出来る。
その後、モヨチルドレンセンターの活動の記録DVDをみなで鑑賞し、今年の新しい試みが始まった。なんとディスコ大会。ノリのいい音楽に合わせて、みんなでわいわい踊りの競演。最初は控えめだった大人たちも子供のノリに誘われて、汗まみれになって飛び跳ねている光景はまさに一体化と言えるものだろう。

昨日のコトレンゴ、そして今日のモヨ。それぞれ違った境遇の子供たちがいた。今後彼らがどうやって大人になっていくのか、じっと見守っていきたいと心から思うし、少しでも我々の出来ることがあれば関わってしていきたいと思う。コトレンゴ、モヨに関わる大人たち(私たちも含めて)が、どれだけのことが出来るのかはわからない。多くの不幸の子供たちのほんの一握りのケアをしているに過ぎないかもしれない。しかし、その子供たちが成長し、大人になり、社会を変えてくれるようなことをするかもしれない。不幸な子供たちが生まれないような社会に。そんな期待を込めてもいいのかなと思っている。
我々の未来はこの子供たちにかかっているのだと、改めて認識した一日だった。
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