わりと身近な人が、ヴィーガンの食べ物を食べています。地球の環境のために!と言っていてなんだかなと思った。

お金持ちの知り合いが、モノを買いすぎていた我々は間違えていました。プラスチックを使いません、地球の環境のために!あたらしい物を買わなくてもいい!リユースしよう!と言っていたときも、それをすすめられたときも、そのためにエコグッズを販売していたときもモヤモヤした。

わたしははじめからそんなに買ってないよ。子供の頃から同じ服を着ているからこの服は古着なんだよ。と思ったけど何も言わなかった。

二酸化炭素の排出をやめよう!というのも、ほんとうにそれなの?と思うし、なにかのために、肉を食べない、ことが、いいこと?

流れを見ないまま、いいことをする。って、違和感しかない。からだでもよくある。

東京都では緊急事態宣言のときに、多様性支援、アーティスト支援で、有名なアーティストにはお金をあげます。というものがあった。言葉だけを切り取って、流れをみないまま出した政策に感じた違和感。あのとき一緒にその構造の違和感の話したじゃんと思って勝手に東京ひとりぼっちみたいな気持ちになりそうだった。でも今はもうならない。

エコグッズとか、大豆ミートとかじゃなくて、野菜を育てながらそう感じた。と言われたら聞くけど、今はなんかちがうと思って聞けなかった。でもわたしも全体のながれのなかにいるようなことをしていない。何もしていないわけではないけれど、ずっとこのままだと何かがおかしいなと思う。すこしずつお年寄りに教えてもらいながら手伝ったりしてみたい。まだ願望だけど。

こんなにプラスチックの容器に入っているのは日本だけだよ、と言いながら家事をするひとを見るのも、文句を言いながら料理をつくるひとをみるのも違和感。文句を言いながら家事をしたくないし、文句を言いながら日本に住みたくない。じゃあなにができる?と考える。

できる、は、切り取ったする、ではなくて、与えられたする、でもなくて、大きな意味では与えられたことなのだろうけど、文句を言いながらする、でもない。

それでいて文句を言いながらも力を合わせる場面があることには何か意味があるのだろうと思うことがある。意味をつけすぎたくはないけど、できることをやるだけなのだろうなと思う。

これはポジティブとかネガティブとかではないです。

今日は久しぶりの固形のお米をたべた。やっぱりおいしい!今日は軽井沢の人からもらったお米。軽井沢の人たちといて居心地がいいなと感じる場面は、あたりまえに土や自然と共に暮らしていると感じる場面と、天気予報を信じすぎない場面。

東京では天気予報が外れたと怒っている人がいるんだよ。と話したら笑っていた。人間が雲の動きを予測しているだけなのに?と笑う様子をみたり、霧が入るから窓閉めて!と言われる度、なんかいいよなと思う。しばらく行けない気がしているけれど。

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そういえば夜の仕事をしていてモヤモヤしたのは、おじいさんが卒業した高校や大学の話をしたり聞いたりしてくること。何年前の話よ、前世じゃん。と思う。わたしは自慢するようなものがなくてよかったなとも。

たまたまお金持ちの家にうまれなかったことや、たまたま大学に行かなかったことも、その流れにのらなかったことも、たまたまだから、もしかしたら流れにのっていた人生もあるかもしれない。

こういうことを言うと、フォローされるかんじで、そんなことないよ。大学だけが全てじゃないよ。うちはたまたま家族全員が大学に行く家だっただけだから。と言われたりすることが時々あったけど、ちがう、ちがう   苦笑    

そなえられたものをつかっていきたい。あの家に育ったことも、お金持ちじゃないことも、学歴がないことも、そなえられたもの。かわいそうな物語の中の話じゃない。

動物をいただくことをかわいそうな物語の話にするひとと交わることも、誰かや何かをかわいそうな物語の話として聞くことも、なんだかちがうことを言葉にしきれないことも、そなえられたものなのかもしれないな。